「婚約破棄? それより新作クッキーの試食をしませんか?」

萩月

文字の大きさ
20 / 28

20

しおりを挟む
王宮の大広間で催された「親善茶会」という名の、実質的な公開裁判。
並み居る貴族たちが、バニラ辺境伯の威圧感と、チップの放つバターの香りの間で、奇妙な板挟みになっていました。


目の前のテーブルには、王宮専属の菓子職人が意地とプライドをかけて作り上げた、繊細なプチフールが並んでいます。
しかし、会場の誰一人として、それに手を付けようとはしません。
なぜなら、チップが持ち込んだ「移動式オーブン」から漂う、あの暴力的なまでの香ばしさが、王宮の菓子の存在感を完全に消し去っていたからです。


「……おい、チップ。いつまで待たせるつもりだ。早くその『国家転覆の疑いがある円盤』を差し出せ。私が毒見をしてやる」


カッサン殿下が、喉を鳴らしながら命じました。
彼は恐怖していると言いつつ、その目はチップの腰に下がったクッキー袋に釘付けです。


「殿下、焦りは禁物ですわ。クッキーには『休息』という時間が必要なのです。焼き上がった直後の生地が、外気の温度と馴染み、その中心部までがサクサクの神髄に到達するまで、あと三十秒。……二十九、二十八……」


チップが秒読みを始めると、広場全体が静まり返りました。
貴族たちが息を呑み、秒数に合わせて体を揺らします。
その中で、最も激しく震えていたのは、殿下の隣に座るシュガーさんでした。


(……ああ、もうダメ。私の鼻が、私の理性が、あの香りに屈服しそう……!)


シュガーさんは、必死に自分の太ももをつねっていました。
彼女はこれまでの数ヶ月、王宮の「ふわふわした、実体のない菓子」を食べ続け、深刻な食感不足に陥っていたのです。
彼女の顎は、今や激しい衝撃を、あの「パキィッ」という断罪の音を求めて悲鳴を上げていました。


「……ゼロ。さあ、皆さま。辺境の伝説、そして私の魂。心ゆくまで味わいなさいな!」


チップが銀のトレイに並んだクッキーを、花びらを撒くようにテーブルへ並べました。
カッサン殿下が真っ先に手を伸ばし、それを口に運ぼうとしたその瞬間。


「どいてください、殿下ッ!!」


「……ぶへっ!?」


凄まじい叫びと共に、シュガーさんが殿下を突き飛ばしました。
華奢なはずの彼女のどこにそんな力が隠されていたのか、カッサン殿下は床を転がり、椅子ごとひっくり返りました。


シュガーさんは、殿下の落としたクッキーを空中でキャッチし、そのまま迷わず口の中へ放り込みました。


――パキィィィンッ、ゴリッ、サクサクサクサクッ!!


会場に鳴り響いたのは、これまでで最も美しく、力強い「勝利の咆哮」でした。


「…………っはぁああああああ!!」


シュガーさんの顔が、一瞬にして法悦の色に染まりました。
彼女は目を見開き、天を仰ぎ、その頬をクッキーの欠片で膨らませながら、ボロボロと涙を流し始めました。


「これよ……これなのよ! 私が求めていたのは、この、顎を突き抜けて脳天まで響くような振動! この暴力的なまでの塩気とバターの抱擁! あああ、私の顎が、私の魂が喜んでいるわ……!」


「し、シュガー!? 君、何を……!?」


床に転がったカッサン殿下が呆然と叫びましたが、シュガーさんの耳にはもう届いていません。
彼女はトレイに乗った残りのクッキーを両手で抱え込み、チップの前に跪きました。


「チップ様……! いえ、チップ師匠! 私、間違っていましたわ! 殿下の愛なんて、このサクサクの一枚に比べれば、湿気った煎餅(せんべい)も同然です!」


「……あら、シュガーさん。随分と思い切ったことをおっしゃるのね」


チップは冷ややかに、しかしどこか満足げに彼女を見下ろしました。


「私を弟子にしてください! このまま王宮にいたら、私の顎は退化して、一生マシュマロしか食べられない体になってしまいます! 私、チップ様の助手になって、一生粉にまみれて生きていきたいんです!」


「シュガー……! 貴様、私を捨てるというのか!? 王太子妃の座よりも、その茶色の石ころを選ぶというのか!」


カッサン殿下の絶叫が響きますが、シュガーさんは振り返りもせず、チップのドレスの裾を掴みました。


「殿下、しつこいですわよ! 貴方の愛には、チップ様のクッキーのような『エッジ』が足りないんです! ただ甘いだけの男なんて、今の私の胃袋には必要ありませんわ!」


「……ま、負けた……。菓子に、私の恋が負けたというのか……」


カッサン殿下は、そのまま絶望のあまり気絶しました。
しかし、周囲の貴族たちは殿下を助けるどころか、「シュガー嬢、抜け駆けはずるいぞ!」と次々にクッキーのトレイに群がり始めました。


広場は一瞬にして、高貴な人々による「クッキー強奪戦」の戦場へと変貌しました。
ガレット辺境伯が、あまりの惨状に頭を抱えながらチップの隣に立ちました。


「……チップ。これ、どうするつもりだ。王太子を失神させ、その婚約者候補を寝返らせたぞ。これでは友好どころか、国家転覆罪を問われても文句は言えんぞ」


「何を言っているのですか、辺境伯様。見てください、あの人たちの顔を」


チップは、クッキーを必死に頬張る貴族たちを指差しました。
彼らの顔には、派閥争いも、嫉妬も、打算もありません。
ただ、「美味しい」という原始的な喜びと、次の一口を求める真剣な眼差しがあるだけです。


「美味しいものの前では、罪なんて些細なことですわ。……さて、シュガーさん。私の助手になりたいのなら、まずは条件がありますわよ」


「な、何でもお申し付けください、師匠!」


シュガーさんは、目をキラキラさせて答えました。


「私の新作『超硬質・ダイヤモンド・ビスコッティ』を、十秒以内に噛み砕く噛合力(こうごうりょく)を手に入れること。……アナ、彼女をトレーニングルーム(厨房の片隅)へ連れて行って。まずは一万回の生地捏ねからよ」


「はい、お嬢様! シュガーさん、覚悟してくださいね。チップ様の修行は、オーブンの熱気より厳しいですから!」


「望むところですわ!」


こうして、王太子カッサン殿下の寵愛を一身に受けていたヒロイン、シュガー・ベリーは、王宮の権力を捨て、クッキーの粉にまみれる「修羅の道」へと足を踏み入れました。


カッサン殿下が目を覚ました時、彼が目にしたのは、無惨に空っぽになったクッキーの皿と、自分を見捨てて元気に小麦粉を運ぶシュガーさんの後ろ姿でした。


チップの王都遠征。
それは、恋愛のパワーバランスを完全に破壊し、「美味しいが正義」という新たな秩序を王宮に築き上げようとしていたのです。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎ ギルドで働くおっとり回復役リィナは、 自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。 ……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!? 「転ばないで」 「可愛いって言うのは僕の役目」 「固定回復役だから。僕の」 優しいのに過保護。 仲間のはずなのに距離が近い。 しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。 鈍感で頑張り屋なリィナと、 策を捨てるほど恋に負けていくカイの、 コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕! 「遅いままでいい――置いていかないから。」

何も決めなかった王国は、静かに席を失う』

ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として、 表には立たず、裏で国を支えてきた公爵令嬢ネフェリア。 だが―― 彼女が追い出されたのは、嫉妬でも陰謀でもなかった。 ただ一つ、「決める役割」を、国が彼女一人に押しつけていたからだ。 婚約破棄の後、ネフェリアを失った王国は変わろうとする。 制度を整え、会議を重ね、慎重に、正しく―― けれどその“正しさ”は、何一つ決断を生まなかった。 一方、帝国は違った。 完璧ではなくとも、期限内に返事をする。 責任を分け、判断を止めない。 その差は、やがて「呼ばれない会議」「残らない席」「知らされない決定」となって現れる。 王国は滅びない。 だが、何も決めない国は、静かに舞台の外へ追いやられていく。 ――そして迎える、最後の選択。 これは、 剣も魔法も振るわない“静かなざまぁ”。 何も決めなかった過去に、国そのものが向き合う物語。

望まぬ結婚をさせられた私のもとに、死んだはずの護衛騎士が帰ってきました~不遇令嬢が世界一幸せな花嫁になるまで

越智屋ノマ
恋愛
「君を愛することはない」で始まった不遇な結婚――。 国王の命令でクラーヴァル公爵家へと嫁いだ伯爵令嬢ヴィオラ。しかし夫のルシウスに愛されることはなく、毎日つらい仕打ちを受けていた。 孤独に耐えるヴィオラにとって唯一の救いは、護衛騎士エデン・アーヴィスと過ごした日々の思い出だった。エデンは強くて誠実で、いつもヴィオラを守ってくれた……でも、彼はもういない。この国を襲った『災禍の竜』と相打ちになって、3年前に戦死してしまったのだから。 ある日、参加した夜会の席でヴィオラは窮地に立たされる。その夜会は夫の愛人が主催するもので、夫と結託してヴィオラを陥れようとしていたのだ。誰に救いを求めることもできず、絶体絶命の彼女を救ったのは――? (……私の体が、勝手に動いている!?) 「地獄で悔いろ、下郎が。このエデン・アーヴィスの目の黒いうちは、ヴィオラ様に指一本触れさせはしない!」 死んだはずのエデンの魂が、ヴィオラの体に乗り移っていた!?  ――これは、望まぬ結婚をさせられた伯爵令嬢ヴィオラと、死んだはずの護衛騎士エデンのふしぎな恋の物語。理不尽な夫になんて、もう絶対に負けません!!

大嫌いな従兄と結婚するぐらいなら…

みみぢあん
恋愛
子供の頃、両親を亡くしたベレニスは伯父のロンヴィル侯爵に引き取られた。 隣国の宣戦布告で戦争が始まり、伯父の頼みでベレニスは病弱な従妹のかわりに、側妃候補とは名ばかりの人質として、後宮へ入ることになった。 戦争が終わりベレニスが人質生活から解放されたら、伯父は後継者の従兄ジャコブと結婚させると約束する。 だがベレニスはジャコブが大嫌いなうえ、密かに思いを寄せる騎士フェルナンがいた。   

悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。 一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。 ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。 帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!

君への気持ちが冷めたと夫から言われたので家出をしたら、知らぬ間に懸賞金が掛けられていました

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【え? これってまさか私のこと?】 ソフィア・ヴァイロンは貧しい子爵家の令嬢だった。町の小さな雑貨店で働き、常連の男性客に密かに恋心を抱いていたある日のこと。父親から借金返済の為に結婚話を持ち掛けられる。断ることが出来ず、諦めて見合いをしようとした矢先、別の相手から結婚を申し込まれた。その相手こそ彼女が密かに思いを寄せていた青年だった。そこでソフィアは喜んで受け入れたのだが、望んでいたような結婚生活では無かった。そんなある日、「君への気持ちが冷めたと」と夫から告げられる。ショックを受けたソフィアは家出をして行方をくらませたのだが、夫から懸賞金を掛けられていたことを知る―― ※他サイトでも投稿中

枯渇聖女は婚約破棄され結婚絶対無理ランキング1位の辺境伯に言い寄られる

はなまる
恋愛
 らすじ  フレイシアは10歳の頃母と一緒に魔物に遭遇。その時母はかなりの傷を負い亡くなりショックで喋れなくなtったがその時月の精霊の加護を受けて微力ながらも魔法が使えるようになった。  このニルス国では魔力を持っている人間はほとんどいなくて魔物討伐でけがを負った第二王子のジェリク殿下の怪我をほんの少し治せた事からジェリク殿下から聖女として王都に来るように誘われる。  フレイシアは戸惑いながらも淡い恋心を抱きジェリク殿下の申し出を受ける。  そして王都の聖教会で聖女として働くことになりジェリク殿下からも頼られ婚約者にもなってこの6年フレイシアはジェリク殿下の期待に応えようと必死だった。  だが、最近になってジェリクは治癒魔法が使えるカトリーナ公爵令嬢に気持ちを移してしまう。  その前からジェリク殿下の態度に不信感を抱いていたフレイシアは魔力をだんだん失くしていて、ついにジェリクから枯渇聖女と言われ婚約を破棄されおまけに群れ衣を着せられて王都から辺境に追放される事になった。  追放が決まり牢に入れられている間に月の精霊が現れフレイシアの魔力は回復し、翌日、辺境に向かう騎士3名と一緒に荷馬車に乗ってその途中で魔物に遭遇。フレイシアは想像を超える魔力を発揮する。  そんな力を持って辺境に‥    明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。少し間が開いてしまいましたがよろしくです。  まったくの空想の異世界のお話。誤字脱字などご不快な点は平にご容赦お願いします。最後までお付き合いいただけると嬉しいです。他のサイトにも投稿しています。

【完結】公爵家の秘密の愛娘 

ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝グラント公爵家は王家に仕える名門の家柄。 過去の事情により、今だに独身の当主ダリウス。国王から懇願され、ようやく伯爵未亡人との婚姻を決める。 そんな時、グラント公爵ダリウスの元へと現れたのは1人の少女アンジェラ。 「パパ……私はあなたの娘です」 名乗り出るアンジェラ。 ◇ アンジェラが現れたことにより、グラント公爵家は一変。伯爵未亡人との再婚もあやふや。しかも、アンジェラが道中に出逢った人物はまさかの王族。 この時からアンジェラの世界も一変。華やかに色付き出す。 初めはよそよそしいグラント公爵ダリウス(パパ)だが、次第に娘アンジェラを気に掛けるように……。 母娘2代のハッピーライフ&淑女達と貴公子達の恋模様💞  🔶設定などは独自の世界観でご都合主義となります。ハピエン💞 🔶稚拙ながらもHOTランキング(最高20位)に入れて頂き(2025.5.9)、ありがとうございます🙇‍♀️

処理中です...