悪役令嬢は婚約破棄に笑顔で去った。

萩月

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「あぁ……なんて素晴らしい朝なんだ!」


王都の王城。

その一室で、王太子ギルバートは両手を広げて朝日を浴びていた。

昨夜、あの口うるさい「鉄の女」ステファニーを追放し、愛するミナとの婚約を発表した。

長年の重荷が取れ、体も心も羽のように軽い。


「今日から僕の新しい人生が始まる。ミナと共に、愛と優しさに満ちた王国を作るんだ」


ギルバートは鼻歌交じりに着替えを済ませ、執務室へと向かった。

これまではステファニーが朝一番に執務室に入り、書類の山と格闘していたが、もうその不快な姿を見る必要もない。

きっと今頃、彼女は岩山で泣きべそをかいているに違いない。


「さて、今日の公務は何かな? ミナとのお茶会かな?」


軽い足取りで、ギルバートは執務室の重厚な扉を開け放った。

その瞬間。


ドササササササッ――!!


「ぐわっ!?」


雪崩のような音が響き、白い物体がギルバートの頭上から降り注いだ。

足元が埋まる。

腰まで埋まる。

それは雪ではなく、大量の羊皮紙の束だった。


「な、なんだこれはぁぁぁ!?」


ギルバートは書類の海から必死に顔を出して叫んだ。

執務室の中は、まるで嵐が過ぎ去った後のゴミ捨て場のようになっていた。

床が見えないほど書類が散乱し、数人の文官たちが悲鳴を上げながら走り回っている。


「で、殿下! お待ちしておりました!」


顔色の悪い宰相補佐官が、書類の山をかきわけて這い寄ってきた。


「おい、これはどういうことだ! 誰がこんなに散らかした!」


「散らかしたのではございません! これらは全て、今朝までに決裁が必要な『未処理案件』です!」


「はあ? バカを言うな。いつもなら、この時間は机の上は綺麗に片付いているはずだぞ!」


ギルバートは怒鳴った。

彼の記憶では、朝の執務室は常に整理整頓され、今日やるべき仕事(サインするだけの簡単な書類)だけが、ちょこんと置かれているものだった。


「ですから! それは毎朝四時に出勤されたステファニー様が、殿下が起きる前に全ての仕分けと下処理を終わらせていたからです!」


「……は?」


ギルバートはポカンと口を開けた。


「ステファニーが? 嘘をつくな。あいつはいつも涼しい顔で紅茶を飲んでいただけだぞ」


「紅茶を飲む暇もなく働いていたのです! 右手のペンだこをご覧になったことがないのですか!?」


「知らないよそんなもの! ……え、じゃあ何か? このゴミの山みたいな書類を、僕が読まないといけないのか?」


「当然です! 王太子の決裁印がなければ、国中の行政がストップします!」


補佐官が血走った目で書類の束を突きつけてくる。

ギルバートは嫌悪感も露わに、一番上の紙を摘み上げた。


『北部穀倉地帯における夏季灌漑用水路の改修予算申請書ならびに施工業者の選定に関する稟議書』


「……長い! タイトルだけで読む気が失せる!」


ギルバートは紙を投げ捨てた。


「要約したものを持ってこい! 三行で!」


「その要約を作っていたのがステファニー様なんです!」


「なんだと!? じゃあ誰がやるんだ!」


「殿下がやるんです!」


「嫌だ! 僕は忙しいんだぞ! これからミナと『愛の植樹祭』の打ち合わせがあるんだ!」


「植樹祭の予算もここに含まれています! サインがないと苗木一本買えません!」


「ぬおおおおお!」


ギルバートが頭を抱えていると、廊下から可愛らしい声が聞こえてきた。


「ギルバート様ぁ? どうされたんですかぁ?」


ピンク色のふわふわドレスに身を包んだミナが、キョトンとした顔で覗き込んできた。

彼女の背後には、お付きの侍女が大量のドレスや宝石箱を抱えている。


「ミナ! ああ、僕の癒し!」


ギルバートは書類の海を泳いでミナに抱きついた。


「ひどいんだよミナ。家臣たちが僕にいじわるをするんだ。こんなに難しい書類を読めって言うんだよ」


「まぁ、かわいそうに。私がお手伝いしますわ!」


ミナは愛らしく微笑み、足元の書類を一枚拾い上げた。


「どれどれぇ……『隣国との通商条約第十四項の修正案について、関税撤廃品目の選定……』」


ミナの声が次第に小さくなる。

彼女の眉間に、深い皺が刻まれていく。


「……あのぉ、ギルバート様。これ、異国の言葉ですか?」


「いいや、母国語だ」


「意味が一つもわかりません」


「僕もだ」


二人は顔を見合わせた。

そこに、宰相補佐官が追撃をかける。


「殿下! 特に急ぎなのがこれです! 隣国のクラウス大公への『親書』の返信です! 今日中に出さないと戦争になります!」


「せ、戦争!? ただの手紙だろ!?」


「外交文書です! 一言一句間違えられない、高度な政治的駆け引きが必要な文章です! いつもはステファニー様が三ヶ国語で完璧な草案を作成されていました!」


「なんであいつそんなことできるんだよ! 可愛げのない!」


「可愛げよりも知性が必要なんです今は!」


ギルバートは羽ペンを握らされた。

しかし、手が震えて書けない。

何を書けばいいのか、書き出しの挨拶すらわからないのだ。


「み、ミナ! 君が書いてくれ! 愛の力で!」


「ええっ? わ、わかりました! 心を込めて書きます!」


ミナはペンを受け取り、羊皮紙に向かった。

そして、丸文字で大きく書き殴る。


『クラウス様へ☆ 仲良くしましょうね! ギルバートより(はぁと)』


「書けましたぁ!」


「おお! 素晴らしい! 心がこもっている!」


ギルバートが拍手喝采した瞬間、補佐官が白目を剥いて倒れた。


「……終わった。この国は終わった……」


補佐官の呟きは、書類の崩れる音にかき消された。

ステファニーがいなくなって、まだ二十四時間も経っていない。

しかし王城の中枢機能は、たった一人の少女の不在によって、完全に麻痺していた。

彼女が「空気のように」当たり前にこなしていた業務は、実は「酸素」そのものだったのだ。

酸素がなくなれば、人は死ぬ。

単純な理屈だ。


「誰か! 誰かステファニーを呼んでこい! 『書き方を教えろ』と命令するんだ!」


ギルバートの悲鳴が響く。

だが、誰も動けない。

文官たちは皆、散乱した書類の整理と、各方面からのクレーム対応で電話(魔導通信機)にかかりきりだったからだ。


「殿下、電話です! 財務局長が『今月の給与計算が止まっている』と怒鳴り込んでいます!」


「こっちは軍部だ! 『演習の許可証が届かないから大砲が撃てない』と言ってるぞ!」


「厨房からです! 『晩餐会のメニュー表の決裁がないから、今夜はパンと水しか出せない』そうです!」


次々と報告されるトラブル。

その全てが、たった一枚の紙、たった一つのサインの欠如から始まっていた。


「知らん! 僕は知らんぞぉぉぉ!」


ギルバートは耳を塞いで机の下に潜り込んだ。

その隣で、ミナが「パンと水なんてダイエットにいいですわね」と的外れなことを呟いている。


王城の崩壊は、まだ始まったばかりだった。
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