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岸がいっていた通り翌日以降の主な部活内容は、来るべき合唱祭の準備に追われる毎日となった。
基本的には三年生の創作劇で使う大道具から小道具、衣装の作成が最優先され、余ったわずかな隙間時間で自分たちのロミオとジュリエットの準備を進める流れとなった。そのため各部員がそれぞれの作業に追われ、キャスト全員が揃って稽古する時間はほとんどなかった。けれど、それはあたしにとっては好都合だった。
仮に立ち稽古の時間がたっぷりあったところで、ろくに声も出せないまま練習を滞らせて迷惑をかけてしまうからだ。個々に手の空いたキャストが体育館裏で自主練習する姿を尻目に、あたしは富和と一緒に衣装作りに専念した。そして部活終わりにくろゆりのタワーマンションに通う日々が続いた。
くろゆりの専属指導は特別なカリキュラムがあるわけではなく、ただただ気が遠くなるほどの反復練習だった。広々としたリビングを使って立ち稽古を何度も繰り返すだけで、具体的な演技指導なんてほぼなかった。
ただ、くろゆりはひたすらにあたしから視線を離さなかった。視線に対する恐怖心を克服しない限り小手先の演技指導なんて無意味なのだろう。いわれるまでもなくそれには納得せざるを得なかった。
習うより慣れろ、そういうことなのだろうし、それしかないのだろう。
テレビであの演技力を目にした時からわかりきっていたことだったけれど、くろゆりはどこかで演技の指導を受けた経験があるのは間違いなかった。ジュリエットの出番のシーンで掛け合う登場人物をくろゆり一人で全て演じ分けているのだが、声のトーン、質感、呼吸の入れ方に至るまで全て変化を付けているのだ。あたしに視線を慣れさせるためだけならばそこまでする必要はないはずなのに、無意識なのかその身にまとう空気感までもを変えてみせた。
一人暮らしといったこともどうやら嘘ではないようで、一度としてくろゆりの家族と鉢合わせることはなかった。どういった家庭事情なのかはわからないけれど、こんなタワーマンションの最上階に住める上流階級なのだから、習い事の質や規模だって一般庶民とはわけが違うのだろう。考え得る限り、最高の演技の指導を受けたのだろう。
――負けるもんか。
ただそれだけの気持ちを胸に、何もかも全てがあたしを優に上回っているくろゆりを相手に稽古を続け、注がれ続ける視線を睨むみたいに見つめ返す努力を繰り返した。
そして、くろゆりとの立ち稽古を始めて一週間ほど経った部活中に、
「市居、いま手は空いてる? 自主稽古ばかりだとタイミング計れないからさ。良かったらちょっと合わせてやってみようよ」
富和が三年の劇で使う衣装の確認のため倉庫を出て行ったところに、入れ違いで遠野くんが顔を覗かせてあたしを誘ってきた。
「う、うん」
ごくりと唾を飲み込んでぎこちなく頷き立ち上がった。
ほんの一週間ほどだったけれど、くろゆりとの練習の成果を試すにはちょうど良いはずだと思えた。
「じゃあ、私はト書き読んであげるわ」
「うん、ありがとうくろゆりさん。お願いするよ」
遠野くんが屈託のない笑顔を向ける。それなのに、当のくろゆりはまるで他人事みたいに自分の台本を取り出しながら、ちらりとも目を合わせようとしなかった。
「じゃあ、三幕のバルコニーシーンを合わせよう」
くろゆりの素っ気ない態度に気を悪くすることもなく、遠野くんは手にした台本を開きはせずに提案してきた。すでにセリフが全て頭に入っている証拠だ。
ロミオとジュリエットのお話のあらすじを知らない人でも、よほど意識的に目を背け続けない限り誰でも知っているであろう、バルコニーで二人が愛を語り合うあまりにも有名なシーン。
このシーンに劇の全てが集約されていると言い切っても過言ではないくらい重要なシーンだ。そして当然ながら、ロミオとジュリエットの二人だけのシーンなので必然的に視線が絡み合う。つまり、絶対にヘマは許されない。
「朱乃ちゃん、いい?」
くろゆりの問い掛けに、あたしは小さく顎を引いて返す。
「じゃあ、始めるね。――月明かりに照らされる裏庭のバルコニー。それを見上げるロミオ」
「――もう舞踏会には戻れない。僕を口汚く罵ったあんな母親からどうしてジュリエットが生まれたのだろう。ああ、きっとこの館のどこかにジュリエットは居るはずだ。話が出来なくても構わない、せめてもう一度だけ姿を見たい」
くろゆりが読み上げたト書きに続いて、遠野くんが手振りを添えながら感情豊かにセリフを終えた。
続いてジュリエットの、あたしのセリフだ。
「――ロミオ、ああ、ロミオ。あなたはどぅ――――――」
バルコニーの立ち位置を示すバミリに移動しながらセリフを紡ぐ。半歩ほど歩みを進めロミオを見つめるために視線を上げて、そこで遠野くんと視線が絡んだ。
「――どぅ」
声が、出ない。
喉が掻き切られ、そこから息も声も何もかもが漏れ出てしまっている気がした。
猛烈な勢いで頭がぐるぐる回り始める。「ロミオ、ああ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの? モンタギュー家と縁を切り、その名を捨てて。それが無理なら、せめて私を愛して」これがセリフだ。あたしが繋げるべきセリフなのだ。
本来であれば一息でいえるはずの、くろゆりとの立ち稽古で何度も何度も繰り返し練習した短いセリフなのに、声が出ない。
金縛りに遭ったみたいに身体が硬直し、酸素さえも感じられなくなる。慌ててはダメだと頭ではわかっているのに、激しい動悸と息苦しさが波みたいに押し寄せてきた。身体を支えているはずの足が、まるで自分のものじゃなくなったみたいに感覚を失って平衡感覚がなくなっていく。
――なによこれ、あんなに練習したじゃない。どうしてよ、どうしてなのよ。
違う。どうしてかなんて、いま考えている場合じゃない。
絞り出せ、早く、早く。
ああ、苦しい、息が出来ない。いやだ、怖い。落ち着け、深呼吸よ。いやだ、怖い。苦しい、いやだ、怖い、いやだ、怖い、こわいこわいこわい――
「……市居?」
遠野くんの怪訝そうな声が耳に届いた時には、あたしは握り締めていた台本を取り落としてその場に膝を付いていた。
「朱乃ちゃんっ」
駆け寄ってきたのだろうくろゆりが、あたしの頭を胸に抱き締めてきた。目の前は真っ暗だったけれど、押し付けられるくろゆりの胸の感触でそれがわかった。
「――っ、――――――っ」
続けなきゃ、早くセリフを続けなきゃ。セリフはちゃんと頭に入ってるんだから。
タイミングも呼吸も立ち位置も、くろゆりとの立ち稽古ではちゃんと出来ていたのに、焦れば焦るほどあたしは声の出し方がどんどんわからなくなった。
代わりにじわじわと蝕むみたいに押し寄せてくる恐怖感。怖くて確認なんて出来ないけれど、きっと今も遠野くんが訝しんであたしを見ているに違いない。あの面接会場で針のむしろみたいに注がれた、蔑みに満たされた視線で。
やめて、やめてよ。そんな目であたしを見ないで。
お願いだから――
「朱乃ちゃん、もういいよ。ごめんなさい、朱乃ちゃん今日はずっと体調が優れなかったの。ただの立ち眩みだから気にしないで」
あたしの背中をさすりながら、くろゆりが気を利かせて適当な理由を並べ立てた。
「え、ほんとに? 市居、保健室行くか?」
「大丈夫、私が連れて行くから」
「男手があった方がいいだろ、ほら肩貸すよ」
遠野くんが差し伸べてくれた手が視界の端に見えた。くろゆりに抱き締められたまま短く呼吸を繰り返し、少しだけ落ち着いてきた。
「……ううん、ありがとう。大丈夫だから」
くろゆりの咄嗟の機転には感謝するべきだろうけれど、保健室に運び込まれたりして無駄に騒ぎが大きくなってしまっても困る。
あたしはくろゆりの手を解いて、まだ震えの残る足を踏ん張って立ち上がり膝に付いた砂を払った。
「いや、無理しない方がいい。ほら、掴まれって」
遠野くんがあたしの腕を掴んで引き寄せる。その思わぬ力強さに抗えず、されるがままに寄りかかってしまった。
「お、ちょうど良かった、平野。ちょっと市居を保健室に連れて行くから岸に少し外すって伝えておいてくれ」
三年との確認が済んだのだろう、衣装を抱いて戻ってきた富和にそういい放つなり、遠野くんは返事も待たずにあたしの腕を引いて歩き始めた。
「私も行くから」
「えっ、あっ、う、うん……」
すかさず付いてくるくろゆりに、いまいち状況が飲み込み切れていない様子の富和がおろおろしながら頷いていた。
ほら、やっぱり大袈裟になっちゃったじゃない。
遠野くんに支えられた腕とは反対側から、くろゆりはあたしの腰に手を回してがっちりと支えてきた。
保健室にたどり着くまでの道すがら、行き交う他の生徒たちからどんな風に見られているのかが気になって、あたしはとてもじゃないけれど俯けたままの視線を上げることが出来なかった。
基本的には三年生の創作劇で使う大道具から小道具、衣装の作成が最優先され、余ったわずかな隙間時間で自分たちのロミオとジュリエットの準備を進める流れとなった。そのため各部員がそれぞれの作業に追われ、キャスト全員が揃って稽古する時間はほとんどなかった。けれど、それはあたしにとっては好都合だった。
仮に立ち稽古の時間がたっぷりあったところで、ろくに声も出せないまま練習を滞らせて迷惑をかけてしまうからだ。個々に手の空いたキャストが体育館裏で自主練習する姿を尻目に、あたしは富和と一緒に衣装作りに専念した。そして部活終わりにくろゆりのタワーマンションに通う日々が続いた。
くろゆりの専属指導は特別なカリキュラムがあるわけではなく、ただただ気が遠くなるほどの反復練習だった。広々としたリビングを使って立ち稽古を何度も繰り返すだけで、具体的な演技指導なんてほぼなかった。
ただ、くろゆりはひたすらにあたしから視線を離さなかった。視線に対する恐怖心を克服しない限り小手先の演技指導なんて無意味なのだろう。いわれるまでもなくそれには納得せざるを得なかった。
習うより慣れろ、そういうことなのだろうし、それしかないのだろう。
テレビであの演技力を目にした時からわかりきっていたことだったけれど、くろゆりはどこかで演技の指導を受けた経験があるのは間違いなかった。ジュリエットの出番のシーンで掛け合う登場人物をくろゆり一人で全て演じ分けているのだが、声のトーン、質感、呼吸の入れ方に至るまで全て変化を付けているのだ。あたしに視線を慣れさせるためだけならばそこまでする必要はないはずなのに、無意識なのかその身にまとう空気感までもを変えてみせた。
一人暮らしといったこともどうやら嘘ではないようで、一度としてくろゆりの家族と鉢合わせることはなかった。どういった家庭事情なのかはわからないけれど、こんなタワーマンションの最上階に住める上流階級なのだから、習い事の質や規模だって一般庶民とはわけが違うのだろう。考え得る限り、最高の演技の指導を受けたのだろう。
――負けるもんか。
ただそれだけの気持ちを胸に、何もかも全てがあたしを優に上回っているくろゆりを相手に稽古を続け、注がれ続ける視線を睨むみたいに見つめ返す努力を繰り返した。
そして、くろゆりとの立ち稽古を始めて一週間ほど経った部活中に、
「市居、いま手は空いてる? 自主稽古ばかりだとタイミング計れないからさ。良かったらちょっと合わせてやってみようよ」
富和が三年の劇で使う衣装の確認のため倉庫を出て行ったところに、入れ違いで遠野くんが顔を覗かせてあたしを誘ってきた。
「う、うん」
ごくりと唾を飲み込んでぎこちなく頷き立ち上がった。
ほんの一週間ほどだったけれど、くろゆりとの練習の成果を試すにはちょうど良いはずだと思えた。
「じゃあ、私はト書き読んであげるわ」
「うん、ありがとうくろゆりさん。お願いするよ」
遠野くんが屈託のない笑顔を向ける。それなのに、当のくろゆりはまるで他人事みたいに自分の台本を取り出しながら、ちらりとも目を合わせようとしなかった。
「じゃあ、三幕のバルコニーシーンを合わせよう」
くろゆりの素っ気ない態度に気を悪くすることもなく、遠野くんは手にした台本を開きはせずに提案してきた。すでにセリフが全て頭に入っている証拠だ。
ロミオとジュリエットのお話のあらすじを知らない人でも、よほど意識的に目を背け続けない限り誰でも知っているであろう、バルコニーで二人が愛を語り合うあまりにも有名なシーン。
このシーンに劇の全てが集約されていると言い切っても過言ではないくらい重要なシーンだ。そして当然ながら、ロミオとジュリエットの二人だけのシーンなので必然的に視線が絡み合う。つまり、絶対にヘマは許されない。
「朱乃ちゃん、いい?」
くろゆりの問い掛けに、あたしは小さく顎を引いて返す。
「じゃあ、始めるね。――月明かりに照らされる裏庭のバルコニー。それを見上げるロミオ」
「――もう舞踏会には戻れない。僕を口汚く罵ったあんな母親からどうしてジュリエットが生まれたのだろう。ああ、きっとこの館のどこかにジュリエットは居るはずだ。話が出来なくても構わない、せめてもう一度だけ姿を見たい」
くろゆりが読み上げたト書きに続いて、遠野くんが手振りを添えながら感情豊かにセリフを終えた。
続いてジュリエットの、あたしのセリフだ。
「――ロミオ、ああ、ロミオ。あなたはどぅ――――――」
バルコニーの立ち位置を示すバミリに移動しながらセリフを紡ぐ。半歩ほど歩みを進めロミオを見つめるために視線を上げて、そこで遠野くんと視線が絡んだ。
「――どぅ」
声が、出ない。
喉が掻き切られ、そこから息も声も何もかもが漏れ出てしまっている気がした。
猛烈な勢いで頭がぐるぐる回り始める。「ロミオ、ああ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの? モンタギュー家と縁を切り、その名を捨てて。それが無理なら、せめて私を愛して」これがセリフだ。あたしが繋げるべきセリフなのだ。
本来であれば一息でいえるはずの、くろゆりとの立ち稽古で何度も何度も繰り返し練習した短いセリフなのに、声が出ない。
金縛りに遭ったみたいに身体が硬直し、酸素さえも感じられなくなる。慌ててはダメだと頭ではわかっているのに、激しい動悸と息苦しさが波みたいに押し寄せてきた。身体を支えているはずの足が、まるで自分のものじゃなくなったみたいに感覚を失って平衡感覚がなくなっていく。
――なによこれ、あんなに練習したじゃない。どうしてよ、どうしてなのよ。
違う。どうしてかなんて、いま考えている場合じゃない。
絞り出せ、早く、早く。
ああ、苦しい、息が出来ない。いやだ、怖い。落ち着け、深呼吸よ。いやだ、怖い。苦しい、いやだ、怖い、いやだ、怖い、こわいこわいこわい――
「……市居?」
遠野くんの怪訝そうな声が耳に届いた時には、あたしは握り締めていた台本を取り落としてその場に膝を付いていた。
「朱乃ちゃんっ」
駆け寄ってきたのだろうくろゆりが、あたしの頭を胸に抱き締めてきた。目の前は真っ暗だったけれど、押し付けられるくろゆりの胸の感触でそれがわかった。
「――っ、――――――っ」
続けなきゃ、早くセリフを続けなきゃ。セリフはちゃんと頭に入ってるんだから。
タイミングも呼吸も立ち位置も、くろゆりとの立ち稽古ではちゃんと出来ていたのに、焦れば焦るほどあたしは声の出し方がどんどんわからなくなった。
代わりにじわじわと蝕むみたいに押し寄せてくる恐怖感。怖くて確認なんて出来ないけれど、きっと今も遠野くんが訝しんであたしを見ているに違いない。あの面接会場で針のむしろみたいに注がれた、蔑みに満たされた視線で。
やめて、やめてよ。そんな目であたしを見ないで。
お願いだから――
「朱乃ちゃん、もういいよ。ごめんなさい、朱乃ちゃん今日はずっと体調が優れなかったの。ただの立ち眩みだから気にしないで」
あたしの背中をさすりながら、くろゆりが気を利かせて適当な理由を並べ立てた。
「え、ほんとに? 市居、保健室行くか?」
「大丈夫、私が連れて行くから」
「男手があった方がいいだろ、ほら肩貸すよ」
遠野くんが差し伸べてくれた手が視界の端に見えた。くろゆりに抱き締められたまま短く呼吸を繰り返し、少しだけ落ち着いてきた。
「……ううん、ありがとう。大丈夫だから」
くろゆりの咄嗟の機転には感謝するべきだろうけれど、保健室に運び込まれたりして無駄に騒ぎが大きくなってしまっても困る。
あたしはくろゆりの手を解いて、まだ震えの残る足を踏ん張って立ち上がり膝に付いた砂を払った。
「いや、無理しない方がいい。ほら、掴まれって」
遠野くんがあたしの腕を掴んで引き寄せる。その思わぬ力強さに抗えず、されるがままに寄りかかってしまった。
「お、ちょうど良かった、平野。ちょっと市居を保健室に連れて行くから岸に少し外すって伝えておいてくれ」
三年との確認が済んだのだろう、衣装を抱いて戻ってきた富和にそういい放つなり、遠野くんは返事も待たずにあたしの腕を引いて歩き始めた。
「私も行くから」
「えっ、あっ、う、うん……」
すかさず付いてくるくろゆりに、いまいち状況が飲み込み切れていない様子の富和がおろおろしながら頷いていた。
ほら、やっぱり大袈裟になっちゃったじゃない。
遠野くんに支えられた腕とは反対側から、くろゆりはあたしの腰に手を回してがっちりと支えてきた。
保健室にたどり着くまでの道すがら、行き交う他の生徒たちからどんな風に見られているのかが気になって、あたしはとてもじゃないけれど俯けたままの視線を上げることが出来なかった。
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