婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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王宮の一角にある、豪奢な応接室。


本来であれば、愛を語らう恋人たちや、国家の行く末を案じる重臣たちが集うはずのその場所は、今や「経営会議室」のような殺伐とした空気に包まれていた。


「さあ、殿下。まずはこの資料をご覧ください。題して『婚約破棄に伴う王家資産の流出予測と、外交的損失のシミュレーション』です」


私は机の上に、手際よく数枚の図表を並べた。


ヴィルフリート殿下は、ソファに深々と腰掛け、まるで死刑宣告を待つ囚人のような顔でそれを見つめている。


彼の隣では、マリア様がおどおどしながら、差し出された紅茶に手をつけずに固まっていた。


「リーズ……。私はただ、君との性格の不一致を理由に、愛する女性と添い遂げたいと言っただけなのだが」


「ええ、存じております。ですが、殿下。感情は一過性のものですが、負債は一生ついて回るものですわ。まずは現実を見ましょう」


私は指示棒代わりの扇で、一枚のグラフを指し示した。


「現在、我がブラッドベリー家が支援している、王都の公共事業の一覧です。孤児院の運営、石畳の補修、そして魔導街灯の維持費。これらすべて、私の『婚約者としての個人資産』から拠出されています」


「……それが、どうしたというのだ?」


「婚約が解消されれば、当然、これらの支援は即座に停止いたします。そうなれば、王都の夜は明日から真っ暗。孤児たちは路頭に迷い、市民の不満は爆発。これを王室の予算で補填する場合、増税は避けられません。殿下、増税案にサインする覚悟はできていらっしゃいますか?」


ヴィルフリート殿下は、喉を鳴らして言葉を飲み込んだ。


彼は民衆からの人気を何より重んじている。自分の恋愛のせいで「増税王」の烙印を押されるのは、最も避けたい事態のはずだ。


「そ、それは……閣僚たちと相談しないと……」


「相談したところで、答えは『ノー』でしょう。何しろ、現在の財務大臣は私の叔父ですから」


私はにっこりと、花が綻ぶような笑みを向けた。


殿下の顔が、さらに一段階白くなる。


「次に、マリア様を王太子妃として迎える場合の教育コストについてです」


「マリアの教育……?」


矛先が自分に向いたことに気づき、マリア様が肩を跳ねさせた。


「はい。王族としての立ち居振る舞い、古語、外交礼儀、そして複雑な魔法理論。私はこれらを十年の歳月をかけて習得いたしました。これを、マリア様が今から学ぶとなれば、専門の家庭教師を二十人体制で雇う必要があります」


私は計算機を取り出し、高速で数字を叩いた。


「人件費、教材費、さらにはマリア様が慣れない勉強で体調を崩された際の医療費。これらを含めると、マリア様が一人前の王太子妃になるまでに、さらに金貨八百枚が計上されます。これ、誰が払うのですか?」


「わ、私に聞かないでほしいですぅ……!」


マリア様が半泣きで顔を伏せる。


ヴィルフリート殿下は、隣で震える彼女の肩を抱き寄せようとしたが、私の視線に気づいてその動きを止めた。


「……殿下、愛で腹は膨れませんが、教育費は確実に国庫を削ります。マリア様が『無知で可愛い』ままでいられるのは、男爵令嬢という立場までですわ。王妃が晩餐会でナイフとフォークを間違えれば、それは即座に外交問題になります」


「……リーズ、君は……どうしてそんなに冷徹になれるんだ? 少しは、悲しいとか、私を引き止めたいという気持ちはないのか?」


殿下が、縋るような、あるいは責めるような目で私を見つめてくる。


私は一度だけ、小さく吐息をついた。


「悲しみは、非生産的な感情ですわ、殿下。私は、あなたが選んだ道がどれほど険しいものか、その『入場料』を提示しているに過ぎません」


「入場料……」


「はい。このまま婚約を破棄して、マリア様と茨の道を歩むか。それとも、私の説得に屈して、安泰だが『恐ろしく口うるさい妻』との未来を取るか。……さて、殿下。今すぐ、この書類にサインして破棄を強行されますか?」


私は白紙の撤回書と、万年筆を差し出した。


ヴィルフリート殿下の指先が、わずかに震える。


彼はマリア様の顔を見て、次に私の用意した「絶望的な数字の山」を見た。


「……リーズ、一つ聞かせてくれ」


「何でしょうか」


「君は……私のことが、嫌いなのか?」


私は少しだけ目を見開いた。


論理的な問いを期待していたのだが、返ってきたのはあまりにも青臭い、感情の確認だったからだ。


「嫌いでしたら、こうして資料を作ってまで、殿下の破滅を止めようとはいたしませんわ」


「……えっ?」


「殿下は私にとって、守るべき『国家の資産』の一部です。資産が暴落するのを黙って見ている投資家が、どこにいますか?」


私の回答に、ヴィルフリート殿下はガックリと肩を落とした。


「愛ではなく……資産価値か……。そうか……」


「殿下、そんなに落ち込まないでください! リーズ様は、殿下のことをとっても大切に思ってらっしゃるんですよ、多分!」


なぜかマリア様が殿下を励まし始めた。


「マリア……。君は本当にいい子だな……」


「はいっ! 私、リーズ様の計算、すごすぎて感動しちゃいました! あんなに沢山の数字を覚えているなんて、神様みたいです!」


キラキラとした目で私を見つめてくるマリア様。


……どうやら、この男爵令嬢は、私が思っていたよりもずっと「計算外」のキャラクターであるらしい。


「とにかく、殿下。今日はこれくらいにしておきましょう。この資料は差し上げますので、一晩じっくりと寝室で読み返してください。明日の朝、改めてお返事を伺いに参ります」


私は優雅に立ち上がり、完璧なカーテシーを決めた。


「……ああ。……分かった。少し、考えさせてくれ」


ヴィルフリート殿下の返事は、今にも消え入りそうなほど弱々しいものだった。


応接室を出た私は、廊下で一人、深く息を吐く。


……本当は、心臓が少しだけ、早鐘を打っていた。


数字を並べて煙に巻くのは得意だが、殿下のあの「嫌いなのか?」という問いだけは、私の計算式のどこにも当てはまらなかったからだ。


「さて……。明日の朝までに、追加の『マリア様救済プラン』も練っておく必要がありますわね」


私はノートを開き、次なる戦略を書き込み始めた。


婚約破棄を、論理の壁で防ぎ切る。


その戦いは、まだ始まったばかりだった。
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