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「……寒い。寒すぎる。リリア、本当にここは人間が住む場所なのかい?」
王都を出発して数週間。セドリック皇太子は、幾重にも重ねた毛皮の外套に身を包み、ガタガタと歯を鳴らしていました。
馬車の外は、視界を遮るほどの猛吹雪。王都の温室育ちである彼にとって、この北の地は地獄の入り口にしか見えません。
しかし、向かい側に座るリリア様の様子は、明らかにおかしなことになっていました。
「……四百九十八、四百九十九……五百! よし、次は腹筋ですわ!」
「リリア、君……。さっきから馬車の床で何を。狭いし揺れるから危ないと言っているだろう?」
「何を仰いますか、セドリック様! この激しい揺れこそ、体幹を鍛える天然の振動マシンですわ! ああ、腹斜筋が喜んでいる……。メリー様に見ていただくまで、一秒たりとも無駄にはできませんの!」
リリア様は額にうっすらと汗をかき、瞳をらんらんと輝かせていました。その腕には、王都を出る時よりも明らかに逞しい(自称)筋肉のラインが浮かび上がっています。
「……狂っている。王都のみんなも、リリアも。メリーがいなくなってから、この国の歯車が筋肉の方向に狂い始めている……!」
セドリック殿下は頭を抱えました。
やがて、馬車が大きく揺れて止まりました。御者の「ヴォルカノフ辺境伯領、国境の砦に到着いたしました!」という震える声が聞こえます。
「ようやく着いたか。おい、衛兵! 皇太子セドリックである! 開門せよ!」
セドリック殿下が窓から身を乗り出し、威厳を持って叫びました。
しかし、門の上に立つ衛兵たちは、王都のそれとは全く異なる反応を見せました。
「……皇太子? ああ、例の『ひょろひょろの主犯格』か」
「なんだ、あの外套の厚さは。あんなに着込んでいたら、筋肉の可動域が死ぬぞ」
衛兵たちの声が、吹雪に混じってセドリック殿下の耳に届きます。
「……ひょ、ひょろひょろ!? 可動域!? 貴様ら、皇太子に向かって何を不敬な……!」
「いいから通してやれ。閣下から『もし王都から馬鹿が来たら、とりあえず城まで案内しろ。話を聞く余裕はないが』と伝言を預かっている」
「……話を聞く余裕がないだと!?」
セドリック殿下のプライドは、国境を越える瞬間にズタズタに引き裂かれました。
門が開き、馬車がヴォルカノフ城へと進みます。そこで彼らが目にしたのは、彼らの想像を絶する「地獄」……ではなく、「筋肉の楽園」でした。
「見てください、セドリック様! あそこの兵士さんたち、雪の中で半裸で丸太を担いで走っていますわ! なんて高負荷なトレーニング……! あそこが、メリー様のいる聖地なのね!」
リリア様が窓に顔を押し付けて絶叫しました。
馬車が城の正面玄関に到着すると、そこには一人の男が立っていました。
黒い軍服を隙なく着こなし、吹雪の中でも微動だにしない大木のような男。ヴォルカノフ辺境伯、アレクセイです。
「……ようこそ、皇太子殿下。こんな最果ての地に何用だ」
地響きのような低音。アレクセイの放つ圧倒的な威圧感に、セドリック殿下は思わず気圧されて数歩下がりました。
「あ、アレクセイ・ヴォルカノフ……。久しぶりだな。今日は、追放されたメリー・バートンの様子を確認しに来た。あのような悪女を預けてしまい、苦労しているだろうと思ってね」
セドリック殿下は、必死に平静を装って言いました。
すると、アレクセイの眉間がピクリと動きました。
「苦労? ……ああ、そうだな。ある意味では、私の人生で最大の試練と言える」
「だろう! やはりあいつは、ここでも泣き喚いて迷惑をかけているんだな! さあ、どこにいる? 地下牢か? それとも家畜小屋か?」
セドリック殿下が勝ち誇ったように笑った、その時でした。
「よっしゃあぁぁぁぁぁ!! 三階の窓拭き、自己ベスト更新ですわー!!」
城の見上げるような高所から、聞き覚えのある……けれど以前よりも三倍は声量の増した叫び声が降ってきました。
全員が顔を上げると、そこには信じられない光景がありました。
命綱もなしに、城壁の突起を足場にして片手でぶら下がり、もう片方の手で猛然と窓を磨き上げているメリー・バートンの姿が。
「メ、メリー……!? 貴様、そこで何をしているんだ!?」
「あら、セドリック殿下! ごきげんよう! 今ちょうど、アレクセイ様の執務室の窓を、彼の瞳と同じくらいクリアに仕上げているところですの! 見てください、この広背筋のキレをー!!」
メリーは壁に張り付いたまま、セドリック殿下に向かって見事なバックポーズを決めました。
「……あ、あ、ああ……」
セドリック殿下はその場で膝から崩れ落ちました。
一方で、リリア様は空に向かって両手を広げ、涙を流していました。
「メリー様ぁぁぁ!! お会いしたかったですわ!! 見てください、私のこの二の腕! 王都を出てから三センチ太くなりましたの!!」
「いいわよリリア様! でも三センチじゃまだ甘い! 後で丸太を担ぎながらお話ししましょう!!」
吹雪の舞うヴォルカノフ城の前で、王都の常識は音を立てて崩壊していきました。
アレクセイは、ただ静かに、天を仰いで深くため息をつくだけでした。
王都を出発して数週間。セドリック皇太子は、幾重にも重ねた毛皮の外套に身を包み、ガタガタと歯を鳴らしていました。
馬車の外は、視界を遮るほどの猛吹雪。王都の温室育ちである彼にとって、この北の地は地獄の入り口にしか見えません。
しかし、向かい側に座るリリア様の様子は、明らかにおかしなことになっていました。
「……四百九十八、四百九十九……五百! よし、次は腹筋ですわ!」
「リリア、君……。さっきから馬車の床で何を。狭いし揺れるから危ないと言っているだろう?」
「何を仰いますか、セドリック様! この激しい揺れこそ、体幹を鍛える天然の振動マシンですわ! ああ、腹斜筋が喜んでいる……。メリー様に見ていただくまで、一秒たりとも無駄にはできませんの!」
リリア様は額にうっすらと汗をかき、瞳をらんらんと輝かせていました。その腕には、王都を出る時よりも明らかに逞しい(自称)筋肉のラインが浮かび上がっています。
「……狂っている。王都のみんなも、リリアも。メリーがいなくなってから、この国の歯車が筋肉の方向に狂い始めている……!」
セドリック殿下は頭を抱えました。
やがて、馬車が大きく揺れて止まりました。御者の「ヴォルカノフ辺境伯領、国境の砦に到着いたしました!」という震える声が聞こえます。
「ようやく着いたか。おい、衛兵! 皇太子セドリックである! 開門せよ!」
セドリック殿下が窓から身を乗り出し、威厳を持って叫びました。
しかし、門の上に立つ衛兵たちは、王都のそれとは全く異なる反応を見せました。
「……皇太子? ああ、例の『ひょろひょろの主犯格』か」
「なんだ、あの外套の厚さは。あんなに着込んでいたら、筋肉の可動域が死ぬぞ」
衛兵たちの声が、吹雪に混じってセドリック殿下の耳に届きます。
「……ひょ、ひょろひょろ!? 可動域!? 貴様ら、皇太子に向かって何を不敬な……!」
「いいから通してやれ。閣下から『もし王都から馬鹿が来たら、とりあえず城まで案内しろ。話を聞く余裕はないが』と伝言を預かっている」
「……話を聞く余裕がないだと!?」
セドリック殿下のプライドは、国境を越える瞬間にズタズタに引き裂かれました。
門が開き、馬車がヴォルカノフ城へと進みます。そこで彼らが目にしたのは、彼らの想像を絶する「地獄」……ではなく、「筋肉の楽園」でした。
「見てください、セドリック様! あそこの兵士さんたち、雪の中で半裸で丸太を担いで走っていますわ! なんて高負荷なトレーニング……! あそこが、メリー様のいる聖地なのね!」
リリア様が窓に顔を押し付けて絶叫しました。
馬車が城の正面玄関に到着すると、そこには一人の男が立っていました。
黒い軍服を隙なく着こなし、吹雪の中でも微動だにしない大木のような男。ヴォルカノフ辺境伯、アレクセイです。
「……ようこそ、皇太子殿下。こんな最果ての地に何用だ」
地響きのような低音。アレクセイの放つ圧倒的な威圧感に、セドリック殿下は思わず気圧されて数歩下がりました。
「あ、アレクセイ・ヴォルカノフ……。久しぶりだな。今日は、追放されたメリー・バートンの様子を確認しに来た。あのような悪女を預けてしまい、苦労しているだろうと思ってね」
セドリック殿下は、必死に平静を装って言いました。
すると、アレクセイの眉間がピクリと動きました。
「苦労? ……ああ、そうだな。ある意味では、私の人生で最大の試練と言える」
「だろう! やはりあいつは、ここでも泣き喚いて迷惑をかけているんだな! さあ、どこにいる? 地下牢か? それとも家畜小屋か?」
セドリック殿下が勝ち誇ったように笑った、その時でした。
「よっしゃあぁぁぁぁぁ!! 三階の窓拭き、自己ベスト更新ですわー!!」
城の見上げるような高所から、聞き覚えのある……けれど以前よりも三倍は声量の増した叫び声が降ってきました。
全員が顔を上げると、そこには信じられない光景がありました。
命綱もなしに、城壁の突起を足場にして片手でぶら下がり、もう片方の手で猛然と窓を磨き上げているメリー・バートンの姿が。
「メ、メリー……!? 貴様、そこで何をしているんだ!?」
「あら、セドリック殿下! ごきげんよう! 今ちょうど、アレクセイ様の執務室の窓を、彼の瞳と同じくらいクリアに仕上げているところですの! 見てください、この広背筋のキレをー!!」
メリーは壁に張り付いたまま、セドリック殿下に向かって見事なバックポーズを決めました。
「……あ、あ、ああ……」
セドリック殿下はその場で膝から崩れ落ちました。
一方で、リリア様は空に向かって両手を広げ、涙を流していました。
「メリー様ぁぁぁ!! お会いしたかったですわ!! 見てください、私のこの二の腕! 王都を出てから三センチ太くなりましたの!!」
「いいわよリリア様! でも三センチじゃまだ甘い! 後で丸太を担ぎながらお話ししましょう!!」
吹雪の舞うヴォルカノフ城の前で、王都の常識は音を立てて崩壊していきました。
アレクセイは、ただ静かに、天を仰いで深くため息をつくだけでした。
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