「婚約破棄? それより新作クッキーの試食をしませんか?」

萩月

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王宮を揺るがした「クッキーとの結婚宣言」から一夜明け、私は公爵家の別邸の厨房で、黙々と小麦粉をふるっていました。


「……お嬢様、いえ師匠。本当にいいんですか? 王太子殿下、あれからずっと自室に引きこもって『クッキーになりたい……』ってうわ言を言っているらしいですよ」


助手となったシュガーさんが、心配そうにバターを練りながら尋ねてきました。


「いいのよ、シュガー。殿下がクッキーになったところで、せいぜい生焼けの生ぬるい生地止まりですわ。私の求める『究極のサクサク』には、一生かかっても到達できませんもの。……それより、この『ウエディング・サクサク・ガレット』の焼き加減を見てちょうだい」


私は、自分の結婚を祝うために開発した、過去最大級の厚みを誇るクッキーをオーブンへ放り込みました。
もはや、私の眼中に人間関係という名の不純物が入り込む隙間はありません。


「……チップ。少し、いいか」


厨房の入り口に、巨大な影が立ちました。
バニラ辺境伯ガレット。彼は、私の「クッキーと結婚する」という暴挙とも言える宣言を、最も近くで聞いていた男です。


「あら、辺境伯様。お祝いの言葉なら、今オーブンの中でこんがりと色付いているところですわ。出来上がるまであと十分、そこにある小麦粉の袋の上で待っていてくださる?」


「……いや、祝いに来たわけではない。貴様に、現実的な提案をしに来たのだ」


ガレットは、私の隣まで歩み寄ってきました。
彼の表情は、戦場に向かう時よりも真剣で、どこか悲壮感すら漂っています。


「……チップ。貴様はクッキーと結婚すると言ったな。だが、クッキーは貴様の髪を洗うことも、重い薪を運ぶことも、深夜に及ぶ研究で冷えた貴様の肩に毛布をかけることもできん」


「それはそうですわね。クッキーは愛でるものであり、食べるものですもの。介護を求めるなんて、食べ物に対してあまりに無礼ですわ」


私は、当たり前のことを言う彼を不思議そうに見つめました。


「ならば、誰がその役目を負うのだ。貴様は一生、一人で粉にまみれて死ぬつもりか?」


「ええ。オーブンの熱に包まれて死ねるなら、それこそ職人の本懐ですわ!」


「……認めん。俺が認めん」


ガレットは、私の両肩をガッシリと掴みました。
その手の熱さと力強さに、私は思わず瞬きを繰り返しました。


「いいか、チップ。貴様の夫がクッキーだというのなら、俺は……俺は、その『夫(クッキー)』を焼き上げるための『オーブン』になり、貴様を守る『外壁』になろう」


「……はい? 辺境伯様、貴方、とうとう熱でも出されましたか? 人間がオーブンになれるわけありませんわ」


「比喩だ! ……つまり、だ。世間体というものがある。貴様が独り身でいるよりも、俺の妻という肩書きを持っていた方が、小麦粉の調達も、新しいオーブンの建設も、王都の貴族どもの嫌がらせを防ぐのも、すべてが円滑に進む」


ガレットは、顔を真っ赤にしながら一気に捲し立てました。


「貴様が愛するのはクッキーでいい。俺への愛など、粉の欠片ほどもなくて構わん。だが、俺に……貴様がクッキーを焼くための『環境』を、生涯守らせてはくれまいか。クッキーを焼く君を支える……言わば、サブ・ハズバンド(副夫)としてだ!」


「サブ……ハズバンド?」


私は、初めて聞く奇妙な単語に首を傾げました。
要するに、彼は私への一切の愛を求めず、ただひたすらに私の「クッキー活動」を全面的に支援し、護衛し、スポンサーであり続けるという、あまりにも都合の良い契約を申し出ているのです。


「……それは、私がどれだけ無茶な材料を求めても、魔物の巣窟に卵を拾いに行けと言っても、文句を言わないという意味かしら?」


「……ああ。俺の大剣は、そのためにある」


「深夜に突然オーブンを爆破しても、怒らずに片付けてくださる?」


「……修理代はバニラ領の予算で落とす」


「私がクッキーに夢中になって、三日三晩顔を合わせなくても、寂しがったりなさいませんこと?」


ガレットは一瞬、言葉に詰まったように唇を噛み締めましたが、すぐに力強く頷きました。


「……我慢しよう。それが、オーブンとしての務めだ」


私は、じっとガレットの瞳を見つめました。
そこにあるのは、打算のない、真っ直ぐな、そして救いようのない「お人好し」の光。


「……ふふ。いいでしょう、辺境伯様。貴方のその『オーブン根性』、気に入りましたわ」


私は、ボウルに残った生地の欠片を、ガレットの口にひょいと放り込みました。


「これが、私たちの『仮の契約』の証ですわ。焼き上がったら、改めて貴方を『私のクッキーを一番近くで見守る男』として任命して差し上げます」


「……っ。あ、甘い。……いや、美味いな」


ガレットは、クッキーの味に目を細めながら、ようやく安堵したように息を吐きました。


「お、お嬢様……。これ、実質的なプロポーズ成功ですよね? カッサン殿下が見たら、今度こそショックで泡を吹いて倒れますわよ」


シュガーさんが影でニヤニヤしていましたが、私には関係ありません。
私にあるのは、最強の「外壁」を手に入れたという安心感と、これから焼き上がる巨大なクッキーへの期待だけです。


「さあ、ガレット様! ボサッとしていないで、そこの予備の薪を運んでちょうだい! 私たちの披露宴は、世界で一番サクサクした戦場になるのですから!」


「……ああ。仰せのままに、我が主(マスター)」


こうして、私はクッキーと結婚し、そのクッキーを全力で守る男を「副夫」として従えるという、前代未聞の家庭を築くことになったのです。
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