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馬車が巨大な石門をくぐり、バニラ要塞の中央広場へと滑り込みました。
そこは「城」というよりは「巨大な石の塊」といった風情で、美しさよりも実用性と堅牢さを極めた、いかにも辺境らしい佇まいです。
「……着いたぞ。ここが我が居城、バニラ城だ」
ガレット辺境伯が重々しく告げました。
馬車の扉が開くと、そこには冷たく、しかし凛とした空気が流れていました。
私は馬車を降りるなり、大きく鼻を鳴らして空気を吸い込みました。
「……素晴らしい。この乾燥した空気、そして微かに混じる岩塩の気配。クッキーの湿気を防ぐには、王都のジメジメした気候より数倍優れていますわ!」
「お嬢様、第一声がそれですか!? 見てください、あの立ち並ぶ屈強な騎士様たちを。皆さん、熊を素手で倒しそうな顔をしていますよ」
アナが怯えて私の背中に隠れますが、私には彼らが「お腹を空かせた大きな雛鳥」にしか見えません。
整列した騎士たちが、私たちの到着を不審そうな、それでいて期待のこもった目で見守っています。
「閣下、お戻りになられましたか。……して、そちらの妙なカバンを抱えた女性は?」
出迎えたのは、モノクルをかけた神経質そうな初老の男性でした。
彼はこの城の執事長であるらしく、私のボロボロのワンピースと、腕に抱えた小麦粉の袋を交互に見て、深く眉間に皺を寄せました。
「執事長、彼女は今日からこの城の『特別菓子職人』となるチップ殿だ。丁重にもてなせ」
「特別、菓子職人……? 閣下、正気ですか。我が領地は現在、冬に備えて備蓄を固める時期。嗜好品にかける小麦粉など一粒も……」
「黙れ。彼女の菓子には、小麦粉一粒以上の価値がある。……チップ、案内させよう」
ガレット辺境伯の有無を言わせぬ態度に、執事長は「……御意」とだけ答えて私に向き直りました。
ですが、その目は明らかに「この女、すぐに追い出してやる」と語っていました。
「チップ様とおっしゃいましたか。こちらへ。まずは貴女に与えられた……『厨房』をご覧いただきましょう」
執事長に案内されたのは、城の地下に近い場所にある石造りの部屋でした。
そこには巨大な竈門(かまど)と、煤けた調理台があるだけで、お世辞にも清潔とは言えません。
「本来、ここは兵士たちの保存食を作るための場所ですが、閣下のご命令ですので。……まあ、精々頑張ってください。道具も最低限しかありませんから」
執事長は鼻で笑い、さっさと立ち去ってしまいました。
アナはそれを見て、「なんて失礼な!」と憤慨しています。
「お嬢様、ひどすぎます! こんな埃っぽい場所でクッキーを焼けなんて、嫌がらせ以外の何物でもありませんわ!」
しかし、私は調理台に積もった埃を指でなぞり、それから部屋の隅にある竈門をじっと見つめて……笑いました。
「……いいえ、アナ。最高だわ」
「えっ? お嬢様、正気ですか?」
「見て。この竈門の煤の付き方。これは安定して強い火力が得られる証拠よ。それに、この調理台の石材……大理石じゃないけれど、熱を持ちにくい火成岩だわ。バターを練るのにこれ以上の環境があるかしら?」
私はカバンからマイ麺棒を取り出し、調理台の上に置きました。
不遇な環境? 結構です。
材料と火と、そして情熱さえあれば、そこは五つ星のキッチンに変わるのです。
「アナ、掃除を始めるわよ! まずは床を磨き、次に竈門の排気口をチェック。それから……辺境伯様に伝えなさい。最高級のバター一塊と、この地で一番新鮮な卵を三ダース、今すぐ持ってくるようにと!」
「お、お嬢様! そんなにたくさん、いきなりは……」
「いいから行くのよ! あの執事長の鼻を、明日の朝までにクッキーの香りで麻痺させてやるんだから!」
私の叫びに、アナは「……了解しました!」と敬礼して部屋を飛び出して行きました。
私は一人、暗い厨房の中で腕をまくり、目を細めました。
「待ってなさい、バニラ城の皆さん。貴方たちの心にある頑丈な石壁、私のクッキーで粉々に砕いてあげるわ」
私は竈門の前に跪き、火を熾す準備を始めました。
辺境の地での、私の「クッキー革命」の第一歩。
それは、煤まみれの厨房を掃除することから始まったのです。
その日の夜、城の廊下には、これまで誰も嗅いだことのないような「甘く、罪深い香り」が、音もなく忍び寄っていくのでした。
そこは「城」というよりは「巨大な石の塊」といった風情で、美しさよりも実用性と堅牢さを極めた、いかにも辺境らしい佇まいです。
「……着いたぞ。ここが我が居城、バニラ城だ」
ガレット辺境伯が重々しく告げました。
馬車の扉が開くと、そこには冷たく、しかし凛とした空気が流れていました。
私は馬車を降りるなり、大きく鼻を鳴らして空気を吸い込みました。
「……素晴らしい。この乾燥した空気、そして微かに混じる岩塩の気配。クッキーの湿気を防ぐには、王都のジメジメした気候より数倍優れていますわ!」
「お嬢様、第一声がそれですか!? 見てください、あの立ち並ぶ屈強な騎士様たちを。皆さん、熊を素手で倒しそうな顔をしていますよ」
アナが怯えて私の背中に隠れますが、私には彼らが「お腹を空かせた大きな雛鳥」にしか見えません。
整列した騎士たちが、私たちの到着を不審そうな、それでいて期待のこもった目で見守っています。
「閣下、お戻りになられましたか。……して、そちらの妙なカバンを抱えた女性は?」
出迎えたのは、モノクルをかけた神経質そうな初老の男性でした。
彼はこの城の執事長であるらしく、私のボロボロのワンピースと、腕に抱えた小麦粉の袋を交互に見て、深く眉間に皺を寄せました。
「執事長、彼女は今日からこの城の『特別菓子職人』となるチップ殿だ。丁重にもてなせ」
「特別、菓子職人……? 閣下、正気ですか。我が領地は現在、冬に備えて備蓄を固める時期。嗜好品にかける小麦粉など一粒も……」
「黙れ。彼女の菓子には、小麦粉一粒以上の価値がある。……チップ、案内させよう」
ガレット辺境伯の有無を言わせぬ態度に、執事長は「……御意」とだけ答えて私に向き直りました。
ですが、その目は明らかに「この女、すぐに追い出してやる」と語っていました。
「チップ様とおっしゃいましたか。こちらへ。まずは貴女に与えられた……『厨房』をご覧いただきましょう」
執事長に案内されたのは、城の地下に近い場所にある石造りの部屋でした。
そこには巨大な竈門(かまど)と、煤けた調理台があるだけで、お世辞にも清潔とは言えません。
「本来、ここは兵士たちの保存食を作るための場所ですが、閣下のご命令ですので。……まあ、精々頑張ってください。道具も最低限しかありませんから」
執事長は鼻で笑い、さっさと立ち去ってしまいました。
アナはそれを見て、「なんて失礼な!」と憤慨しています。
「お嬢様、ひどすぎます! こんな埃っぽい場所でクッキーを焼けなんて、嫌がらせ以外の何物でもありませんわ!」
しかし、私は調理台に積もった埃を指でなぞり、それから部屋の隅にある竈門をじっと見つめて……笑いました。
「……いいえ、アナ。最高だわ」
「えっ? お嬢様、正気ですか?」
「見て。この竈門の煤の付き方。これは安定して強い火力が得られる証拠よ。それに、この調理台の石材……大理石じゃないけれど、熱を持ちにくい火成岩だわ。バターを練るのにこれ以上の環境があるかしら?」
私はカバンからマイ麺棒を取り出し、調理台の上に置きました。
不遇な環境? 結構です。
材料と火と、そして情熱さえあれば、そこは五つ星のキッチンに変わるのです。
「アナ、掃除を始めるわよ! まずは床を磨き、次に竈門の排気口をチェック。それから……辺境伯様に伝えなさい。最高級のバター一塊と、この地で一番新鮮な卵を三ダース、今すぐ持ってくるようにと!」
「お、お嬢様! そんなにたくさん、いきなりは……」
「いいから行くのよ! あの執事長の鼻を、明日の朝までにクッキーの香りで麻痺させてやるんだから!」
私の叫びに、アナは「……了解しました!」と敬礼して部屋を飛び出して行きました。
私は一人、暗い厨房の中で腕をまくり、目を細めました。
「待ってなさい、バニラ城の皆さん。貴方たちの心にある頑丈な石壁、私のクッキーで粉々に砕いてあげるわ」
私は竈門の前に跪き、火を熾す準備を始めました。
辺境の地での、私の「クッキー革命」の第一歩。
それは、煤まみれの厨房を掃除することから始まったのです。
その日の夜、城の廊下には、これまで誰も嗅いだことのないような「甘く、罪深い香り」が、音もなく忍び寄っていくのでした。
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