「婚約破棄? それより新作クッキーの試食をしませんか?」

萩月

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バニラ城の朝食時。
テーブルの上には、焼き立てのスコーンと、昨日手に入れた伝説の塩を使った『潮騒のバタークッキー』が山盛りに積まれていました。


私がそのサクサク感を堪能しながら、新作の配合を脳内でシミュレーションしていた時のことです。
執事長が、銀のトレイに乗った一通の手紙を運んできました。


「チップ様、ガレット閣下。王都より、緊急の親書が届いております」


「王都からだと? また監察官の増員か、それとも小麦の関税引き上げの嫌がらせか」


ガレット辺境伯が不機嫌そうに眉を寄せ、手紙をひったくりました。
しかし、封蝋(ふうろう)の紋章を見た瞬間、彼の周囲に漂う空気が一気に氷点下まで下がりました。


「……カッサン・ド・ラ・プランス。あの愚か者からだ」


「あら、元婚約者様から? まあ、懐かしいお名前ですわね。それで、その手紙には何と? また『不気味なクッキーを焼くな』という苦情かしら」


私はクッキーを齧りながら、のんきに問いかけました。
ガレット辺境伯は無言で手紙を読み進めていましたが、次第にその握り拳に力が入り、厚手の羊皮紙がメキメキと音を立てて歪んでいきます。


「……『王都にて、国を挙げた大茶会を開催する。その席にて、貴様の不気味な粉細工が国家に害をなすものではないか、最終的な審判を下す。正々堂々と申し開きに来い』だと? ふざけるな!」


ガレット辺境伯が机を叩きました。
スコーンの山が微かに揺れましたが、私は冷静に手紙を奪い取り、その紙質を指先で確認しました。


「……まあ、素晴らしい。この羊皮紙、最高級の仔牛の皮を使っておりますわね。これほどの品質なら、オーブンの隙間風を防ぐパッキンとして再利用できそうですわ。辺境伯様、これ、いただいてもよろしい?」


「そこか! 論点はそこなのかチップ! これは明らかな罠だ。貴様を王都へ呼び戻し、適当な罪を着せて今度こそ地下牢へぶち込むつもりに決まっている!」


ガレット辺境伯の怒声に、隣で震えていたアナが「ヒィッ!」と悲鳴を上げました。


「お嬢様、行っちゃダメですわ! カッサン殿下は執念深いですし、シュガー様だって何を企んでいるか分かりません!」


「罠……。ええ、そうでしょうね。カッサン殿下のことですから、私のクッキーがあまりにも評判になりすぎて、嫉妬に狂って夜も眠れないのでしょう」


私は窓の外、遠く離れた王都の方角を見つめました。


「でも、辺境伯様。これは絶好の機会だと思いませんか?」


「機会だと?」


「ええ。王都の目の肥えた……いえ、口の肥えた貴族たちに、バニラ領の誇る『真のサクサク』を叩きつけてやるのです。私のクッキーが国家に害をなすか、それとも国家の宝となるか、白黒はっきりさせて差し上げましょう」


私の瞳に、静かな、しかし激しい情熱の炎が灯りました。
単なる復讐ではありません。これは、職人としての誇りを賭けた「遠征」なのです。


「……チップ。貴様、本気で言っているのか」


「もちろんですわ。それに、最近の私の研究……『月の雫のアイシング』を完成させるには、王宮の宝物庫に眠っているという『氷結晶の砂糖』が必要なんです。ついでにそれも、コンテスト形式でぶんどってこようと思いまして」


「……結局、材料か」


ガレット辺境伯は顔を覆いましたが、すぐに顔を上げ、鋭い視線を執事長に向けました。


「……執事長。遠征の準備をしろ。俺も行く」


「えっ、閣下が!? しかし、辺境の守備はどうされますか?」


「副官に任せる。俺が行かなければ、この女は王宮のオーブンを解体して持ち帰ろうとするかもしれんからな。……それに」


ガレット辺境伯は、私の肩を力強く掴みました。


「貴様を一人で行かせるほど、俺の肝は太くない。あの愚か者に、誰が貴様の後ろ盾にいるのかを教えてやる必要がある」


「まあ、辺境伯様! 頼もしいですわ。それでは、道中の護衛車にはオーブン用の薪を三割増しで積み込んでくださいね。移動中も試作を続けますから!」


「…………心得た」


こうして、私は再び王都へと向かうことになりました。
かつて泥まみれで追い出された私。
しかし今の私は、最強のスポンサーと、伝説の塩、そして破壊的なサクサク感を味方につけています。


「待ってなさい、カッサン殿下。貴方の用意した最高級のお茶、私のクッキーの引き立て役にして差し上げますわ!」


数日後。
バニラ城の正門から、巨大なオーブンを積んだ(!?)重武装の馬車隊が出発しました。
それは、恋愛小説というよりは、これから戦場に赴く軍隊のような物々しさでした。


街道を進む馬車の窓から、私は新しいレシピノートを広げました。
王都での再会。それは、サクサクとした音と共に、すべてを塗り替える始まりになるはずです。


「……さて、まずは挨拶代わりに何を焼きましょうかしら。シュガーさんの鼻を明かすような、とびきりスパイシーなやつがいいわね」


私の不気味な笑い声が、バニラの荒野に響き渡りました。
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