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「我が城へ連れて行く」
ガレット辺境伯のその言葉は、野営地にいた全騎士たちの鼓動を止めるのに十分な威力がありました。
しかし、唯一、私の心臓だけは別のリズムを刻んでいました。
それは、期待に満ちたオーブンの予熱完了を知らせるベルの音のような鼓動です。
「……お聞きしてもよろしいでしょうか、辺境伯様」
「なんだ。今さら怖気付いたか?」
「いいえ。貴方の城には、煉瓦造りの立派なオーブンはありますか? それから、この土地の小麦のグルテン量はどの程度かしら。もし足りないようなら、今すぐこの焚き火の灰を使って土壌改良から始める必要がありますわ」
私が真剣な表情で問い詰めると、ガレット辺境伯は毒気を抜かれたように大きな溜息をつきました。
「……心配するな。厨房の設備は整っている。小麦も、この領地で採れる最高級のものを自由に使わせよう」
「最高級! 素晴らしい響きですわ。アナ、聞こえた? 私たちの新しい冒険は、小麦粉の海から始まるのよ!」
「はい、お嬢様! 私、一生ついていきます!」
アナと手を取り合って喜ぶ私を、騎士たちはまるで未確認生物を見るような目で眺めていました。
彼らにとって、ガレット辺境伯は「北の死神」と恐れられる存在。
その男に物怖じせず、小麦粉の話をふっかける令嬢など、前代未聞だったのでしょう。
「おい、何を呆けている。出発の準備をしろ。この女と……助手の娘も、私の馬車に乗せる」
「えっ、閣下の馬車に!? しかし、それはあまりにも……!」
「構わん。この女を歩かせて、途中で小麦粉をぶちまけられては困るからな」
どうやら辺境伯様は、私のことよりもカバンの中の原材料を心配してくださっているようです。
意外と話がわかる方で安心いたしました。
私たちは騎士団の隊列に加わり、辺境伯領の本拠地である「バニラ要塞」を目指すことになりました。
馬車の中は、驚くほど快適でした。
公爵家のボロ馬車とは違い、分厚いクッションが衝撃を吸収してくれます。
「……ふむ。この揺れの少なさなら、移動中にメレンゲを泡立てることも可能かもしれませんわね」
「お嬢様、さすがにそれは無理ですよ……」
呆れるアナをよそに、私は向かい側に座るガレット辺境伯をじっと観察しました。
彼は腕を組み、目を閉じて深く座っています。
顔の傷跡と、その鍛え上げられた肉体は確かに恐ろしいですが、私の鼻は別の情報を嗅ぎ取っていました。
「辺境伯様。貴方、本当は相当な甘党でしょう?」
ガレット辺境伯の眉が、ピクリと跳ねました。
「……何の話だ」
「隠しても無駄ですわ。先ほど私のチュイールを食べた際、貴方の瞳孔がわずかに開き、口角が0.5ミリほど上がりました。それは、糖分を切望していた脳が歓喜の悲鳴を上げた証拠です」
「……貴様、観察眼が異常だな」
「クッキー作りは科学ですから。対象の反応を正確に読み取れなければ、最高の焼き上がりは望めません」
ガレット辺境伯は観念したように目を開け、窓の外に広がる荒涼とした景色を見つめました。
「……この辺境の地は、常に戦いと隣り合わせだ。騎士たちに求められるのは、力と持久力。甘っちょろい菓子など、軟弱な王都の貴族が嗜むものだと、皆が思っている」
「それは大きな間違いですわ! 脳の唯一のエネルギー源はブドウ糖。過酷な戦場こそ、上質なクッキーが必要なのです。疲弊した精神に、バターの香りとサクサクの食感がどれほどの救いをもたらすか……貴方は身をもって知ったはずです」
私の熱弁に、ガレット辺境伯はわずかに苦笑したように見えました。
「……確かに、貴様の言った通りだ。あのクッキーを食った瞬間、長年の疲れが霧散したような気がした。……だからこそ、貴様を連れて行くのだ。この土地の男たちの心は、冬の寒さと戦いで凍りついている。それを溶かせるのは、その奇妙な菓子かもしれん」
「光栄な使命ですわね。ですが、辺境伯様。私は慈善事業でクッキーを焼くわけではありませんわよ?」
「分かっている。報酬は望むままに払おう。金か、地位か、あるいは……」
「オーブンです」
私は食い気味に答えました。
「最高級の煉瓦、一定の温度を保てる通気口、そして私の身長に合わせた作業台。それから、新鮮な卵とバターの優先供給権を。それさえあれば、私は貴方の胃袋も、領民の心も、サクサクに掴んで差し上げますわ」
ガレット辺境伯は一瞬だけ呆気に取られた後、クツクツと喉を鳴らして笑い始めました。
それは、騎士たちが聞いたこともないような、低く楽しげな笑い声でした。
「はははっ、いいだろう。望むままの厨房を与えてやる。その代わり、俺を満足させられなければ……」
「谷底、でしたっけ? 結構ですわ。その時は、美味しいクッキーを抱えてダイブして差し上げます」
「……フン、面白い女だ」
馬車が大きく揺れ、国境の荒野を越えていきます。
遠くに見える険しい山々の麓に、巨大な石造りの城が見えてきました。
そこが、私の新しい戦場。
カッサン殿下に「不気味」と言われた私の愛が、この極寒の地を熱いオーブンの熱気で包み込む日が来るのです。
私はカバンの中のレシピノートをぎゅっと抱きしめました。
新しい小麦、新しい水、そして新しい「お客様」。
私のクッキーロードは、今、より一層サクサクとした輝きを放ち始めたのでした。
ガレット辺境伯のその言葉は、野営地にいた全騎士たちの鼓動を止めるのに十分な威力がありました。
しかし、唯一、私の心臓だけは別のリズムを刻んでいました。
それは、期待に満ちたオーブンの予熱完了を知らせるベルの音のような鼓動です。
「……お聞きしてもよろしいでしょうか、辺境伯様」
「なんだ。今さら怖気付いたか?」
「いいえ。貴方の城には、煉瓦造りの立派なオーブンはありますか? それから、この土地の小麦のグルテン量はどの程度かしら。もし足りないようなら、今すぐこの焚き火の灰を使って土壌改良から始める必要がありますわ」
私が真剣な表情で問い詰めると、ガレット辺境伯は毒気を抜かれたように大きな溜息をつきました。
「……心配するな。厨房の設備は整っている。小麦も、この領地で採れる最高級のものを自由に使わせよう」
「最高級! 素晴らしい響きですわ。アナ、聞こえた? 私たちの新しい冒険は、小麦粉の海から始まるのよ!」
「はい、お嬢様! 私、一生ついていきます!」
アナと手を取り合って喜ぶ私を、騎士たちはまるで未確認生物を見るような目で眺めていました。
彼らにとって、ガレット辺境伯は「北の死神」と恐れられる存在。
その男に物怖じせず、小麦粉の話をふっかける令嬢など、前代未聞だったのでしょう。
「おい、何を呆けている。出発の準備をしろ。この女と……助手の娘も、私の馬車に乗せる」
「えっ、閣下の馬車に!? しかし、それはあまりにも……!」
「構わん。この女を歩かせて、途中で小麦粉をぶちまけられては困るからな」
どうやら辺境伯様は、私のことよりもカバンの中の原材料を心配してくださっているようです。
意外と話がわかる方で安心いたしました。
私たちは騎士団の隊列に加わり、辺境伯領の本拠地である「バニラ要塞」を目指すことになりました。
馬車の中は、驚くほど快適でした。
公爵家のボロ馬車とは違い、分厚いクッションが衝撃を吸収してくれます。
「……ふむ。この揺れの少なさなら、移動中にメレンゲを泡立てることも可能かもしれませんわね」
「お嬢様、さすがにそれは無理ですよ……」
呆れるアナをよそに、私は向かい側に座るガレット辺境伯をじっと観察しました。
彼は腕を組み、目を閉じて深く座っています。
顔の傷跡と、その鍛え上げられた肉体は確かに恐ろしいですが、私の鼻は別の情報を嗅ぎ取っていました。
「辺境伯様。貴方、本当は相当な甘党でしょう?」
ガレット辺境伯の眉が、ピクリと跳ねました。
「……何の話だ」
「隠しても無駄ですわ。先ほど私のチュイールを食べた際、貴方の瞳孔がわずかに開き、口角が0.5ミリほど上がりました。それは、糖分を切望していた脳が歓喜の悲鳴を上げた証拠です」
「……貴様、観察眼が異常だな」
「クッキー作りは科学ですから。対象の反応を正確に読み取れなければ、最高の焼き上がりは望めません」
ガレット辺境伯は観念したように目を開け、窓の外に広がる荒涼とした景色を見つめました。
「……この辺境の地は、常に戦いと隣り合わせだ。騎士たちに求められるのは、力と持久力。甘っちょろい菓子など、軟弱な王都の貴族が嗜むものだと、皆が思っている」
「それは大きな間違いですわ! 脳の唯一のエネルギー源はブドウ糖。過酷な戦場こそ、上質なクッキーが必要なのです。疲弊した精神に、バターの香りとサクサクの食感がどれほどの救いをもたらすか……貴方は身をもって知ったはずです」
私の熱弁に、ガレット辺境伯はわずかに苦笑したように見えました。
「……確かに、貴様の言った通りだ。あのクッキーを食った瞬間、長年の疲れが霧散したような気がした。……だからこそ、貴様を連れて行くのだ。この土地の男たちの心は、冬の寒さと戦いで凍りついている。それを溶かせるのは、その奇妙な菓子かもしれん」
「光栄な使命ですわね。ですが、辺境伯様。私は慈善事業でクッキーを焼くわけではありませんわよ?」
「分かっている。報酬は望むままに払おう。金か、地位か、あるいは……」
「オーブンです」
私は食い気味に答えました。
「最高級の煉瓦、一定の温度を保てる通気口、そして私の身長に合わせた作業台。それから、新鮮な卵とバターの優先供給権を。それさえあれば、私は貴方の胃袋も、領民の心も、サクサクに掴んで差し上げますわ」
ガレット辺境伯は一瞬だけ呆気に取られた後、クツクツと喉を鳴らして笑い始めました。
それは、騎士たちが聞いたこともないような、低く楽しげな笑い声でした。
「はははっ、いいだろう。望むままの厨房を与えてやる。その代わり、俺を満足させられなければ……」
「谷底、でしたっけ? 結構ですわ。その時は、美味しいクッキーを抱えてダイブして差し上げます」
「……フン、面白い女だ」
馬車が大きく揺れ、国境の荒野を越えていきます。
遠くに見える険しい山々の麓に、巨大な石造りの城が見えてきました。
そこが、私の新しい戦場。
カッサン殿下に「不気味」と言われた私の愛が、この極寒の地を熱いオーブンの熱気で包み込む日が来るのです。
私はカバンの中のレシピノートをぎゅっと抱きしめました。
新しい小麦、新しい水、そして新しい「お客様」。
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