愛想が尽きました。婚約破棄?喜んで。

萩月

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王城の財務執務室。

そこはかつて、私が毎日のように通い、レイド殿下の尻拭い(赤字補填)のために電卓を叩き続けていた古戦場だ。

だが、今日。

その扉を開けた瞬間、私の目に飛び込んできたのは、地獄絵図だった。

「わからーん! なんで計算が合わないんだ! 1たす1は2じゃないのか!?」

「きゃあ! インクがドレスに! これ落ちないのよぉ! 誰か新しいの買ってきてぇ!」

「殿下! シルフィ様! 書類を折り紙にしないでください! それは他国との条約原本ですぞぉぉ!」

書類の山に埋もれ、髪を振り乱しているレイド殿下とシルフィ。

そして、その横で白目を剥いて泡を吹いている財務大臣。

「……酷い有様ですね。効率(パフォーマンス)が著しく低下しています」

私が冷静に呟くと、その声に全員が弾かれたように振り返った。

「「「エ、エマール!?」」」

「ごきげんよう。監査(チェック)に参りました」

私はニッコリと微笑み、カツカツとヒールを鳴らして部屋に入った。

その背後には、不機嫌オーラを全開にしたクラウス様が続く。

「ひぃっ! こ、氷の閣下まで!?」

レイド殿下が椅子から転げ落ちる。

「ど、どうしてここに……! まさか、僕を連れ戻しに来てくれたのか!? やっぱりエマール、君には僕が必要なんだろ!?」

レイド殿下が希望に縋(すが)るような目で這い寄ってくる。

私はその手を、持っていたバインダーでペシッと払った。

「勘違いなさらないでください。今日は『債権回収』の進捗確認です。……大臣、現状報告を」

「は、はいぃっ!」

財務大臣が、救世主を見る目で私に駆け寄ってきた。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃだ。

「エマール様ぁ! 聞いてください! もう限界です! このお二人が戻ってきてからというもの、仕事は進まないどころか、備品の破損、計算ミスによる発注事故、さらにはストレスによる職員の大量離職で、財務省は崩壊寸前です!」

「……ふむ」

私は大臣から帳簿を受け取り、パラパラとめくった。

「酷いですね。借金の返済どころか、新たな『使途不明金』が増えています。……レイド殿下?」

私は眼鏡(心の目)を光らせて殿下を見た。

「この『臨時交際費』金貨五十枚とは何ですか?」

「あ、あれは……その、仕事をするためのモチベーションアップとして、シルフィとケーキバイキングを……」

「却下。経費として認められません。私的流用として元本に加算します」

「そ、そんなぁ!」

「さらに、こちらの『医療費』金貨二十枚。……シルフィ様が『爪が割れた』と言って王室医を呼びつけた件ですね?」

「だ、だって痛かったんだもん!」

シルフィが口を尖らせる。

「爪切りで処置可能です。過剰医療として全額請求します」

私が次々と赤ペンで修正を入れていくと、レイド殿下とシルフィは青ざめて縮こまった。

「お、鬼だ……。あいつ、前よりも厳しくなってないか?」
「悪魔よ……。私の爪の輝き(ネイル)はお金に変えられないのにぃ……」

その時だった。

「……騒がしいな」

威厳ある、しかし疲れ切った声が入り口から聞こえた。

「ち、父上……!」

レイド殿下が叫ぶ。

現れたのは、この国の国王陛下だった。

かつては覇気に満ちていたその顔には、深い皺が刻まれ、王冠が少し重そうに見える。

「へ、陛下! ご臨席の予定はございませんが!」

大臣が慌てる中、国王は重い足取りで部屋に入り、私とクラウス様の前で足を止めた。

「……久しぶりだな、クラウス。それに、エマール嬢も」

「ご無沙汰しております、兄上」

クラウス様が短く頭を下げる。

そう、クラウス様は現国王の実弟。つまり、王族の一員なのだ。

「突然の訪問、失礼いたします陛下。本日は、愚かな債務者への督促に参りました」

私がカーテシー(礼)をすると、国王は深い溜息をついた。

「……知っている。レイドが作った莫大な借金、そして侯爵家との一件。すべて報告を受けている」

国王は、部屋の隅で震えているレイド殿下とシルフィを一瞥(いちべつ)した。

その目は、呆れを通り越して、無に近い。

「レイド。お前には失望した」

「ち、父上! 違うんです! これは全部エマールが……!」

「黙れ」

国王の一喝に、レイド殿下が凍りつく。

「エマール嬢がいなくなってから、王城の経費が三倍に膨れ上がった。調べてみれば、今までお前が散財していた分を、彼女が私財を投じて埋め合わせていたそうではないか」

「そ、それは……」

「情けない! 女に金を貢がせ、あまつさえ婚約破棄を突きつけるとは! 王族の風上にも置けん!」

国王の怒号が響く。

レイド殿下は「ひぃっ」と悲鳴を上げ、シルフィの後ろに隠れた。(逆だろう、普通)

国王は再び私に向き直り、苦渋の表情を浮かべた。

「エマール嬢。……我が愚息がすまなかった。王家を代表して詫びよう」

「頭をお上げください、陛下。謝罪で腹は膨れませんし、借金も減りません」

「……そうだな。君はそういう性格だったな」

国王はクラウス様を見た。

「クラウス。……相談がある」

「断る」

クラウス様が即答した。

「まだ何も言っていないぞ」

「どうせ、『レイドの借金を王家が肩代わりするから、金利をまけてくれ』とか、『エマールを再び王城で雇いたい』とか、そんな話だろう?」

図星だったようで、国王が言葉に詰まる。

「……国庫が苦しいのだ。レイドの浪費に加え、近年の凶作で……。エマール嬢の手腕があれば、立て直せるのだが」

国王は縋るように私を見た。

「エマール嬢。どうだ? レイドとは結婚しなくていい。財務大臣……いや、『王室総財務官』として、好待遇で迎えよう。給与は弾むぞ?」

破格のオファーだ。

権力、地位、そして金。

普通の人間なら飛びつくだろう。

しかし、私は電卓を叩く手すら止めなかった。

「条件を確認します。勤務地は?」

「王城だ」

「労働時間は?」

「……国が危機だ。多少の残業はあるかもしれんが……」

「却下です」

私はバサリと切り捨てた。

「なぜだ!? 報酬は今の倍……いや、三倍出すぞ!」

「お金の問題ではありません」

私は隣に立つクラウス様を見上げた。

「私の現在の職場(辺境伯領)は、ホワイト企業です。上司(クラウス様)は理解があり、労働環境は快適、福利厚生(愛)も充実しています。何より……」

私はニッコリと笑った。

「私が守りたいのは、『王国の金庫』ではなく、『クラウス様の財布』だけですので」

「ぐっ……!」

国王が呻く。

クラウス様が、勝ち誇ったように私の肩を抱いた。

「聞いたか、兄上。彼女は私のものだ。王家の権力だろうが、金だろうが、彼女を引き抜くことはできない」

クラウス様の瞳が、鋭く光る。

「それに、勘違いするな。レイドの借金は、単なる金銭の問題ではない。私の大事な婚約者を傷つけ、泥を塗ったことへの『慰謝料』が含まれているんだ」

「……慰謝料、か」

「ああ。私のエマールを泣かせた(実際には泣いていないが)代償は高いぞ? 金貨数千枚でも安いくらいだ」

クラウス様の愛(と殺気)の重さに、国王はたじたじと後ずさる。

「……分かった。諦めよう」

国王はガックリと肩を落とした。

そして、再びレイド殿下の方を向き、冷酷に告げた。

「レイド。聞いたな? 誰もお前を助けない。借金は、お前自身が働いて返せ」

「そ、そんなぁ! 働くって、何をすれば……!」

「王城のトイレ掃除、庭の草むしり、馬小屋の清掃。……人手が足りない場所はいくらでもある。給金はすべて返済に充てる。完済するまで、王子の身分は凍結だ」

「ト、トイレ掃除ぃぃぃ!?」

レイド殿下が絶叫する。

「嫌よぉぉ! 私もやるのぉ!?」

シルフィが叫ぶと、私が冷静に補足した。

「連帯保証人ですので、当然です。シルフィ様には、厨房での皿洗い(一日千枚ノルマ)をお勧めします。手荒れ防止クリームは自費でどうぞ」

「うわぁぁぁん! お母様ぁぁ!」

阿鼻叫喚の地獄絵図。

それを見届け、私は満足げに頷いた。

「では、陛下。今後の返済計画書(リスケジュール案)を置いておきます。もし滞納があれば、次は『王冠』を差し押さえますので、ご注意を」

「……肝に銘じておこう」

国王は疲れた顔で、私の渡した分厚いファイルを受け取った。



王城からの帰り道。

私たちは、王都の街並みを歩いていた。

「……ふう。少し言いすぎたか?」

クラウス様が苦笑する。

「兄上も苦労しているんだな。少し老けていた」

「自業自得な面もありますが、経営者(国王)としての責任感はある方です。レイド殿下が突然変異(エラー)だったのでしょう」

「違いあるまい」

クラウス様は私の手を握り直した。

「だが、痛快だったよ。君が『王国の金庫より、私の財布を守りたい』と言ってくれた時は」

「……事実ですから」

「最高の殺し文句だ。……帰ったら、私の財布の中身を全部君に預けようか?」

「結構です。管理手数料を取りますよ?」

「構わない」

二人は笑い合った。

過去の因縁も、王家のしがらみも、すべて精算した。

あとは、辺境へ戻り、幸せな生活を送るだけ……。

と、思っていたのだが。

「……ん?」

ふと、私の視界に、路地裏の影が入った。

そこにいたのは、見覚えのあるピンク色の髪の少女――シルフィだった。

彼女は、ボロボロのエプロンをつけ、裏口からゴミ出しをしている最中のようだが、その目は死んでいなかった。

むしろ、ギラギラと怪しく光っている。

そして、彼女の隣には、黒いローブを纏った怪しげな男が立っていた。

「(……あれは?)」

私が目を凝らすと、男がシルフィに何かを手渡しているのが見えた。

小さな、紫色の小瓶。

シルフィはそれを大事そうに懐にしまい、ニヤリと笑った。

その笑顔が、あまりにも不気味で、私の背筋に冷たいものが走った。

「エマール? どうした?」

「……いえ。なんでもありません」

私はクラウス様に心配をかけまいと、視線を逸らした。

ただの見間違いかもしれない。

あるいは、手荒れの薬か何かだろう。

そう自分に言い聞かせたが、私の脳内の危険予知アラート(直感)は、微かに、しかし確実に警告音を鳴らし始めていた。

『リスク要因:未排除。警戒レベルを引き上げてください』

レイド殿下は無能だが、あのシルフィという女。

ただの「お馬鹿なヒロイン」ではないのかもしれない。

「……帰りましょう、閣下。今日は少し、風が冷たいです」

「ああ。温かいシチューでも作らせよう」

私たちは馬車に乗り込んだ。

動き出した馬車の窓から、もう一度だけ路地裏を見たが、そこにはもう誰もいなかった。

ただ、冷たい風だけが吹き抜けていた。
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