婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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婚約破棄の「執行猶予期間」がいよいよ終了を迎えようとしていた、ある日の午後。


王宮の空中庭園には、正装に身を包み、かつてないほど真剣な眼差しを湛えたヴィルフリート殿下の姿があった。


彼の前には、相変わらず一分の隙もないドレス姿で、手帳に何事かを書き込んでいるリーズが立っている。


「……リーズ。いよいよ約束の一ヶ月が過ぎた。今日、私は全責任を持って、結論を出した」


ヴィルフリートは深く息を吸い込み、リーズの瞳を真っ直ぐに見つめた。


「私は……あの日、卒業パーティーで口にした『婚約破棄』の発言を、全面的に撤回する! 君こそが私の、そしてこの王国の唯一無二のパートナーだ。リーズ、改めて私と結婚してほしい」


彼はその場に跪き、一輪の——今度はリーズに教わった通り、市場価値と耐久性を考慮した最高級の——青いバラを差し出した。


それは、迷いのない、王子としての、そして一人の男としての堂々たるプロポーズだった。


周囲で見守っていた文官やメイドたちからも、感極まったような吐息が漏れる。


しかし、リーズは差し出されたバラを受け取るどころか、ピシャリと手帳を閉じた。


「……お断りいたしますわ、殿下」


「…………えっ?」


ヴィルフリートは、差し出したバラを掲げたまま、石像のように固まった。


「今、何と……? 聞き間違いかな。撤回を歓迎するとか、喜びのあまり計算を忘れたとか……」


「いいえ。聞き間違いではありません。……今度は私の方から、殿下との婚約を破棄させていただきたいのです。こちらがその『リーズ・ブラッドベリー側からの婚約破棄提案書』ですわ」


リーズは懐から、完璧に製本された厚い書類の束を取り出し、王子の鼻先に突きつけた。


ヴィルフリートは震える手でそれを受け取ると、中身を読み上げ始めた。


「……ええと、『項目一。配偶者の過去の不祥事(婚約破棄宣言)に伴う、ブランド価値の著しい毀損』。……『項目二。感情の揺らぎによる、将来的な浮気リスクの継続的な監視コストの高騰』……」


「ええ。この一ヶ月、私は殿下を観察し続けました。その結果、殿下を『夫』という名のポートフォリオに組み込み続けることは、私の人生設計において、あまりにハイリスク・ローリターンであるという結論に達したのです」


リーズは冷淡な口調で、追い打ちをかけるように続けた。


「今の私は、王宮の全実務を掌握し、マリア様という優秀な後継者も育て上げました。……正直に申し上げまして、今の私にとって、殿下は『いてもいなくても、実務上の利益は変わらない存在』……むしろ、お世話の手間を考えれば、マイナス資産ですわ」


「ま、マイナス資産……!? ひどい、ひどすぎるぞリーズ!」


「事実ですわ。私が独身に戻れば、隣国のレオナード殿下をはじめ、数多の投資家……いえ、求婚者たちが、今の十倍の条件を提示してくださるでしょう。わざわざ一度私を捨てようとした男に、私の貴重な残りの人生を投資する義理がございますか?」


リーズの正論は、ヴィルフリートの胸を千々に引き裂いた。


立場は完全に逆転していた。


あの日、あんなに熱烈に婚約破棄を叫んでいたのは自分だったのに。


今や、彼女に「いらない」と言われることが、これほどまでに恐ろしい。


「ま、待ってくれリーズ! 私は……私は、君の価値を再認識したんだ! これからは、私が君を支える! 君が仕事に集中できるよう、私は全力で君のメンタルをケアするし、美味しいスープだって……ええと、誰かに作らせる!」


「ケアなら、猫を飼った方が安上がりですわ。……さあ、殿下。あの日、あなたが望んだ『自由』です。受け取ってくださいませ」


リーズは優雅に微笑み、去ろうとした。


「嫌だ! 絶対に嫌だ! 行かせないぞ、リーズ!」


ヴィルフリートは、なりふり構わずリーズのドレスの裾を掴んで縋り付いた。


「殿下、見苦しいですわ。公共の場での醜態は、王族の資産価値をさらに下げるだけです」


「下がってもいい! ゼロになっても、借金まみれになってもいい! リーズ、君がいない人生なんて、数字のない帳簿と同じだ! 何が書いてあるか分からないし、ちっとも面白くないんだ!」


ヴィルフリートは叫んだ。それは、論理も計算も全てかなぐり捨てた、魂の叫びだった。


リーズは、足を止めた。


背中を向けたまま、彼女は小さくため息をつく。


「……殿下。そこまで仰るのでしたら、一つだけ『救済措置』を差し上げましょう」


「きゅ、救済措置……?」


「はい。私がこの破棄提案書をシュレッダーにかけるに値するほどの、『圧倒的な愛のパフォーマンス』を見せてくださいませ」


「パフォーマンス……? 何だ、何をすればいいんだ!? ダンスか? 歌か? それとも国庫を全部君に譲ればいいのか?」


「そんな陳腐なものではありません。……明日から始まる、隣国との和平交渉。そこにおいて、私が一言も口を出さずに済むほどの、完璧な論理武装を披露していただきたいのです。……もし、殿下が私を頼らずに交渉を成立させることができれば……」


リーズはゆっくりと振り返り、挑戦的な、そしてどこか期待を込めた瞳で王子を見つめた。


「殿下を『将来性のある成長株』として再評価し、この婚約破棄案を、破棄いたしましょう」


「和平交渉……。私が、一人で……?」


ヴィルフリートはゴクリと唾を飲み込んだ。


それは、彼にとってエベレストに素手で登るような難事業に思えた。


だが、リーズの冷たくも美しい瞳が、彼を奮い立たせる。


「……やってやる。やってやるぞリーズ! 見ていろ、君が惚れ直すほどの、完璧なプレゼンを見せてやる!」


「楽しみにしておりますわ、ヴィルフリート殿下。……期限は明日。寝る間も惜しんで、データを頭に詰め込むことですわね」


リーズはそう言い残すと、マリアを引き連れて去っていった。


一人残されたヴィルフリートは、床に散らばった青いバラの破片をかき集め、真っ赤な目で叫んだ。


「マリア! ルッツ! 資料を持ってこい! 今夜は一秒も寝ないぞ!」


王子の、自分自身の「価値」を証明するための、負けられない戦いが始まった。


一方、回廊を歩くリーズは、そっと胸を撫で下ろしていた。


「(……危ないところでしたわ。殿下のあの真剣な顔、もう少しで計算を狂わせて、『いいですわよ』と言ってしまうところでした……)」


彼女の頬は、夕焼けのせいだけではない、確かな赤みに染まっていた。


彼女が自分から「破棄したい」と言い出したのは、彼への怒りからではない。


彼に、自分と対等に並び立てるだけの「強い王」になってほしいという、彼女なりの、極めて効率的で、極めて深い「愛の試練」だった。


リーズの手帳の「殿下の成長予測」は、今、かつてない急上昇を見せようとしていた。
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