新月の光

恵あかり

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第三部「凛廻」(完結)

16 情の庵

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 犀星の私室で、玲家の三人は額を付き合わせていた。
 それぞれの前には暖かな茶が湯気を立てている。だが、皆、その湯気のゆらめきを見つめるばかりで、手を出そうとはしない。
 重苦しい空気が三人の上にのしかかっていた。
「事情はわかりました」
 玲凛が、いつもよりも大人びた静かな調子で言った。
「つまり、その紀宗とか言う男は、陽兄様を殺さなければ、五亨庵の力が失われるとか、都の状態が悪くなるとか、好き勝手に脅したということですね」
「若干の悪意を感じるが……概ね、言う通りだ」
 犀星は慎重に言葉を選んだ。
「紀宗が言った事は、完全に間違いではないと思う」
 犀星は正確なところを探った。
「彼は五亨庵が建造された時から関わっている。あの場所には五つの特別な力が集まり、それが大きな結界をなして、災いから物事を守っているそうだ」
「それは、私にもわかりました」
 玲陽は、いつもより白っぽい顔で、頷いた。
「初めて五亨庵に入った時、確かに不思議な感じがしました。それがなんであるかはわかりません。けれど、守られている場所であることは確かだと思います」
 玲陽は、一度そこで息を切ってから、続けた。
「一度だけ、五亨庵の中で傀儡喰らいをしたことがあります。浄化の時、何かが力を貸してくれている感覚がありました。もしかすると、五亨庵が味方してくれたのかもしれません」
 玲凛は、じっと話を聞き、時折、護符を指先で撫でた。
「星兄様。今まで、五亨庵で傀儡を見たことはないんですよね?」
「ああ」
 犀星は頷いた。
 玲凛は玲陽に似た面差しで、しん、と考えに沈んだ。
 玲家は女性が家督を継ぐ。
 そのため、玲家に伝わるあらゆる知識や技術を学ぶことができるのは、玲凛のみであった。玲陽も概略は教わったものの、詳しい内容は伏せられていた。犀星に至っては、敷居をまたぐことすら許されていなかった。
 玲凛の知識は、現当主である玲芳と同等である。
「あくまで、推論ですが」
 玲凛は、普段の軽い語り口が嘘のように、神妙な顔で、話し始めた。
「はっきりしているところから考えていきましょう。まずは、陽兄様の背中の火傷のことです」
 玲陽のこめかみがピクリと動く。
「花街の女郎に同じ焼印が押された話を聞きました。私も直接、その被害者の体を見せてもらいました。あれは、吸魂の印。周囲の傀儡を引き寄せるものに間違いありませんでした。陽兄様のものも、同じだとおっしゃいましたね?」
 玲陽は、そっと玲凛に背中を向けた。
 何も言わず、犀星がその襟を緩め、玲陽の着物を滑らせて、背中の傷を玲凛に示した。
 古い火傷の痕は周囲の皮膚よりさらに白く浮き出し、盛り上がり、表面は艶を帯びている。くぼみは青黒く変色し、赤い斑点が全体に散っていた。むごさに目を背けたくなる。
 玲凛は膝をずって、玲陽に寄ると、印の形を確かめた。
「傷が古く、若干の変形は見られますが、同じものに間違いないですね」
「では、これが、傀儡を吸い寄せる、と?」
 声を震わせ、玲陽は囁くように言った。玲凛は小さく頷いた。
「陽兄様が歌仙を離れてから、あのあたりの傀儡が激減しました。今では、参玲家も他の人たちも、普通に暮らすことができるようになっています」
 犀星は着物を直してやりながら、励ますように玲陽の胸元に手のひらを当てた。玲陽は肩を落とした。
「やはり、私のせいでしたか」
「正確には、その焼印を押した奴が悪いんです」
 玲凛はやや語気を荒げた。それからまた、落ち着かせて、
「傀儡を引き寄せる呪いは今もなお、残っています。しかも、女郎たちとは違い、その影響力はとても大きいです」
「しかし、それなら、もっと傀儡が現れても良いようなものだ」
 犀星は玲陽の頬を撫でて、玲凛を見た。
「はい。星兄様のおっしゃる通りです。けれど、そうならないのには訳がある」
「それが、五亨庵、か?」
「おそらく」
 玲凛は、三つの湯のみと、二枚の茶托を、三人の真ん中に五角形に並べた。
「五亨庵には、五つの石があると言いましたね? おそらく、それは、五行の力を司っている礎と考えられます。火、土、金、水、木。宮中のような情念渦巻く場所にあって、星兄様が今まで被害を受けてこなかったのは、五亨庵に守られていたからではないでしょうか。そして、陽兄様がどんなに傀儡を集めても、自然と五亨庵の力がそれを浄化してくれていた、と考えられます」
「では、紀宗が言っていた、力が尽きる、とは?」
「陽兄様が集めてしまう傀儡を浄化し続け、五亨庵の力が弱まる。それに伴って、五行の調和が崩れ、災いにつながる……」
「五亨庵を建立する前、このあたりには様々な災いが多かったという。それがまた、戻ると?」
「もっと良くないです」
 玲陽が、覚悟したように、
「以前は私はいなかった。けれど、今は……」
「陽」
 犀星は迷わず、額を重ねて玲陽を見つめた。
「俺たちは絶対に離れない。それだけは、忘れるな」
「……はい」
 犀星の想いは嬉しいが、喜んでいいのかわからない。玲陽の震えはおさまらなかった。
「凛、五亨庵の崩壊を防ぐ方法は?」
「ある」
 玲凛は即答し、背筋を伸ばした。
「まず、一番確実なのは、陽兄様が亡くなること」
「それはない」
 犀星が即答する。玲凛は鼻で笑った。
「当たり前。そんなこと、絶対させないんだから」
 犀星と玲凛の視線ががっちりと噛み合い、互いの覚悟を確かめ合う。
「他の方法は、いくつかあるけれど」
 玲凛は順を追った。
「陽兄様の印を破壊するのが、一つ」
「それは、おまえが女郎にしたのと同じ方法か?」
「そう。傷をつけて、上書きする。でも、これは正直、勧めない」
 玲凛は首を振った。
「焼印は肌の奥まで残っている。陽兄様ほど力のある人から取り除くとしたら、表面を切るくらいじゃだめ。はっきり言って、背中の肉を抉り取るくらいじゃないと。そんなことしたら、致命傷になる」
 ビクッと玲陽が震えた。犀星は腕を回して抱き寄せた。
「絶対、しない」
 頷いて、玲凛は次の案を出した。
「陽兄様をどうにかするんじゃなくて、他の方法を考えてみる」
「他の、とは?」
「例えば……外から抑える」
 犀星はそっと、玲陽の火傷のあたりに手を添えた。
「そう。星兄様が触れることで、遮断することができるかもしれない。着物の裏に、護符を貼ることもできる。どれも、力を弱めるだけだから、完全に消すことはできないけれど」
「それでも、効果があるなら試したい」
「効果があるかどうか、まずはそれを試す」
 玲凛は言い直した。
「もうひとつ、これは簡単ではないけれど」
 玲凛は、湯のみと茶托に目を落とした。
「五亨庵の力を強くする」
 犀星と玲陽も、五つ置かれた茶器を見た。
「陽兄様の集める傀儡を浄化して、それでも力が枯渇しないくらいまで、強くすることができたら……」
「その方法はわかるか?」
 玲凛は低く唸った。
「よく言われる方法なら知ってるけれど、本当に効果があるかはわからない」
「効果があるか、まずは試そう」
 今度は犀星が、言い直した。
「陽を奪わせはしない。やれることは、全部やりたい」
「わかった」
 玲凛は力強く頷いた。
「私を、五亨庵に連れて行って」
 玲陽が眉を寄せた。
「でも、凛どの。母上から、宮中には入らないように、って言われているんでしょう?」
「緊急事態よ」
「王令だ」
「兄様まで……」
 玲陽は二人を見て黙り込んだ。同様に意志の強い目に、血のつながりを再認識させられる。この二人が味方でいる限り、玲陽が不安を抱く必要はない。
 国よりも何よりも、玲陽のためにだけ動く二人であることは、疑いようがなかった。

 翌日、玲凛は、初めて朱雀門をくぐった。
 玲芳がなぜ、宮中への出入りを禁止していたのか、その理由はわからないまま。
 初めて見た時、玲陽は朱雀門の規模に圧倒された。だが、玲凛は特にそこに感動を示さなかった。彼女は、価値あるものとないものとの線引きが、人と少し違っているところがある。
 大抵は真逆だ、と東雨は思っていた。
 朱雀門の先、朱市を少し奥へ入ったところで、玲凛は首をかしげて手綱を緩めた。
 朱市の賑わいからややはなれた小径の脇に、目印の桜の木があった。
 玲凛はじっと木を見つめ、それからそっと近くへ寄ると馬から降りた。
 古い桜の木は、今年の春、静かに花を咲かせた。それも散って今はもう葉桜となり、並木の木に混じって目立たずにたたずむのみである。誰もが素通りするその姿、しかしそこにこそ、玲凛は圧倒的な存在感を感じた。荒々しい木肌の凹凸と枝ぶり、新緑のまぶしさ。思わず足を止め、目を向けたくなる心地があった。
 黙って様子を見ていた犀星、玲陽、東雨は、顔を見合わせた。
 玲凛は好奇心旺盛な少女だが、どちらかといえば草花を愛でる性格ではない。何か獲物になりそうなきじでも枝にいるのか、と、東雨は伸び上がった。俗物的な想像をした東雨とは違い、犀星と玲陽は意味ありげに視線を交わした。
 玲凛が興味を持った裏には、特殊な事情が隠されている可能性が高い。特に今日は、物見遊山で来ているわけではない。
 玲凛の様子は、どこかおかしかった。じっと木を見つめ、少々緊張した面持ちだ。玲陽がそばに寄った。ただ小さく首をかしげただけで、特にそれ以上踏み込まない。玲凛は真顔のまま振り返った。玲凛はもう一度桜を見て、それから背中を少しだけ丸めた。
「陽兄様……」
 玲凛は、怪しむ目で玲陽を見た。
「凛どの、具合が悪いですか?」
 玲陽はさらに近づき、玲凛に寄り添う。
 玲凛はちらっとまた桜の木を振り返った。
 彼女の目には、古木の前に立つ一人の男の姿が見えていた。それがこの世のものではないということが、玲凛にはわかった。そして玲陽には何も見えていないということも。このような経験は玲凛にとっても初めてだった。
 玲凛には、玲陽のような傀儡喰らいの力はない。
 玲家が求めた、特殊な才能もない。
 しかし、彼女には生まれた時から、見えざるものが見えることがある。それは、玲芳と同じだった。
「いいえ、何でもないです。五亨庵はこっち?」
 玲凛は男の姿を心にしまい、小径の先を見た。白梅が盛りを過ぎ、青々とした若葉を揺らしている。
 東雨が先に立ち、道を進んだ。すでに近衛詰所に来ていた近衛が、一行を見つけて立ち上がった。
「俺、ここで待ってます」
 東雨は詰所で立ち止まった。
「馬の世話をしておきますから、皆さん、中へどうぞ」
 玲凛が愛馬の首を撫でた。
「薫風、丁寧に扱ってよね」
「わかってるよ。どの馬も俺にとっては同じ。馬に罪はない」
「どういう意味よ」
「特に薫風は苦労しているからな」
 東雨の心がわかるのか、玲凛の馬は東雨に甘えるように鼻をすり寄せた。
「本当、主人に似ない可愛い子」
「うるさい」
 言い返したが、玲凛の言葉はどこか優しかった。
 犀星はちらりと東雨の様子を見た。東雨の全てを慈しむ笑顔は、今までと変わらない。時折こみ上げてくる東雨への想いは、玲陽に対するものとはまた、違う類である。
「人が来るといけないから、そこで見ていてくれ」
 犀星の言葉は、怖くて中に入れない東雨に、優しい言い訳を与えるようだった。東雨はわずかに安心したようにうなずいた。
 玲凛が中を探る間、人を遠ざけておきたい。その場を東雨に任せ、三人は内扉を開けた。
 かつて、犀星は運命に引き寄せられるようにこの場所を訪れ、そして、地面に埋められていた五つの石を見つけた。奇石を礎として築いた、特殊な庵、それが五亨庵である。
 話では聞いていたが、その美しい姿を玲凛は初めて直接目にした。一歩足を踏み入れて、庵の中をゆっくりと見回す。
 その内装の色彩、質素ながら手入れが行き届き、外の景色と一体となった美しく稀有な眺めは、誰の心にも強い印象を残す。
 多くの者たちはその奇抜な形に目がいくが、玲凛は違っていた。
 犀星にも玲陽にもわからないものが、彼女のキラキラと光る黒い目には見えているらしい。それは物というよりも、光そのものを感じるのに近い。
 自然とその目は、五つの石をたどった。
 中には、几案の影に隠れていたり、すぐにはそれとわからないような位置にあるものもあったが、初めて来る五亨庵で、彼女の目は確かに石の場所を正確に見抜いていた。
 それはすなわち、五亨庵の核だけを見る眼差しだった。
「始めます」
 玲凛が静かに言った。
「兄様たちはここで待っていて下さい。私のすることを、見て覚えて」
 玲凛は迷わず、確かな歩みで水の石に近づいた。それは犀星の席の後ろであった。半分ほど石英が混じった、半透明の乳白色の石である。玲凛はそっと石に触れ、そして目を閉じた。口の中で何かを小さくつぶやく。それから目を開けると、体の向きをまっすぐに変える。その動きは計算されつくしたように機敏だった。
 歩き出した先には、緑がかった斑紋の浮かぶ石がある。同じようにその緑の石に手を乗せる。そしてつぶやく。次に向かったのは赤みを帯びた石だ。同様にして、黒い石、金色の筋が走る石をゆっくりと巡ってゆく。最後に、再び水の石に戻って触れる。
 そこから今度は五亨庵の中央に進み出た。ちょうど、長榻が置かれたあたりだ。そこで目を閉じ、少し顔を上向ける。
 突如、ふわりと床から風が巻き起こったのが、誰の目にもわかった。犀星が小さくぎゅっと手を握る。少し怯えたようなその仕草に、玲陽は袖を引いて引き寄せた。指が絡む。
 何が起きているのか、二人にはさっぱりわからない。
 少しして、風がおさまり、彼女の着物と髪が静かに舞い降りた。
 玲凛は目を開けた。それから二人の方を振り返って、腕を後ろに組み、急ににこっと普通の調子で笑顔になった。
「うまくいきそうです」
 ふっと犀星たちの肩から力が抜ける。道が開け、一筋の希望が見えた。
「もう入ってもいいですよ」
 玲凛に促され、二人は中央に降りた。
 玲陽がわずかに眉を寄せて見回しながら、
「凛どの、今のは何ですか?」
「五亨庵の力を強くできないかと思って試してみた、儀式みたいなものです」
「順番に廻ることが?」
「はい。五つの力を、さんの順に辿りました」
「産の順?」
「力を強めていく順番のことです」
 そう言って玲凛は再び、石英の石の元へ立つ。
「兄様たちも覚えてください。五つの力は、それぞれがそれぞれを生み出す約束を持っています。例えば水ならば……」
 水の石に触れ、何かをつぶやいたが、言葉ははっきりとしなかった。
「水は草木を育てます。つまり、水は木を生み出すってこと」
 犀星たちは、一つ、頷いた。
「関係性を考えていけばいいんだな?」
「はい。順番に説明しますね」
 玲凛は言いながら、今度は、緑の斑の石のへ歩み、同じように触れて呟く。
「木は燃えて、炎を生み出します」
 目指すのは赤い石だ。
「燃えた後には灰が残るでしょう? つまり、土ができる」
 そう言って、黒い石の前へ進む。
「土を掘り起こせば、そこから金属を含む石が取れます。石の中から、金が生まれるんです」
 金色の筋が白い中に走った石の前で、玲凛が立ち止まった。
 玲陽は頷きながら、最後を閉めくるるように、
「金属は冷えると、その表面に水滴がつきますね。これが、金が水を生む、ということですか」
 玲凛がうなずく。
「なるほど、順に生み出す法則か」
 犀星は順番に石を見た。順番に辿ると、その通り道は五芒星を描く。彼がここに五亨庵を立てたときには、そのようなことを気にしたつもりはない。最初から石は今のように配置されていた。
 玲凛は兄たちの理解に安心したようだった。
「私がやって見せたのは、この五つの石を一つの言葉でつなぐことです」
「一つの言葉でつなぐ?」
 犀星は、彼女が何かをつぶやいていたことを思い出した。
「はい、何でもいいんですよ。例えば、魚」
 びくっと犀星と玲陽が震える。
「全部の石に『魚魚魚魚魚』って言いながら回るんです。そうすると、この場所では魚がよく育つようになります」
 玲凛は真顔で、
「言葉は決まっていません。ただ、力が強くなるように、願いを込める必要があります。育て、とか、満ちよ、とか。自分の気持ちに沿う言葉なら、人それぞれ違って構いません。そうやって力を大きくするんです」
 犀星はふと黙り込んだ。その表情には何かに気づいた気配があった。
 玲凛が注意深く覗き込む。
「何か思い出したんですか?」
「ああ」
 犀星は見渡しながら、
「月に一度ほど紀宗が来ると言っただろう。その時、紀宗は石から石へ巡って何かを言っていた。言葉までは聞き取れなかったのだが」
 玲凛は少し考え、
「そいつが、どういう順番で石を巡ったか、わかりますか」
 犀星は記憶をたどった。特に気にしていたわけではないが、それでも月ごとに繰り返されれば、自然とその歩みは覚えている。
「確か、扉を入って、右回りに一周していただけだと……」
「こちらですね」
 玲凛が備品庫の前の石を示す。
「つまり、紀宗様は木の石から始めたってことですね」
 玲陽は眉間にしわを寄せ、真剣にひとつひとつを見つめている。
「最初はどこからでもいいのですか?」
「自分が一番親しみを感じるものから始めるとうまくいきやすいです。私は水の多い場所で育ったから、水から始めました。多分星兄様もそれが一番やりやすいと思います」
「だが……」
 犀星が低く唸る。
「木は燃えて炎を生み出す。つまり、木の次は火に行かねばならないのだろう? だが、あいつは右回りに順に巡っていた。木の次は、俺の寝室の方……つまり、土の石。外側をぐるりと一周だ」
 犀星の目は、緑石から黒石へとまっすぐに移動した。玲凛の眉が歪む。嫌なことに気づいてしまったという顔だ。
「外側を廻る……その順番だと……」
 玲凛は少し声をひそめて、
「木から土、水、火、金、そして木にもどる、ということですね」
「そうだ」
 犀星は記憶を確かめ、頷いた。
 玲凛は深く息を吐いた。
「これは、間違いというわけじゃないんです。巡り方には二種類あるので。力を強くする順番と、反対に、力を弱くする順番」
「力を弱める?」
めつの順、と呼ばれています。紀宗ってのがやってたのは、それですね」
 玲凛は先程と同じように順番に石を示したが、その場を動かず、言葉だけで説明した。
「種子は土を破って芽吹いてくる。木は土を滅する」
「つまり、紀宗は木の力で、土を壊していた、と?」
「そうなります」
 玲凛は頷き、続けた。
「土は水を吸うでしょう? だから、土は水を滅する。水は火を消します。だから、水は火を滅する。火は金属を溶かしてしまうから、火は金を滅する。金属で作られた斧は木を切り倒すから、金は木を滅する。これで、一回り」
 三人は少し沈黙し、順に石の位置を確認した。
「つまりこの石は……」
 玲陽が心細そうに言う。
「力を生み出すこともできれば、力を失わせることもできるってことですね」
「はい。もし紀宗が滅の順で回っていたのだとしたら、いつも五亨庵の力を弱めていたということになります」
「なぜそんなことをする必要がある」
 犀星は眉を寄せた。
「あいつは五亨庵の力が失われることを恐れていた。産の順で巡って力を強くすることはあっても、わざわざ弱める必要はないだろう」
「そこなんですよね」
 ふと玲凛が顔を歪めた。
「よくわからないです。でも、ちゃんと仕組みを知っていることは間違いないと思う」
 玲陽が難しい顔をして、
「紀宗様がここへ来るようになったのは、五亨庵ができてすぐですか」
「最初からだ」
「最初からその道順でしたか」
 あえて問われると、犀星にも確信がなかった。
「はじめのうちはよくわからない。ただ、うろうろと歩き回っていた印象はある」
「うろうろ? それなら、産の順だった可能性が高い。それだと、あちこち横切ってうろうろすることになるから」
 玲凛が物思いに沈みながら、
「……それなのに、ここしばらくは滅に変わっていた……」
「兄様、前回、紀宗様がいらっしゃったときは、どうでしたか? 私は目を閉じていたので、見ていないのですが」
「前回?」
 問われて、犀星は困った。
 あの時は、犀星も玲陽をかばいつつ、また、自分自身の体調も悪く、紀宗が歩き回っていることには気づいてはいたが、その道順までは確かめていなかった。
 玲陽は注意深く言葉を選びながら、
「もしかしたら紀宗様は、助けようとしていたのかもしれません。五亨庵の力が弱くなったから、強めようとしたのかも」
「じゃあ、今まではどうして弱めようとしていた?」
 犀星が問い返す。それに答えたのは玲凛だった。
「強くなりすぎたから、ではないかな。そう考えるのが自然です」
 犀星は腕を組んで、改めて石を見回した。
「つまり……紀宗は五亨庵ができた時からこの仕組みを知っていた。そして産の順や滅の順を使って、五亨庵の力を一定に保っていた」
 玲陽が加わる。
「そこに私が来て、その均衡を壊した。力が衰えてしまうことを恐れ、強めようとして、巡り方を変えた……」
 ばらばらだった破片が集まり、一つの形を成そうとしていた。
 玲陽が悲しげに目を伏せる。玲凛は安心させるように続けた。
「心配ありません。産の順で力を生み出すことができれば、陽兄様がどんなに傀儡を集めたって、五亨庵も都も滅びたりなんてしません」
「できそうか?」
 犀星が問う。
「星兄様がやってくだされば」
「俺が?」
「いいえ」
 首を振って、玲陽が一歩出た。
「こうなってしまった原因は私です。だから、私がやらなくては」
「陽兄様じゃ逆効果です」
 だめだ、と言われて、玲陽は落ち込んだ顔をした。
 玲凛は、あらためて犀星を見た。
「犀星様がどうしてここに五亨庵を建てようと思ったのか……前におっしゃってましたよね、何かに呼ばれたような気がしたのだと」
「……ああ」
「だとしたら、星兄様はここに選ばれた人だと思うんです。だから犀星様が力を尽くせば、もしかしたら……」
 犀星は眉をひそめた。
「しかしそんな方法があるのなら、なぜ紀宗は俺にそれを言わなかった? 俺にやらせれば済むことだろう? 陰陽官の権限があれば、それくらい……」
「させたくなかった理由が、あるのだと思います」
 玲凛は姿勢を正して、
「この巡りはいわば術と同じ。術である以上、それ相応の対価を支払うことになります」
 玲陽は黙ったまま、玲凛を見つめた。玲凛の言いたいことが、玲陽には痛く刺さった。
「星兄様が何を支払うか、それは私にもわかりません。その危険がある以上、陰陽官には何も言えなかったのかもしれません」
「……紀宗が、俺を庇っていた、と?」
 犀星は目を細めた。
 五亨庵建立の頃から、陰陽官との関わりは深かった。中でも紀宗はもっとも関係の長いひとりだった。しかし、言葉を交わすことも、犀星の様子を気にしたそぶりも見られなかった。
 玲凛は感情を抑えたまま、思いに沈んだ犀星を見上げた。
「人の世は深く、幾重にも重なるもの。表だけを見てすべてを知った気になっては、大切なものを見過ごします」
 かつて同じことを犀遠が言っていたことを、犀星は思い出した。
「わかった」
 犀星は頷いた。
「対価は覚悟の上だ。……日に何度やればいい?」
「わかりません」
 玲凛が言った。
「少しずつ回数を増やしていってください。もし力が強くなりすぎたら、それはそれでまた、その紀宗って人が文句をつけにくると思いますから」
「では、俺が巡る頻度と、紀宗の来訪を記録して、ちょうど良いところを探ることにしよう」
「星兄様らしい考えです。でも、もし、星兄様に異常が現れたら、すぐにやめてください。何を支払うことになるか、わからないんですから」
「約束する」
 犀星は頷き、玲凛はやっと安心したように笑った。
 ただ、玲陽だけはずっと沈んだ顔のままだ。気持ちを察して、犀星はそっと玲陽の肩を抱き寄せた。申し訳なさそうに、玲陽は犀星の顔を見た。
「ごめんなさい。私、迷惑ばかりかけて、何もできません」
「陽にしかできないことがある」
 犀星はふっと、表情を緩めた。
「笑っていてくれ」
 玲凛は思わず苦笑し、
「そうですね、陽兄様は、笑っていてください」
「なんですか、それ……」
 不服そうに玲陽は口を歪めた。
「私だって、ちゃんと役に立ちたいです」
「だから、だ」
 犀星は玲陽の唇に指を当てた。
「おまえにしか、できない」
「そんなこと……」
 文句を言いかけて、玲陽は優しい犀星の顔に、何も言えなくなった。
 この人は本心から、自分が笑ってさえいればいいと思っているのだ。
 そのあまりにも真っすぐな思いに、玲陽はつられて頬を緩めた。
「わかりました。とりあえず笑っていればいいんですね」
「うん」
 二人のやりとりを眺め、玲凛は長く息を吐いた。
 それからふと、ここに来るまでの間に見た、気になる光景を思い出した。
 山桜の下で見た、この世ならざる人の影。その面差しが、ふたりの兄と重なって、玲凛は胸が騒いだ。
 今はまだ、黙っていよう。知らない方が良いこともある。
 玲凛は記憶を閉じ込めた。
 微笑みながら見つめ合う兄たちの安心した笑顔を、もうしばらく見ていたかった。

 満ちた月もやがては細る。
 春月が痩せて半ばを過ぎる前に、夕泉親王を奉じた兵団は朱雀門をくぐった。
 門まで迎えに来た医師団が、負傷者たちを宮中北区の療養施設に運び入れた。涼景は夕泉を天輝殿へ送り、先に帰着していた備拓に引き継いだ。その後、行軍の後始末に奔走して、夜半過ぎに自身も療養所を訪れた。奥まった一室を借りて、ようやく一人になることができた。
 体力は限界に近かったが、心は落ち着かず、まだ野営の中にいるような興奮を覚えていた。
 やるべきことが山のようにあった。
 すぐに休むこともできず、小さく灯した油灯が揺れる中で几案に向かい、まずは報告の書面をまとめることに集中した。
 時折、墨を擦り、竹簡を束ねる影が、板目の壁に大きく映って控えめに揺れた。記憶とわずかな走り書きを頼りに筆を進める。深夜の部屋は静かで、虫の声が遠くに響いていた。
 その静寂を乱すことなく、細く、扉が開かれた。わずかに湿った風が足元から忍び込み、涼景の直裾の端を揺らした。気づかなかったのは、野営に慣れたせいか、疲労のためか、定かではなかった。
 闇に沈む廊下から、灰色の目が、中を覗いた。それは、一枚の影絵のように、しばらくの間じっと動かなかった。涼景の呼吸に合わせ、油灯が揺らめいて震えた。
 やがて、音もなく扉を閉め、蓮章は室内を眺めまわした。
 部屋の反対側に置かれた牀の敷布は平らで、使われた痕跡はなかった。真顔で筆を取る親友の顔には、戦場と同じ緊張が張り付いていた。
 蓮章は無言でそばに寄ると、じっと涼景の手元を見た。
 書き溜めた竹簡に並ぶ、懐かしい文字。それを紡ぎ出す筆先を飽きることなく見守った。
 自分のいない戦場の様子が、事細かに記されていく。
 蓮章は黙ったまま、書き上げられた竹簡を手に取り、次々と読み終えた。気づいていないのか、長いこと、涼景は微塵も注意を向けなかった。
 突然、がたり交椅が倒れ、涼景は、短く叫んで立ちあがった。
「……蓮、いつの間に……」
「結構、前から」
 蓮章は竹簡から目を離さなかった。
「おかえり」
「……ただいま」
 涼景は息を吐き出した。心臓が高鳴っていた。
「親王は明日、午前中に会議が入っている。昼過ぎなら五亨庵で会える」
「……そうか」
 交椅を立てて、涼景は座り直した。
「暁隊はどうしている?」
「問題ない、わけではないが、いつも通りだから問題ない」
 蓮章の声は静かで、涼景は自分の心音の方が大きく聞こえた。
「右近衛は……」
「それこそ、問題ない」
 蓮章は竹簡から目を上げず、答えた。
「それより、裏で然韋が動いている」
「夏史の件、やはり然韋か?」
「物証はないが」
 涼景は蓮章に顔を向けた。頼りない灯りに照らされたその表情は、旅立つ前より美しく見えた。思わず息を呑む。
「親王の話だと、紀宗も面倒を起こしそうだ。詳しくは明日、五亨庵で聞いてくれ」
「……そうか、わかった」
 答えながらも、涼景の声はどこかぼやけていた。
「そういえば、慎に会った。亜塵渓谷で」
「……ああ」
 蓮章は竹簡を読み終えると、そのまま暗い牀に寝転んだ。無意識に、涼景は体ごと振り返った。睦言のように、蓮章の声が甘くなった。
「慎が暁に同行したのは事故だ。俺の指示じゃない。凛に気づかれて逃げられなかったらしい」
「相手が凛では、やむをえまい」
 涼景は苦笑しようとしたが、うまく笑えなかった。額のあたりがしびれたようで、言葉もうまくでてこなかった。
 二ヶ月ぶりの再会。
 伝えたい言葉が溢れていたはずなのに、いざ会えば何も言えない。むしろ、何を伝えたかったのかさえ、思い出せなかった。
 蓮章は、肘に頭を乗せて寝転んだ。涼景をわずかに見上げる目は、暗い牀の上からかすかな明かりを映す涼景の顔へと、まっすぐに向けられていた。
 無防備に力を抜いた手脚が体に絡み、曲線が美しかった。柔らかい着物の折り重なって波打つひだが、濃い闇と薄い光の境目で融け、妖艶に、陰影が浮き上がっていた。
 蓮章の瞳は、ただ迷いなく、涼景だけを映した。
 しかし、唇は動かず言葉を紡ぐ事はなかった。わずかに遠い笑みを浮かべながら、呼吸すら忘れたように凍りつくだけであった。瞳にすべてを焼き付ける祈り。なのに、表情は至って静かだった。
 涼景は自然と呼吸が乱れた。
 戦場帰りのままならない身体に、蓮章は美しすぎた。疲れ切っていた全身に、別の緊張と熱が生まれ、一気に高まってくらくらと頭がしびれた。
 色薄い蓮章の瞳は、薄幸な運命を象徴しているかのようで、涼景の心に庇護の念をうずかせた。同時に、その蓮章に支えられて自分は生かされているという確信も生まれた。それは、仕事の上でも、私的な事柄についても同様だった。
 犀星に玲陽がいるように、自分には蓮章がいた。だからこそ、戦場に立ち続けることができた。
 互いに動かず、動けない。その沈黙は厚く、重たい意味を持っていたが、その意味するところは決して触れてはいけない領域だった。
 窓のない部屋では、時の流れすら止まっていた。
 蓮章は、ただひたすらに涼景を想った。
 涼景もまた、蓮章への気持ちが大きくなるのを感じた。
 だが、そこまでだ。
 どちらも、心に流されることはない。二人の関係は、いつ崩壊するかもわからない危うさと表裏一体だった。
 動けば崩れる。
 部屋の温度が高まり、音のない旋律が螺旋を描いて夜に満ちる。眼差しだけで、二人は情を交わし、命を確かめた。
 たまらず、涼景は目をそらした。思い出したように竹簡に向き直って、乾いた筆先を整える。
 蓮章もまた、半分夢心地で、涼景の横顔を見守る。
 いい眺めだ。
 うっすらと蓮章は笑んだ。
 黎明のわずかな時間。二つの命と想いを包み込んだ小さな部屋は、まるでそれ自体が鼓動する心臓のように、息づいていた。
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