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学院の事務局。
そこは本来、厳粛で静謐な場所であるはずですが、今のそこには異様な緊張感が漂っていました。
「……以上が私の退学届、および在学期間中の寮費・食費・図書延滞金の清算書ですわ。あ、図書延滞金については三円ほど計算が合いませんでしたので、私が再計算した修正表を添付しておきました」
私は机の上に、一寸の乱れもなく整えられた書類の束を置きました。
事務局の職員は、震える手でそれを受け取り、顔面を蒼白にしています。
「ミ、ミルム様……。何も退学なさらなくても。殿下との婚約が解消されたのであれば、むしろ貴女様を支持する声の方が……」
「論理的に考えてください。婚約破棄を突きつけた相手と同じ校舎で、わざわざ顔を合わせる確率を維持するメリットがどこにありますの? 感情的摩擦はエネルギーの無駄です。私はその時間を、領地のジャガイモの収穫量予測に充てたいのですわ」
「ジャガイモ、ですか……」
「ええ。昨今の天候不順から推測するに、来期は供給不足に陥る可能性があります。バカ王子の顔を見るより、土壌の窒素濃度を気にしている方が、よほど国家のためになりますわ」
私は事務局の椅子を立ち、優雅に一礼しました。
これでようやく、この「時間の墓場」のような学院とおさらばです。
正面玄関へ向かうと、そこには案の定、見慣れた豪華な馬車と……。
見慣れた、しかし非常に目障りなほど整った顔立ちの男が立っていました。
「やあ、ミルム嬢。書類の提出に、ちょうど十五分と三十二秒か。予想より少し早かったね」
カイル殿下が、時計を片手に爽やかな笑みを浮かべていました。
「カイル殿下。……人の退学手続きの所要時間を計測するのは、趣味としては少々悪趣味ではございませんこと?」
「いや、君なら無駄な会話を一切排して、最短ルートで処理を終えるだろうと推測したんだ。その推測の精度を確認したかっただけだよ。……それで、これからは公爵領へ?」
「ええ。領地の執務室で、数字とだけ向き合う平穏な日々を送る予定ですわ。邪魔はさせません」
私が馬車に乗り込もうとすると、カイル殿下がその扉を手で押さえ、私の行く手を遮りました。
「それなら、一つだけ『論理的な提案』をさせてくれないか。君はジャガイモの収穫量を心配しているようだが、私の国……ジークフリート王国では、すでにその解決策となる新型の農耕器具が開発されている」
私は足を止め、殿下の瞳を見つめ返しました。
……なるほど、私の興味を引くポイントを理解しているようですわね。
「ほう。新型、ですの? その器具の導入による生産性の向上率は、従来の何パーセント増と推定されています?」
「理論上は二十五パーセント。ただし、導入コストと農民への教育コストのバランスが難しくてね。……そこでだ、ミルム嬢。君のその『無駄を削ぎ落とす説得力』で、我が国の農政を監査してはもらえないだろうか」
「……殿下。それは私に、他国の内政に干渉しろと仰っているのですか? 国際問題になりかねませんわよ」
「いや、これは正式な『技術顧問』としての招聘だ。もちろん、報酬は君の領地の関税撤廃、および新型器具の優先供給。どうかな? 君の脳を領地だけに閉じ込めておくのは、人類全体の損失だと思わないか」
カイル殿下の言葉は甘い誘惑というより、冷徹なビジネス交渉のようでした。
私はしばらくの間、脳内で損得勘定を弾き出しました。
(関税撤廃、生産性二十五パーセント向上、そして……このしつこい男の監視ができるという点……)
「……悪くない条件ですわね。ですが、今はまだお断りします」
「おや、なぜだい? 論理的にはプラスのはずだが」
私は殿下の鼻先に、扇を突きつけました。
「今の私には『休息』という名のメンテナンスが必要ですの。壊れたバカ(元婚約者)を相手にしたことで、私の論理回路には少なからずノイズが混じっていますわ。まずは実家で、お父様と美味しいお茶を飲み、静寂を楽しむ。……返事は、私の機嫌が直ってからになさい」
カイル殿下は一瞬呆然とした後、堪えきれないといった風に吹き出しました。
「メンテナンス、か! 君は自分を高性能な魔導機械のように扱うんだな。……分かった。メンテナンスが終わる頃、また最高の条件を持って君の家を訪ねよう。……ああ、そうだ。これを」
殿下から渡されたのは、一輪の青い薔薇と、小さなカードでした。
「それは?」
「我が国で開発された、枯れない魔導花だ。花びらの枚数が常に素数になるように調整されている。……君の好みに合うだろう?」
カードには、『素数は孤独な数字だが、君のように美しい。論理は裏切らない。私もだ』と書かれていました。
「……素数の薔薇。……ふん、悪くないセンスですわね。無駄に香りが強すぎないのも評価しましょう」
私はそれだけ言い残すと、馬車に乗り込みました。
「お嬢様、出発いたします」
御者の声と共に、馬車がゆっくりと動き出します。
車窓から見えるカイル殿下は、いつまでも私を見送っていました。
「……枯れない薔薇ね。……まずは花びらの枚数が本当に素数かどうか、数えることから始めましょうか」
私は独り言を呟き、背もたれに深く寄りかかりました。
学院を去る。
それは、私にとって「悪役令嬢」という役割の廃棄であり、新しい「私自身の物語」の始まりを意味していました。
(まずは実家で、お父様と大宴会ですわ!)
私は、これからの自由な時間に胸を躍らせながら、静かに目を閉じたのでした。
そこは本来、厳粛で静謐な場所であるはずですが、今のそこには異様な緊張感が漂っていました。
「……以上が私の退学届、および在学期間中の寮費・食費・図書延滞金の清算書ですわ。あ、図書延滞金については三円ほど計算が合いませんでしたので、私が再計算した修正表を添付しておきました」
私は机の上に、一寸の乱れもなく整えられた書類の束を置きました。
事務局の職員は、震える手でそれを受け取り、顔面を蒼白にしています。
「ミ、ミルム様……。何も退学なさらなくても。殿下との婚約が解消されたのであれば、むしろ貴女様を支持する声の方が……」
「論理的に考えてください。婚約破棄を突きつけた相手と同じ校舎で、わざわざ顔を合わせる確率を維持するメリットがどこにありますの? 感情的摩擦はエネルギーの無駄です。私はその時間を、領地のジャガイモの収穫量予測に充てたいのですわ」
「ジャガイモ、ですか……」
「ええ。昨今の天候不順から推測するに、来期は供給不足に陥る可能性があります。バカ王子の顔を見るより、土壌の窒素濃度を気にしている方が、よほど国家のためになりますわ」
私は事務局の椅子を立ち、優雅に一礼しました。
これでようやく、この「時間の墓場」のような学院とおさらばです。
正面玄関へ向かうと、そこには案の定、見慣れた豪華な馬車と……。
見慣れた、しかし非常に目障りなほど整った顔立ちの男が立っていました。
「やあ、ミルム嬢。書類の提出に、ちょうど十五分と三十二秒か。予想より少し早かったね」
カイル殿下が、時計を片手に爽やかな笑みを浮かべていました。
「カイル殿下。……人の退学手続きの所要時間を計測するのは、趣味としては少々悪趣味ではございませんこと?」
「いや、君なら無駄な会話を一切排して、最短ルートで処理を終えるだろうと推測したんだ。その推測の精度を確認したかっただけだよ。……それで、これからは公爵領へ?」
「ええ。領地の執務室で、数字とだけ向き合う平穏な日々を送る予定ですわ。邪魔はさせません」
私が馬車に乗り込もうとすると、カイル殿下がその扉を手で押さえ、私の行く手を遮りました。
「それなら、一つだけ『論理的な提案』をさせてくれないか。君はジャガイモの収穫量を心配しているようだが、私の国……ジークフリート王国では、すでにその解決策となる新型の農耕器具が開発されている」
私は足を止め、殿下の瞳を見つめ返しました。
……なるほど、私の興味を引くポイントを理解しているようですわね。
「ほう。新型、ですの? その器具の導入による生産性の向上率は、従来の何パーセント増と推定されています?」
「理論上は二十五パーセント。ただし、導入コストと農民への教育コストのバランスが難しくてね。……そこでだ、ミルム嬢。君のその『無駄を削ぎ落とす説得力』で、我が国の農政を監査してはもらえないだろうか」
「……殿下。それは私に、他国の内政に干渉しろと仰っているのですか? 国際問題になりかねませんわよ」
「いや、これは正式な『技術顧問』としての招聘だ。もちろん、報酬は君の領地の関税撤廃、および新型器具の優先供給。どうかな? 君の脳を領地だけに閉じ込めておくのは、人類全体の損失だと思わないか」
カイル殿下の言葉は甘い誘惑というより、冷徹なビジネス交渉のようでした。
私はしばらくの間、脳内で損得勘定を弾き出しました。
(関税撤廃、生産性二十五パーセント向上、そして……このしつこい男の監視ができるという点……)
「……悪くない条件ですわね。ですが、今はまだお断りします」
「おや、なぜだい? 論理的にはプラスのはずだが」
私は殿下の鼻先に、扇を突きつけました。
「今の私には『休息』という名のメンテナンスが必要ですの。壊れたバカ(元婚約者)を相手にしたことで、私の論理回路には少なからずノイズが混じっていますわ。まずは実家で、お父様と美味しいお茶を飲み、静寂を楽しむ。……返事は、私の機嫌が直ってからになさい」
カイル殿下は一瞬呆然とした後、堪えきれないといった風に吹き出しました。
「メンテナンス、か! 君は自分を高性能な魔導機械のように扱うんだな。……分かった。メンテナンスが終わる頃、また最高の条件を持って君の家を訪ねよう。……ああ、そうだ。これを」
殿下から渡されたのは、一輪の青い薔薇と、小さなカードでした。
「それは?」
「我が国で開発された、枯れない魔導花だ。花びらの枚数が常に素数になるように調整されている。……君の好みに合うだろう?」
カードには、『素数は孤独な数字だが、君のように美しい。論理は裏切らない。私もだ』と書かれていました。
「……素数の薔薇。……ふん、悪くないセンスですわね。無駄に香りが強すぎないのも評価しましょう」
私はそれだけ言い残すと、馬車に乗り込みました。
「お嬢様、出発いたします」
御者の声と共に、馬車がゆっくりと動き出します。
車窓から見えるカイル殿下は、いつまでも私を見送っていました。
「……枯れない薔薇ね。……まずは花びらの枚数が本当に素数かどうか、数えることから始めましょうか」
私は独り言を呟き、背もたれに深く寄りかかりました。
学院を去る。
それは、私にとって「悪役令嬢」という役割の廃棄であり、新しい「私自身の物語」の始まりを意味していました。
(まずは実家で、お父様と大宴会ですわ!)
私は、これからの自由な時間に胸を躍らせながら、静かに目を閉じたのでした。
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