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婚約破棄の執行猶予期間、一日目。
王宮の図書室の一角に、場違いなほど巨大なホワイトボードが運び込まれていた。
そこには、複雑な円グラフと「王妃の価値=(教養×人脈)+(実務能力÷スキャンダル率)」という、およそ恋愛小説には似つかわしくない数式が踊っている。
「いいですか、マリア様。王妃とは、単なる王の伴侶ではありません。国家という巨大な商会の、最高執行責任者(COO)なのです」
リーズは指示棒で、マリアの鼻先を軽く指した。
対するマリアは、目を丸くしてノートにペンを走らせている。
「しーおーおー……。あの、リーズ様、それは美味しいお菓子の名前ですかぁ?」
「いいえ、組織を実務的に回す責任者のことですわ。殿下が理想を語る夢想家なら、あなたはそれを現実に落とし込む泥臭い作業を一手に引き受けなければなりません。さあ、復唱して。王妃の微笑みは、一回につき金貨何枚分の価値がありますか?」
「ええと……相手が隣国の公爵様なら、金貨百枚分、ですぅ!」
「正解です。安売りしてはいけませんわよ。特に、殿下の前でふにゃふにゃと笑うのは、資産の無駄遣いです」
そこへ、マリアとの甘いひと時を求めてやってきたヴィルフリート殿下が、ひょっこりと顔を出した。
「マリア、迎えに来たぞ。少し休憩にして、庭園で……」
「殿下、お静かに! 今、とっても大事な『関税と笑顔の相関関係』について学んでいるんですからっ!」
マリアは殿下を振り返りもせず、真剣な顔で叫んだ。
ヴィルフリート殿下は、差し出した手を空中で止めたまま、石像のように固まった。
「……マリア? 私より、その、リーズの講義の方が大事なのか?」
「当たり前ですぅ! リーズ様のお話、魔法みたいなんです。数字を覚えるだけで、意地悪な貴族のおば様たちを黙らせられるなんて、私、もっと早く知りたかったです!」
マリアの瞳は、これまでに見たことがないほど知的な(あるいは実利的な)輝きを放っていた。
リーズは勝ち誇ったようにも見えない、淡々とした表情で殿下に向き直る。
「殿下。ご覧の通り、マリア様は非常に学習意欲が高くていらっしゃる。彼女を『ただの可愛い飾り』のままにしておこうとした殿下の判断は、人的資源の著しい損失ですわ」
「資源……。マリアを資源呼ばわりするな……」
「では、殿下。せっかくですから、あなたもこちらの席へ。ちょうど今から『王太子の散財がいかに地方自治体の予算を圧迫するか』というケーススタディに入るところです。当事者の意見も伺いたいと思っておりましたの」
「断る! 私は……私は、ただマリアと楽しく過ごしたいだけなんだ!」
ヴィルフリート殿下は逃げるように図書室を後にしたが、背後からはリーズの冷徹な声が追いかけてきた。
「逃げても無駄ですわよ、殿下。本日の夕食のメニューは、殿下が今月の予算をオーバーした分、全て『パンと薄いスープ』に差し替えさせていただきましたから」
「な、何だと……!?」
「栄養管理も王妃の務めです。マリア様、殿下が栄養失調で倒れない程度の、最小コストでの献立作成。これが本日の宿題ですわ」
「はい、リーズ先生! 計算機、貸してくださいっ!」
ヴィルフリート殿下は、廊下の影で力なく壁に頭を打ち付けた。
マリアを自分の方へ引き戻そうとしたはずが、気づけば彼女はリーズの「最強の弟子」へと変貌を遂げようとしている。
さらに恐ろしいことに、図書室の外には、講義を盗み聞きしようとする文官たちが列を作っていた。
「おい、今の聞いたか?『笑顔の資産価値換算』だぞ。リーズ様の理論は、我々財務方の指針になる……」
「マリア嬢も、あんなに筋が良いとは。リーズ様に育てられれば、次代の王宮は安泰だな」
聞こえてくるのは、リーズへの賞賛の声ばかり。
ヴィルフリート殿下は、孤独だった。
愛する女性は数字の虜になり、婚約者は最強の家庭教師として君臨している。
「……私は、婚約破棄をしたかっただけなのに。どうして、こんなに毎日が苦しいんだ……」
彼の悩みは、日に日に深まっていく。
一方、講義を終えたリーズは、満足そうに手帳を閉じた。
(マリア様、意外と数字に強いですわね。これなら、私が引退した後の『実務代行者』として十分に教育可能ですわ)
リーズの目的は、単なる婚約維持ではない。
自分が自由の身になった後も、この国が破綻しないための「システムの構築」だった。
その計画に、ヴィルフリート殿下の微かな恋心やプライドなど、計算の端数にも入っていなかった。
王宮の図書室の一角に、場違いなほど巨大なホワイトボードが運び込まれていた。
そこには、複雑な円グラフと「王妃の価値=(教養×人脈)+(実務能力÷スキャンダル率)」という、およそ恋愛小説には似つかわしくない数式が踊っている。
「いいですか、マリア様。王妃とは、単なる王の伴侶ではありません。国家という巨大な商会の、最高執行責任者(COO)なのです」
リーズは指示棒で、マリアの鼻先を軽く指した。
対するマリアは、目を丸くしてノートにペンを走らせている。
「しーおーおー……。あの、リーズ様、それは美味しいお菓子の名前ですかぁ?」
「いいえ、組織を実務的に回す責任者のことですわ。殿下が理想を語る夢想家なら、あなたはそれを現実に落とし込む泥臭い作業を一手に引き受けなければなりません。さあ、復唱して。王妃の微笑みは、一回につき金貨何枚分の価値がありますか?」
「ええと……相手が隣国の公爵様なら、金貨百枚分、ですぅ!」
「正解です。安売りしてはいけませんわよ。特に、殿下の前でふにゃふにゃと笑うのは、資産の無駄遣いです」
そこへ、マリアとの甘いひと時を求めてやってきたヴィルフリート殿下が、ひょっこりと顔を出した。
「マリア、迎えに来たぞ。少し休憩にして、庭園で……」
「殿下、お静かに! 今、とっても大事な『関税と笑顔の相関関係』について学んでいるんですからっ!」
マリアは殿下を振り返りもせず、真剣な顔で叫んだ。
ヴィルフリート殿下は、差し出した手を空中で止めたまま、石像のように固まった。
「……マリア? 私より、その、リーズの講義の方が大事なのか?」
「当たり前ですぅ! リーズ様のお話、魔法みたいなんです。数字を覚えるだけで、意地悪な貴族のおば様たちを黙らせられるなんて、私、もっと早く知りたかったです!」
マリアの瞳は、これまでに見たことがないほど知的な(あるいは実利的な)輝きを放っていた。
リーズは勝ち誇ったようにも見えない、淡々とした表情で殿下に向き直る。
「殿下。ご覧の通り、マリア様は非常に学習意欲が高くていらっしゃる。彼女を『ただの可愛い飾り』のままにしておこうとした殿下の判断は、人的資源の著しい損失ですわ」
「資源……。マリアを資源呼ばわりするな……」
「では、殿下。せっかくですから、あなたもこちらの席へ。ちょうど今から『王太子の散財がいかに地方自治体の予算を圧迫するか』というケーススタディに入るところです。当事者の意見も伺いたいと思っておりましたの」
「断る! 私は……私は、ただマリアと楽しく過ごしたいだけなんだ!」
ヴィルフリート殿下は逃げるように図書室を後にしたが、背後からはリーズの冷徹な声が追いかけてきた。
「逃げても無駄ですわよ、殿下。本日の夕食のメニューは、殿下が今月の予算をオーバーした分、全て『パンと薄いスープ』に差し替えさせていただきましたから」
「な、何だと……!?」
「栄養管理も王妃の務めです。マリア様、殿下が栄養失調で倒れない程度の、最小コストでの献立作成。これが本日の宿題ですわ」
「はい、リーズ先生! 計算機、貸してくださいっ!」
ヴィルフリート殿下は、廊下の影で力なく壁に頭を打ち付けた。
マリアを自分の方へ引き戻そうとしたはずが、気づけば彼女はリーズの「最強の弟子」へと変貌を遂げようとしている。
さらに恐ろしいことに、図書室の外には、講義を盗み聞きしようとする文官たちが列を作っていた。
「おい、今の聞いたか?『笑顔の資産価値換算』だぞ。リーズ様の理論は、我々財務方の指針になる……」
「マリア嬢も、あんなに筋が良いとは。リーズ様に育てられれば、次代の王宮は安泰だな」
聞こえてくるのは、リーズへの賞賛の声ばかり。
ヴィルフリート殿下は、孤独だった。
愛する女性は数字の虜になり、婚約者は最強の家庭教師として君臨している。
「……私は、婚約破棄をしたかっただけなのに。どうして、こんなに毎日が苦しいんだ……」
彼の悩みは、日に日に深まっていく。
一方、講義を終えたリーズは、満足そうに手帳を閉じた。
(マリア様、意外と数字に強いですわね。これなら、私が引退した後の『実務代行者』として十分に教育可能ですわ)
リーズの目的は、単なる婚約維持ではない。
自分が自由の身になった後も、この国が破綻しないための「システムの構築」だった。
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