婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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深夜二時。王宮の静寂は、本来ならば王太子の深い眠りを守るためのものだった。


しかし、ヴィルフリート殿下の寝室では、一人の男がベッドの上で芋虫のようにのた打ち回っていた。


「……くっ、胃が。胃が燃えるように熱い……。脳内をマリアの叩く計算機の音が走り抜け、リーズの『減点ですわ』という声がリフレインして離れない……」


ヴィルフリートは枕を頭に押し付けたが、闇の中にすらリーズが作成した赤い折れ線グラフが浮かび上がってくる始末だった。


「(……なぜだ。私は愛するマリアと結ばれるはずだったのに。なぜ、今やマリアに『歩く負債』と呼ばれ、リーズには『市場価値暴落』と蔑まれているのだ……?)」


自業自得という四文字を脳から必死に排除しようとしたが、ストレスは確実に彼の消化器系を蝕んでいた。


「……お腹が空いた。だが、厨房へ行く元気もない。いや、厨房へ行けば、またリーズが『深夜のカロリー摂取は翌朝のパフォーマンスを低下させます』と影から現れるに決まっている……」


そう呟き、彼が絶望と共にシーツを被った、その時だった。


カチャリ、と小気味よい音を立てて、寝室の扉が開かれた。


「……現在時刻、午前二時十五分。殿下のバイタルデータから推測される、典型的なストレス性胃炎および、空腹による血糖値の低下を確認いたしました」


「げぇっ!? り、リーズ! なぜここに……というか、人の寝室に勝手に入るな!」


ヴィルフリートが飛び起きると、そこには夜着の上から薄いガウンを羽織ったリーズが、ワゴンを押して立っていた。


彼女の背後には、ランタンの淡い光が逆光となって、まるで死神か救世主のようなシルエットを作り出している。


「勝手、ではありませんわ。この部屋の魔導照明が、先ほどから弱まったり強まったりを繰り返しておりました。殿下が苦悩のあまり、スイッチを弄り回して電気代を無駄遣いしている証拠です」


「見ていたのか!? いや、それより、そのワゴンは何だ?」


「『王室重要資産・維持管理用深夜補給セット』です。殿下がこのまま胃に穴をあけて倒れられては、明日の予算会議が延期になり、私のスケジュールに数時間のタイムラグが発生しますの。それは著しい損失ですわ」


リーズは手際よくワゴンの上の銀のカバーを外した。


そこから立ち上がったのは、優しく、しかし食欲を猛烈に刺激する出汁の香りだった。


「……これは、スープか?」


「ただのスープではありません。胃粘膜を保護する成分を凝縮し、消化に一切の負担をかけないよう分子レベルで計算された『特製ハーブと白身魚のコンソメ』ですわ。それから、この薬膳パンもどうぞ」


リーズは慣れた手つきで、ヴィルフリートのベッドサイドにテーブルをセッティングした。


ヴィルフリートは疑いの眼差しを向けながらも、香りに抗えず、スプーンを口に運んだ。


「…………っ! う、美味い……。何だこれ、身体の隅々に染み渡るようだ」


「当然です。殿下の現在の体調、ストレスレベル、そして好みを全て変数として組み込んだ最適解ですから」


リーズは椅子に腰掛け、殿下が勢いよくスープを啜る様子を無表情で見守った。


ヴィルフリートは数口食べて、ようやく人心地がついたのか、ふっと肩の力を抜いた。


「……リーズ。君は、私を嫌っているわけではないのか?」


「本日、二度目の質問ですね。その問い自体が非常に非効率的ですわ。嫌いな対象のために、深夜にわざわざ出汁を取る人間がどこにいますか?」


「……それもそうだが。君はいつも『資産価値』だの『損失』だのとしか言わないだろう。今の私は、君にとって守るべき国宝か何かなのか?」


リーズは少しだけ視線を泳がせ、手に持っていた懐中時計をパチンと閉じた。


「……国宝、というよりは。……そう、手塩にかけた『未完のプロジェクト』といったところでしょうか。五年前、何も知らなかった私たちが婚約した時から、私はあなたという人間を、最高の結果へと導くために計算を続けてきました」


「プロジェクト、か……」


「ええ。途中で『マリア』という巨大な予測不能の変数(バグ)が飛び込んできましたが……。それすらも、今の私は楽しんでいるのかもしれませんわ」


リーズの横顔を、ランタンの炎が揺らす。


その表情は、昼間の冷徹なコンサルタントのそれではなく、どこか懐かしむような、柔らかなものに見えた。


ヴィルフリートは、胸の奥が熱くなるのを感じた。スープのせいだけではない、何か得体の知れない感情だ。


「リーズ……。私は、君のことを誤解していたのかもしれない。君はただ、私を支配したいわけじゃなく……」


「勘違いしないでください。殿下が立派な国王になれば、私の将来の配当金が増える。それだけの話ですわ」


「……台無しだよ! 少しはデレろ!」


「『デレ』の市場価値は、希少性によって保たれるものです。乱発はいたしません」


リーズは立ち上がり、空になった器をワゴンに片付けた。


「さあ、殿下。補給は完了しました。あと五時間十四分、質の高い睡眠を取ってください。明日の朝、もし遅刻されたら、目覚まし代わりに私の『罵倒の音響兵器』をお見舞いいたしますわ」


「……それ、マリアも喜んで聴きそうだな」


「マリア様は既に、私の罵声を録音して『やる気が出る呪文』として活用していらっしゃいます」


「あいつ、もう手遅れだ……」


ヴィルフリートは苦笑しながら、再びシーツに潜り込んだ。


不思議なことに、あんなに疼いていた胃の痛みは、すっかり消え去っていた。


リーズが部屋の灯りを消し、扉へと向かう。


「……おやすみなさい、ヴィルフリート殿下。良い夢という名のシミュレーションを」


「ああ。……おやすみ、リーズ」


扉が閉まる音と共に、再び静寂が戻ってきた。


ヴィルフリートは、暗闇の中で自分の鼓動が少し早いことに気づく。


「(……マリアとの愛は、確かに刺激的だった。だが、リーズと一緒にいると……。……いや、ダメだ。私はまだ、婚約破棄の途中なのだから……)」


彼は自分に言い聞かせながら、リーズの残していった清涼な香りに包まれ、深い眠りへと落ちていった。


翌朝、殿下は人生で最高の目覚めを迎え、その後の会議で驚異的な処理能力を見せつけることになる。


それを見たリーズが、手帳に「夜食による投資回収率、想定以上の二〇〇パーセントを記録」と、満足げに書き込んでいたことは、まだ誰も知らない。
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