婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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王宮の朝食会。


かつては色とりどりの果物や、甘いシロップがたっぷりかかったパンケーキが並んでいたテーブルの上には、今や「完璧な栄養バランスとコスト効率」を追求した簡素な食事が並んでいた。


「……ねえ、マリア。君、本当にそれでいいのか?」


ヴィルフリート殿下が、少し寂しそうにマリアへ問いかけた。


マリアは、片手にフォーク、もう片方の手に計算機を持ち、トーストの焼き色のムラを厳しい目で見つめていた。


「殿下、何のことでしょうかぁ? この全粒粉パンは、脳の活性化に必要なビタミンB群を最も安価に摂取できる、究極のエネルギー源ですぅ!」


「いや、食べ物の話じゃなくて……その、恋のことだよ。君は以前、私にあんなに情熱的に『真実の愛』を語ってくれたじゃないか」


「真実の愛……? ああ、あの不採算な妄想のことですね。お姉様に脳のデフラグをしていただいてからというもの、あんな非効率な感情にリソースを割いていた自分が信じられませんわ!」


マリアは眼鏡をクイッと押し上げ、冷徹に言い放った。


「今の私の恋人は、この『王国会計帳簿』です! 数字は裏切りませんし、浮気もしません。何より、整合性が取れた時の快感は、殿下の甘い囁きの百倍は脳内麻薬が出ますぅ!」


「……リーズ。君、マリアをどうしてくれたんだ。以前の彼女を返してくれ」


ヴィルフリート殿下が隣のリーズに助けを求めると、リーズは優雅にナプキンで口元を拭った。


「失礼な。私はただ、彼女の中に眠っていた『実務の才能』という名の原石を磨き上げただけですわ。……ですが、殿下の仰ることも一理あります。マリア様という優秀な資産を、このまま王宮に死蔵させておくのは、少々もったいないかもしれません」


「死蔵って……彼女を嫁に出すつもりか?」


「ええ。正確には『戦略的合併』ですわ。……マリア様、あなたにぴったりの『共同経営者』の候補を選定しておきました」


リーズが合図を出すと、侍従が一枚のポートフォリオを持ってきた。


マリアはそれをひったくるように受け取り、目を通し始めた。


「……な、何ですか、この美しすぎる経歴は!『財務省若手筆頭、ルッツ・フォン・オーディット伯爵。趣味、複式簿記の監査。座右の銘、一分の狂いもない決算』……!」


マリアの瞳が、かつて殿下と出会った時よりも激しく輝き始めた。


「彼こそ、この王宮で唯一、私と数字で渡り合える男ですわ。現在は王立銀行の監査官として、不正支出を片っ端から摘発している『会計界の死神』と呼ばれています」


「会計界の死神……! なんて素敵な響きなんでしょう! お姉様、彼に会わせてください! 彼の監査報告書を生で見てみたいですぅ!」


ヴィルフリート殿下は、完全に置いてけぼりにされていた。


「……お見合いじゃないのか? 監査報告書を見に行くのがデートなのか?」


「殿下。価値観の共有こそが、持続可能なパートナーシップの根幹ですわ。……さあ、マリア様。準備はよろしいですか?」


数日後、王宮のサロン。


そこに現れたのは、眼鏡をかけた、いかにも神経質そうな、しかし整った顔立ちの青年、ルッツ伯爵だった。


彼は席に着くなり、挨拶もそこそこに一冊のファイルを机に置いた。


「マリア・男爵令嬢ですね。……お噂は伺っています。トイレットペーパーの回転率から王宮の支出を予測したとか。……率直に言って、その計算式には、三箇所の変数ミスがある」


「な……っ!」


マリアが立ち上がった。


「……その三箇所とは、おそらく『湿度による紙の膨張率』と、『文官たちのストレスによる腹痛の頻度』を考慮していないことですね? ルッツ様!」


「ほう……。気づいていましたか。……では、この修正案を見ていただきたい」


二人は出会って三分で、互いの計算式を巡る激しい舌戦を開始した。


ヴィルフリート殿下とリーズは、少し離れた席からその様子を見守っていた。


「……リーズ。あれ、お見合いに見えるか? どう見ても、決算報告の揉め事にしか見えないんだが」


「いいえ、殿下。ご覧なさい。二人の心拍数は上昇し、頬は紅潮しています。……マリア様に至っては、計算が合った瞬間に『はぅあ!』と声を上げていますわ。あれは間違いなく、彼らなりのラブコメです」


「ラブコメの定義が、私の知っているものと違いすぎる……」


ヴィルフリート殿下が溜息をついていると、ルッツ伯爵がマリアの手をガシッと握った。


「……マリア嬢。君ほどの精度で数字を愛せる女性に、私は初めて出会った。どうだろう。私と共に、この国の『不透明な予算』という名の闇を、一掃してみないか?」


「はいっ! ルッツ様! 私、一生あなたの監査についていきますぅ! 私たちの愛で、国家の赤字を黒字に変えてみせましょう!」


「ああ。君との結婚式は、最も低コストで、かつ最も宣伝効果の高いプランを私が作成しよう」


「素敵ですぅ! 招待状の印刷代、二割は値切ってみせますわ!」


二人は手を取り合い、理想の「収支計画書」について語り合いながら、サロンを後にした。


ヴィルフリート殿下は、その光景を呆然と見送った。


「……解決、したのか? これで。……マリアは幸せなのか?」


「ええ、最高に。……マリア様という『不良在庫』が、最も相性の良い『成長株』と合併したのです。これ以上のハッピーエンドはありませんわ」


リーズは満足げに手帳にチェックを入れた。


「……さて。邪魔者がいなくなったところで。……殿下。次は、私たちの『婚姻に伴う経済効果』の再計算に入りましょうか。……式の費用を巡って、私の父と、あなたの父上がまた不採算な揉め事を起こしているようですから」


「……ああ。……分かったよ。……リーズ。君の隣にいると、私は一生、数字から逃げられそうにないな」


「逃がしませんわ。……逃げるコストよりも、私に捕まっている方が、ずっと『お得』であることを証明し続けて差し上げます」


リーズはそう言って、ヴィルフリートの腕に自分の腕を絡めた。


数字と論理に支配された王宮。


そこには、かつてのふわふわしたロマンスよりもずっと強固で、そして少しだけおかしな、新しい形の幸せが根付こうとしていた。
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