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昨日の和平交渉という名の「最終試験」を終え、王宮には穏やかな、しかしどこか規律正しい空気が流れていた。
ヴィルフリート殿下の執務室。
そこには、新たな婚約の誓約書……という名目だが、実態は「国家運営共同経営契約書」とでも呼ぶべき分厚い書類を前にした、二人の姿があった。
「……リーズ、準備はいいか。君が用意したこの契約書にサインをすれば、私たちは正式に、もう一度婚約者として歩み出すことになる」
ヴィルフリート殿下は、重厚な万年筆を手に、少し緊張した面持ちでリーズを見つめた。
リーズは、いつものように完璧に整えられた姿勢で、机の向こう側に座っている。
「ええ、殿下。……ただし、今回の契約は以前のものとは大きく異なりますわ。……私の時間と才能を、より効率的に、かつ『独占的』に殿下に投資するための、最新の最適化プランを盛り込んでおります」
「最新の最適化プラン、か。……君のことだ、また『一日の公務時間は十五時間とする』とか、そういう恐ろしい条項が入っているんだろう?」
ヴィルフリートは苦笑しながら、パラパラと書類をめくった。
だが、あるページに差し掛かったところで、彼のペンがピタリと止まった。
「……リーズ。第百二十八条……これは何だ?」
「何でしょうか。読み上げてくださいませ」
リーズは涼しい顔で、紅茶を一口啜った。
ヴィルフリートは、少し顔を赤くして、その条項を読み上げた。
「『第百二十八条。婚約者間の精神的安定を維持するため、一日のうち最低十五分間、両者は身体的接触……具体的には、抱擁、あるいは手を握るなどの行為を義務とする。これはストレスホルモンであるコルチゾールの低減を目的とするものである』……これ、君が書いたのか?」
「当然ですわ。……殿下、昨日の交渉中、あなたの心拍数は一時的に限界値近くまで上昇していました。……私が傍にいることで、あなたのパフォーマンスが安定するのであれば、それは極めて合理的な『メンテナンス』の一環です」
リーズは真面目な顔で、しかしわずかに視線を逸らして答えた。
ヴィルフリートは、胸の奥が熱くなるのを感じながら、さらに次のページをめくった。
「……百二十九条。『呼称の簡略化。公的な場を除き、両者は互いを愛称、あるいは名前のみで呼ぶこととする。これは音節数の削減による通信効率の向上、および親密度の上昇による意志疎通エラーの防止を目的とする』」
「名前で呼ぶのが……通信効率の向上、か」
「ええ。……『ヴィルフリート殿下』と呼ぶには九音節必要ですが、『ヴィル』なら二音節で済みますわ。……残りの七音節分の時間を、私たちはより建設的な議論に回すべきです」
リーズの理屈は、相変わらずどこまでも「効率」に基づいていた。
だが、その裏側に隠された、彼女なりの「甘え」を、ヴィルフリートはもう見逃さなかった。
「……リーズ。君、本当は私に名前を呼んでほしいだけなんじゃないのか?」
「……不謹慎な推測ですわ。私はただ、国家の重要資産である私たちのリソースを……」
「いいよ。……わかった、リーズ。……この条項、喜んで承認しよう」
ヴィルフリートは笑みを浮かべ、さらに読み進める。
「第百三十条。『定期的な愛情表現の明文化。週に一度、殿下はリーズに対し、論理的な根拠に基づかない……いわゆる、甘い言葉を最低三回は囁かなければならない。これはリーズのモチベーション維持、および情緒的報酬としての配当金である』」
「……リーズ。君、自分で自分のことを『甘やかしてくれ』って書いてるじゃないか」
ヴィルフリートが堪えきれずに吹き出すと、リーズはついに耳まで真っ赤にして立ち上がった。
「……笑わないでくださいませ! ……私は、私が、最も高いパフォーマンスを発揮するための『燃料』を要求しているだけです! ……殿下の囁きは、私にとって……その、最高級の魔力触媒に匹敵する価値があることが、先日のデータで判明いたしましたの!」
「……最高級の、魔力触媒、か」
ヴィルフリートは椅子から立ち上がり、机を回ってリーズの隣に立った。
彼は迷うことなく、第百二十八条の「抱擁」を今すぐ実行するように、彼女の細い肩を引き寄せた。
「ひゃっ……! な、なんですか、いきなり」
「第百二十八条の即時履行だよ。……リーズ、君の言う通りだ。……こうしていると、私の脳内のノイズが消えて、すごく『効率的』に君を愛せる気がする」
ヴィルフリートが耳元で囁くと、リーズは彼の胸に顔を埋めたまま、小さく「ううっ」と呻いた。
「……計算外ですわ。……契約書にサインをする前に履行されるなんて……。順序が、非論理的です……」
「いいじゃないか。……リーズ。君は、世界で一番有能で……世界で一番、私のことを考えてくれる、可愛い『最強のビジネスパートナー』だ。……愛しているよ」
「……加点、十ポイントですわ。……ヴィル」
リーズが小さな声で彼の名前を呼ぶ。
その瞬間、二人の間の「契約」は、法的な縛りを超えて、誰にも解けない魔法のような絆へと変わった。
……が、その空気を、いつものように賑やかな声が打ち砕く。
「はいはい! そこまでですぅ! お姉様、契約書の百三十一条に『第三者の介入による緊張感の維持』という項目を追加しましたからねぇ!」
眼鏡を光らせたマリアが、ルッツ伯爵を伴って入室してきた。
「マリア! 君、空気というものを……」
「空気なら窒素が七十八パーセントです、殿下。……それよりルッツ様、見てください! お姉様のあのデレ顔、これは経済波及効果が金貨一万枚分はある貴重なサンプルですぅ!」
「ふむ。……確かに。……マリア、そのデータを元に、新婚旅行における『幸福度と消費額の比例グラフ』を作成しよう。……リーズ様、ヴィルフリート殿下。……再契約、おめでとうございます」
ルッツ伯爵が淡々と祝いの言葉を述べ、マリアはニコニコと計算機を叩いている。
ヴィルフリートは溜息をつき、リーズは顔を真っ赤にしたまま、再び彼を睨みつけた。
「……殿下。……やはり、この王宮には、まだまだ『不要なノイズ』が多すぎますわね。……今夜の予算会議で、マリア様の給与を一時的に凍結する案を検討いたしますわ」
「ええっ!? お姉様、それは職権乱用ですぅ!」
「合理的な判断です。……さあ、殿下。サインを。……私たちの、新しい未来の始まりですわ」
ヴィルフリートは微笑み、契約書の最後に力強く署名した。
数字と論理、そして少しばかりの(?)甘い条項で彩られた、二人の新しい生活。
それは、どんなお伽話よりも堅実で、どんな物語よりも「収益性の高い」幸せの始まりだった。
ヴィルフリート殿下の執務室。
そこには、新たな婚約の誓約書……という名目だが、実態は「国家運営共同経営契約書」とでも呼ぶべき分厚い書類を前にした、二人の姿があった。
「……リーズ、準備はいいか。君が用意したこの契約書にサインをすれば、私たちは正式に、もう一度婚約者として歩み出すことになる」
ヴィルフリート殿下は、重厚な万年筆を手に、少し緊張した面持ちでリーズを見つめた。
リーズは、いつものように完璧に整えられた姿勢で、机の向こう側に座っている。
「ええ、殿下。……ただし、今回の契約は以前のものとは大きく異なりますわ。……私の時間と才能を、より効率的に、かつ『独占的』に殿下に投資するための、最新の最適化プランを盛り込んでおります」
「最新の最適化プラン、か。……君のことだ、また『一日の公務時間は十五時間とする』とか、そういう恐ろしい条項が入っているんだろう?」
ヴィルフリートは苦笑しながら、パラパラと書類をめくった。
だが、あるページに差し掛かったところで、彼のペンがピタリと止まった。
「……リーズ。第百二十八条……これは何だ?」
「何でしょうか。読み上げてくださいませ」
リーズは涼しい顔で、紅茶を一口啜った。
ヴィルフリートは、少し顔を赤くして、その条項を読み上げた。
「『第百二十八条。婚約者間の精神的安定を維持するため、一日のうち最低十五分間、両者は身体的接触……具体的には、抱擁、あるいは手を握るなどの行為を義務とする。これはストレスホルモンであるコルチゾールの低減を目的とするものである』……これ、君が書いたのか?」
「当然ですわ。……殿下、昨日の交渉中、あなたの心拍数は一時的に限界値近くまで上昇していました。……私が傍にいることで、あなたのパフォーマンスが安定するのであれば、それは極めて合理的な『メンテナンス』の一環です」
リーズは真面目な顔で、しかしわずかに視線を逸らして答えた。
ヴィルフリートは、胸の奥が熱くなるのを感じながら、さらに次のページをめくった。
「……百二十九条。『呼称の簡略化。公的な場を除き、両者は互いを愛称、あるいは名前のみで呼ぶこととする。これは音節数の削減による通信効率の向上、および親密度の上昇による意志疎通エラーの防止を目的とする』」
「名前で呼ぶのが……通信効率の向上、か」
「ええ。……『ヴィルフリート殿下』と呼ぶには九音節必要ですが、『ヴィル』なら二音節で済みますわ。……残りの七音節分の時間を、私たちはより建設的な議論に回すべきです」
リーズの理屈は、相変わらずどこまでも「効率」に基づいていた。
だが、その裏側に隠された、彼女なりの「甘え」を、ヴィルフリートはもう見逃さなかった。
「……リーズ。君、本当は私に名前を呼んでほしいだけなんじゃないのか?」
「……不謹慎な推測ですわ。私はただ、国家の重要資産である私たちのリソースを……」
「いいよ。……わかった、リーズ。……この条項、喜んで承認しよう」
ヴィルフリートは笑みを浮かべ、さらに読み進める。
「第百三十条。『定期的な愛情表現の明文化。週に一度、殿下はリーズに対し、論理的な根拠に基づかない……いわゆる、甘い言葉を最低三回は囁かなければならない。これはリーズのモチベーション維持、および情緒的報酬としての配当金である』」
「……リーズ。君、自分で自分のことを『甘やかしてくれ』って書いてるじゃないか」
ヴィルフリートが堪えきれずに吹き出すと、リーズはついに耳まで真っ赤にして立ち上がった。
「……笑わないでくださいませ! ……私は、私が、最も高いパフォーマンスを発揮するための『燃料』を要求しているだけです! ……殿下の囁きは、私にとって……その、最高級の魔力触媒に匹敵する価値があることが、先日のデータで判明いたしましたの!」
「……最高級の、魔力触媒、か」
ヴィルフリートは椅子から立ち上がり、机を回ってリーズの隣に立った。
彼は迷うことなく、第百二十八条の「抱擁」を今すぐ実行するように、彼女の細い肩を引き寄せた。
「ひゃっ……! な、なんですか、いきなり」
「第百二十八条の即時履行だよ。……リーズ、君の言う通りだ。……こうしていると、私の脳内のノイズが消えて、すごく『効率的』に君を愛せる気がする」
ヴィルフリートが耳元で囁くと、リーズは彼の胸に顔を埋めたまま、小さく「ううっ」と呻いた。
「……計算外ですわ。……契約書にサインをする前に履行されるなんて……。順序が、非論理的です……」
「いいじゃないか。……リーズ。君は、世界で一番有能で……世界で一番、私のことを考えてくれる、可愛い『最強のビジネスパートナー』だ。……愛しているよ」
「……加点、十ポイントですわ。……ヴィル」
リーズが小さな声で彼の名前を呼ぶ。
その瞬間、二人の間の「契約」は、法的な縛りを超えて、誰にも解けない魔法のような絆へと変わった。
……が、その空気を、いつものように賑やかな声が打ち砕く。
「はいはい! そこまでですぅ! お姉様、契約書の百三十一条に『第三者の介入による緊張感の維持』という項目を追加しましたからねぇ!」
眼鏡を光らせたマリアが、ルッツ伯爵を伴って入室してきた。
「マリア! 君、空気というものを……」
「空気なら窒素が七十八パーセントです、殿下。……それよりルッツ様、見てください! お姉様のあのデレ顔、これは経済波及効果が金貨一万枚分はある貴重なサンプルですぅ!」
「ふむ。……確かに。……マリア、そのデータを元に、新婚旅行における『幸福度と消費額の比例グラフ』を作成しよう。……リーズ様、ヴィルフリート殿下。……再契約、おめでとうございます」
ルッツ伯爵が淡々と祝いの言葉を述べ、マリアはニコニコと計算機を叩いている。
ヴィルフリートは溜息をつき、リーズは顔を真っ赤にしたまま、再び彼を睨みつけた。
「……殿下。……やはり、この王宮には、まだまだ『不要なノイズ』が多すぎますわね。……今夜の予算会議で、マリア様の給与を一時的に凍結する案を検討いたしますわ」
「ええっ!? お姉様、それは職権乱用ですぅ!」
「合理的な判断です。……さあ、殿下。サインを。……私たちの、新しい未来の始まりですわ」
ヴィルフリートは微笑み、契約書の最後に力強く署名した。
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