婚約破棄? 喜んで! …その前に訂正を求めますわ!

萩月

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愛の告白から一夜明けた、清々しい朝。

アトラス公爵家のサンルームには、朝陽を浴びてキラキラと輝く紅茶……ではなく、机の上にうず高く積まれた「紙の塔」が鎮座していました。

「……おはよう、ミルム。昨夜の甘い余韻に浸りながら君に会いに来たのだが、その……この、物理的な圧迫感は何だい?」

カイル殿下が、塔の頂上を見上げながら引き攣った笑みを浮かべました。

「おはようございます、カイル殿下。これは余韻などという不確かな振動現象を、実体のある規約として固定化したものですわ。名付けて『相互共存における論理的整合性維持のための誓約書』、全三万項目です」

私は一番上の書類を指先でトントンと叩きました。

「さ、三万項目……。君は一晩で、国家の憲法よりも膨大なルールを書き上げたのか?」

「当然ですわ。結婚とは、異なる演算処理能力を持つ二つの個体が、一つの家計というクローズドなシステムを共同運営する行為。初期設定の段階でバグを徹底的に排除しておかなければ、将来的なシステムダウンを招くのは統計学上の必然ですもの」

カイル殿下は呆れを通り越して感心したように、塔の一角から書類を抜き取りました。

「どれどれ……。『第百二十八条:喧嘩の際は、主観的な感情形容詞の使用を禁じ、不満の内容を定量的に説明すること』。『第四百二条:愛の言葉を囁く際は、その根拠となる具体的エピソードを三点以上提示し、論理的帰結として「好き」という結論を導き出すこと』……」

カイル殿下は読み進めるうちに、肩を震わせ始めました。

「……ふふ、あははは! 素晴らしい! つまり、私は君に『可愛いね』と言うたびに、その細胞レベルの美しさや、知性の輝きについての論文を発表しなければならないわけだね?」

「『可愛い』という言葉はあまりに汎用性が高く、情報の解像度が低すぎますわ。貴方の語彙力が試されるということです、殿下。……何か不服かしら?」

「いや、最高にエキサイティングな課題だ。定義の曖昧な愛の言葉より、君が納得せざるを得ない証拠を並べて、君を論理的に『愛されている』という状態に追い込む……。これこそが私の望んでいた婚約生活だよ」

カイル殿下はペンを取り出し、三万項目の最後にある署名欄に、迷いなくその名を刻もうとしました。

「……お待ちになって。内容を確認せずに署名するのは、知性ある者の振る舞いではありませんわ。第七千二百条付近には、私が研究に没頭している間、貴方は隣で静かに素数を数え続ける義務、という項目もありますのよ?」

「望むところだ。君が数字の海を泳いでいる間、私は君という特異点を観測し続ける観測者でいよう。……それともミルム、君は私がこの規約を破るとでも予測しているのかい?」

カイル殿下の問いに、私は一瞬、言葉を詰まらせました。
……予測。
私の脳内シミュレーションでは、この男が私の理不尽な規約をすべて受け入れ、なおかつ楽しそうに笑っている未来が、 $99.9\%$ の確率で表示されていました。

「……いいえ。貴方という変数は、私の想定を常に上回る数値を出しますから。予測の範囲内であると同時に、期待値を上振れさせている。……極めて稀有な現象ですわ」

「それは、君なりの愛の言葉と受け取っていいのかな?」

「『希少価値の高い個体として評価している』と翻訳してくださいな」

カイル殿下は署名を終えると、重厚な規約の束を大切そうに抱えました。

「よし、これで契約成立だ。三万の鎖で結ばれた、世界で最も理屈っぽい恋人の誕生だね。……さて、婚約者としての最初の任務だが、ミルム。君の三万一項目めに、これを追加させてくれないか?」

「三万一項目め? 空きはありますけれど、内容は?」

「『一日に一度、一分間の非論理的な接触……つまり、抱擁を許可すること』」

私は目を見開きました。
一分間の抱擁。
それは生産性を一ミリも生み出さない、熱エネルギーの無駄な交換に過ぎません。

「……殿下。それは、時間資源の浪費……」

「いいや、セロトニンの分泌によるストレス軽減、および相互信頼の再確認という、極めて効率的な『精神のメンテナンス』だよ。……どうかな?」

カイル殿下の「論理的な」食い下がりに、私は負けを認めるように溜息をつきました。

「……よろしいでしょう。ただし、秒単位で計測いたしますわよ。一秒でも過ぎれば、超過料金を請求いたしますから」

「ああ、喜んで支払おう。……さあ、早速そのメンテナンスを始めようか」

カイル殿下の腕の中に収まりながら、私は時計の秒針をじっと見つめました。
刻まれる音。
伝わる鼓動。
……私の計算機が、今まで経験したことのない「幸福」という名のオーバーフローを起こしているのを、私は必死で隠すのでした。
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