婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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王太子の執務室には、重苦しい沈黙が流れていた。


かつてはマリアが淹れてくれる、少し甘すぎるとびきりの紅茶と、彼女の他愛ないお喋りがヴィルフリートの癒やしだったはずだ。


しかし、目の前に座るマリアが差し出したのは、紅茶ではなく一束の集計用紙だった。


「殿下、昨日の茶菓子代の領収書ですぅ。計算してみたんですけど、この支出は来月の外交予算に響く恐れがあります。これからは茶菓子のランクを一段下げて、一回あたりの咀嚼回数を増やすことで満腹感を得るべきですぅ!」


「……マリア。君は、以前のように『殿下ぁ、このお菓子とっても美味しいですぅ!』と言って笑ってくれないのか?」


ヴィルフリートが縋るような目で問いかけると、マリアは不思議そうに小首を傾げた。


「何を言ってるんですかぁ、殿下。美味しいだけでは国は回りませんって、リーズ様が仰ってましたよ? 感情に流されるのは、資産の無駄遣いですぅ!」


ヴィルフリートは力なく椅子に沈み込んだ。


リーズの教育は、あまりにも完璧すぎた。


マリアの純真さはそのままに、中身だけが冷徹な計算機へとアップグレードされてしまったのだ。


「(……違う。私が求めていたのは、こういうことではなかったはずだ。もっとこう、ふわふわとしていて、私を全肯定してくれる……)」


かつてのリーズは、確かに可愛げはなかった。


だが、彼女はヴィルフリートがどれだけ書類を溜め込もうとも、不平一つ言わずに裏で完璧に処理してくれていたのだ。


「(……いや、不平は言われていたな。『殿下、脳の処理速度を三割上げてください』とか。だが、あれは私のためを思ってのことだったのか?)」


比較すればするほど、リーズという存在の大きさが浮き彫りになっていく。


そこへ、当のリーズがノックもそこそこに室内に足を踏み入れてきた。


「失礼いたします。殿下、先ほど財務部から悲鳴が上がっておりましたが、また予算案の書き換えを命じましたか?」


「り、リーズ! ああ、ちょうどいいところに……いや、何でもない。……書き換えたのではない。少し、項目の修正を……」


「修正、という名の現実逃避ですね。その修正案では、三ヶ月後に王立騎士団の食費が枯渇し、彼らは空腹のあまり反乱を起こすか、道端の草を食べる羽目になりますわ」


リーズはヴィルフリートの手元からひょいと書類を奪い取ると、立ったままペンを走らせ始めた。


その無駄のない動き、迷いのない筆致。


ヴィルフリートは、彼女が淀みなく仕事を片付けていく姿に、不覚にも目を奪われてしまった。


「……リーズ。君は、疲れないのか? そんなに数字ばかり見ていて、心が乾いたりしないのか?」


「乾く、ですか? むしろ、数字がピッタリと一致した時の快感は、何物にも代えがたい潤いですわ。……はい、修正完了です。これで騎士団の胃袋は守られました」


リーズが満足げに書類を差し出す。


その指先がわずかにヴィルフリートの手に触れた瞬間、彼は心臓が跳ね上がるのを感じた。


「(……えっ? 今、何だ? なぜ、リーズに触れられただけで、こんなに……)」


「殿下? 顔が赤いですわよ。まさか、計算のしすぎで知恵熱でも出されましたか?」


リーズが心配そうに(あるいは観察するように)顔を覗き込んでくる。


至近距離で見る彼女の瞳は、どんな宝石よりも澄んでいて、そして知的だった。


「な、何でもない! 少し部屋が暑いだけだ!」


「そうですか。では、空調効率を上げるために、窓の開放角度を十五度に変更いたしますわ」


リーズは事務的に窓を開けると、再びマリアの方へ向き直った。


「マリア様、次は『王宮内の派閥争いにおける、贈賄と接待のコスト比較』について講義を行います。場所を移動しましょう」


「はい、リーズ先生ぇ! とっても楽しみですぅ!」


二人が仲睦まじく(?)去っていく背中を見送りながら、ヴィルフリートは激しく混乱していた。


マリアは可愛い。それは間違いない。


だが、リーズと一緒にいる時に感じる、この「背中を預けられるような安心感」と、最近芽生え始めた「得体の知れない高揚感」は何なのだろうか。


「……私は、マリアを愛しているから、リーズとの婚約を破棄しようとした。……はずだ」


口に出してみると、その決意がひどく脆いものに感じられた。


かつてあれほど疎ましく思っていたリーズの小言が、今では子守唄のように心地よくすら感じ始めていた。


「……いや、ダメだ。私はマリアを守る騎士になると誓ったんだ。リーズのような鉄の女に屈して、一生数字の奴隷になるなんて……」


ヴィルフリートは必死に自分に言い聞かせた。


しかし、机の上に残されたリーズの完璧な修正案を見ていると、自然と口角が上がってしまう。


「(……この数字の美しさ。確かに、悪くない……)」


王子の悩みは、もはや「どちらを選ぶか」ではなく、「自分自身の本当の嗜好」という、さらなる深淵へと向かっていた。


そしてその日の夜、彼は夢を見た。


リーズに「殿下、本日の愛の囁き回数がノルマに達していませんわ」と、冷たく、しかしどこか艶っぽく責められる夢を。


翌朝、ヴィルフリートが酷い寝不足で目を覚ましたのは、言うまでもない。
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