新月の光

恵あかり

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第三部「凛廻」(完結)

17 濁る湖底

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 好みの香木は、その人物の性格を如実に表す。趣味嗜好だけではなく、体調を整えるため、医学的な目的で香りを用いることもある。
 この屋敷の主人は、どちらかといえばその中間であった。
 好きなものは白檀だった。
 そこに、医者に勧められた沈香じんこうを合わせて焚きしめ、部屋の中は独特の香りで常に満たされている。
 部屋は締め切られることが多く、灯りは天井近くの欄間や時折細く開ける白木の板戸の隙間から入り込む程度である。
 部屋の中には灯りも少なく、ぼんやりと薄暗い。だが、部屋の主は特別それで不自由を感じる事はないようだった。
 いつも気だるげに座り、あるいは横になり、たまに体を起こすかと思えば、読み慣れた木簡に目を通し、そしてまたゆるりと伏す。
 食は細く、日に一度、粥と野菜を少し、口にするだけである。
 この春に新たに屋敷を建て直し、やっと移り住んでひと心地ついた。
 冬を凌いだ西苑からの帰路はいつになく負担で、疲れが長く尾を引いていた。
 屋敷に落ち着くと数日は牀に伏し、誰にも会おうとはしなかった。調子を取り戻しても外へ出ることはなく、日がな一日を淡い光の部屋の隅で半分眠って過ごす毎日だった。
 夕泉親王が宮中に戻って十日も過ぎた頃、備拓はようやく目通りが叶った。
 いかにないがしろにされようとも、備拓は一切腹を立てなかった。むしろ、顔を見ずに済むならその方が良いとさえ思われた。
 左近衛は夕泉親王の警備を一括して行う。その隊の副長が、自ら親王を陥れる策を練った。これを未然に防げなかったのは、備拓の責任である。
 元来、真面目な備拓だが、今日はいつもにも増して真剣な面持ちだった。厳格な気風がにじみ出る姿を目にし、屋敷の使用人たちも恐れ入って一歩下がった。
 夕泉だけは気にした様子もなく、部屋の中でいつものようにくつろいで足を崩し、緩んだ気配で迎え入れた。
 備拓は部屋に入ると、丁寧に手をつき、挨拶を済ませた。その所作には濁るところなく、心の中までしっかりと武人だった。
「長くの旅程、殿下におかれましては、さぞやお疲れのこととお察し申し上げます」
 備拓は顔を伏したまま、硬い口調で挨拶を述べた。
「わたくしに、苦しい事はありません」
 静かに夕泉は答えた。
「暁どのが、よくしてくれたゆえ。そう、実に……」
 その言い方には、滲むような毒気があった。
 毒はあっても悪意がない。これが、第三親王・夕泉という人物である。長年の経験から備拓にもその気性はよくわかっている。婉曲的な言い回しをするものの、裏は無いのである。
 そしてそれを証明するかのように、誰かを陥れることも、誰かに力を貸すということも、また、ない。ただそこにいて、ひたすらにゆったりと時を送るだけである。
 かすみのような人だ。毒にも薬にもならぬ。
 備拓は腹の中ではそう思っている。
 かつて謀反を起こした第一親王でさえ、自らの意思で動いた。現在勢いを持ちつつある五亨庵もまた、破天荒ながら独自の政治を貫いている。それに比べ、この親王は無害であると同時に無益だ。それでも、宝順帝が正式に世嗣ぎを決めない以上、夕泉親王は次期皇帝にもっとも近い存在である。
 この方に、皇帝は勤まらぬだろう。
 警備の手は抜かずとも、備拓は以前からそう思ってきた。自らの役職の意義について、意味を見失う心地もする。だが、それを表に出すことはない。
 親王を前に、平服して静かに坐す。
 夕泉は備拓を眺めた。
「夏史のこと、いかに?」
 その問は備拓を少なからず驚かせた。夕泉が人や物事の先々に興味を見せるなど、なかなかないことである。備拓は苦しい胸に息を吸い込んだ。
「夏史は只今刑部ぎょうぶにて詰問の途中にございます。今後はしかるべき手順ののち、公の場にて司法の判断を下されることになるかと」
「公の場、とな」
 夕泉は扇を口元に当てた。
「あれが表に出るか……」
 低く速い呟きが溢れる。 
 聞いてはならないものを聞いた。
 言葉よりも、その声色に、備拓はゾッとして身を縮めた。締め上げられるように痛む喉から、声を絞り出す。
「此度のこと、ひとえに臣の至らなさが招いた事態。殿下の御心を煩わせ、御身を刃にさらしたは、臣の不徳の致すところ。いかなる御裁断も甘んじて受ける所存にございます」
「そなた、相変わらず硬いの」
 夕泉の扇が、ぱたぱたと軽い音を立てて広がった。
「左様にかしこまらずとも、そなたを断ずるつもりはないゆえ、安心なされ」
「……しかし、咎めは必定のこと……」
「良い」
 夕泉は遮り、扇を嗅いだ。
「もう、良い。暁どのが全て収めてくれたゆえ」
 備拓は眉ひとつ動かさず、しかし腹の中身を引きずり出される心地がした。
 夕泉の言葉に他意はなくとも、それは自分への失望の裏返しと聞こえる。
「代わりに一つ、頼みを聞いてはくれますまいか?」
 夕泉の言葉に、備拓はさらに頭を下げた。

 いつになく、東雨は上機嫌で洗い物を楽しんでいた。冷たかった冬の水は嘘のようにぬくみ、肌に心地よい優しい季節になった。
 普段は一度しかしない乾拭きも、今日は、二度三度、手間を惜しまない。
 夕餉の後の、ゆったりと流れる時間。
 犀星たちに夜の茶を出し、明日の朝の食事の仕込みも終わらせた。他の家事も一通り目処をつけ、今夜はゆっくりと書物でも読んで眠りにつける。東雨にとっては平和な宵の時間だった。
 ことあるごとに衝突する玲凛は今、犀星と玲陽とともに難しい顔をして、一部屋にこもりきりである。いつもなら、自分だけがのけ者にされるのはつまらないと文句も言いたいところだが、話の内容は、どうやら玲家の血にまつわることらしい。
 東雨は、傀儡だの呪いだの、という種の話が苦手である。解決してから良い報告だけ聞ければ満足、と割り切っていた。
 俺は俺にしかできないことをするんだ。
 優しい手つきで茶碗を揃え、几架に並べながら、東雨は自然と微笑んでいた。
 東雨の機嫌を良くしている理由は、食料庫にある。
 玲凛が持ち帰った大量の肉が、所狭しと積まれていた。亜塵渓谷における複雑な攻防の果てに手に入れた肉は、よくいぶし、保存食として蓄えられた。鹿も猪も狐も大量だ。天井からつるされた乾燥肉は、東雨に一財産を得たような満足感を与えてくれた。
 使い方次第では、凛も役に立つ。
 東雨は素直に褒めた。普段、どれほど不満を抱えていたとしても、優れたところは受け入れる。東雨も玲凛も、この気性だけは一致していた。
 こうして時々狩りに出てくれたなら、肉に不足はしない。
 亀池がうまくいけば、魚も手に入りやすくなる。
 野菜は少しなら、中庭で収穫できる。
 問題は粟や稗、米といった主食だ。
 いつしか、東雨の脳内には、農地の構想が広がっていた。
 一人の民であれば、それは叶えがたい難題だっただろう。だが、東雨は犀星という稀代の政治家のそばにいる。それは一気に問題の難易度を、現実的な段階へと引き下げた。
 そして同時に、今の自分には荷が重いという自覚も思い出させた。
 犀星の近侍として、未熟さばかりが気に掛かった。
 剣術もままならず、守るどころか、犀星の方が腕が良いときている。儀式の礼儀も見よう見まねで中途半端である。
 近侍とは、ほかの近衛よりも犀星の近くにいて、その身辺のすべてを取り仕切る重要職である。武力だけではない、政治的手腕から立ち居振る舞いまで、すべてが必要とされる。
 大切な犀星に恥をかかせるわけにはいかない。一通り落ち込んで、東雨はそれを吹っ切った。
 成せることを成す。
 自分自身を励ますように、東雨は顔を上げた。
 その時、玄関先で物音がした。
「暁隊かな……」
 東雨は呼ばれる前から、さっさと表へ向かった。
 玄関の戸を開けると、既に暮れかけた夕闇の中に、一人の男がこちらを見下ろしていた。
 やたらと堂々と、自信に溢れて態度が大きい。自然と東雨の顔は引きつった。
「まだ起きていたか?」
 訪問者、涼景はにんまりと笑っていた。
「若様は忙しいし、もう、お休みになる。さっさと、帰れ」
 東雨は取りつく島もなく、追い払いにかかった。
 知らせれば、犀星は会うだろう。だが、涼景を屋敷にあげれば、酒だ料理だ、と、自分の仕事が増えるのだ。
「話を持ってきたんだが?」
「明日、五亨庵に来い」
「そうそう暇じゃないんだ」
「だったら、来なくていい」
「おまえなぁ」
「おまえが来ると、ろくなことが無い」
 東雨は遠慮なく言いきった。
 昨年まで、東雨は涼景に対し、親しいながらも丁寧に接していた。きちんと敬称をつけて呼び、言葉遣いも正した。それが、今ではすっかり対等である。こんな口調になったのは、東雨が安珠の元で治療を受けていた頃からだったと記憶している。
 意識せずとも、自然と起きた変化だった。
 涼景も、それを全く意に介さず、まるで始めからこうだったという顔をして受け答えする。
「酒なら持ってきた。鰯の醤煮もある。茶碗だけ貸してくれたらいい」
「……今度は、茶碗も持ってこい」
 東雨はふくれっ面で、道を開けた。こんなやりとりは挨拶のようなもので、本気で追い返すつもりも、追い返されるつもりもない。
 涼景はさっさと居間に上がり込むと、隅に用意されていた茶道具から、湯のみをひとつ、ひょいと摘んだ。慣れたものである。毛氈の上にあぐらをかいて、手酌で一杯、煽る。
 酒瓶の隣には、笹に包まれた醤煮が、光沢のある色と香ばしい匂いで東雨を誘っている。
「食うか?」
 涼景の勧めに、東雨は口を曲げた。
「別に、毒など入れてないぞ」
「そういうことは疑ってない」
「ずいぶん信用してくれるようになったな」
 涼景がにやにやして二杯目を注いだ。東雨は首を振った。
「魚は謀児様のおかげで十分足りてる……」
 涼景は口元を緩めた。
「そうだったな。なにやら大変なことになっているようで」
「他人事だと思って……」
 東雨は口を尖らせた。このような仕草はやたらと幼く見える。涼景の顔がさらに緩む。
「おまえ、もう十八だろう? まだ呑まないのか?」
「俺は、酒は嫌いだ」
「どうして?」
「……嫌なことを、思い出すから」
 フッと、東雨の声が沈み、涼景は手を止めた。
 憎まれ口を叩いて、どこまでも生意気な東雨だが、その会話の間に唐突に本音がこぼれる。涼景がそれを拾い上げてくれると知っていて、わざと口にする。
「酒ってのは、色んな意味がある」
 涼景の声が、一段落ち着いた。
「嫌なことを忘れたくて飲むのも、そのひとつだ。それが逆に思い出しちまうなら、意味がないな」
「だから、いらない」
「わかった」
 涼景は少しだけ目を細めた。ゆるり、と湯呑みの中の酒を回す。
「俺はいつか、おまえと酌み交わせるのを楽しみにしているんだが」
 つぶやいた横顔に、嘘はなかった。意外な一言に、東雨は不思議そうに眉を寄せた。涼景はあえて視線を避けて、中庭に目を向けた。
 どくん、と東雨の胸が予想外の強さで鳴った。
「……涼景は」
 東雨は思わず、醤煮の鰯を一尾、咥えた。
「忘れたいくらい嫌なこと、あるんだろうな、相当、たくさん……」
 涼景の表情は変わらない。ただ、ちびりと酒に口をつける。
「話す」
「え?」
「いつか、な」
 そう言って、見たこともない柔らかい顔で笑った。
「いつか、おまえが酒に付き合ってくれたら」
「……ずるい奴」
「今更だろ?」
「知ってる」
 そこで一度、会話が切れる。
 東雨は黙って鰯を齧りながら、涼景と並んで春の庭を眺めた。
「そういえば、夕泉様の警護、大変だったんだって?」
 東雨は小さく言った。
「胡断と、戦ったって聞いた」
「戦ったというか……」
 涼景は苦笑した。
「あれは、どうなんだろうな、お互いめちゃくちゃだった。正直、見せられたもんじゃない」
「見たくもない」
 突然、東雨が声をあげた。涼景は驚かず、ただ、少し振り返った。
「涼景、おまえ、死ぬかもしれないんだぞ! そんなの……」
「言ったろ。俺は戦場では……」
「そんなの、気休めだ」
 いつになく、東雨の言葉は鋭かった。
「いいよな、おまえは。死ぬだけなんだから。残された方は、もっと辛い目に会うってのに……」
 知らず知らずのうちに、東雨は手を握りしめていた。
 こんなこと、言うつもりはなかったのに……
 何事もなかったような顔をして、のんびり酒などを飲んでいる涼景を見ると、急に腹が立ってきて、東雨は我慢できなかった。
「……そうだなぁ」
 涼景は、深く息をついた。それから、声を穏やかに、
「もし、俺が死んだら、おまえはどうする?」
「やだ!」
 叫んでしまってから、東雨は息を止めた。自分に向けられた涼景の目は、決して笑ってはいなかった。ただ、わずかに、嬉しそうに見えた。
「ありがとうな」
「はぁ?」
「いや、そう言ってくれる奴が一人でもいてくれるってのは、嬉しいもんだ」
「……ひ、一人じゃない」
 まるで言い訳だ、と思いながら、東雨は続けた。
「若様だって不便になるし、陽様は優しいから悲しむし、暁隊は野党に逆戻りするし……蓮章様は……」
 その名を口にして、東雨はなぜか少し、胸が苦しくなった。
 不意に、奇妙な気分になる。
 どうして、自分はこいつとこんなことを話している……?
 考え始めると、急に落ち着きがなくなってくる。
「そ、そうだ、若様に話があったんだろ? 呼んでくる」
「いや、いい」
「え?」
「明日、五亨庵に行く」
「なんだよ、それ」
「おまえがそうしろ、と言っただろ?」
 東雨は一瞬、きょとんとした。先程の玄関先でのやり取りが蘇った。
「それは、そうだけど……」
「おまえはあいつの近侍だ。あいつの予定を管理するのはおまえの役目だし、あいつもおまえを信頼している」
「でも、涼景が俺の意見を聞くなんて」
「わからないか? 星のことに関して、おまえの方が俺より上だ。だから、従う。何かおかしいか?」
「…………」
 東雨は明らかに困った顔をして、下を向いた。
 涼景の言った意味が、頭の中をぐるぐると巡った。
「……あのさ」
 東雨は膝を揃え、涼景の前に座り直した。背筋を伸ばして顔を上げる。丁寧な所作を、東雨は自然と身につけていた。
「俺は別に、下手したてに出るつもりもないし、頭を下げたくないし、借りを作るのも面白くないし、本当はものすごく嫌なんだけど」
「うむ」
「その上で……お願いします。俺に、近衛の儀礼を教えてください」
 指先を揃えて、東雨はしおらしく深々と礼をした。
「俺、若様が恥ずかしくない近侍になりたい。剣の腕は全然足りないけれど、せめて礼儀とか儀式での正しいやり方とか、そういうのは覚えたい。涼景……様に、頼めないかと……」
 声は次第に力がなくなるが、それでも精一杯だ。
 東雨は、どこを見てよいかわからぬまま、ただじっと床に目を向けていた。本来なら、きちんと涼景の顔を見て頼まねばならないのだろうと思いながらも、つい、照れが優先する。今まで散々にぶつかり合い、乱暴な口まで聞くようになってしまった。それなのに、都合の良い時にだけ頼み事をするのは、身勝手だと感じた。
 涼景は何も言わず、酒をつぎ足した。酒が注がれる軽い音がやけに響く。珍しい東雨の姿を見下ろしながら、美味そうに飲み、いつもより長く味わう。そのまなざしは、優しくそっと包み込むようだ。
 沈黙が続く。
 不安になって、東雨はそっと顔を上げ、涼景を見た。そして、思わず素顔になる。
 自分を肴に酒を飲む涼景の顔は、戦場帰りとは思われないほどに、平穏で満ち足りていた。
 いつまでも見ていたい、そんな気持ちにさせられて、東雨は焦った。
 涼景はそんな東雨の動揺さえ、好ましいというように微笑した。
「……あの……だめ?」
「……だめだな」
 東雨の顔色が、瞬時に真っ青になる。
 いろいろと文句をつけられ、条件を出され、嫌味を言われたとしても、てっきり、受けてくれるものと期待していた。それが、一刀両断である。
「そう……」
 東雨は露骨に失望を表して、うなだれた。
「どうして……?」
 恨めしそうに、つぶやく。潔く引き下がった方が惨めではないのに、どうしても心が震えてしまう。
 涼景は長く息を吐くと、湯呑みを弄びながら慰めるように、
「勘違いするな。おまえに非があるわけじゃない。ただ、俺に関わると、ろくなことにならない。今回のことで、身にしみた」
 涼景はそっと、中庭ごしに、明かりが灯る犀星の部屋を見た。
「以前から、その話は、星としていた」
「その話?」
「おまえを、引き取りたいと」
「……はぁ?」
 東雨には寝耳に水である。
「俺は、若様の元を離れるつもりはない!」
「早合点するな。俺もおまえの世話などごめんだ」
「だったら……」
「あくまで、近衛として学ぶ機会を与えてやれたら、と思っただけだ」
「……涼景……?」
 東雨は、喜んでいいのか落胆すべきか、わからない顔をした。
「俺も星も迷った。おまえにとって、右近衛の訓練は役にたつだろう。だが、俺に関われば、嫌でも宝順の目につく。おまえにはとってはいいことではない」
「…………」
「それでも、俺はおまえを呼びたいと、星を説き伏せた。夕泉の警護から戻ったら、おまえに話すつもりだった」
「…………」
「だが、気が変わった。今日は、それを星に伝えに来ただけだ」
 東雨は困惑して視線を彷徨わせた。
「気が変わったって? 俺の態度が良くないから?」
「違う。おまえのせいじゃない」
 涼景は東雨以上に、目を歪めた。
「俺に関わるな。余計なことに巻き込まれる。いらぬ恨みを買い、巻き添えを食う。おまえをそんな目に合わせたくはない」
 その言葉を聞いても、東雨は素直にはなれなかった。
 何を理由にしたところで、断ることに変わりはない。
「結局、俺は邪魔ってことかよ?」
 思わず、そんな言葉が飛び出していた。
「そうだよな。俺が首突っ込んで、余計なことが起きて、それでまた迷惑するのはおまえだもんな」
「東雨」
「いいんだ。別に、おまえに面倒をかけたいわけじゃないし、どうしてもおまえじゃなきゃだめってことじゃないし、どうせ、俺が何をしたって、うまくできるはずもないし……」
「らしくないこと、言ってんじゃねぇよ」
 延々と続きそうだった東雨を、涼景が呆れたように遮った。
「話しは最後まで聞けって」
「最初も最後もない。結局、だめなんだろ」
「そうじゃない」
 涼景は湯呑みを置いて、腕を組んだ。
「いいか、東雨。よく聞け。俺の周りには、おまえが思う以上に色々と騒がしいことを考えている連中がいる。どうやって俺を落とすか、周囲を巻き込んでも構わない、って奴らがな。今回も、夕泉を殺してでも、俺をはめようとした奴がいた」
 東雨は息を呑んで涼景を見た。
「それくらい、根が深い。だから、俺には関わらないほうがいい。守りきれる保証はない。おまえに、自分で自分の身を守れるだけの自信があれば別だが」
 さすがに、東雨も黙った。
 涼景の言葉は、自分が思う以上に重たかった。
「だが、代わりに……」
 涼景は、言いにくそうに、口ごもった。
「俺ではなく……湖馬から学べ」
「湖馬様?」
「ああ。あいつの五亨庵勤務を増やす。五亨庵でなら、おまえたちが何をしようと、気にする者はいないだろう」
 東雨はそっと、唇を噛んだ。自然とうつむき、目が揺れる。涼景はそれを横目で見た。
「何だ、あいつでは不満か?」
 東雨は首を横に振った。
「そうじゃない……でも、俺は……」
 東雨は、自分でも気づかぬうちに喉元まで昇ってきた言葉を、押し込めた。
『俺は、涼景がいい』
 それは、言ってはいけない言葉だと、本能的に東雨は判断した。
 自分と涼景との間に、決定的な楔を打ち込んでしまう一言だった。
 もの言いたげな東雨の顔を、涼景もまた、真剣に見つめていた。
 涼景には、自分の判断が冷静で、的確だという自信があった。最善の道を選んだ。あらゆる意味で、それは最も、安全な、そして、自分の心にそぐわない道だ。
 酔ったわけでもないのに、涼景の心音は早かった。
 再び、沈黙が降りてくる。
 東雨は言葉を見つけられず口を閉じ、涼景の湯呑みは乾いていた。視線を外したまま、ふたりは遠くに虫の声を聞いていた。

 夜の静けさが支配する、宮中、右衛房。
 蓮章は一人、閑散とした房内をぶらつき、練兵場に異常がないことを確かめながら、どこか気持ちだけは頼りなく月夜をさまよっていた。
 今夜、涼景は都番を口実に、犀星の屋敷に行っている。
 代わりに宮中を預かるのが自分の役目だった。
 都と宮中。暁隊と右近衛。
 交互に分担しながら、二人で役割をになう。
 涼景が無事に都に帰還してから数日、話をする暇もないほど、様々なことに追われた。
 夏史の裏切りの後始末で、備拓は忙しく動き回り、その間、蓮章が天輝殿の近衛をまとめた。
 涼景は長期の不在で揉め事が蓄積していた暁隊をおさめるために奔走し、暁番屋で過ごす日が続いている。
 無事を確かめただけで、個人的に顔を合わせる時間もない。
 聞きたいことは山のようにある。いや、語る言葉より、ただ、その姿を見たかった。その想いは今までになく強く、蓮章自身を焦らせ、困惑させた。
 待つ身の辛さ、苦しさは幾度くり返しても慣れることはできなかった。
 それでも、いつも涼景の帰還には平気な顔をして、皮肉たっぷりに迎えるのが蓮章なりの流儀だった。それが何より、涼景を安心させることを、蓮章は経験から学んでいた。
 しかし、今回は心の調子がおかしい。
 涼景の姿を目にした途端、言葉が出なかった。自分に正直になれそうで、同時にそうしてはならないと踏みとどまった。
 どうしてこんなに、気持ちが乱れる?
 原因には、心当たりがあった。
 兎角とかく、眠れないのだ。ただの睡眠不足ではない。それは病的に心を乱した。
 一通り見回りを済ませ、仮寝の部屋で、蓮章は天井を見つめていた。牀に横になってはみたものの、まんじりともできない。天井の板目を数え、少しでも眠気が来ることを祈るのだが、やはり冴えて落ち着かない。何度も寝返りを打つ。一瞬くつろげる気がするが、やはり瞼は落ちなかった。無理に目を閉じてもそのままである。
 もともと、二、三日に一夜程しか眠らない生活を送ってきた。だが、この一年ばかり、それがさらに間を空けるようになった。最近では十日間眠らずに過ごしたこともある。
 眠れない理由は思い当たらない。体は疲れていた。頭もはっきりしない。眠るに越したことがないのはわかっているが、どうにもそこまでたどり着けない。
 しばらく前に、慎と体を交えた時が蓮章が眠った最後だった。
 あの夜、肉体の疲れは、そのまま眠りの中に自分を引き込んでくれた。不意に、同じことをすれば眠れるのだろうか、と、期待が湧き出してくる。だが、花街に行こうにも、持ち場を離れることはできなかった。
 蓮章は耳を澄ませた。壁の向こうから、規則正しい虫の音が聞こえてくる。じっとそれに耳を傾けても、眠気は訪れない。
 眠りを誘うという茶も飲んだ。香も焚いてみた。ひとかけらの蜜を口に含み、その甘さで心を溶かそうともした。
 だが、何も変わらなかった。生来、蓮章は薬や香に耐性が強く、影響を受けることはない。痛み止めすら効果がなく、どんな些細な傷も、彼には大きな負担だった。
 異常な睡眠時間の不足。
 その最も辛いしわ寄せは、情緒面に現れた。
 体は無理にでも動かせる。考えねばならないことを前にすれば、それなりの決断もできる。しかし、感情だけは簡単ではなかった。
 ひたすらに、揺らぐ。荒れる。
 細かなことにも、心が震え、余計に被害妄想にとりつかれた。
 今日も、ささいな事件があった。大抵のことには動じない蓮章が、槍の発注本数の手違いで声を荒げたのだ。近衛たちは予想外のことに、呆然と顔を見合わせた。普段なら、責任者に酒でもおごらせておけ、と笑い飛ばす蓮章である。それが、厳しい顔をして黙り込んだものだから、周囲は対応に窮した。
 蓮章自身、どうしてそのような態度を取ってしまったのか、わからなかった。
 そして、夜。
 眠ろうにも、相変わらず瞼が重くならない。寝返りを繰り返し、効かないと知りながら強い酒を煽った。それでも、甲斐はなかった。仕方なく、牀から起き上がり、畳んであった上衣を羽織り、裸足で窓ぎわに寄った。
 格子に手をかけ、空を見上げる。独房に囚われた罪人の心地がした。
 細い月。その鋭い輝きは、蓮章の刺々しい心と重なって見えた。
 風流を知る蓮章である。いつもなら、冴えた月を美しいと感じ、詩歌の一節でも思い出したことだろう。
 だが、今はひたすらに胸が泡立つだけだった。
 蓮章の気持ちを煽る理由の一つに、姿を消した慎の存在があった。
 数日前、暁隊が玲凛とともに狩りに出た。そこに『蓮章』がいた、と、玲凛が耳打ちして知らせてくれた。仕方なく、暁隊には自分が参加していた、という話で通している。
 一方、備拓に捕えられ、牢の中にいる夏史も、あの場には蓮章がいたと証言した。そちらには逆に、絶望と恐怖で気がふれ、恨みごとを言っているのであろう、と、無視を貫いた。実際、あの頃、蓮章は天輝殿におり、禁軍大将の然韋がその存在を確認している。他の多くの近衛も証人である。
 面倒なことをしてくれた……
 余計な嘘をつかねばならない。やり場のない苛立ちは、慎へと向いた。
「いったい、どこにいる?」
 逆立った声で、蓮章は呟いた。その声は小さかったが、小屋の壁一枚隔てた向こうの男の耳に届いた。
 ふっと、風が揺れて、外側から、格子の隙間を顔が覗いた。鏡のように、自分と同じ姿。灰色の、左目が交差する。
「おまえ!」
 思わず、蓮章が鋭く声をあげた。
「すまなかった」
 弱気な声が、珍しくすぐに謝った。いつもなら軽口を返してくる慎が、今回ばかりは気まずそうに横を向く。
 ぽつりぽつりと、慎は自分の身に起きたことを伝えた。
 話をすべて聞き終えても、蓮章は不服そうな表情を浮かべていた。慎は遠慮がちにそっと上目遣いをした。
「勝手なことをして済まない。凛には見抜かれてしまったし……」
「そんな事はどうでもいい」
 蓮章は言い捨てた。
「凛を騙せないのはわかっていたことだ。他の連中に気づかれなかっただけ、ましだ」
 一見、寛容にも思われた蓮章だったが、その怒りの矛先は別の方向へ向いていた。
「おまえ、亜塵渓谷で涼に会ったんだろ?」
 その声は、切なさを含んで、まるで叶わない願いへの嘆きのようにも聞こえた。
 慎の胸が音を立てて、締め付けられる。蓮章の感情は、ことのほか慎には深く響く。
「ああ。成り行きだ。おまえより腕が悪いから、役には立てなかったが」
 蓮章は慎を睨みつけた。
「近くにいながら、役に立てない? 何のための影だ?」
 慎はわずかに目を上げ、蓮章を見て首を振った。
「俺はおまえの影であって、涼景のものじゃ……」
「俺の影なら、涼のために死ね!」
 思わず、蓮章は叫んでいた。
 その声に、慎が一瞬で顔をしかめる。
 蓮章がどれほど涼景を想っているか、慎なりに理解しているつもりだった。だが、今の言葉は聞き捨てならなかった。
「俺の命は俺のもんだ。どう使うかは俺が決める」
 慎は静かに、言い返した。
「俺は影だ。あんたに代わって死ぬなら構わない。だが、もしあんたが他の誰かのために死にたいって言うなら、自分で死ね」
 嘘のない言葉で突き刺し合う。それは白い月を血に染めるほどに容赦がなかった。
 蓮章は、格子を握りしめた。この壁一枚が隔てていなければ、震える身体が慎を殴りつけていることだけは間違いなかった。
 だが、それはあまりに理不尽な怒りだ。
 いや、怒りですらない。
 嫉妬。
 ただ涼景のそばにいられなかった悔しさが、慎を前にして破裂してしまった。
「悪かった」
 小さく、蓮章は喉を震わせた。慎は、そっと眉を寄せた。
「リィ、おまえは悪くない。ただ、無理をしすぎているだけだ」
 互いに、見つめるだけの沈黙。優しい表情も、触れ合いもない。むき出しの感情がせめぎあう静かな葛藤。
「あれから……眠っているか?」
 慎の言葉に、ぴくりと蓮章の指先が震えた。それを盗み見て、慎は息を吐いた。
「だめか……」
「別に、問題はない」
「ある」
 頼りない月を見上げ、慎は壁に体をもたれかけた。
「最近のあんた、本当に良くない」
「……見てたのか?」
「まぁ、な」
 格子を掴む蓮章の指が、一層強くなる。
「おまえは……」
「怒るなよ。あんただって悪いんだ。あんな顔されていたら、出て行きにくいだろ」
 蓮章は手を離すと、黙って格子に背中を預けた。壁越しに、慎の気配が近い。
「あんた、涼景のことが大事なら、まずは自分をどうにかしろ」
「…………」
「あんたに何かあったら、涼景もただじゃ済まないんだぞ」
 ちくり、と蓮章の胸が痛む。慎の声色は、いたって静かだった。
「偉そうなことは言えないが……あんたは腕が立つわけでもない。刀で守れない分、気持ちで支えるしかないんだ。それがぐらついていたら、どうにもならねぇ」
「……本当、偉そうだ、おまえ」
「真面目に聞け」
 慎の声が低くなる。
「あんたがそんなじゃ、俺だって迷惑する」
 我が身を抱くように、慎は腕を組んだ。呼吸すら忘れたような蓮章の横顔は凍りついて、月よりも白い。
 相当、まずいな。
 ゆっくりと、慎は息を吐いた。初夏の風が虫の音を運び、甘ったるい匂いが立ちこめる。風は重ねた着物の隙間に僅かに吹き込み、ぬるく肌を撫でた。蓮章を真似て首に巻いた布の下で、慎の喉がこくりと鳴る。
「とにかく、休め。眠れなくても、横になるだけでいいから」
 慎の息遣いを感じながら、蓮章はそのままの姿勢でぼんやりと宙を眺めていた。遠くで、低い鳥の声がした。
「何なんだよ……」
 誰にともなく呟く。
 短く咳き込んで、蓮章は胸を抑えた。口の中に、血の味が広がったような気がした。気遣わしげに、慎は振り返ったが、何も言わずに目を閉じた。
 蓮章は唇を硬く結んだ。
 格子のこちらと向こう。
 閉じ込められているのは、果たしてどちらなのか。
 一人の人間を演じ続けながら、決して一人にはなりきれない二人の夜。
 それは傾いた月のように、不安定に揺れていた。
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