婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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賑やかな祝宴の喧騒が、遠く夜風に乗って聞こえてくる。


王宮の最上階にあるバルコニー。そこは、この一ヶ月の激動を戦い抜いた二人にとって、ようやく訪れた静寂の聖域だった。


ヴィルフリートは、隣に立つリーズの横顔を盗み見た。


月光を浴びた彼女の髪は白銀に輝き、その瞳は夜空の星々を映し出して、息を呑むほどに美しい。


「……リーズ。ついに、終わったんだな。いや、ここから始まるのか」


ヴィルフリートが感慨深く呟くと、リーズは手に持っていた小型の魔導端末をようやくパチンと閉じた。


「ええ。婚約破棄騒動から始まった一連の不規則事象、および王宮のガバナンス再構築。これら全ての工程が、現在のサインをもって完了いたしましたわ」


「……最後の日まで、君は事務的だね」


「事務的、ではなく、完遂、と呼んでいただきたいですわ。……さて、ヴィル。今後のスケジュールですが、結婚式までの三ヶ月間、私たちは一日平均四時間の打ち合わせと、二時間の社交を……」


ヴィルフリートは、彼女の言葉を遮るように、その細い手を握りしめた。


「リーズ。今は、スケジュールなんていい。……一ヶ月前、私がここで君に婚約破棄を突きつけた時……正直に言ってくれ。君は、私に何を言おうとしていたんだ?」


リーズは少しだけ、困ったように眉を下げた。


「……あの日、私が用意していたのは、殿下の浪費癖を改善するための『三十年の償還計画書』でしたわ。……ですが、あなたが叫んだ『真実の愛』という単語に、私の思考回路は完全にフリーズしてしまったのです」


「……だろうね。私も、今思い出しても顔から火が出そうだよ」


「……でも、今なら分かります。あの非合理的な叫びがあったからこそ、私は自分の殻を破り、あなたの隣で『計算を超えた未来』を夢見ることができた。……ヴィル、私をあの袋小路から連れ出してくださって、感謝しておりますわ」


リーズが、ふっと柔らかく微笑んだ。


それは、これまでの冷徹なビジネススマイルでも、計算された外交用の微笑でもない。


ただ一人の男、ヴィルフリートだけに向けられた、心からの、そして無防備な少女の笑顔だった。


ヴィルフリートの胸が、ドクンと大きく波打った。


「……リーズ。君、そんな風に笑うなんて……反則だ。私の心拍数が、君の言う『規定値』を大幅に超えてしまったよ」


「……あら。心拍数の上昇は、有酸素運動、あるいは強い情動反応の結果ですわ。……どうされます? 一度深呼吸をして、血圧を……」


「……必要ない。リーズ、君が言っただろう?『愛は究極のギャンブル』だって」


ヴィルフリートは彼女の腰を抱き寄せ、その顔をじっと見つめた。


「……私は、全財産を君に賭ける。……だから、君も覚悟してくれ。……君の計算を、一生かけて狂わせ続けてやるからな」


リーズは、驚いたように目を見開いた。


「……私の計算を……狂わせる、ですって? ……それは、プロの投資家に対する、最大の宣戦布告ですわね」


「ああ。……まずは、この『計算外の接触』からだ」


ヴィルフリートがゆっくりと顔を近づける。


リーズの脳内では、咄嗟に「キスの平均持続時間と、それによるエンドルフィン分泌の相関関係」についてのデータが検索され始めた。


(……ええと、角度は四十五度。持続時間は三秒から五秒が適正。……マリア様が見ている確率は、物陰の赤外線反応から察するに……)


しかし、ヴィルフリートの唇が彼女の唇に重なった瞬間。


全ての数式は消え去り、白く輝く思考の空白だけが残った。


「…………んっ」


リーズの指先が、ヴィルフリートの胸元を強く掴む。


計算外。予測不能。……そして、何よりも甘い。


彼女がどれほど知識を詰め込んでも、どの古文書を読み漁っても辿り着けなかった「答え」が、そこにはあった。


数秒、あるいは数分。


二人がゆっくりと唇を離すと、リーズは真っ赤な顔で、しかしどこか満足げに吐息を漏らした。


「…………今の……今のキス、予定よりも零点五秒長く、かつ角度が……想定から三ミリズレていましたわ」


「……それは、君への愛が溢れて、精度が落ちたせいだよ」


「……減点、十ポイントです。……ですが、情緒的報酬としては……測定不能、と判定いたしますわ」


リーズはヴィルフリートの胸に額を預け、小さく笑った。


「……降参ですわ、ヴィル。……私は、一生あなたの『ノイズ』に振り回されることを、正式に受諾いたします」


「……ありがとう、リーズ。……さあ、戻ろう。マリアたちが、ルッツと一緒に『結婚式の費用削減案』を手に待ち構えているはずだ」


「……ふふ。……あの子たちも、困ったものですわね。……でも、悪くないチームになりそうですわ」


二人は手を取り合い、光り輝く広間へと戻っていく。


かつて「悪役令嬢」と呼ばれた少女は、今、自らの知性と、そして少しの計算外の愛によって、王国の歴史上最も有能で、最も愛される王妃への道を歩み始めた。


背後で上がる祝福の花火。


その一発一発のコストを計算しようとして……リーズは、途中でそれを止めた。


「(……今夜くらいは、数字のない世界で、この胸の音だけを数えていても……よろしくてよね)」


王国の空には、未来を約束するような、満天の星空が広がっていた。
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