婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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王立アカデミーの卒業パーティーから数日。王宮の執務室では、かつてないほどの「悲鳴」が上がっていた。


「殿下! これを見てください! 北方の領主たちから届いた、緊急の陳情書の山ですぞ!」


普段は沈着冷静な宰相、グラハム閣下が、今にも卒倒しそうな顔で書類の束を机に叩きつけた。


ヴィルフリート殿下は、慣れない領地経営の報告書を前に、泳いだような目で応える。


「ど、どうした宰相。北方なら、例年の魔物被害の補填だろう? 予備費から出しておけ」


「その『予備費』の計算式が、リーズ嬢にしか分からない仕組みになっているのです! 彼女が実務から手を引いたせいで、財務部の文官たちは皆、暗号解読班のような状態になっております!」


宰相の目は血走り、その姿は一晩で十歳ほど老け込んだかのようだった。


ヴィルフリート殿下が冷や汗を流しながら書類をめくると、そこには「損益分岐点に基づいた魔石回収率の予測補正」などという、呪文のような言葉が並んでいた。


「な、なぜリーズはこんなに複雑なことを……。もっと普通に計算できないのか?」


「『普通』にやれば赤字になるからですよ! リーズ嬢は、無駄な経費を削りに削り、浮いた金で北方の防壁を補修し、さらに余剰金で投資まで行っていたのです! 彼女がいなければ、我が国の予算はあと三日で底を突きます!」


宰相は机に身を乗り出し、喉を震わせて叫んだ。


「殿下! 真実の愛など、後回しにしてください! 今すぐリーズ嬢の元へ行き、土下座でも何でもして、婚約破棄を撤回していただきたい!」


「宰相までそんなことを……! 私とマリアの愛は、そんな金勘定で測れるものではないと言っただろう!」


ヴィルフリート殿下が反論しようとしたその時、扉が静かに開いた。


「失礼いたします。引継ぎ資料の最終確認に参りました」


そこに立っていたのは、一分の乱れもないドレス姿のリーズだった。


彼女の後ろには、大量の書類ケースを抱えた侍従たちが控えている。


「リーズ様! ああ、リーズ様! 救いの女神だ!」


宰相は王子の前であることも忘れ、リーズの足元に縋り付かんばかりの勢いで駆け寄った。


「グラハム閣下、お疲れのようですね。隈がひどくなっておりますわ。後で私が調合した、効率的な睡眠導入剤を差し上げましょう」


「薬などいい! それより、この北方の予算案を……! 誰も計算できないのです!」


リーズは差し出された書類を一瞥し、ふふ、と優雅に微笑んだ。


「あら。それは『元・婚約者』としての私の善意で行っていた作業ですわ。現在は契約解除の執行猶予期間中ですので、私が勝手に公務に触れるのは、情報の不適切保持に当たります」


「そこを何とか! 国が滅びます!」


「……仕方がありませんわね。では、ここからは『外部コンサルタント』としての業務委託契約を結びましょう。私の時給は、公爵家の最高ランクを適用させていただきます。金貨一時間につき、二十枚でいかがかしら?」


「安いものです! すぐに契約書を!」


宰相が即答すると、ヴィルフリート殿下が椅子を蹴って立ち上がった。


「待て! 私の目の前で勝手に話を進めるな! 金貨二十枚だと? リーズ、君はどこまでがめついのだ!」


「がめつい、ではありません。適正な市場価値です、殿下」


リーズは冷徹な瞳でヴィルフリートを見据えた。


「私が今まで無償で提供していた労働を、殿下は当然だと思っておられたのでしょう? その甘えが、現在の王室の危機を招いているのです。殿下がマリア様との愛に浸っている間、私がどれだけの『ノイズ』を処理していたか、身をもって知る良い機会ではありませんか?」


「くっ……。だが、宰相! マリアだって今、一生懸命学んでいるんだ! 彼女が成長すれば……」


「殿下、マリア嬢は今、図書室でリーズ様に教わった『複式簿記の歌』を歌いながら、楽しそうに紙を折っております……。彼女が戦力になるには、少なくともあと三光年は必要ですぞ!」


宰相の痛切な叫びに、ヴィルフリート殿下は言葉を失った。


リーズは書類ケースから一枚の紙を取り出し、王子の前の机に置いた。


「これは、本日の分の請求書です。それから、明日の夜会のタイムスケジュール表。私がいない場合、殿下がエスコートするマリア様は、二十三人の他国大使の名前と好物を暗記していなければなりません。……準備はよろしいですか?」


「に、二十三人……? マリアにそんなことができるはず……」


「できないのであれば、殿下がフォローするしかありませんわね。ただし、殿下も昨夜の予算会議で居眠りをして、大使の名前を半分忘れているという報告を受けておりますけれど」


リーズがクスリと笑うと、ヴィルフリート殿下は顔を真っ赤にして震えた。


「……リーズ。君は、私を困らせて楽しんでいるのか?」


「滅相もございません。私はただ、殿下の選んだ『愛の重さ』を、現実という天秤に乗せているだけですわ」


リーズは優雅に一礼し、宰相に視線を送った。


「閣下、後の打ち合わせは私の事務官と進めてください。私はこれから、マリア様に『いかにして自分の無知を可愛げで誤魔化し、他国のスパイを煙に巻くか』という、高度な政治交渉術を教えに行かなければなりませんので」


「お願いします、リーズ様! もはやあなたしか頼りになりません!」


宰相に拝まれながら、リーズは風のように去っていった。


執務室に残されたヴィルフリート殿下は、目の前の「金貨二十枚」と書かれた請求書を見つめ、胃のあたりをぎゅっと押さえた。


「愛……愛こそが全てだと……言いたいのだが。……なぜ、リーズの言うことの方が、説得力があるように聞こえてしまうんだ……」


王子の悩みは、ついに国政を巻き込んだ底なし沼へと沈んでいくのだった。
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