婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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煌びやかなシャンデリアが、卒業パーティーの会場を眩いばかりに照らしている。


王立アカデミーの卒業を祝う華やかな音楽が止まったのは、会場の真ん中で王太子ヴィルフリートが声を張り上げた、その瞬間だった。


「リーズ・ブラッドベリー! 貴様のような心の醜い女は、我が妃に相応しくない。今この時をもって、貴様との婚約を破棄し、私は真実の愛で結ばれたマリアを新たな婚約者とすることをここに宣言する!」


王太子の隣には、今にも泣き出しそうな表情で彼に縋り付く、可憐な男爵令嬢マリアの姿があった。


周囲の貴族たちは、一斉に息を呑んでこちらを見ている。


衝撃の展開に震える者、冷ややかな視線を送る者、あるいはスキャンダルを喜ぶ野次馬。


その中心に立たされた私、リーズ・ブラッドベリーは、手に持っていた扇をゆっくりと畳んだ。


「……殿下、少々お伺いしてもよろしいでしょうか?」


私の声は、驚くほど冷静に会場に響き渡った。


取り乱して泣き叫ぶことを期待していたのであろうヴィルフリート殿下は、拍子抜けしたように眉を寄せる。


「何だ、見苦しい命乞いでもするつもりか?」


私は小さく首を振って、腰のポーチから一冊の革装丁のノートと、銀の懐中時計を取り出した。


「いえ。まず確認ですが、今の発言は感情に任せた一時的なものではなく、王室としての公式な決定事項と捉えて相違ありませんか?」


「当たり前だ! 私は本気だ!」


「なるほど。公式決定ですね。では、現在時刻、十八時四十二分。ヴィルフリート殿下による一方的な婚約破棄宣言を受理いたしました」


私は懐中時計をしまい、手慣れた手つきでノートにその時刻を書き込む。


あまりにも事務的な私の態度に、周囲のざわめきが困惑の色に変わり始めた。


「……リーズ、貴様。なぜ泣かない? ショックで頭がおかしくなったのか?」


ヴィルフリート殿下がおどおどとした口調で問いかけてくる。


私は優雅に微笑み、ノートを彼の方へと向けた。


「殿下、私は冷静です。むしろ、やっとこの『非効率な現状』に終止符を打つ機会をいただけたと、安堵しているほどですわ」


「非効率だと……?」


「はい。では、せっかくの機会ですので、ここから三十分ほどお時間をいただけますか? 婚約破棄を円滑に進めるための『損益計算書』および『現状分析レポート』を作成してございます。一度、こちらを読み合わせてから、改めて破棄していただきたく存じます」


私はそう言って、ポーチから魔法鞄の機能を使って大量の書類束を取り出した。


ドサッ、と重々しい音を立てて床に積まれた書類の山を見て、殿下が数歩後退りする。


「な、何だそれは……。私はただ、貴様との縁を切りたいと言っているだけだぞ!」


「そうはいきません。婚約は個人間の約束ではなく、国家間の契約に準ずるものです。それを破棄するとなれば、発生するコストを明確にする義務が私にはあります」


私は書類の一番上をめくり、朗々とした声で読み上げ始めた。


「まず、過去五年間にわたり、我がブラッドベリー公爵家が殿下の『個人的な趣味』……具体的には、あの高価な軍事模型の収集や、夜な夜な開催される夜食会に補填してきた金額、総額にして金貨三千二百枚。こちら、返済の目処は立っておりますか?」


「う、うぐっ……。それは……」


「次に、殿下がマリア様との交流に現を抜かしていらっしゃった間、私が代行した公務の数々。これらを時給換算し、さらに『王太子妃教育の完了に伴う専門職としての技術料』を加算します。こちらは金貨一千五百枚となります」


ヴィルフリート殿下の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。


隣にいたマリア様も、あまりの数字の大きさに目を白黒させていた。


「ま、待て! そんな金、すぐには用意できない!」


「でしょうね。ですから、こうして相談の場を設けているのです。殿下、今ここで感情的に破棄を強行すれば、明日の朝にはブラッドベリー公爵家から王室へ対する公式な債務履行請求書が届きます。そうなれば、王室の信用は失墜、支持率は現在の六十パーセントから、一桁台まで暴落すると予想されますわ」


私はペンで空中にグラフを描くような仕草を見せた。


「さらに言えば、現在我が領地と王都を結ぶ物流網は、私の直轄管理となっております。私が婚約を解消し、傷心のあまり領地に引きこもれば、王都の食料価格は三日で二倍に跳ね上がるでしょう。民衆の暴動が起きる確率、約八十五パーセント。……殿下、マリア様との『真実の愛』には、それだけの被害を上回る価値がございますか?」


会場内は、しんと静まり返った。


もはや、誰も私のことを「惨めな悪役令嬢」だなんて思っていない。


そこにいるのは、一つの国家を破滅させかねない数字を握りしめた、冷徹な会計士のような怪物だ。


ヴィルフリート殿下は、震える手で自身の額を拭った。


「そ、そんな……。私はただ、マリアと幸せになりたかっただけなのに……。なぜ、そんな国家存亡の危機みたいな話になるんだ……」


「それが『結婚』という契約の正体ですわ、殿下。……さて、どうされます? このまま私の説明を続けますか? それとも、一度奥の小部屋で、現実的な着地点を探るための密談に移られますか?」


私は優しく、逃げ道を用意するように問いかける。


ヴィルフリート殿下は、縋るような目でマリア様を見たが、彼女は数字の羅列に圧倒されて既に魂が抜けたような顔をしていた。


「……わ、分かった。一度、話し合おう。リーズ、君の言う通りだ。感情的になりすぎたかもしれない……」


「賢明なご判断です。では皆様、お騒がせいたしました。王太子殿下との『建設的な議論』のため、私たちはこれにて中座させていただきますわ」


私は周囲に完璧な淑女の礼をして見せると、腰の抜けた殿下の腕をしっかりと掴んだ。


さあ、婚約破棄という名の「究極の接待」の始まりです。
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