愛想が尽きました。婚約破棄?喜んで。

萩月

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王都への出張から戻った夜。

ヴァイサリウス辺境伯邸のテラスで、私は月明かりの下、一枚の長い長い羊皮紙を広げていた。

「……ふふ。素晴らしいわ」

「何をニヤニヤしているんだ、エマール。酒が不味くなるぞ」

向かいの席で、最高級のワイン(王都の貴族から『口止め料』としてせしめたもの)を傾けているクラウス様が、呆れたように笑う。

「失礼な。これは『ニヤニヤ』ではなく『高収益に対する純粋な喜び』です」

私は羊皮紙を指先で弾いた。

「今回の王都出張の決算が出ました。国王陛下からふんだく……いえ、頂いたコンサルティング料、高速道路の建設予算、そしてレオンがちゃっかり交渉して勝ち取った『王立図書館の永久無料パス』。……すべて換算すると、当家の資産は前年比150%増です」

「150%か。……怪物だな、君たちは」

クラウス様は肩をすくめた。

「レオンの交渉術には、私も舌を巻いたよ。大臣相手に『未来への投資を惜しむ国に、未来はありません』と論破するとはな」

「誰に似たのかしらね」

「間違いなく君だ」

私たちは顔を見合わせて笑った。

夜風が心地よい。
庭の虫の声と、遠くに見える街の灯り。
平和だ。
数字が合う(帳尻が合う)瞬間と同じくらい、この静寂は心地よい。

「……なあ、エマール」

不意に、クラウス様が真面目な顔つきになった。

「ん? どうしました? まだ隠し財産でもありましたか?」

「いや。……ふと、思ったんだ」

クラウス様はグラスを置き、手すりに寄りかかって夜空を見上げた。

「君と出会って、結婚して、もう数年が経つ。……君にとって、この結婚は『正解』だったのか?」

「……はい?」

私はきょとんとした。

「何を今更。契約書にサインしましたよね?」

「そうじゃない。……君は優秀だ。王都で財務大臣になる道もあったし、大商会のトップになる才覚もある。……こんな田舎の辺境で、私のような武骨な男の妻に収まっていて……本当に『満足』しているのか?」

クラウス様の声には、ほんのわずかな不安が滲んでいた。

彼はずっと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
私が「損得」で動く人間だからこそ、いつか「もっと条件の良い場所」を見つけたら、ふらりと去ってしまうのではないか、と。

(……馬鹿な人)

私は手元の電卓を置き、席を立った。
そして、彼の隣に並び、同じ夜空を見上げた。

「閣下。……いえ、クラウス様」

「ああ」

「少し、最終的な『決算報告』をさせていただいても?」

「決算報告?」

「はい。この結婚生活における、私の『投資』と『リターン』の総括です」

私は指を折りながら話し始めた。

「まず、私が貴方に投資したもの(コスト)。……『若さ』、『労働時間』、『レイド殿下の尻拭いで疲弊した精神の回復期間』。……これらは決して安くはありません」

「……そうだな」

「次に、得られたリターン(収益)。……『辺境伯夫人の地位』、『広大な領地の管理権』、『貴方の資産』。……これらは莫大です」

「……うん」

「ですが、これだけなら、王都の大富豪と結婚しても得られたかもしれません」

クラウス様が少し身構える。

私はニッコリと笑い、彼の手を握った。

「重要なのは、ここからです。……『目に見えない資産(無形固定資産)』の計上です」

「無形固定資産?」

「はい。……例えば、私が夜遅くまで仕事をしていても、黙ってコーヒーを入れてくれる優しさ。……私が風邪を引いた時、不器用にお粥を作ってくれる温かさ。……私がどんなに可愛げのないことを言っても、『君らしい』と笑って許してくれる寛容さ」

私は彼の指に絡めた自分の指を見つめた。

「そして、レオンという最高の宝物。……彼が笑うたびに得られる幸福感は、どんな宝石よりも価値が高いです」

「エマール……」

「さらに言えば、」

私は彼の胸に手を当てた。

「貴方が私に向けてくれる、この『鼓動』の音。……これを聞くだけで、私の心拍数は安定し、ストレス値はゼロになり、明日への活力が100%チャージされます」

私は顔を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「これらの『無形資産』を、現在の市場価値で換算しようと試みましたが……」

私はポケットから電卓を取り出し、彼に見せた。

液晶画面には、『E(エラー)』の文字が表示されている。

「……桁が足りませんでした」

「エラー……?」

「はい。測定不能(オーバーフロー)です。……つまり」

私は満面の笑みで告げた。

「貴方との結婚は、私の人生において『無限大(インフィニティ)』の利益を生み出しています。……これほど効率的で、高配当で、幸せな投資案件は、世界中どこを探してもありません」

「……」

クラウス様は目を見開き、そして……顔を覆って天を仰いだ。

「……くっ、はははは!」

「何がおかしいのですか? 真面目な報告です」

「いや……参った。完敗だ」

クラウス様は私を力強く抱き寄せた。

「愛の告白を『投資案件』に例える女は、過去にも未来にも君だけだろうな」

「分かりやすくて良いでしょう?」

「ああ。最高に分かりやすい」

クラウス様は、私の額、瞼、鼻先、そして唇に、雨のようなキスを降らせた。

「ありがとう、エマール。……私も、君という株を一生手放さない。どんなに暴落しても、私が買い支える」

「暴落なんてさせませんよ。常に最高値を更新し続けますから」

「頼もしいな」

私たちは月明かりの下、強く抱き合った。

遠くから、夜警の鐘の音が聞こえる。
屋敷の中からは、寝言で「……おやつ予算の増額を……」と呟くレオンの声が微かに聞こえた気がした。

私の人生。
かつては、赤字だらけの孤独な帳簿だった。
人に利用され、数字だけを信じて生きてきた。

けれど今は。

「……ねえ、あなた」

「ん?」

「明日からは、何の計算をしましょうか?」

「そうだな。……『老後の旅行計画』の積立でも始めるか?」

「気が早いですね。でも、悪くありません。複利効果を狙うなら、早めのスタートが肝心です」

「ふっ、じゃあ明日の朝一で会議だ」

「はい。……あ、その前に」

私は彼の耳元で囁いた。

「今夜は、『愛の配当金』をたっぷりと受け取りたいのですが?」

クラウス様は一瞬驚き、そして妖艶に笑った。

「強欲だな、奥様」

「私は『悪役令嬢』ですから。欲しいものは骨の髄までしゃぶり尽くします」

「望むところだ」

クラウス様が私をお姫様抱っこする。

夜空に輝く月が、まるで金貨のように見えた。

私の物語は、これにて一旦の決算(シメ)となる。
もちろん、この先の人生も、予期せぬトラブルや赤字の危機はあるだろう。

けれど、心配はいらない。

私の隣には最強のパートナーがいて、私の手には電卓がある。
どんな未来が来ても、必ず「黒字」に書き換えてみせる。

なぜなら――

「愛は、プライスレス(計算不能)」だなんて甘い言葉は言わない。

私にとっての愛とは、「計算し尽くした結果、それでもやっぱり『貴方が一番得(幸せ)』」という、最強の結論なのだから。
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