愛想が尽きました。婚約破棄?喜んで。

萩月

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王都での騒動(という名の債権回収ツアー)を終え、私たちがヴァイサリウス辺境伯領に戻ってから数日が過ぎた。

平和だ。

レイド殿下やシルフィからの「金くれ」という手紙もない。
父(元侯爵)からの「嫁に行け」という圧力もない。
あるのは、山積みの書類と、それを片付ける心地よいペンの音だけ。

「……ふう。今月の鉱山収入、前年比120%達成ですね。物流コストの削減が効いています」

私は執務室で、決算書を見ながら満足げに頷いた。

「エマール」

ふと、デスクの向かいで仕事をしていたクラウス様がペンを置いた。

「はい、閣下。何でしょうか? 予算の追加申請ですか?」

「いや。……仕事は一段落したか?」

「ええ、まあ。大枠の処理は完了しました」

「なら、ついてきてくれ。君に見せたいものがある」

クラウス様が立ち上がる。
その表情は、いつになく真剣で、少しだけ緊張しているようにも見えた。

(……はて? 見せたいもの?)

私は首をかしげながら、彼に従って部屋を出た。



クラウス様が私を案内したのは、屋敷の地下深くへと続く階段だった。

ひんやりとした冷気が漂い、石造りの壁が松明の炎に照らされている。

「閣下、ここは? ワインセラーですか?」

「いや。もっと重要な場所だ」

螺旋階段を降りきると、そこには巨大な鉄製の扉が鎮座していた。

厚さ三十センチはあろうかという重厚な扉には、複雑な魔術式と、幾重もの物理鍵がかけられている。

「……ほう」

私は眼鏡(心の目)を光らせた。

「最新式の魔導セキュリティロックですね。解除コードは64桁の可変式、さらに指紋認証と虹彩認証の複合型。……突破するには、王国の魔導師団が総がかりで三日はかかります。素晴らしい防犯対策(リスクマネジメント)です」

「ふっ、さすが詳しいな。……ここは、ヴァイサリウス家の『心臓部』だ」

クラウス様が扉の前のパネルに手をかざす。
ブゥン……と低い音が鳴り、重い扉がゆっくりと開き始めた。

中から溢れ出したのは、目が眩むような黄金の輝きだった。

「……っ!!」

私は思わず息を呑んだ。

そこは、広大な石造りの部屋だった。
そして、床から天井まで、整然と積み上げられていたのは――

金塊。
銀貨の入った麻袋。
色とりどりの宝石が詰まった宝箱。
そして、領内の土地権利書や証券の束。

「す、すごい……!」

私の目が、かつてないほど輝いた(円マークになった)。

「ざっと見積もって、流動資産だけで金貨五十万枚……いえ、宝石の市場価格変動を含めれば八十万枚以上……! さらに不動産価値を加算すれば、国家予算の三年分に匹敵します!」

私はふらふらと金塊の山に近づき、愛おしそうに撫でた。

「ああ、なんて美しい輝き……。埃ひとつない管理状態も完璧です。これだけの資産があれば、どんな事業投資も思いのまま……」

「エマール」

背後から、クラウス様の声がした。

「は、はい! 申し訳ありません、取り乱しました。つい、資産価値の試算(シミュレーション)を……」

振り返ると、クラウス様は私を見て、優しく微笑んでいた。
その手には、小さなベルベットの箱が握られている。

「この部屋にあるものは、すべてヴァイサリウス家が代々守ってきた財産だ。……だが」

クラウス様が一歩、私に近づく。

「これらはただの『物』だ。使う人間がいなければ、ただの金属の塊に過ぎない」

「……経済学的には、退蔵貨幣(デッドストック)ですね」

「そうだ。……私は武人だ。領地を守ることはできても、この資産を正しく使い、育て、未来へ繋ぐ術(すべ)を持たない。……君が現れるまでは」

クラウス様は、私の目の前で、ゆっくりと片膝をついた。

黄金の山を背景に、銀髪の美貌の伯爵が跪く。
その構図は、あまりにも絵になりすぎていて、私の心臓がドクリと跳ねた。

「か、閣下……?」

「エマール・フォン・ローゼンバーグ」

彼は私の手を取り、ベルベットの箱を開けた。
そこに入っていたのは、巨大なダイヤモンド……ではなく、透き通るような青い宝石の指輪だった。

「これは『アイス・サファイア』。我が領の鉱山の最深部で、百年に一度だけ採掘される希少石だ」

「ひゃ、百年に一度……!? 推定価格、金貨五千枚……!」

「値段をつけるな」

クラウス様は苦笑し、その指輪を私の左手の薬指に滑り込ませた。
サイズは、驚くほどぴったりだった。

「エマール。……私と結婚してくれ」

ストレートな言葉。
飾らない、真摯な響き。

「この部屋にある全財産と、広大な領地、そして……私の残りの人生すべて。君に『管理』してほしい」

「……!」

「私の財布の紐を握れるのは、世界で君だけだ。……君のその賢い頭脳と、冷徹な計算と、そして不器用な優しさで、私を一生、支配してくれ」

それは、世界で一番、私らしいプロポーズだった。

「愛している」とか「守ってやる」という甘い言葉よりも、「管理してくれ」「支配してくれ」という言葉の方が、私の魂を揺さぶることを、彼は完全に理解している。

私の視界が、じわりと滲(にじ)んだ。
涙?
まさか。私は数字の鬼だ。感情で視界不良になるなんて、あり得ない。

「……閣下」

私は震える声で答えた。

「その提案……計算、できません」

「計算できない?」

「はい。貴方様という『資産』の価値は、変動係数が大きすぎて、どんな数式を使っても算出不能(エラー)です。……それに」

私は涙を拭い、精一杯の笑顔を作った。

「私一人を雇うコスト(生活費)に対して、得られるリターン(全財産の管理権+貴方の愛)が莫大すぎます。……投資対効果(ROI)が、無限大(インフィニティ)です」

「……ふっ、ははは!」

クラウス様が吹き出した。

「無限大か。それはいい。……では、契約成立(ディール)でいいか?」

「もちろんです。……ただし」

私は涙目のまま、指を一本立てた。

「契約期間は『永久』。途中解約は不可。違約金は『貴方の心臓』です。……よろしいですか?」

「ああ。喜んで差し出そう」

クラウス様は立ち上がり、私を力強く抱きしめた。

冷たい地下金庫の中で、私たちの体温だけが熱く燃え上がっていた。

「……愛している、エマール」

「……私もです、クラウス様。……貴方の資産も、貴方自身も、全部大好きです」

「資産が先か」

「当然です」

私たちは笑い合い、そして長く、深い口づけを交わした。
周囲の黄金の輝きも霞むほど、幸せな瞬間だった。



「さて、エマール。プロポーズも成功したことだし、地上に戻ろうか」

ひとしきり抱き合った後、クラウス様が言った。
私は名残惜しそうに金塊の山を見た。

「あの、閣下。ついでに棚卸しをしていきませんか? ここの宝石の数、台帳と合っているか確認したいのですが」

「……ムードのないやつだな」

クラウス様は呆れたように私の頬をつねった。

「今日はダメだ。今日は『婚約成立記念日』として、二人で祝杯を挙げる。仕事は禁止だ」

「むぅ。……非効率ですが、分かりました。社長(夫)命令に従います」

私たちは手を繋ぎ、地下金庫を後にした。

階段を上がりながら、私は左手の指輪を見つめた。
薄暗い灯りの中でも、アイス・サファイアは凛と輝いている。

(……きれい)

原価計算も、市場価値も関係ない。
ただ、彼が私のためだけに選んでくれた、世界に一つだけの指輪。

私の胸の奥にある「幸福度メーター」は、測定限界を突破して振り切れていた。



翌日。

執務室にて。

「さて、エマール。結婚式の準備を始めようか」

クラウス様が、分厚いカタログをドサリと机に置いた。

「結婚式、ですか」

「ああ。来月挙行する。招待状はすでに手配中だ。……式場だが、領内の大聖堂を貸し切るつもりだ。装花は王都から最高級のバラを五万本取り寄せ、料理はフルコース二十皿、引き出物は純銀の食器セット……」

クラウス様が楽しそうにプランを語り始めた。

しかし。

私の眉間の皺は、話が進むにつれて深くなっていった。
私の脳内電卓が、警告音(アラート)を鳴らし始めたのだ。

『警告:予算超過のおそれあり。無駄遣い検知。直ちに介入せよ』

「……閣下」

「ん? なんだ? ドレスは三着じゃ足りないか? 五着にするか?」

「ストップです」

私は両手でバツ印を作った。

「バラ五万本? 正気ですか? 大聖堂の収容人数からして、花粉で窒息します。造花とリボンで十分華やかになりますし、コストは十分の一です」

「え?」

「料理、二十皿? フードロス(廃棄)の山を築くつもりですか? 人間の胃袋の容量を計算してください。メイン二皿とデザートで十分です」

「いや、でも一生に一度の……」

「一生に一度だからこそ、将来のための貯蓄に回すべきです! そのバラ代で、領内の孤児院の屋根が修理できます!」

私はカタログを取り上げ、赤ペンでバシバシと修正を入れ始めた。

「式場装飾、40%カット。衣装代、お色直しは一回まで。引き出物は実用的な『特産品のカタログギフト』に変更。……これで総額、六割削減できます」

「……」

クラウス様がポカンとしている。

「エ、エマール? 少しは夢を見てもいいんじゃないか? 花嫁だろう?」

「私の夢は、老後まで安定した黒字家計を維持することです」

私はキッパリと言い放った。

「結婚式はゴールではありません。スタートラインです。最初から全力疾走(散財)してどうするんですか。ペース配分が重要です」

「……ははは」

クラウス様が、乾いた笑いを漏らした。

「参ったな。……プロポーズの翌日から、これか」

「後悔しましたか?」

「まさか」

クラウス様は、愛おしそうに私を見つめた。

「それでこそ、私が選んだ『最強の経理担当(つま)』だ。……よし、予算戦争の勃発だな。受けて立とう」

「望むところです。1ルピたりとも無駄にはさせませんよ?」

こうして、私たちの結婚式準備は、甘いロマンスではなく、血で血を洗う(インクで紙を染める)「コスト削減バトル」として幕を開けたのだった。
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