婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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王宮の図書室。


そこはかつて、ヴィルフリート殿下とマリア様が密かに愛を語らい、甘いお菓子を分け合っていた「真実の愛」の聖域だった。


しかし、現在のそこは、パチパチと弾けるような計算機の音と、紙をめくる無機質な音だけが支配する「戦略司令室」へと変貌を遂げている。


「……リーズ様! 見てください! この第三四半期の王宮光熱費、昨年の同時期に比べて、なんと十二パーセントの削減に成功しましたぁ!」


マリア様が、インクで少し汚れた手を高く突き上げ、満面の笑みで叫んだ。


彼女の瞳は、かつて殿下を見つめていた時のようなトロリとした甘い輝きではなく、獲物を狙う鷹のような、鋭く知的な光を放っている。


「素晴らしいですわ、マリア様。特に、廊下のシャンデリアの点灯時間を、文官たちの移動スケジュールに合わせて分単位で調整したのが効きましたわね」


リーズは、マリア様が提出した集計表に素早く目を通し、満足そうに頷いた。


「はいっ!『暗い廊下は恋を育む』なんて以前は思ってましたけど、今は『暗い廊下は予算を守る』の方が、ずっと胸がキュンキュンしますぅ!」


「その通りです。暗闇はロマンスの温床ではなく、経費削減のチャンス。その調子で、次は厨房の余剰食材の再利用案に取り掛かりましょうか」


二人が顔を寄せ合い、次の「獲物」について議論を交わしているところへ、一輪の花を抱えたヴィルフリート殿下が恐る恐る入ってきた。


「……マリア、リーズ。二人とも、まだそんなことをしているのか? もう日は暮れたぞ。たまには三人で、優雅な音楽でも聴きながら……」


「殿下、お静かに。今、マリア様は人生で最も重要な『残飯から生まれる経済価値』について閃きかけているところです。あなたの音楽は、一銭の得にもなりませんわ」


リーズが視線すら向けずに言い放つと、マリア様も間髪入れずに続けた。


「そうです、殿下! 音楽を聴く暇があったら、殿下のマントの修繕費を計算してください! そのマント、引きずって歩くから裾の摩耗が激しいんですぅ! 一歩歩くごとに、銅貨一分が削れていると思ってくださいっ!」


「ど、銅貨が削れる……? マリア、君は昔、私のマントが風にたなびく姿がカッコいいと言ってくれたじゃないか……」


「それは計算を知らなかった頃の、未熟な私の妄想ですぅ! 今の私には、殿下のマントは『歩く負債』にしか見えません!」


ヴィルフリート殿下は、手に持っていた花を力なく床に落とした。


かつて自分を全肯定してくれた可憐な少女は、そこにはいなかった。


そこにいるのは、リーズ・ブラッドベリーという最強の教師によって生み出された、若き「数字の申し子」だった。


「マリア……君は、変わってしまったな。リーズに毒されてしまったのか?」


「毒だなんて心外ですわ、殿下。私は彼女の才能を開花させただけ。……マリア様、次はどうされます?」


リーズがマリア様に問いかけると、マリア様は立ち上がり、リーズの手を両手でギュッと握りしめた。


「リーズ様! 私、決めました! 私、殿下の妃になるよりも、リーズ様の第一秘書になりたいです! いえ、リーズ様の妹になりたいですぅ!」


「秘書……いえ、妹、ですか?」


リーズが少しだけ驚いたように目を瞬かせると、マリア様は感極まった様子で叫んだ。


「はい! お姉様! リーズお姉様! 私、お姉様に一生付いていきます! 殿下の愛なんて、数字で説明できない不確定なものより、お姉様の計算式の美しさの方が、ずっと信頼できます!」


「お、おね……お姉様だとぉ!?」


ヴィルフリート殿下の絶叫が図書室に響き渡った。


婚約破棄を宣言し、マリア様と結ばれるはずだった物語が、いつの間にか「マリア様がリーズの妹分になる」という、謎の姉妹譚にすり替わっている。


「マリア! 君が愛しているのは私だろう!? リーズじゃないはずだ!」


「殿下、愛の定義を更新してください。私にとっての愛とは、共に高め合い、共に資産を増やせる関係のことです。……殿下は、私の計算ミスを指摘してくれますか? 私のポートフォリオにアドバイスをくれますか? ……くれませんよね? 『今日も可愛いね』なんて、何の役にも立たない言葉を繰り返すだけです!」


「う、うぐっ……」


「その点、リーズお姉様は違います! 私の間違いを容赦なく叩き潰し、正しい解へと導いてくださる! これこそが真実の導き、真実の愛ですぅ!」


マリア様はリーズの肩に頭を預け、うっとりと目を閉じた。


リーズは、困惑しながらも、少しだけくすぐったそうにマリア様の頭を撫でた。


「……まあ、優秀な弟子ができるのは、悪い気分ではありませんわね。……殿下。ご覧の通り、マリア様の教育は完了いたしました。彼女はもう、あなたの『甘い言葉』だけでは満足できない体に……いえ、脳になってしまったようです」


「リーズ……! 君はマリアまで奪うつもりか! 私の婚約も、私の恋人も……何もかも君の数字の中に飲み込んでしまうのか!」


「奪うだなんて。私はただ、彼女に『自由な選択肢』を与えただけです。……さて、殿下。執行猶予期間はまだ続いておりますが、このままマリア様と二人で、私のいない世界へ行かれますか?」


リーズが問いかけると、マリア様が即座に反応した。


「お姉様が行かないなら、私も行きません! 殿下、一人で頑張ってください!」


「マ、マリアまでそんなことを……! 一人で国務なんてできるわけないだろう!」


ヴィルフリート殿下は、その場に崩れ落ちた。


かつての敵は、いつの間にかマリアという強力な味方を手に入れ、王子の包囲網を完成させていた。


ヴィルフリートは、リーズとマリアが楽しそうに「来月の食費削減案」について語り合う姿を、涙目で見つめるしかなかった。


「(……私は、一体誰と婚約破棄をしようとしていたんだっけ? リーズ? マリア? ……いや、もしかして、私は二人から同時に捨てられようとしているのか!?)」


王子の脳内は、リーズに教わったどんな数式でも解けない、究極の絶望という名の答えを導き出していた。


リーズ・ブラッドベリーという女の恐ろしさは、剣でも毒でもなく、「教育」という名の洗脳、あるいは覚醒にあったのだ。


「お姉様! この案件、次回の予算会議で叩きつけてやりましょうね!」


「ええ。楽しみですわ、マリア」


華やかな王宮の片隅で、最強の「義姉妹」が誕生した瞬間だった。
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