羽ばたく蝶を羨む蛾

亜麻音アキ

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 やがて場面転換のためにステージ上が暗転した。
 舞踏会のシーンのナレーションが読み進められる中、暗がりに乗じてキャストと大道具係が慌ただしく、けれど物音は最小限に立ち位置の移動を始める。

 ついに、あたしの演じるジュリエットの登場シーンがやって来た。

 舞踏会を終えて、ロミオとのダンスを思い出すジュリエットのセリフから始まるシーン。視線は向かいの舞台袖から登場するロミオに向けられているため客席には向いていない。

 暗がりの中ドレスの裾を引き摺って、足元のバミリに従って立ち位置に足を揃える。
 あいかわらず心臓は早鐘を打っていた。ううん、そんな悠長なものじゃない。釣り上げられているはずの鐘が、あたしの身体の中をのたうち回るみたいに暴れていた。

 考えるな。いけない、落ち着け。
 まずは慌てず、ゆっくり深呼吸するんだ。

 うすく唇を開き大きく息を吸い込んだタイミングで、――スポットライトの照明が叩き付けるみたいにあたしを眩しく照らしてきた。

 さらに続いてナレーションの声が響き始める。第二幕が始まったのだ。

 ――ちょっと待ってよ、これは予定と違う。

 キャストが準備を整えオッケーサインを出し、それを確認してから場転明けとなる手筈なのだ。台本のト書きにだってきちんとそう書かれている。

 あたしまだオッケーサイン出してないじゃない。深呼吸の途中でまだぜんぜん気持ちが整ってないのに――

 きしはあたしの背中側の舞台袖にいる。
 サインを出していないのに第二幕が始まってしまった状況を、振り返って確認することなんてもはや出来ない。だってもう照明を当てられているのだから。
 すると向かいの舞台袖で岸の合図を受けているのだろう、連絡係の男子が頭上で『ごめん』と手を合わせてから、そのまま進めてと受け取れる手振りを見せた。

 みんな手一杯なのだ。当然ながら極度の緊張に苛まれているのはあたしだけではない。オッケーサインの確認ミス程度の小さなトラブルにいちいち取り合って、劇の進行を妨げてなどいられるはずがないのだ。

 静かな口調で紡がれるナレーションがもうすぐ終わる。なのに、そんな些細なトラブルとも呼べない程度の事態に、あたしは全身が硬直していた。

 全身からどっと汗が噴き出し、口の中が一瞬で乾く。
 自身の変化が受け止められるくらいには頭の中が澄んでいるのに、どういうわけか目の焦点がまるで合わない。

 あれ、あたし、なにやってるんだろう。そうだ、演劇。ロミジュリの真っ最中のはず。あたしは、どうしてこんなステージの真ん中で立ち尽くしてるんだろう。セリフをいわなきゃ。セリフを。あれ、セリフってなんだったっけ? あたし、誰の、何をいえばいいんだっけ?

 無限とも思えるほど時間の流れがゆっくりに感じられた。眩しいスポットライトに照らされているのに目の前がだんだんと暗くなっていく。

 ――ああ、ダメだ。やっぱりダメなんだ。

 ごめんね、みんな。ごめんなさい。あたしにはやっぱり無理だったみたい。なんでなんだろう、ほんと、悔しいなあ。

 諦めが滲み始めた矢先、不意に客席から小さなざわめきが響いて、意識が戻ってきた。
 向かいの舞台袖から、まっすぐにあたしを見つめてくるくろゆりの姿が目に留まった。

 ほとんど袖から舞台に出てしまっている。
 照明は当たらずとも前列の観客からは見えてしまっているため、ざわついているみたいだった。

 ……なにやってるのよ、アンタの出番はあたしのセリフの後でしょ。それにしたってその顔、なんのつもりよ? 祈るわけでも、心配してるわけでもない、ただ確信に満ちた顔。

 あのタワーマンションのひどく殺風景なリビングで繰り返し繰り返し続けた立ち稽古、その間ずっとあたしのことをまっすぐに見つめ続けていた時と寸分違わぬ視線。

 絶対に出来ると確信して成功を疑わない、けれど鼻についていけ好かない、それでもあたしを落ち着かせる唯一無二の、大っ嫌いな表情――

「――っ、昨夜の仮面舞踏会で私を踊りに誘ってくださったあのお方。やさしく親切で踊りを終えた後もとても楽しくいろいろなお話をしてくださったわ」

 ひどい声だった。

 出始めはひっくり返り、舌が回りきらず発音は悪く、言葉の緩急だってぼろぼろだった。たぶん、幾度となく繰り返した稽古の中でも最低で最悪な出来だった。

 けれど、あたしはセリフを紡いだ。
 くろゆりだけを見つめ返して。

 客席から注がれているであろう数多の視線全てを無視して、あのリビングでそうしていたみたいに、くろゆりだけに向かってセリフを押し出していた。

 あとはもう無我夢中だった。
 この舞台を私だけのものにすると宣言したくろゆりの、清々しいまでに独壇場だった。

 体育館内の全ての視線を欲しいがままに集めるくろゆり。
 それに対してあたしは、拭いきれないシミみたいに身体に覚え込ませた動きとセリフを、ただひたすらになぞって食らい付いていくだけだった。
 条件反射みたいになぞられていくシーンの、その全ての視線の先でくろゆりはあたしだけを見つめていた。
 ただまっすぐに。脇目も振らず。

「――もう舞踏会には戻れない。僕を口汚く罵ったあんな母親からどうしてジュリエットが生まれたのだろう。ああ、きっとこの館のどこかにジュリエットは居るはずだ。話が出来なくても構わない、せめてもう一度だけ姿を見たい」
「――ロミオ、ああ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの? モンタギュー家と縁を切り、その名を捨てて。それが無理なら、せめて私を愛して」
「――ああ、ジュリエット。ただ一言、僕を恋人と呼んでください。そうすれば僕は今ここで新しく生まれ変わり、この時よりもうロミオではなくなります」

 誰もが知るバルコニーで愛を語らい合うシーン。
 決して届かない距離を埋めるみたいに、お互いの手と手を伸ばしてただ愛する目の前の相手だけを真っ直ぐに見つめる。

 くろゆりの囁くような、けれどはっきりと聞き取れる声量が響き渡り、あたしの鼓膜を刺激する。その刺激は抗うことを許してはくれず、延々と反響を繰り返してあたしの頭の中にいつまでも残り続ける。

 そんな不思議な感覚に陥って初めて、これが衝撃なのだと思い知った。

 あたしはものの見事に衝撃を受けているのだ。決して認めたくなかった、絶対に直視しようとしなかった、これが本物の才能なのだ。

 怖いくらいに伸びのある声は、この場にいる全ての者の意識を捕らえて離さない。意識の底へどんどんと入り込んで、気が付いた時にはもう手遅れなのだ。いつまでもこの衝撃を感じ続けていたいと渇望し、与えられれば勢いに飲まれ溺れてしまう。

 これを才能といわずしてなんだというのだろう。
 だってくろゆりは、当たり前だけれどあたしと同じたかだか十六、七の娘だ。
 母親がどれほど有名な女優であろうと関係ない。観る者は当然として、観ていない者の意識でさえ振り向かせ虜にしてしまうカリスマ性。
 それこそが天から授かりし素質であり、神から与えられた能力なのだ。

 そう思うより他なかった。疑いを差し挟む余地さえ見当たらない。いったいどうしたら異を唱えることが出来るというのだろう。

 私だけを見て、ですって? よくもまあいってくれたわね。

 くろゆりの発する、あるいは無意識に発せられる目映い光にどうしようもなく惹かれてしまうのだ。
 その姿はひときわ明るい光を放って舞い踊る蝶だった。
 それに引き換えあたしは、否応なく明るい方へと引き寄せられて群がることしか出来ない蛾なのだ。
 くろゆりは艶やかで美しく誰からも賞賛される蝶であり、あたしはその輝きに憧れ追い求め、いつか並び立てると思い込んでいる醜い蛾なのだ。

 くろゆりから差し伸べられた手は、燃え上がる炎なのかもしれない。
 その炎に触れてしまってはこちらが焼き尽くされて灰になってしまうだろう。
 それでも、その輝きに引き寄せられてしまうのだ。たとえこの身を焼かれてしまおうとも、どうしようもなく引き寄せられるのだ。

 そんな眩しすぎる輝きから、どうしたら目を逸らせるっていうのよ。

 焼き尽くされそうな眩しすぎる輝きがあたしにだけ向けられているのだ。
 子供の頃の小さな身体いっぱいに憧れを抱き、寝ても覚めても夢を与え続けてくれたアイドルの輝きが、熱が、炎が、あたしだけのためにその手を差し伸べているのだ。

 くろゆり。ううん、まゆりん。「私だけのアイドル」だなんていいながらあたしのことを抱き締めてきたよね。

 けどね、それは違うよ。だって、――まゆりんこそが、あたしだけのアイドルでいてくれたんだから。

 どんなに邪魔をされても、見るなといわれたとしても、もはや釘付けなのだ。
 どうしようもなく虜にされて、あたしの視線は縫い付けられていた。外灯に争って群がる蛾みたいに、もはや眩しすぎる輝きから目が離せなかった。

 あたしだけを見つめ返してくる蝶の、アイドルの、くろゆりの、光を放つ瞬間の全てをこの目に焼き付けたくて仕方なかった。

 その感覚をあたしはよく知っていた。とても懐かしいと思った。
 もっと離れて見なさいとお母さんに怒られながら、それでも齧り付くみたいにテレビ画面に張り付き、歌って踊るアイドルの姿を見つめていた子供の頃と同じだった。憧れと期待と希望と、どこまでも素直な羨望をない交ぜにして夢を見ていたあの頃と。

 そんなアンタの姿から、いったいどうしたら目を離せるっていうのよ。

 嫌い。大嫌い。
 どうしてなのよ。どうしてあたしなんかのためにそこまでするのよ。

 本当は苦しいんでしょう?
 本当は嫌なんでしょう?
 わかるよ。いってたもんね。

 遠野とおのくんに屋上に呼び出された時にはっきりといっていた。
 舞台に関わって携わる全てを、自分が輝くための装置としか考えていない人が立って良い場所じゃないと。そんな人が独りよがりで舞台に立った瞬間、どんな演目も駄作に成り果てると。

 それなのに、あたしのためだけに、本気の演技をしているんだよね。
 他のキャスト全員を置き去りにして微塵も合わせようとせず、自分一人だけが注目されるようにしているんだよね。
 だから最初にいったんだよね、って。

 舞台を汚されることにあんなに憤慨していたのに、信念をねじ曲げて、自らの演技でこの劇を駄作に貶めようとしている。ただあたしを助けるためだけに。

 そこまでして苦しんでいる、苦しんでくれている大嫌いなアンタの姿を、あたしが目を逸らすわけにいかないじゃない。


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