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伝説の披露宴から数年。
バニラ領の入り口に立つと、旅人はまず、空の色より先に「匂い」に驚かされると言います。
それは、かつて荒野と呼ばれたこの地を覆い尽くした、濃厚な焦がしバターと小麦の香ばしい芳香。
今やバニラ領は、世界中の美食家が「聖地」と仰ぐ、世界最大の焼き菓子輸出大国へと変貌を遂げていました。
「……いいわ、シュガー。その生地の寝かせ方、合格よ。ようやく貴女も、小麦粉の分子と対話ができるようになったわね」
城の地下にある「国家最高機密・第一厨房」にて、私は満足げに頷きました。
「ありがとうございます、師匠! 私、最近では目をつぶっていても、オーブンの予熱がコンマ五度ズレただけで耳鳴りがするようになりましたわ!」
かつての男爵令嬢シュガーさんは、今や「サクサク騎士団」の筆頭師範代。
その上腕三頭筋は、並の兵士を片手で投げ飛ばすほどに鍛え上げられ、彼女の焼く「剛腕ビスコッティ」は、行軍中の兵士の最強の携帯食として重宝されていました。
「あら、師範代なんて生ぬるいわ。次は、呼吸をするだけでアイシングが乾燥するレベルを目指してちょうだい。……さて、今日のメインイベントはこれからよ」
私が麺棒を構え直すと、厨房の重厚な扉が開きました。
現れたのは、領主としての激務をこなしながらも、どこか以前より表情の和らいだガレット辺境伯でした。
「……チップ。北方の『氷河小麦』の第一便が届いたぞ。俺が自ら選別し、一粒の割れもないことを確認してきた」
ガレットは、背負った大きな麻袋を調理台に乗せました。
彼は今や辺境伯としての公務の傍ら、世界中から最高級の原材料を買い付ける「最強の買い出し人」としての顔も持っています。
「まあ! 流石ですわ、辺境伯様。この冷たく引き締まったグルテン……。これなら、私の新作『永久凍土のサクサク・タイル』が完璧に焼き上がるわ!」
私は麻袋に顔を突っ込み、小麦粉の香りを深く吸い込みました。
「……チップ。一応確認しておくが、今日は俺たちの結婚記念日だ。忘れてはいないだろうな?」
「ええ、もちろん覚えていますわよ。だからこそ、この最高級の小麦で、貴方の強靭な顎を粉砕せんばかりの特製クッキーを焼こうとしているのではありませんか」
「……そうか。ならばいい。俺も、その衝撃を受け止めるために、毎朝の顎の筋トレは欠かしていない」
ガレットは、私の隣に立ち、慣れた手つきでバターの室温調整を始めました。
新婚の頃は「副夫(サブ・ハズバンド)」を自称していた彼も、今や私の思考パターンを完全に読み切り、言葉を交わさずとも最高のサポートをしてくれる「人型オーブン管理システム」へと進化していたのです。
「……ところで、王都の『あの御方』から、また手紙が届いているぞ」
ガレットが苦笑しながら、一通の手紙を差し出しました。
差出人は、現国王となったカッサン・ド・ラ・プランス陛下。
「『チップよ。バニラ領の新作クッキーの先行販売権を譲ってくれなければ、私は明日から政務をボイコットして、そちらへ亡命する』……相変わらず、情けないことを言っていますわね、あの王様は」
「ふん。奴は今や、王国内で一番の『チップ・チョコラート・ファンクラブ』の会長だからな。シュガーがいなくなった王宮で、一人寂しくクッキーの空き箱を集めているという噂だ」
「いいわよ、別に。ただし、先行販売の条件は『王立オーブン研究所』の予算を三倍にすること。それから、私のために新しい品種の砂糖を開発することを約束させてちょうだい」
私は手紙をシュガーさんに放り投げ、再びボウルと向き合いました。
かつて私は、悪役令嬢として婚約破棄され、泥にまみれて国を追放されました。
でも、その先にあったのは、絶望ではなく、無限の小麦粉の可能性。
愛を求めていた頃の私は、いつもお腹を空かせていました。
けれど、愛の対象を「サクサク」という食感に定めたその日から、私の人生は、これ以上ないほどに香ばしく焼き上げられたのです。
「……さあ、来るわよ! 世界を震撼させる、今日一番の『産声』が!」
私がオーブンの扉を開けた瞬間。
バニラ城全体を、黄金色の光と、暴力的なまでに甘美な香りが包み込みました。
「……パキィィィィィィンッッッ!!」
城壁を、空を、そして人々の心を揺さぶる、至高の衝撃音。
「……ああ。今日もいい音だ」
ガレットが私の肩を抱き、私はその温かさを感じながら、焼き立ての一枚を彼に差し出しました。
「当たり前ですわ。私の情熱は、いつだって焼きたてなんですもの!」
私たちの前には、どこまでも続くサクサクの道。
後悔なんて、一口噛めば粉々に砕け散る。
私はこれからも、麺棒を振り回し、オーブンの炎と共に、この世界を最高のサクサクで塗り替えていくのです。
チップ・チョコラートの物語は、これからも永遠に、冷めることなく焼き続けられるのでした。
バニラ領の入り口に立つと、旅人はまず、空の色より先に「匂い」に驚かされると言います。
それは、かつて荒野と呼ばれたこの地を覆い尽くした、濃厚な焦がしバターと小麦の香ばしい芳香。
今やバニラ領は、世界中の美食家が「聖地」と仰ぐ、世界最大の焼き菓子輸出大国へと変貌を遂げていました。
「……いいわ、シュガー。その生地の寝かせ方、合格よ。ようやく貴女も、小麦粉の分子と対話ができるようになったわね」
城の地下にある「国家最高機密・第一厨房」にて、私は満足げに頷きました。
「ありがとうございます、師匠! 私、最近では目をつぶっていても、オーブンの予熱がコンマ五度ズレただけで耳鳴りがするようになりましたわ!」
かつての男爵令嬢シュガーさんは、今や「サクサク騎士団」の筆頭師範代。
その上腕三頭筋は、並の兵士を片手で投げ飛ばすほどに鍛え上げられ、彼女の焼く「剛腕ビスコッティ」は、行軍中の兵士の最強の携帯食として重宝されていました。
「あら、師範代なんて生ぬるいわ。次は、呼吸をするだけでアイシングが乾燥するレベルを目指してちょうだい。……さて、今日のメインイベントはこれからよ」
私が麺棒を構え直すと、厨房の重厚な扉が開きました。
現れたのは、領主としての激務をこなしながらも、どこか以前より表情の和らいだガレット辺境伯でした。
「……チップ。北方の『氷河小麦』の第一便が届いたぞ。俺が自ら選別し、一粒の割れもないことを確認してきた」
ガレットは、背負った大きな麻袋を調理台に乗せました。
彼は今や辺境伯としての公務の傍ら、世界中から最高級の原材料を買い付ける「最強の買い出し人」としての顔も持っています。
「まあ! 流石ですわ、辺境伯様。この冷たく引き締まったグルテン……。これなら、私の新作『永久凍土のサクサク・タイル』が完璧に焼き上がるわ!」
私は麻袋に顔を突っ込み、小麦粉の香りを深く吸い込みました。
「……チップ。一応確認しておくが、今日は俺たちの結婚記念日だ。忘れてはいないだろうな?」
「ええ、もちろん覚えていますわよ。だからこそ、この最高級の小麦で、貴方の強靭な顎を粉砕せんばかりの特製クッキーを焼こうとしているのではありませんか」
「……そうか。ならばいい。俺も、その衝撃を受け止めるために、毎朝の顎の筋トレは欠かしていない」
ガレットは、私の隣に立ち、慣れた手つきでバターの室温調整を始めました。
新婚の頃は「副夫(サブ・ハズバンド)」を自称していた彼も、今や私の思考パターンを完全に読み切り、言葉を交わさずとも最高のサポートをしてくれる「人型オーブン管理システム」へと進化していたのです。
「……ところで、王都の『あの御方』から、また手紙が届いているぞ」
ガレットが苦笑しながら、一通の手紙を差し出しました。
差出人は、現国王となったカッサン・ド・ラ・プランス陛下。
「『チップよ。バニラ領の新作クッキーの先行販売権を譲ってくれなければ、私は明日から政務をボイコットして、そちらへ亡命する』……相変わらず、情けないことを言っていますわね、あの王様は」
「ふん。奴は今や、王国内で一番の『チップ・チョコラート・ファンクラブ』の会長だからな。シュガーがいなくなった王宮で、一人寂しくクッキーの空き箱を集めているという噂だ」
「いいわよ、別に。ただし、先行販売の条件は『王立オーブン研究所』の予算を三倍にすること。それから、私のために新しい品種の砂糖を開発することを約束させてちょうだい」
私は手紙をシュガーさんに放り投げ、再びボウルと向き合いました。
かつて私は、悪役令嬢として婚約破棄され、泥にまみれて国を追放されました。
でも、その先にあったのは、絶望ではなく、無限の小麦粉の可能性。
愛を求めていた頃の私は、いつもお腹を空かせていました。
けれど、愛の対象を「サクサク」という食感に定めたその日から、私の人生は、これ以上ないほどに香ばしく焼き上げられたのです。
「……さあ、来るわよ! 世界を震撼させる、今日一番の『産声』が!」
私がオーブンの扉を開けた瞬間。
バニラ城全体を、黄金色の光と、暴力的なまでに甘美な香りが包み込みました。
「……パキィィィィィィンッッッ!!」
城壁を、空を、そして人々の心を揺さぶる、至高の衝撃音。
「……ああ。今日もいい音だ」
ガレットが私の肩を抱き、私はその温かさを感じながら、焼き立ての一枚を彼に差し出しました。
「当たり前ですわ。私の情熱は、いつだって焼きたてなんですもの!」
私たちの前には、どこまでも続くサクサクの道。
後悔なんて、一口噛めば粉々に砕け散る。
私はこれからも、麺棒を振り回し、オーブンの炎と共に、この世界を最高のサクサクで塗り替えていくのです。
チップ・チョコラートの物語は、これからも永遠に、冷めることなく焼き続けられるのでした。
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