婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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「……おい、聞いたか? 隣国のレオナード王子が、リーズ様に親書を送ったらしいぞ」


「ああ、あの『氷の賢者』と謳われる王子か。リーズ様の有能さを聞きつけて、我が国の損失は承知の上で、ぜひ王妃に迎えたいと熱望しているらしい」


王宮の廊下を歩いていたヴィルフリート殿下の耳に、潜めてはいるが興奮を隠しきれない騎士たちの噂話が飛び込んできた。


ヴィルフリート殿下は、まるで見えない壁に激突したかのように足を止めた。


「……レオナードが? リーズに、親書を?」


レオナード王子。隣国の第一王子であり、若くして国の財政を立て直した天才と名高い男だ。


ヴィルフリートとはアカデミー時代からのライバルでもある。


「(……なぜだ。なぜ、あいつがリーズに。いや、確かにリーズは有能だが、あんな可愛げのない、数字の化け物のような女を欲しがる男が私以外に……いや、私は欲しがっていないはずだが!)」


脳内が急速にオーバーヒートを起こし始める。


ヴィルフリートは、気づけばリーズが執務を行っている図書室へと、猛烈な勢いで突き進んでいた。


「リーズ! リーズ・ブラッドベリーはどこだ!」


「お静かに、殿下。ここは公共の場ですわ。騒音レベルが許容範囲を超えております」


本棚の陰から、いつも通り完璧な姿勢でリーズが現れた。


彼女は大量の古文書を抱えていたが、その表情は相変わらず鉄面皮そのものだ。


「リーズ、君……隣国のレオナードから手紙をもらったというのは本当か!?」


「ええ。今朝、速達で届きましたわ。非常に洗練された、無駄のない美しい文面でした」


「な……っ! あいつ、何を書いてきたんだ。どうせ君の計算能力を利用しようとしているだけだろう。あいつは打算的な男なんだぞ!」


リーズは少しだけ意外そうに、ヴィルフリートを見つめた。


「打算的。最高の褒め言葉ですわね。レオナード王子は、私の作成した『物流網の最適化に関する論文』を高く評価してくださり、もし私がフリーの身になるのであれば、国家予算の半分を預ける権限と共に、彼自身のパートナーとして迎えたいと提案してくださいました」


「こっ、国家予算の半分だと!? あいつ、正気か!」


「正気だからこその投資でしょう。彼は、私の価値を正確に『数値化』して提示してくださいました。……どこかの、感情だけで婚約を破棄しようとする殿下とは大違いですわ」


リーズの言葉が、鋭いナイフとなってヴィルフリートの胸に突き刺さる。


ヴィルフリートは、何とも言えない焦燥感に駆られた。


「……それで、君はどう返事をしたんだ。まさか、あんな男のところへ行くつもりじゃないだろうな」


「現在、損益計算を行っている最中です。隣国へ嫁いだ場合の生活コスト、言語習得の手間、そして得られる権限の大きさ……。全てを総合的に判断し、最も効率的な未来を選択いたします」


「効率、効率って……君には心がないのか! 私との時間は、君にとってそんなに簡単に切り捨てられる端数のようなものだったのか!」


叫んだ後で、ヴィルフリートは自分でも驚くほど声が震えていることに気づいた。


リーズは、抱えていた本を机に置き、ゆっくりとヴィルフリートに歩み寄った。


「……殿下。端数、ではありませんわ」


「えっ……?」


「殿下との五年間は、私の人生における『固定資産』です。減価償却は進んでおりますが、その土台があるからこそ、今の私がある。……それを、無価値だと思ったことは一度もございません」


リーズの瞳が、至近距離でヴィルフリートを射抜く。


そこには冷徹な計算ではなく、確かな重みを持った「言葉」が宿っていた。


ヴィルフリートは、ドクン、と心臓が大きく跳ねるのを感じた。


「だったら……だったら、あいつのところへなんて行くな。まだ、執行猶予期間中だろう!」


「ええ。ですから、すぐには返事をいたしません。……ところで殿下、そんなことより、マリア様への『愛のプレゼン』の準備は進んでいらっしゃるのですか?」


「あ……」


「レオナード王子の噂にうろたえて、自らのタスクを疎かにする。……現在の殿下の『市場価値』、暴落中ですので、ご注意くださいませ」


リーズはそれだけ言うと、再び本を抱えて図書室の奥へと消えていった。


一人残されたヴィルフリートは、熱くなった顔を両手で覆った。


「(……マリア。そうだ、私はマリアを愛しているはずだ。……なのに、なぜあいつの親書一本で、こんなに胃のあたりがソワソワするんだ……!)」


彼は気づいていなかった。


リーズという存在が、もはや彼の人生において「計算」では決して割り切れない、巨大な変数になっていることに。


そして、その夜。


ヴィルフリートは、レオナード王子の顔を思い浮かべては「あいつ、絶対リーズに冷たいスープとか飲ませるタイプだぞ」と、根拠のない悪口を独り言で呟き続けるのであった。
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