婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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王宮の執務室、深夜三時。


煌々と魔法の灯りが灯る室内には、カリカリとペンが紙を走る音だけが規則正しく響いていた。


土下座の末に交わされた「復帰契約」に基づき、ヴィルフリート殿下は山積みの書類を前に、文字通り死に物狂いで格闘していた。


「……リーズ。四十八番目の条件、『王子のポエム』が書けたぞ。読んでくれ」


ヴィルフリートが震える手で差し出したのは、端が少し折れた羊皮紙だった。


リーズは書類のチェックを止めることなく、片手でそれを受け取ると、無表情に朗読し始めた。


「『黄金の髪は王国の富、その瞳は叡智のサファイア。君の計算に導かれ、私は真実の光を知る。ああ、リーズ、君は我が国の最高益……』」


リーズはそこで一度、朗読を中断した。


「……韻の踏み方が甘いですわね。比喩表現も直截的すぎて、文学的資産価値としては銅貨三枚分といったところでしょうか」


「酷すぎるだろう! こっちは徹夜のテンションで、恥をかなぐり捨てて書いたんだぞ!」


「ですが、殿下」


リーズは羊皮紙を机に置くと、眼鏡を外して、じっとヴィルフリートを見つめた。


「……私の『叡智のサファイア』が分析したところ、この稚拙な文章には、これまでの書類にはなかった『不純物』が混じっていますわ」


「不純物?」


「ええ。論理的な整合性を無視し、ただひたすらに私の存在を肯定しようとする、極めて強いエネルギー。……科学的にはアドレナリンやドーパミンの異常分泌、心理学的には自己暗示の一種と説明できますが」


リーズは自らの胸元に手を当てた。


そこには、契約書には書き込めなかった「不協和音」が微かに響いていた。


「……殿下。愛とは、一体何なのでしょうか。私はこれまで、それを『互いの利益が一致した際の状態』、あるいは『種族保存のための生存本能』と定義してきましたわ」


ヴィルフリートは、疲れ果てた顔に微かな苦笑を浮かべ、椅子に背を預けた。


「……以前の私なら、そう言われて反論できなかったかもしれない。でも、今は違う。愛とは、どんなに引いても引いても残ってしまう『余り』のことなんじゃないかな」


「余り……?」


「そう。君がどれほど冷徹に私を分析しても、私がどれほど君の厳しさに悲鳴を上げても、どうしても計算式の中に収まりきらない、この胸の痛みや熱さのことだ。リーズ、君の完璧な数式でも、その『余り』だけは処理できないだろう?」


リーズは沈黙した。


彼女の脳内では、常に膨大なデータが処理されている。


王国の予算、物流の推移、魔力の残量……。それらは全て、整然とした解を導き出してきた。


しかし、目の前でボロボロになりながら、それでも自分を見つめる王子の瞳をどう計算すればいいのか、彼女には分からなかった。


「……認めますわ。私のポートフォリオの中に、一つだけ、市場原理を無視して暴騰し続けている項目があります」


リーズはゆっくりと立ち上がり、ヴィルフリートの隣に歩み寄った。


「殿下の存在そのものが、私の計算における最大のノイズです。……そして、そのノイズを排除するよりも、その変動を見守っていたいと思ってしまう。これは、プロフェッショナルとして致命的なエラーですわね」


「……エラーでいいよ。そのエラーが、私を救ってくれたんだから」


ヴィルフリートがリーズの手をそっと握った。


今度はリーズも、その手を振り払うことはなかった。


彼女の手のひらに伝わる、人間の体温。それは、数字で書かれた報告書よりもずっと、彼女の心を揺さぶった。


「……愛の再定義を行いますわ。……愛とは、合理性を超えた投資。……回収の目処が立たなくても、全財産を注ぎ込みたくなるような、究極のギャンブルのことです」


「ギャンブルか。君らしくていいな」


「笑い事ではありませんわよ。私は負け戦はしない主義です。……殿下、あなたがもし私の投資を無駄にするようなことがあれば、その時は法的な手段を……」


「ああ、分かっている。終身雇用、一生かけて君に奉仕するよ」


二人の距離が、わずかに縮まる。深夜の静寂の中で、互いの心拍数が同期していくような錯覚。


……が、その空気を切り裂くように、扉が勢いよく開いた。


「お姉様ぁ! 殿下ぁ! 今の会話、全部録音魔法で採取完了ですぅ!『究極のギャンブル』、名言すぎますぅ!」


眼鏡を光らせたマリアが、隠し持っていた魔導録音機を掲げて飛び込んできた。


「マリア……! 君、なぜ寝ていないんだ!」


「寝るわけないじゃないですかぁ! お姉様の感情の閾値(いきうち)が更新される瞬間を記録するのは、秘書としての最重要任務ですっ!」


マリアは鼻息荒くノートを取り出し、二人の様子を観察し始めた。


「お姉様の頬の赤み、通常時より二十パーセント増加! 殿下の表情、デレデレ指数が限界突破! ……これは、次回の王宮新聞のトップニュース間違いなしですぅ!」


「マリア様、その記録は機密事項ですわ。……今すぐ没収いたします」


リーズは顔を真っ赤にしながら、いつもの冷徹な表情を取り戻そうと必死に努めた。


「嫌ですぅ! これは私の『愛の教科書』の一部なんですぅ!」


「……殿下。やはり三人体制の運用には、プライバシーの保護という新たな課題が浮上しましたわね」


「……リーズ。君の愛の定義に、『プライバシーの侵害への寛容』も付け加えておいてくれ……」


ヴィルフリート殿下は天を仰いだ。


理屈では割り切れない感情。それは、王宮にさらなる騒々しさと、そして確かな幸福をもたらしていた。


リーズは、手帳の「愛」の項目に、小さく「未解明の特異点」と書き加えた。


その横に描かれた小さなハートマークを、彼女はまだ、誰にも見せるつもりはなかった。
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