愛想が尽きました。婚約破棄?喜んで。

萩月

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「……おかしい」

深夜の執務室。

魔導ランプの明かりだけが灯る静寂の中で、私はペンを走らせながら首をかしげた。

「思考プロセスの処理速度が、通常時より15%低下している。さらに、視覚センサーにノイズ(霞み)が発生中。室温は適正なはずなのに、体感温度が著しく低い……」

私はパチリと指を鳴らし、自分の頬を触った。

熱い。

「……なるほど。自己診断結果:『発熱』。原因:過労および季節の変わり目による免疫力低下。……対処法:カフェイン摂取による強制再起動」

私は冷めきったコーヒーに手を伸ばそうとした。

しかし。

「却下だ」

背後から伸びてきた大きな手が、私の手首をガシッと掴んだ。

「か、閣下?」

振り返ると、そこには腕組みをしたクラウス様が立っていた。

その表情は、先日の「ガットン撃退時」に匹敵するほど険しい。

「エマール。今、何時だと思っている?」

「えっと……時計の針の位置から計算して、深夜二時半ですね。明日の予算会議の資料作成まで、あと三時間は必要です」

「馬鹿者」

クラウス様が短く吐き捨て、私の額に自分の額を押し当てた。

「ひゃうっ!?」

「……やはりな。煮えたぎるような熱だ。これで仕事をしようなんて、自殺志願者か?」

「い、いえ。これは単なる『システムの一時的なオーバーヒート』です。冷却すれば稼働できます」

「黙れ。強制シャットダウンだ」

「え?」

次の瞬間、私の体はふわりと宙に浮いた。

またしても、お姫様抱っこだ。

しかし、今回は抵抗する気力も湧かないほど、急激に体が重くなるのを感じた。

「あ……れ……?」

視界がぐらりと回る。

クラウス様の胸の鼓動が、ドクン、ドクンと耳元で響く。

「……申し訳ありません。どうやら、バッテリー切れのようです……」

「寝てろ。馬鹿」

その優しい罵倒(ばとう)を聞きながら、私の意識はプツリと途絶えた。



「……ん」

重い瞼(まぶた)を開けると、見慣れない天井があった。

いや、見慣れないはずがない。ここは私の寝室だ。

枕元には、水盆とタオル。そして椅子に座り、腕組みをして眠っているクラウス様の姿があった。

「……閣下?」

私の小さな声に、彼は弾かれたように目を覚ました。

「エマール! 気がついたか?」

彼はすぐに私の顔を覗き込み、首筋に手を当てた。

「……熱は下がったか。よかった」

安堵のあまり、深く息を吐くクラウス様。

その目の下には、うっすらと隈(くま)ができている。

「今、何時ですか?」

「翌日の昼過ぎだ。君は丸一日、眠り続けていたんだぞ」

「い、一日!? 大変です! 今日の予算会議! それに建設現場への資材発注の締め切りが!」

私はガバッと起き上がろうとした。

しかし、頭がガンガンと痛み、力が入らない。

「うっ……」

「こら。動くなと言っているだろう」

クラウス様が私を優しく、しかし力強くベッドに押し戻した。

「会議なら延期した。発注はハンスにやらせた。君がいなくても、領地は一日くらい回る」

「ですが……ハンスの計算能力では、5%の誤差が生じるリスクが……」

「その誤差より、君が倒れることの『損失』の方が甚大だ」

クラウス様は真剣な眼差しで私を射抜いた。

「エマール。君は優秀な経理担当だが、自己管理(セルフマネジメント)においては落第点だ。自分の体という『資本』を粗末にする投資家がどこにいる?」

「うっ……正論です」

私はぐうの音も出なかった。

体調管理も仕事のうち。それを怠った私は、プロ失格だ。

「反省します。……減給処分で手を打っていただけますか?」

「罰則は別の形で与える」

クラウス様はサイドテーブルから、湯気の立つ器を取り出した。

「お粥だ。ロッシ料理長が『俺の命(ブイヨン)を懸けて作った滋養強壮スープ粥』だそうだ」

「ロッシさんが……。材料費が気になりますが、ありがたいです」

私は手を伸ばしてスプーンを持とうとした。

しかし、クラウス様はその手を避けた。

「……?」

「手が震えているじゃないか。私が食べさせてやる」

「は?」

私は耳を疑った。

「い、いえ! 結構です! 自分で食べられます! 介護される年齢ではありません!」

「これは命令だ。……ほら、あーん」

「あ、あーん!?」

天下の「氷の閣下」が、ふうふうとスプーンを冷まし、私の口元に突き出している。

この光景、誰かに見られたら、私の「冷徹な悪役令嬢」としてのブランディングが崩壊する。

「ほら、冷めるぞ。早く口を開けろ」

「……ううっ」

逆らえない。

私は観念して、小さく口を開けた。

パクッ。

「……!」

美味しい。

野菜の甘みと、鶏の旨味が凝縮された優しい味。

胃の中に、温かいものが染み渡っていく。

「どうだ?」

「……悔しいですが、絶品です。原価率を無視した愛情を感じます」

「そうか。なら、もっと食え」

クラウス様は満足げに笑い、次々と私にスプーンを運んでくる。

「あーん」
「もぐもぐ……」
「あーん」
「……(これ、恥ずかしいけど、悪くないかも)」

私は熱のせいにして、その甘やかしを受け入れた。



食事が終わり、薬を飲むと、再び眠気が襲ってきた。

しかし、私は不安だった。

こうして寝ている間にも、時間は過ぎていく。

私が処理すべき仕事が山積みになっていく。

「……閣下」

「なんだ? まだ食べ足りないか?」

「いいえ。……私、休んでいる場合じゃないんです」

私はシーツをギュッと握りしめた。

「レイド殿下の時もそうでした。私が少しでも目を離すと、すぐに赤字が出る。無駄遣いされる。私が常に監視して、計算して、コントロールしないと……私の居場所がなくなってしまう」

私の声が震えた。

「私は、可愛げのない女です。愛想も言えないし、甘えるのも下手です。私にある価値(バリュー)は、『役に立つこと』だけ。……もし、役に立たなくなったら、また捨てられるんじゃないかって……」

それが、私の本音だった。

仕事中毒(ワーカーホリック)の原因は、強迫観念だ。

数字を出さなければ、愛されない。

結果を出さなければ、必要とされない。

その恐怖が、私を突き動かしていた。

「……エマール」

クラウス様が、私の手を両手で包み込んだ。

「計算違いも甚だしいな」

「え?」

「君は、私をレイドと同列に扱っているのか? だとしたら心外だ」

クラウス様は、少し怒ったように、でもひどく優しい声で言った。

「私は、君が『便利だから』そばに置いているわけじゃない。君が『エマールだから』愛しているんだ」

「……概念的で、証明不可能です」

「証明してやる。……たとえ君が、計算ができなくなっても。仕事ができなくなっても。ただ寝ているだけの『穀潰(ごくつぶ)し』になったとしても、私は君を養う自信がある」

「穀潰し……」

「ああ。私の領地は豊かだ。愛する女ひとり、一生遊んで暮らせるだけの資産はある。……だから、安心してサボれ」

クラウス様は私の額に、長く、優しいキスを落とした。

「君は『流動資産』じゃない。私にとっての、かけがえのない『固定資産』だ。減価償却なんてさせない。価値は永遠に変わらない」

「……っ」

その言葉は、どんな解熱剤よりも効いた。

胸の奥にあった冷たい塊が、じんわりと溶けていく。

「……固定資産、ですか」

「そうだ。だから、メンテナンス(休息)も重要な仕事だ。……分かったか?」

「……はい。了解しました」

私は涙がこぼれないように、目を閉じた。

「では、メンテナンスに入ります。……そばにいてくださいますか?」

「ああ。君が目覚めるまで、ずっとここにいる」

クラウス様の手の温もりを感じながら、私は深い眠りへと落ちていった。

もう、数字の悪夢を見ることはなかった。

夢の中で私は、ただの花畑で、クラウス様と笑っているだけの、普通の女の子だった。



翌日。

私は驚異的な回復力(V字回復)を見せ、完全復活した。

「おはようございます! さあ、仕事です! 遅れを取り戻しますよ!」

執務室に現れた私は、昨日までの殊勝な態度が嘘のように、バリバリと指示を飛ばし始めた。

「ハンス! 昨日の発注書、ミスがあります! 桁が一つ違いますよ!」
「ロッテ! 窓の拭き残しがあります! やり直し!」

「ひぃぃっ! エマール様が帰ってきたぁぁ!」

使用人たちが嬉しい悲鳴を上げる。

その様子を、クラウス様がコーヒーを飲みながら眺めていた。

「……やれやれ。昨日の可愛らしい『か弱きエマール』は、幻だったか」

「あら、閣下。私は常にアップデートされていますから」

私はニカッと笑い、電卓を叩いた。

「でも、昨日のスープのお礼は、いつか『利益』でお返ししますね」

「期待しているよ」

私たちの絆は、この一件でより強固なものとなった。

「雨降って地固まる」ならぬ、「熱出して愛深まる」。

そんな計算外のイベントも、たまには悪くない。

そう思っていた矢先。

私の机の上に、一通の黒い封筒が置かれていることに気づいた。

「……これは?」

差出人の名はない。

だが、封蝋(ふうろう)に押された紋章を見て、私の動きが止まった。

それは、私の実家――ローゼンバーグ侯爵家の紋章だったからだ。

「……閣下」

「どうした? 顔色が悪いぞ。ぶり返したか?」

「いいえ。……どうやら、過去の『負債』が、清算を求めてやってきたようです」

私は震える手で封筒を開けた。

そこには、父である侯爵からの、冷酷な命令が記されていた。

『クラウス辺境伯との婚約を破棄し、王都へ戻れ。お前の新しい売却先(婚約者)が決まった』
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