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リーズが休暇に入ってから、わずか二十四時間後。
ブラッドベリー公爵邸の重厚な門扉の前に、およそ王族とは思えないほど薄汚れた格好の男が立っていた。
ヴィルフリート殿下である。
彼は髪を振り乱し、隈のひどい顔で門番に縋り付いていた。
「頼む……リーズを、リーズ・ブラッドベリー嬢に会わせてくれ! これは国家の、いや、私の存亡がかかっているんだ!」
「……殿下、お引き取りを。お嬢様からは『未払いの残業代と精神的苦痛の賠償金を持たない者の面会は、一秒につき指一本の切断に等しい苦痛である』との伝言を預かっております」
「指が何本あっても足りないだろうが! 通せ、通してくれ!」
門番を強引に振り切り、ヴィルフリートはリーズの私室がある離れへと突き進んだ。
そこには、白の優雅なネグリジェにガウンを羽織り、庭園を眺めながらゆったりと読書に耽るリーズの姿があった。
「……現在時刻、午前九時十五分。想定より三時間ほど早い到着ですわね、殿下。私の計算では、トイレットペーパーが尽きて発狂するのは正午過ぎのはずでしたが」
リーズは本を閉じ、冷ややかな、しかしどこか満足げな瞳で王子を見据えた。
ヴィルフリートは彼女の姿を見た瞬間、糸の切れた人形のようにその場に膝をついた。
「リーズ……。戻ってきてくれ。頼む。私が……私たちが間違っていた」
「何が、どう間違っていたのですか? 具体的かつ論理的に説明してくださいませ。感情論は却下いたします」
リーズが足を組み、優雅にティーカップを傾ける。
ヴィルフリートは床に額を擦り付けた。王太子のプライドなど、既に王宮のゴミ箱に捨ててきたのだ。
「まず、君の労働価値を『可愛げ』という一点のみで評価しようとした私の無知! 次に、君がいなくても国務が回ると過信した私の傲慢! そして……そして、君のいない王宮がこれほどまでに冷たく、暗く、数字の羅列が呪文に見えるほど私が無能であることを認めます!」
「……ほう、土下座ですか。金貨三千枚分ほどのプライドの毀損(きそん)を自ら行いましたわね」
「三千枚でも三万枚でも払ってやる! だから戻ってきてくれ! マリアも今、王宮の裏庭で『一たす一は、お姉様の愛ですぅ!』と叫びながら、庭師のハサミで計算機を作ろうとするほど精神を病んでいるんだ!」
リーズは少しだけ眉を動かした。
「マリア様が……。それは少し、教育の弊害が出ましたわね。……いいでしょう。戻らないわけではありませんわ」
「本当か!?」
ヴィルフリートが顔を上げると、リーズは微笑みながら、一冊の分厚いファイルを机に置いた。
「ただし、帰還の条件が五十項目あります。全て読み上げますので、一言一句違わず承諾してくださいませ」
「ご、五十……?」
「一、今後の王宮内での全決裁権をリーズ・ブラッドベリーに移譲すること。二、殿下の自由時間は一日一時間とし、残りは全てリーズの管理下での実務に従事すること。三、私の機嫌を損ねた場合、一回につき金貨十枚の『不快指数補填』を支払うこと……」
リーズが淡々と読み上げる条件は、もはや婚約者への要求ではなく、主従関係の逆転を宣告するものだった。
「……四十八、殿下は毎晩、就寝前にリーズの有能さを称えるポエムを自作し、提出すること。……以上ですわ」
「四十八番だけ方向性がおかしくないか!? 羞恥心で死んでしまう!」
「非論理的な恥を捨てるのが、成長への第一歩ですわ。……さあ、サインを。拒否されるのであれば、私はこのまま隣国のレオナード殿下と、移籍に伴う退職金の交渉に入りますけれど?」
リーズがペンを差し出すと、ヴィルフリートは震える手でそれを受け取った。
彼は知っていた。ここで拒めば、自分は二度とパンを適正価格で食べられず、暗い廊下で迷子になり、マリアと共に数字の海に溺れて死ぬのだ。
「……書く。書けばいいんだろう!」
ヴィルフリートは一気にサインをした。
その瞬間、リーズは立ち上がり、完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
「契約成立ですわ、殿下。……では、早速戻りましょう。滞っている書類の山を、今夜中に全て片付けていただきますわよ。当然、徹夜になりますけれど、私の淹れる『覚醒作用を限界まで高めたお茶』があれば大丈夫ですわね?」
「……リーズ。君、本当は休暇なんて取らなくても、こうなることを分かって楽しんでいただろう?」
「あら。投資の基本は、最も効果的なタイミングで市場を揺さぶることですもの」
リーズは王子の腕をがっしりと掴み、捕虜を引き連れる将軍のような足取りで公爵邸を後にした。
ヴィルフリートは、その横顔の美しさに胸をときめかせながらも、今夜から始まる地獄のような「強制労働」という名の愛の形に、密かに戦慄していた。
王子の土下座は、王国のパワーバランスを完全に、そして決定的に変えてしまったのである。
ブラッドベリー公爵邸の重厚な門扉の前に、およそ王族とは思えないほど薄汚れた格好の男が立っていた。
ヴィルフリート殿下である。
彼は髪を振り乱し、隈のひどい顔で門番に縋り付いていた。
「頼む……リーズを、リーズ・ブラッドベリー嬢に会わせてくれ! これは国家の、いや、私の存亡がかかっているんだ!」
「……殿下、お引き取りを。お嬢様からは『未払いの残業代と精神的苦痛の賠償金を持たない者の面会は、一秒につき指一本の切断に等しい苦痛である』との伝言を預かっております」
「指が何本あっても足りないだろうが! 通せ、通してくれ!」
門番を強引に振り切り、ヴィルフリートはリーズの私室がある離れへと突き進んだ。
そこには、白の優雅なネグリジェにガウンを羽織り、庭園を眺めながらゆったりと読書に耽るリーズの姿があった。
「……現在時刻、午前九時十五分。想定より三時間ほど早い到着ですわね、殿下。私の計算では、トイレットペーパーが尽きて発狂するのは正午過ぎのはずでしたが」
リーズは本を閉じ、冷ややかな、しかしどこか満足げな瞳で王子を見据えた。
ヴィルフリートは彼女の姿を見た瞬間、糸の切れた人形のようにその場に膝をついた。
「リーズ……。戻ってきてくれ。頼む。私が……私たちが間違っていた」
「何が、どう間違っていたのですか? 具体的かつ論理的に説明してくださいませ。感情論は却下いたします」
リーズが足を組み、優雅にティーカップを傾ける。
ヴィルフリートは床に額を擦り付けた。王太子のプライドなど、既に王宮のゴミ箱に捨ててきたのだ。
「まず、君の労働価値を『可愛げ』という一点のみで評価しようとした私の無知! 次に、君がいなくても国務が回ると過信した私の傲慢! そして……そして、君のいない王宮がこれほどまでに冷たく、暗く、数字の羅列が呪文に見えるほど私が無能であることを認めます!」
「……ほう、土下座ですか。金貨三千枚分ほどのプライドの毀損(きそん)を自ら行いましたわね」
「三千枚でも三万枚でも払ってやる! だから戻ってきてくれ! マリアも今、王宮の裏庭で『一たす一は、お姉様の愛ですぅ!』と叫びながら、庭師のハサミで計算機を作ろうとするほど精神を病んでいるんだ!」
リーズは少しだけ眉を動かした。
「マリア様が……。それは少し、教育の弊害が出ましたわね。……いいでしょう。戻らないわけではありませんわ」
「本当か!?」
ヴィルフリートが顔を上げると、リーズは微笑みながら、一冊の分厚いファイルを机に置いた。
「ただし、帰還の条件が五十項目あります。全て読み上げますので、一言一句違わず承諾してくださいませ」
「ご、五十……?」
「一、今後の王宮内での全決裁権をリーズ・ブラッドベリーに移譲すること。二、殿下の自由時間は一日一時間とし、残りは全てリーズの管理下での実務に従事すること。三、私の機嫌を損ねた場合、一回につき金貨十枚の『不快指数補填』を支払うこと……」
リーズが淡々と読み上げる条件は、もはや婚約者への要求ではなく、主従関係の逆転を宣告するものだった。
「……四十八、殿下は毎晩、就寝前にリーズの有能さを称えるポエムを自作し、提出すること。……以上ですわ」
「四十八番だけ方向性がおかしくないか!? 羞恥心で死んでしまう!」
「非論理的な恥を捨てるのが、成長への第一歩ですわ。……さあ、サインを。拒否されるのであれば、私はこのまま隣国のレオナード殿下と、移籍に伴う退職金の交渉に入りますけれど?」
リーズがペンを差し出すと、ヴィルフリートは震える手でそれを受け取った。
彼は知っていた。ここで拒めば、自分は二度とパンを適正価格で食べられず、暗い廊下で迷子になり、マリアと共に数字の海に溺れて死ぬのだ。
「……書く。書けばいいんだろう!」
ヴィルフリートは一気にサインをした。
その瞬間、リーズは立ち上がり、完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
「契約成立ですわ、殿下。……では、早速戻りましょう。滞っている書類の山を、今夜中に全て片付けていただきますわよ。当然、徹夜になりますけれど、私の淹れる『覚醒作用を限界まで高めたお茶』があれば大丈夫ですわね?」
「……リーズ。君、本当は休暇なんて取らなくても、こうなることを分かって楽しんでいただろう?」
「あら。投資の基本は、最も効果的なタイミングで市場を揺さぶることですもの」
リーズは王子の腕をがっしりと掴み、捕虜を引き連れる将軍のような足取りで公爵邸を後にした。
ヴィルフリートは、その横顔の美しさに胸をときめかせながらも、今夜から始まる地獄のような「強制労働」という名の愛の形に、密かに戦慄していた。
王子の土下座は、王国のパワーバランスを完全に、そして決定的に変えてしまったのである。
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