悪役令嬢は婚約破棄に笑顔で去った。

萩月

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「……よし。今月の経常利益、対前月比一五〇パーセント達成。完璧ですわ」


深夜の支配人執務室。

私は机に積み上げられた帳簿の最後のページに、万年筆で力強く署名をした。

窓の外では、雪が静かに降り積もっている。

リゾートは深夜営業のカジノを除いて静まり返り、祭りのあとのような心地よい静寂に包まれていた。


「ギルバート殿下たちの襲撃騒ぎ(という名のイベント)による経済効果が大きかったですね。豚汁の売上だけで、新しい浴場の建設費が賄えました」


私は一人、満足げに頷いた。

マリアも他のスタッフもすでに下がらせている。

この静かな時間に、数字と向き合い、成果を確認する。

これこそが経営者にとって至福の時だ。


「……お疲れ様、ステファニー」


不意に、部屋の空気が揺れた。

驚いて顔を上げると、いつの間にかソファにクラウス大公が座っていた。

彼は手にしたグラスを軽く掲げた。


「また忍び込んでいましたの? セキュリティシステムを強化したはずですが」


「お前の作ったシステムだ。開発者の癖(バックドア)を見抜くのはそう難しくない」


クラウスは悪びれもせず立ち上がり、私のデスクへと歩み寄ってきた。

その足取りはいつになく静かで、そしてどこか重々しい。


「それで? 今日は何の用です? 追加の出資なら、今のところ間に合っていますが」


「……仕事の話ではない」


クラウスは私の目の前まで来ると、私が持っていた万年筆をそっと取り上げ、ペントレイに置いた。

そして、机の上に広げられた決算書をパタンと閉じる。


「えっ?」


「決算は終わったのだろう? なら、次は『俺たちの決算』の時間だ」


「俺たちの……決算?」


私は首を傾げた。

彼との共同経営契約に、未払いの項目などあっただろうか。

配当金は先週振り込んだはずだし、お茶も規定通り淹れている。


「何の話でしょう。計算が合いませんが」


「……だから、計算の話ではないと言っている」


クラウスは深いため息をついた。

そして、私の椅子に手をかけ、くるりと回転させて自分の方へ向かせた。

至近距離。

氷のように整った彼の顔が、すぐ目の前にある。

その瞳は、いつもの冷静な青色ではなく、もっと深く、熱い色を帯びていた。


「ステファニー。……単刀直入に言う」


「は、はい」


「俺と結婚しろ」


「……はい?」


時が止まった。

私の脳内コンピュータが、フリーズした。

結婚?

誰と?

私が?

彼と?


「……あの、閣下。それは、新たな業務提携の提案でしょうか? 政略結婚による両国の同盟強化とか、関税撤廃のための法的措置とか……」


私は必死に脳を再起動させ、論理的な解釈を試みた。

だが、クラウスは私の言葉を遮った。


「違う。メリットやデメリットの話ではない。……俺が、お前を欲しいと言っているんだ」


彼は私の手を取り、自分の胸元に引き寄せた。

ドクン、ドクンと、彼の心臓の音が伝わってくる。

速い。

あの「氷の貴公子」が、緊張している?


「最初は、ただの面白い女だと思った。計算高くて、可愛げがなくて、でも誰よりも強くて美しい」


「褒め言葉の半分が悪口に聞こえますが」


「黙って聞け。……俺は、お前が作る未来を隣で見ていたいと思った。このリゾートだけじゃない。お前がこれから描く人生の設計図に、俺という要素(パートナー)を組み込んでほしい」


クラウスの手が、私の頬に触れた。

冷たい指先なのに、触れられた場所から火傷しそうなほどの熱が広がる。


「俺は、お前以外に心動かされることなどない。……ステファニー。お前はどうだ?」


「私……は……」


言葉に詰まった。

計算できない。

こんな事態、想定していなかった。

私はずっと、数字と効率だけを信じて生きてきた。

感情なんて不確定要素は、経営の邪魔になるだけだと。

でも。

今、私の胸の奥で暴れているこの心臓の音は、何だというの?


彼が花をくれた時。

私の仕事を認めてくれた時。

私がピンチの時に、必ず駆けつけてくれた時。


そのたびに感じていた「心地よいノイズ」の正体。

それを認めるのが、怖かったのかもしれない。


「……非効率ですわ」


私は震える声で言った。


「結婚なんてしたら、自由な時間が減ります。閣下の国の公務もしなきゃいけないし、夫婦喧嘩の仲裁コストも発生します。リゾート経営に支障が出るかもしれません」


「ああ。そうだろうな」


「それに、私は可愛げのない女です。甘い言葉も言えませんし、記念日だって忘れるかもしれません」


「知っている。俺が覚えていればいい」


「……本当に、私でいいのですか? ミナ様みたいに、可愛く猫なで声を出せませんよ?」


「あんな偽物は興味ない。俺が欲しいのは、計算高くて、強欲で、世界一優秀な『鉄の女』だ」


クラウスは私の腰を引き寄せ、耳元で囁いた。


「……それとも、計算高いお前のことだ。隣国の大公妃という地位は、リゾートの宣伝に使えると思わないか?」


「……っ」


卑怯だ。

そんな提案をされたら、断る理由がなくなってしまう。

私は観念して、小さく息を吐いた。


「……そうですね。計算してみましたが……閣下との結婚は、当リゾートにとって極めて有益な『永久契約』であると判断しました」


「……素直じゃないな」


「うるさいです。……でも」


私は顔を上げて、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「私の心拍数が、平常時より三〇パーセント上昇しています。……この『バグ』の原因が貴方にあるのなら、責任を取っていただかないと困ります」


「ああ。一生かけて責任を取ろう」


クラウスの顔が近づいてくる。

私は目を閉じた。

計算尺も、決算書も、今は関係ない。


唇が触れ合う瞬間。

それは、どんな数式よりも美しく、どんな契約書よりも確かな約束だった。


「……んっ……」


長い、長い口付け。

息ができなくなるほど甘くて、少し苦しい。

彼が離れた時、私はきっと、茹で上がったタコのように赤くなっていたに違いない。


「……契約成立だ」


クラウスが満足げに笑った。

その笑顔は、氷が溶けて春が来たかのように優しかった。


「……クーリングオフは不可ですよ?」


「させるか。お前はもう、俺のものだ」


その時。

バタン! と勢いよく扉が開いた。


「おめでとうございまーす!!」


「ヒューヒュー! やったぜお嬢様!」


「ついに落ちたか、氷の貴公子!」


「賭けは私の勝ちね!」


廊下から雪崩れ込んできたのは、マリアをはじめとする侍女たち、ドワーフ軍団、そしてなぜか国王陛下まで。

全員、クラッカーと祝酒を手に持っている。


「……お前たち、聞いていたのか?」


クラウスが額に青筋を浮かべる。


「当然です! この部屋の盗聴……いえ、音声モニターは常時オンですから!」


マリアがVサインをする。


「ステファニー嬢! おめでとう! これで両国は親戚じゃな! ワシも安心して隠居できるわい!」


国王陛下が一番嬉しそうだ。


「おいコラ、そこの皿洗い! お前も祝え!」


ドワーフに羽交い締めにされたギルバートが、複雑そうな顔で連れてこられた。


「……お、おめでとう、ステファニー。……うん、君には僕より彼の方がお似合いだよ。悔しいけど、完敗だ」


ギルバートは少し寂しそうに、でも晴れやかに笑った。


「ありがとうございます、皆さん。……でも」


私は机の上の時計を見た。


「今は深夜二時です。騒音規制法違反および就業規則違反により、全員減給処分とします」


「「「えええええ!?」」」


「嘘です。……今夜だけは、特別手当(飲み放題)を出しましょう」


「「「うおおおおお! 一生ついていきます!!」」」


歓声が爆発した。

クラウスが私の肩を抱き、耳元で囁く。


「……二人きりになるのは、もう少し後になりそうだな」


「効率が悪いですわね。……でも、悪くない気分です」


私は彼に寄りかかった。

窓の外の雪は止み、雲間からは美しい月が顔を覗かせていた。

私のリゾートに、新しい、そして最大の「幸せ」という資産が計上された夜だった。


「(さて、結婚式の準備も効率的に進めないと。……招待状リスト、一万人くらいになりそうね)」


私の頭の中は、すでに次のプロジェクトへと動き出していた。

もちろん、隣にいる最強のパートナーと共に。
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