悪役令嬢は婚約破棄に笑顔で去った。

萩月

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「……許せない。許せませんわ!」


王都の王城、王太子の私室。

暖炉の火が消え、冷え切った部屋にミナの金切り声が響いた。

彼女の手には、北から来た商人が落としていった『ステファニー・グランド・スパ・リゾート』の宣伝チラシが握られている。

そこには、極上の料理、温かい温泉、そして煌びやかなカジノのイラストが描かれていた。


「私たちがこんなに寒い思いをして、カビの生えたパンを食べているのに! なんであの女がこんな贅沢をしているんですか!」


ミナはチラシをビリビリに引き裂き、床に踏みつけた。

ギルバート王太子もまた、厚手の毛布にくるまりながら、憎々しげに頷いた。


「全くだ。僕の元婚約者なら、僕が不幸な時は一緒に不幸になるべきだろう? それが『愛』というものではないか」


「そうですわギルバート様! それに、よく考えてみてください。あのリゾートの土地、元々は誰のものでした?」


「え? そりゃあ、僕がステファニーにあげた……あ」


「そうです! ギルバート様があげたんです! ということは、ギルバート様のものじゃありませんか!」


ミナの論理は破綻していた。

譲渡契約書にサインした以上、所有権は完全に移転している。

だが、空腹と嫉妬で脳が縮んだ二人には、そんな常識は通用しなかった。


「そ、そうか! 言われてみればそうだ! あそこは王家の直轄地だった! それを一時的に貸してやっているだけだ!」


「しかも、あのお金は国庫から盗んだものです(※妄想です)。つまり、あのリゾートは建物も温泉も、全部ギルバート様のものなんです!」


「天才か、ミナ! その通りだ!」


ギルバートはガバッと立ち上がった。

彼の目に、久しぶりに野心の光が宿る。

いや、それは野心というより、強欲な泥棒の目だった。


「取り返すぞ! 僕の楽園を! あそこに行けば、温かいスープも、ふかふかのベッドも、何もかもが手に入るんだ!」


「ステファニーを追い出して、私が新しいオーナーになりますぅ! 『ミナ・ランド』にするんです!」


二人の利害は一致した。

ギルバートは即座に近衛騎士団長を呼びつけた。


「団長! 出撃だ! 全軍を率いて北へ向かうぞ!」


「は? 北、ですか?」


呼び出された騎士団長は、困惑した顔で王太子を見た。

彼の鎧は手入れが行き届かず錆びており、頬はこけている。

給料未払いが三ヶ月も続けば、忠誠心も錆びつくというものだ。


「殿下。北へ行くには遠征費がかかります。食料も馬草もありません。兵士たちは空腹で剣も振れませんが」


「心配するな! 現地調達だ!」


「現地……?」


「北の岩山には、山のような食料と金がある! そこを占領すれば、食べ放題だ! 兵士たちに伝えろ。『腹一杯飯を食わせてやる』と!」


その言葉を聞いた瞬間、騎士団長の目が獣のように輝いた。


「め、飯……! 肉ですか!? 酒もありますか!?」


「あるとも! 最高級のやつがな!」


「全軍、出撃準備ィィィ!!」


騎士団長が廊下へ飛び出し、叫んだ。

その声に応え、城内のあちこちから、ゾンビのようにふらふらとした兵士たちが這い出してきた。

彼らを突き動かすのは、愛国心でも王への忠誠でもない。

ただ、「飯が食いたい」という生物としての渇望のみ。


こうして、王国軍(という名の飢えた暴徒集団)約五百名は、雪降る王都を出発した。

目指すは北の楽園。

彼らは知らなかった。

その楽園には、鉄の女と恐ろしい番犬(隣国大公)がいることを。


***


一方、その頃。

北のリゾート、支配人室。


「お嬢様、面白い情報が入りました」


マリアがクスクスと笑いながら、一枚の報告書を持ってきた。

私は決算書の数字を確認しながら、顔を上げずに尋ねた。


「なぁに? また隣国の貴族が『予約が取れない』って泣きついてきたの?」


「いいえ。王都に潜ませている諜報員(元庭師)からです。『王太子率いる王国軍五百名、北へ向けて進軍中』とのことです」


「……あら」


私はペンを止めた。

そして、ゆっくりと顔を上げた。


「五百名? ずいぶんと少ないわね。正規軍はもっといたはずだけれど」


「他の兵士たちは『給料が出ないなら実家の畑を手伝う』と言って脱走したそうです。残っているのは、他に行き場のない無能……いえ、可哀想な方々だけのようです」


「動機は?」


「『リゾートを没収して飯を食う』だそうです」


「……強盗団ね、ただの」


私は呆れてため息をついた。

一国の王太子が、食い扶持を求めて元婚約者の経営する店を襲う。

歴史書に残せば、後世の笑い種になること間違いなしだ。


「どうしますか? 迎撃しますか?」


マリアが楽しそうに、棚から『対人用トラップ一覧表』を取り出した。


「そうね。お客様に迷惑がかからない範囲で処理しないと。……クラウス閣下には伝えた?」


「はい。先ほどお伝えしたら、『俺の軍を出してひねり潰してやる』と張り切って、今は剣を磨いていらっしゃいます」


「あの好戦的な大公様を止める方が大変そうね」


私は立ち上がり、窓の外を見た。

吹雪いている。

王都からここまでは、馬車で急いでも三日はかかる。

この雪の中、装備も食料も不十分な軍隊が行軍すればどうなるか。

計算するまでもない。


「到着する頃には、戦う気力なんて残っていないでしょうね。……マリア、厨房に指示を」


「毒を盛りますか?」


「違うわよ。炊き出しの準備をしておきなさい。メニューは『豚汁』と『おにぎり』。大量にね」


「えっ? 敵に塩を送るのですか?」


「いいえ。これは『餌付け』という高度な戦術よ」


私はニヤリと笑った。


「空腹の獣を手懐けるには、剣よりも肉が有効なの。彼らを無力化し、さらに労働力として取り込む。ちょうど、鉱山の採掘作業員が不足していたところだしね」


「……お嬢様。やはりあなたは悪役令嬢ですわ」


マリアが感心したように頷く。

私は窓ガラスに映る自分に向かって微笑んだ。


「褒め言葉として受け取っておくわ。……さて、ギルバート殿下。最後の授業の時間です。準備はよろしくて?」


***


それから三日後。


ギルバートたちは地獄を見ていた。

「さ、寒い……! なんだこの寒さは!」


王太子専用の豪華な馬車は、すでに燃料として燃やしてしまった。

今は徒歩で、腰まで積もった雪の中を進んでいる。

ミナは背負われていた兵士におんぶされているが、その兵士も今にも倒れそうだ。


「ギルバート様ぁ、まだ着かないんですかぁ? 私、もう凍っちゃいますぅ」


「も、もうすぐだ……。地図によれば、この丘を越えれば……」


ギルバートの睫毛には氷柱が下がっている。

後ろに続く兵士たちは、無言だ。

喋るエネルギーすら惜しいのだ。

バタッ、と一人倒れる。

誰も助け起こさない。

自分も倒れそうだからだ。


「あ、灯りだ……!」


先頭の騎士団長が叫んだ。

吹雪の向こうに、ぼんやりと温かな光が見えた。

それは天国の光に見えた。

近づくにつれ、その光景は鮮明になる。

巨大な建物。

立ち上る湯煙。

そして、風に乗って漂ってくる、信じられないほど食欲をそそる香り――味噌と出汁の香りだ。


「うおおおお! 飯だ! 飯の匂いだ!」


「突撃ぃぃぃ! 死にたくなければ走れェェ!!」


もはや軍隊としての統率は皆無だった。

彼らはただの飢えたゾンビ集団となって、リゾートの正門へと殺到した。


「開けろ! ここを占領する!」


ギルバートが震える声で叫んだ。

その目の前には、巨大な鉄の門が立ちはだかっている。

そして、門の上には、優雅に温かいココアを飲んでいるステファニーと、氷のような冷笑を浮かべたクラウス大公が見下ろしていた。


「ごきげんよう、殿下。ご予約のない団体様はお断りしておりますが?」


ステファニーの声が、拡声器(魔導具)を通して響き渡る。

その声は、ギルバートにとって、女神の慈悲か、あるいは死神の宣告か。
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