「婚約破棄? それより新作クッキーの試食をしませんか?」

萩月

文字の大きさ
8 / 28

8

しおりを挟む
「お嬢様! 頼まれたものを持ってきました……って、何をしてらっしゃるんですか!?」


アナの悲鳴のような声が、地下の厨房に響き渡りました。
彼女の手には、新鮮な卵の入ったカゴと、大きなバターの塊が握られています。


しかし、彼女の視線の先にいる私は、公爵令嬢の面影など微塵もない姿でした。
ドレスの袖を肩までまくり上げ、顔は煤で黒く汚れ、手にはどこから持ってきたのか大きな金槌を握りしめていたのですから。


「あら、おかえりなさいアナ。今ちょうど、この竈門の『心臓部』を摘出したところよ」


「摘出!? 石を剥がして壊してるじゃないですか! これ、見つかったら絶対に怒られますって!」


「壊しているのではないわ、再構築しているのよ。この竈門、排気効率が悪すぎて熱が一点に集中しすぎるの。これじゃあクッキーの縁だけが焦げて、中心部がしっとりしてしまうわ。そんなの、クッキーに対する冒涜よ」


私は金槌を置き、剥がした石材の断面を愛おしそうに撫でました。
このバニラ城の石材は、蓄熱性が非常に高い。
構造さえ変えれば、王都の最新式魔法オーブンすら凌駕する「伝説の窯」になる確信がありました。


「お嬢様、落ち着いてください。貴女は公爵令嬢なんですよ? 石工の真似事なんて……」


「令嬢である前に、私はクッキーのしもべよ。さあアナ、ぼさっとしていないで。持ってきたバターを冷暗所に置いて、次は外の兵士さんに頼んで『良質な粘土』と『岩塩』をバケツ三杯分、持ってくるように伝えてちょうだい」


「ね、粘土と塩……。一体何に使うんですか?」


「オーブンの内壁をコーティングするのよ。塩を混ぜた粘土で固めることで、遠赤外線効果が生まれて、生地の芯まで一気に熱が通るようになるの。サクサクのその先、『超サクサク』の領域へ行くためには不可欠な工程だわ」


呆れ果てた様子のアナを送り出した後、私は再び竈門の中へと上半身を突っ込みました。
煙突の煤を掻き出し、空気の通り道をミリ単位で調整します。


「……ふむ。ここで気流を旋回させれば、熱風が均一に対流するはず……」


「……貴様、そこで何をしている」


背後から、地を這うような低い声が聞こえました。
驚いて竈門から這い出そうとした私は、勢い余って後頭部を石にぶつけました。


「痛っ……! もう、せっかくの計算が狂うではありませんか。どなたです、私の熱学の邪魔をするのは!」


煤だらけの顔を上げると、そこには腕を組んで眉をひそめたガレット辺境伯が立っていました。
彼の隣では、あのモノクルの執事長が顔を青くして震えています。


「閣下、ご覧ください! この女、あろうことか城の備品を破壊しております! やはり狂っております、今すぐ地下牢へ――」


「静かにしろ、執事長。……チップ、貴様。その顔はどうした。戦場帰りの兵士より黒いぞ」


ガレット辺境伯は私に近づき、屈み込んで私の顔を覗き込みました。
私は煤を拭うこともせず、誇らしげに胸を張りました。


「辺境伯様、良いところに来てくださいました。見てください、この生まれ変わる竈門の姿を! 明日の朝には、ここから世界を震撼させる香りが放たれることでしょう」


「……壊しているようにしか見えんが」


「再構築です。貴方の城の騎士たちが強いのは、優れた武器と鍛錬があるからでしょう? それと同じです。最強のクッキーには、最強のオーブンが必要なのです」


私は金槌をガレット辺境伯の鼻先に突き出し、熱弁を振るいました。


「貴方が提供してくださったこの小麦とバター……そのポテンシャルを100%引き出すのが、職人としての誠実さというものです。中途半端な熱で焼くなど、食材への虐待も同然! 私はそれを許しませんわ!」


ガレット辺境伯は一瞬、私の剣幕に圧されたように目を見開きました。
しかし、すぐにフッと口角を上げました。


「……職人の誠実さ、か。気に入った。執事長、彼女が必要とする資材はすべて与えろ。粘土だろうが塩だろうが、金貨に糸目はつけるな」


「か、閣下!? しかし、予算が――」


「戦の準備に予算を惜しむなと言ったのは貴様だろう。……これは俺の直感だが、この『武器』は、剣や槍よりも鋭くこの領地を守ることになる」


ガレット辺境伯の言葉に、執事長は力なく項垂れました。
私は辺境伯様に向かって、煤だらけの手で優雅に(?)カーテシーを捧げました。


「賢明なご判断ですわ、辺境伯様。お礼に、一番初めに焼き上がった『極・サクサククッキー』の耳をお分けして差し上げます」


「耳だけか?」


「当然です。中心の一番美味しい部分は、このオーブンの産声を祝うために私が独占いたしますわ」


「……ははっ、相変わらず不遜な女だ。勝手にしろ」


ガレット辺境伯は楽しげに笑いながら、厨房を後にしました。
私は再び金槌を手に取り、竈門の中へと戻りました。


「さあ、仕上げよ。待ってなさい、私の愛しいオーブン……。貴方の名前は今決まったわ。その名も――『煉獄のサクサク・ジェネレーター一号』!」


それから一晩中、地下の厨房からは石を叩く音と、チップの不気味な笑い声が絶え間なく響き続けました。


翌朝、城中に漂ったのは、これまでの人生で誰も経験したことのない、芳醇で、暴力的なまでに甘美な「バターの焦げる香り」でした。


バニラ城の歴史が、クッキーの香りに塗り替えられた瞬間。
私の新しい相棒、最強のオーブンが産声を上げたのです。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎ ギルドで働くおっとり回復役リィナは、 自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。 ……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!? 「転ばないで」 「可愛いって言うのは僕の役目」 「固定回復役だから。僕の」 優しいのに過保護。 仲間のはずなのに距離が近い。 しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。 鈍感で頑張り屋なリィナと、 策を捨てるほど恋に負けていくカイの、 コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕! 「遅いままでいい――置いていかないから。」

何も決めなかった王国は、静かに席を失う』

ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として、 表には立たず、裏で国を支えてきた公爵令嬢ネフェリア。 だが―― 彼女が追い出されたのは、嫉妬でも陰謀でもなかった。 ただ一つ、「決める役割」を、国が彼女一人に押しつけていたからだ。 婚約破棄の後、ネフェリアを失った王国は変わろうとする。 制度を整え、会議を重ね、慎重に、正しく―― けれどその“正しさ”は、何一つ決断を生まなかった。 一方、帝国は違った。 完璧ではなくとも、期限内に返事をする。 責任を分け、判断を止めない。 その差は、やがて「呼ばれない会議」「残らない席」「知らされない決定」となって現れる。 王国は滅びない。 だが、何も決めない国は、静かに舞台の外へ追いやられていく。 ――そして迎える、最後の選択。 これは、 剣も魔法も振るわない“静かなざまぁ”。 何も決めなかった過去に、国そのものが向き合う物語。

望まぬ結婚をさせられた私のもとに、死んだはずの護衛騎士が帰ってきました~不遇令嬢が世界一幸せな花嫁になるまで

越智屋ノマ
恋愛
「君を愛することはない」で始まった不遇な結婚――。 国王の命令でクラーヴァル公爵家へと嫁いだ伯爵令嬢ヴィオラ。しかし夫のルシウスに愛されることはなく、毎日つらい仕打ちを受けていた。 孤独に耐えるヴィオラにとって唯一の救いは、護衛騎士エデン・アーヴィスと過ごした日々の思い出だった。エデンは強くて誠実で、いつもヴィオラを守ってくれた……でも、彼はもういない。この国を襲った『災禍の竜』と相打ちになって、3年前に戦死してしまったのだから。 ある日、参加した夜会の席でヴィオラは窮地に立たされる。その夜会は夫の愛人が主催するもので、夫と結託してヴィオラを陥れようとしていたのだ。誰に救いを求めることもできず、絶体絶命の彼女を救ったのは――? (……私の体が、勝手に動いている!?) 「地獄で悔いろ、下郎が。このエデン・アーヴィスの目の黒いうちは、ヴィオラ様に指一本触れさせはしない!」 死んだはずのエデンの魂が、ヴィオラの体に乗り移っていた!?  ――これは、望まぬ結婚をさせられた伯爵令嬢ヴィオラと、死んだはずの護衛騎士エデンのふしぎな恋の物語。理不尽な夫になんて、もう絶対に負けません!!

大嫌いな従兄と結婚するぐらいなら…

みみぢあん
恋愛
子供の頃、両親を亡くしたベレニスは伯父のロンヴィル侯爵に引き取られた。 隣国の宣戦布告で戦争が始まり、伯父の頼みでベレニスは病弱な従妹のかわりに、側妃候補とは名ばかりの人質として、後宮へ入ることになった。 戦争が終わりベレニスが人質生活から解放されたら、伯父は後継者の従兄ジャコブと結婚させると約束する。 だがベレニスはジャコブが大嫌いなうえ、密かに思いを寄せる騎士フェルナンがいた。   

悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。 一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。 ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。 帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!

君への気持ちが冷めたと夫から言われたので家出をしたら、知らぬ間に懸賞金が掛けられていました

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【え? これってまさか私のこと?】 ソフィア・ヴァイロンは貧しい子爵家の令嬢だった。町の小さな雑貨店で働き、常連の男性客に密かに恋心を抱いていたある日のこと。父親から借金返済の為に結婚話を持ち掛けられる。断ることが出来ず、諦めて見合いをしようとした矢先、別の相手から結婚を申し込まれた。その相手こそ彼女が密かに思いを寄せていた青年だった。そこでソフィアは喜んで受け入れたのだが、望んでいたような結婚生活では無かった。そんなある日、「君への気持ちが冷めたと」と夫から告げられる。ショックを受けたソフィアは家出をして行方をくらませたのだが、夫から懸賞金を掛けられていたことを知る―― ※他サイトでも投稿中

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

枯渇聖女は婚約破棄され結婚絶対無理ランキング1位の辺境伯に言い寄られる

はなまる
恋愛
 らすじ  フレイシアは10歳の頃母と一緒に魔物に遭遇。その時母はかなりの傷を負い亡くなりショックで喋れなくなtったがその時月の精霊の加護を受けて微力ながらも魔法が使えるようになった。  このニルス国では魔力を持っている人間はほとんどいなくて魔物討伐でけがを負った第二王子のジェリク殿下の怪我をほんの少し治せた事からジェリク殿下から聖女として王都に来るように誘われる。  フレイシアは戸惑いながらも淡い恋心を抱きジェリク殿下の申し出を受ける。  そして王都の聖教会で聖女として働くことになりジェリク殿下からも頼られ婚約者にもなってこの6年フレイシアはジェリク殿下の期待に応えようと必死だった。  だが、最近になってジェリクは治癒魔法が使えるカトリーナ公爵令嬢に気持ちを移してしまう。  その前からジェリク殿下の態度に不信感を抱いていたフレイシアは魔力をだんだん失くしていて、ついにジェリクから枯渇聖女と言われ婚約を破棄されおまけに群れ衣を着せられて王都から辺境に追放される事になった。  追放が決まり牢に入れられている間に月の精霊が現れフレイシアの魔力は回復し、翌日、辺境に向かう騎士3名と一緒に荷馬車に乗ってその途中で魔物に遭遇。フレイシアは想像を超える魔力を発揮する。  そんな力を持って辺境に‥    明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。少し間が開いてしまいましたがよろしくです。  まったくの空想の異世界のお話。誤字脱字などご不快な点は平にご容赦お願いします。最後までお付き合いいただけると嬉しいです。他のサイトにも投稿しています。

処理中です...