婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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王宮のテラス。


夕闇が迫る中、ヴィルフリート殿下は欄干に身を乗り出し、深く、そして非常に重苦しい溜息を吐いていた。


「……リーズ、君はさっき、レオナードの文面を『美しい』と言ったな」


背後に控えていたリーズは、手元の資料から顔を上げ、不思議そうに瞬きをした。


「ええ。修辞学に基づいた完璧な構成でしたわ。無駄な形容詞を削ぎ落とし、単刀直入にメリットを提示する。あれこそ知的生産者の鑑です」


「……あいつ、昔からそうだ。成績も運動神経も、常に私の一歩先を行こうとする。だが、婚約者まで横取りしようとするなんて、非紳士的にも程があるだろう!」


ヴィルフリート殿下は、手近にあったクッションをぎゅっと握りしめた。


リーズはその様子を数秒間、観察するように見つめた後、無造作にペンを取り出した。


「殿下。先ほどから心拍数が平均より十五パーセント上昇し、瞳孔がわずかに散大。さらに、特定の個人……レオナード王子に対する攻撃的な言動が目立ちます。この症状には、明確な名前がついておりますわ」


「……名前? ストレスによる胃痛のことか?」


「いいえ。……『嫉妬』という名の、独占欲に基づいたシステムバグです」


リーズはさらさらと、空中に数字を描くようにペンを振った。


「し、嫉妬……!? 私が? あんな、嫌味な隣国の王子に対してか?」


「正確には、彼に対してではなく、彼に評価されている『私』という資産を奪われることへの、防衛本能的な不快感でしょう。殿下、これは非常に非合理的な感情ですわ」


リーズは一歩、ヴィルフリート殿下に歩み寄った。


「考えてもご覧なさい。殿下は私との婚約を解消したいと仰った。ならば、私がどこで誰の資産になろうと、本来、殿下のポートフォリオには何の影響もないはずです。むしろ、高値で他国に売れるのであれば、賠償金の相殺材料として喜ぶべき事態ではございませんか?」


「喜べるわけがあるか! あんな……あんな、目が笑っていない男に君を預けたら、君は一生数字を書き込むだけの機械にされてしまうぞ!」


「今も似たような生活をしておりますけれど」


「それは私が……私が許しているからだ! あいつは違う! あいつは、もっと冷酷に君を使い倒すに決まっている!」


ヴィルフリート殿下は、自分でも驚くほどの熱量で叫んでいた。


リーズは、少しだけ眉を下げて、困ったような微笑を浮かべた。


「殿下。その『自分なら上手く扱えるが、他人には渡したくない』という思考回路。まさに独占欲のバグそのものですわ。……嫉妬とは、他者が自分よりも高い評価を対象に与えた際に発生する、一種の市場競争への恐怖。つまり、殿下は今、レオナード王子という『競合他社』の出現によって、私という資産の価値を再認識して焦っていらっしゃるのです」


「再認識……。私が、君の価値を……?」


ヴィルフリート殿下は、言葉を失ってリーズを見つめた。


彼女の肌は透き通るように白く、その瞳には常に理性という名の灯が宿っている。


五年。


いつも隣にいて、当然のように自分の後ろを歩き、完璧に公務を支えてくれていた存在。


それが、隣国の王子という強烈な光に照らされた瞬間、彼女が「誰にとっても魅力的な、唯一無二の至宝」であったことを、彼は突きつけられたのだ。


「……リーズ。もし、本当にレオナードが、私の百倍の条件を提示したとしても。君は、私の隣に……いや、この国にいてくれるか?」


ヴィルフリート殿下の声は、情けないほどに震えていた。


リーズはペンを回すのを止め、静かに彼を見返した。


「……殿下。私は、損益計算の結果に従うと申し上げました」


「……そうか。やっぱり、数字が全てなんだな」


「ええ。ですが、その計算式には『五年間で蓄積された信頼という名ののれん代』が含まれています。……レオナード王子が提示した条件は魅力的ですが、この五年の実績を上回るには、まだ変数が足りませんわ」


リーズはふい、と顔を背けたが、その耳たぶがわずかに赤らんでいるのをヴィルフリート殿下は見逃さなかった。


「……のれん代? それは、私のことが少しは特別だという意味か?」


「……特定の個人に対する優先的な資産配分、という意味です。深く追求するのは時間の無駄ですわ」


リーズは足早にテラスを去ろうとした。


だが、その途中で、物陰から様子を窺っていたマリアが飛び出してきた。


「リーズ様ぁ! 今の、今のとってもロマンチックですぅ!『嫉妬はバグ』なんて、マリア、ノートに三回書いちゃいましたぁ!」


「マリア様、盗み聞きは情報の不正取得ですわよ。……それから殿下。……明日の朝食、殿下の好きな『計算外にバターをたっぷり使ったオムレツ』を用意するよう、厨房に手配しておきました」


リーズは背を向けたまま、それだけ言い残して立ち去った。


ヴィルフリート殿下は、その場に立ち尽くし、熱くなった自分の胸を押さえた。


「……バターたっぷりの、オムレツ……。あいつ……私の好みを、ちゃんと『データ』として保存していたのか……」


「殿下、顔が真っ赤ですよぉ? これもリーズ様の言う『バグ』なんですかぁ?」


マリアにからかわれながらも、ヴィルフリート殿下は、もう否定できなかった。


彼の脳内の計算機は、今やリーズ・ブラッドベリーという存在によって、完全にクラッシュさせられていた。


嫉妬という名のバグは、修正されるどころか、彼の心の中でさらに深刻な「恋」という名のエラーへと書き換えられようとしていた。
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