婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

文字の大きさ
5 / 28

5

しおりを挟む
婚約破棄の執行猶予期間、一日目。


王宮の図書室の一角に、場違いなほど巨大なホワイトボードが運び込まれていた。


そこには、複雑な円グラフと「王妃の価値=(教養×人脈)+(実務能力÷スキャンダル率)」という、およそ恋愛小説には似つかわしくない数式が踊っている。


「いいですか、マリア様。王妃とは、単なる王の伴侶ではありません。国家という巨大な商会の、最高執行責任者(COO)なのです」


リーズは指示棒で、マリアの鼻先を軽く指した。


対するマリアは、目を丸くしてノートにペンを走らせている。


「しーおーおー……。あの、リーズ様、それは美味しいお菓子の名前ですかぁ?」


「いいえ、組織を実務的に回す責任者のことですわ。殿下が理想を語る夢想家なら、あなたはそれを現実に落とし込む泥臭い作業を一手に引き受けなければなりません。さあ、復唱して。王妃の微笑みは、一回につき金貨何枚分の価値がありますか?」


「ええと……相手が隣国の公爵様なら、金貨百枚分、ですぅ!」


「正解です。安売りしてはいけませんわよ。特に、殿下の前でふにゃふにゃと笑うのは、資産の無駄遣いです」


そこへ、マリアとの甘いひと時を求めてやってきたヴィルフリート殿下が、ひょっこりと顔を出した。


「マリア、迎えに来たぞ。少し休憩にして、庭園で……」


「殿下、お静かに! 今、とっても大事な『関税と笑顔の相関関係』について学んでいるんですからっ!」


マリアは殿下を振り返りもせず、真剣な顔で叫んだ。


ヴィルフリート殿下は、差し出した手を空中で止めたまま、石像のように固まった。


「……マリア? 私より、その、リーズの講義の方が大事なのか?」


「当たり前ですぅ! リーズ様のお話、魔法みたいなんです。数字を覚えるだけで、意地悪な貴族のおば様たちを黙らせられるなんて、私、もっと早く知りたかったです!」


マリアの瞳は、これまでに見たことがないほど知的な(あるいは実利的な)輝きを放っていた。


リーズは勝ち誇ったようにも見えない、淡々とした表情で殿下に向き直る。


「殿下。ご覧の通り、マリア様は非常に学習意欲が高くていらっしゃる。彼女を『ただの可愛い飾り』のままにしておこうとした殿下の判断は、人的資源の著しい損失ですわ」


「資源……。マリアを資源呼ばわりするな……」


「では、殿下。せっかくですから、あなたもこちらの席へ。ちょうど今から『王太子の散財がいかに地方自治体の予算を圧迫するか』というケーススタディに入るところです。当事者の意見も伺いたいと思っておりましたの」


「断る! 私は……私は、ただマリアと楽しく過ごしたいだけなんだ!」


ヴィルフリート殿下は逃げるように図書室を後にしたが、背後からはリーズの冷徹な声が追いかけてきた。


「逃げても無駄ですわよ、殿下。本日の夕食のメニューは、殿下が今月の予算をオーバーした分、全て『パンと薄いスープ』に差し替えさせていただきましたから」


「な、何だと……!?」


「栄養管理も王妃の務めです。マリア様、殿下が栄養失調で倒れない程度の、最小コストでの献立作成。これが本日の宿題ですわ」


「はい、リーズ先生! 計算機、貸してくださいっ!」


ヴィルフリート殿下は、廊下の影で力なく壁に頭を打ち付けた。


マリアを自分の方へ引き戻そうとしたはずが、気づけば彼女はリーズの「最強の弟子」へと変貌を遂げようとしている。


さらに恐ろしいことに、図書室の外には、講義を盗み聞きしようとする文官たちが列を作っていた。


「おい、今の聞いたか?『笑顔の資産価値換算』だぞ。リーズ様の理論は、我々財務方の指針になる……」


「マリア嬢も、あんなに筋が良いとは。リーズ様に育てられれば、次代の王宮は安泰だな」


聞こえてくるのは、リーズへの賞賛の声ばかり。


ヴィルフリート殿下は、孤独だった。


愛する女性は数字の虜になり、婚約者は最強の家庭教師として君臨している。


「……私は、婚約破棄をしたかっただけなのに。どうして、こんなに毎日が苦しいんだ……」


彼の悩みは、日に日に深まっていく。


一方、講義を終えたリーズは、満足そうに手帳を閉じた。


(マリア様、意外と数字に強いですわね。これなら、私が引退した後の『実務代行者』として十分に教育可能ですわ)


リーズの目的は、単なる婚約維持ではない。


自分が自由の身になった後も、この国が破綻しないための「システムの構築」だった。


その計画に、ヴィルフリート殿下の微かな恋心やプライドなど、計算の端数にも入っていなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。 一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。 ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。 帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!

断罪後の気楽な隠居生活をぶち壊したのは誰です!〜ここが乙女ゲームの世界だったなんて聞いていない〜

白雲八鈴
恋愛
全ては勘違いから始まった。  私はこの国の王子の一人であるラートウィンクルム殿下の婚約者だった。だけどこれは政略的な婚約。私を大人たちが良いように使おうとして『白銀の聖女』なんて通り名まで与えられた。  けれど、所詮偽物。本物が現れた時に私は気付かされた。あれ?もしかしてこの世界は乙女ゲームの世界なのでは?  関わり合う事を避け、婚約者の王子様から「貴様との婚約は破棄だ!」というお言葉をいただきました。  竜の谷に追放された私が血だらけの鎧を拾い。未だに乙女ゲームの世界から抜け出せていないのではと内心モヤモヤと思いながら過ごして行くことから始まる物語。 『私の居場所を奪った聖女様、貴女は何がしたいの?国を滅ぼしたい?』 ❋王都スタンピード編完結。次回投稿までかなりの時間が開くため、一旦閉じます。完結表記ですが、王都編が完結したと捉えてもらえればありがたいです。 *乙女ゲーム要素は少ないです。どちらかと言うとファンタジー要素の方が強いです。 *表現が不適切なところがあるかもしれませんが、その事に対して推奨しているわけではありません。物語としての表現です。不快であればそのまま閉じてください。 *いつもどおり程々に誤字脱字はあると思います。確認はしておりますが、どうしても漏れてしまっています。 *他のサイトでは別のタイトル名で投稿しております。小説家になろう様では異世界恋愛部門で日間8位となる評価をいただきました。

報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を

さくたろう
恋愛
 その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。  少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。 20話です。小説家になろう様でも公開中です。

望まぬ結婚をさせられた私のもとに、死んだはずの護衛騎士が帰ってきました~不遇令嬢が世界一幸せな花嫁になるまで

越智屋ノマ
恋愛
「君を愛することはない」で始まった不遇な結婚――。 国王の命令でクラーヴァル公爵家へと嫁いだ伯爵令嬢ヴィオラ。しかし夫のルシウスに愛されることはなく、毎日つらい仕打ちを受けていた。 孤独に耐えるヴィオラにとって唯一の救いは、護衛騎士エデン・アーヴィスと過ごした日々の思い出だった。エデンは強くて誠実で、いつもヴィオラを守ってくれた……でも、彼はもういない。この国を襲った『災禍の竜』と相打ちになって、3年前に戦死してしまったのだから。 ある日、参加した夜会の席でヴィオラは窮地に立たされる。その夜会は夫の愛人が主催するもので、夫と結託してヴィオラを陥れようとしていたのだ。誰に救いを求めることもできず、絶体絶命の彼女を救ったのは――? (……私の体が、勝手に動いている!?) 「地獄で悔いろ、下郎が。このエデン・アーヴィスの目の黒いうちは、ヴィオラ様に指一本触れさせはしない!」 死んだはずのエデンの魂が、ヴィオラの体に乗り移っていた!?  ――これは、望まぬ結婚をさせられた伯爵令嬢ヴィオラと、死んだはずの護衛騎士エデンのふしぎな恋の物語。理不尽な夫になんて、もう絶対に負けません!!

4人の女

猫枕
恋愛
カトリーヌ・スタール侯爵令嬢、セリーヌ・ラルミナ伯爵令嬢、イネス・フーリエ伯爵令嬢、ミレーユ・リオンヌ子爵令息夫人。 うららかな春の日の午後、4人の見目麗しき女性達の優雅なティータイム。 このご婦人方には共通点がある。 かつて4人共が、ある一人の男性の妻であった。 『氷の貴公子』の異名を持つ男。 ジルベール・タレーラン公爵令息。 絶対的権力と富を有するタレーラン公爵家の唯一の後継者で絶世の美貌を持つ男。 しかしてその本性は冷酷無慈悲の女嫌い。 この国きっての選りすぐりの4人のご令嬢達は揃いも揃ってタレーラン家を叩き出された仲間なのだ。 こうやって集まるのはこれで2回目なのだが、やはり、話は自然と共通の話題、あの男のことになるわけで・・・。

【完結】伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~

朝日みらい
恋愛
煌びやかな晩餐会。クラリッサは上品に振る舞おうと努めるが、周囲の貴族は彼女の地味な外見を笑う。 婚約者ルネがワインを掲げて笑う。「俺は華のある令嬢が好きなんだ。すまないが、君では退屈だ。」 静寂と嘲笑の中、クラリッサは微笑みを崩さずに頭を下げる。 夜、涙をこらえて母宛てに手紙を書く。 「恥をかいたけれど、泣かないことを誇りに思いたいです。」 彼女の最初の手紙が、物語の始まりになるように――。

婚約者が最凶すぎて困っています

白雲八鈴
恋愛
今日は婚約者のところに連行されていました。そう、二か月は不在だと言っていましたのに、一ヶ月しか無かった私の平穏。 そして現在進行系で私は誘拐されています。嫌な予感しかしませんわ。 最凶すぎる第一皇子の婚約者と、その婚約者に振り回される子爵令嬢の私の話。 *幼少期の主人公の言葉はキツイところがあります。 *不快におもわれましたら、そのまま閉じてください。 *作者の目は節穴ですので、誤字脱字があります。 *カクヨム。小説家になろうにも投稿。

大嫌いな従兄と結婚するぐらいなら…

みみぢあん
恋愛
子供の頃、両親を亡くしたベレニスは伯父のロンヴィル侯爵に引き取られた。 隣国の宣戦布告で戦争が始まり、伯父の頼みでベレニスは病弱な従妹のかわりに、側妃候補とは名ばかりの人質として、後宮へ入ることになった。 戦争が終わりベレニスが人質生活から解放されたら、伯父は後継者の従兄ジャコブと結婚させると約束する。 だがベレニスはジャコブが大嫌いなうえ、密かに思いを寄せる騎士フェルナンがいた。   

処理中です...