24 / 70
第三部「凛廻」(完結)
23 真心
しおりを挟む
芙蓉と別れた玲凛は、蓮章と落ち合い、宿の二階で体を休めた。
部屋の格子窓から前庭を見下ろすと、篝火が灯された門のそばに立つ蓮章がよく見えた。
歌仙親王の護衛である蓮章が、そちらの警備を部下に任せ、自ら玲凛の元についていた。もちろん、これは全て玲陽の望みであり、それはすなわち犀星の意思だった。
玲陽は、決して部屋には入るな、と蓮章に何度も言い聞かせていた。玲凛は呆れた笑みを浮かべた。
「近づかずに護衛しろ、なんて、難易度高いわね」
玲凛は、さっぱりとした木綿の夜着に袖を通した。野宿もいとわない玲凛には、花街の宿の角部屋など贅沢すぎた。置かれた調度品の価値も、楽しむ者がいなければ無意味だった。
玲凛はとりあえず牀に横になったものの、落ち着かなかった。
「下で寝てもいいかな」
褥を引き寄せながら床に降りる。硬い床の上の方が、柔らかな牀よりも体に馴染んだ。毛氈を敷いただけの床板の感触に、玲凛は小さく息をついた。
やはり、こっちの方がいい。
枕元の低い木架に乗せた油灯がひとつだけ、かすかに部屋を照らしていた。
宿のすぐ脇を水路が走り、その水音が玲凛の敏感な耳に、かすかに聞き取れた。
今日一日の、多彩な出来事が暗い天井に浮かび、幻燈のように揺れた。
歌仙の野山でひとり、猪を追っていた自分が、紅蘭の花街を玲陽たちと笑って歩く日が来るなど、思いもしないことだった。
世界って、本当に広い。この先、何があるかわからない。
玲凛にとって、それは希望であり、胸躍る幸せだった。
陽兄様たち、今頃、どうしてるだろう。
想像して、玲凛は思わず微笑んだ。
明日、からかってあげなくちゃ。
満ち足りた思いで目を閉じると、綿のような疲れに包まれた。
ぼんやりとしてきた聴覚に、かすかに不審なものが混じり、玲凛は目を開けた。抱いて寝ている大太刀を握り、上半身を起こす。
かすかに、床板がきしむ音がした。
刀の柄を握り、すぐに引き抜けるよう構える。万一、間合いに入ってくれば一太刀で沈める。寝込みを襲う相手に対し、玲凛に容赦はない。
絹の帳がよけられ、弱々しい灯りの中、蓮章らしき人物が、姿を表した。
玲凛は少しだけ肩の力を抜いた。
「あんた、どこから入ってきたの?」
「裏口から堂々と」
気づかれる事は想定していたと見えて、落ち着いた様子で慎は答えた。慎のまとう気配に敵意はない。玲凛は柄から手を離した。
「裏口に誰か見張りがいたでしょ? 変な噂でも立てられると厄介なんだけど」
玲凛は過保護な兄のことを思い出し、顔をしかめた。
「心配するな。他人の逢瀬を話題にするほど、花街の自警団は無粋じゃない。それよりあんた、どうして床で寝ている?」
「こっちの方が落ち着く」
鼻で笑うと、慎は室内を見回した。牀の上には、玲凛の袍がきちんと畳まれて置かれていた。
「少しの間、袍を貸してくれ。人に着せるのは得意だろ」
玲凛は首を傾げた。昼間の芙蓉とのやり取りを思い出して、
「もしかして、あんた見てたの?」
「一日中」
慎は袍を手に取ると肩に羽織った。静かに窓際に交椅を寄せ、格子枠の縁に肘をついてそっと外を覗く。
温い月明かりが、慎の面を照らし出した。そのまなざしは、美しい月ではなく、眼下の前庭へと落ちていた。
玲凛は半身を起こしたまま、それを眺めた。
蓮章様のことを見てる?
灰色の目は、開いてはいるが見えてはいない。それなのに、一途に思う眼差しがあった。ただひたすら、じっと動かない。
慎の横顔に、玲凛は声を低めた。
「あんた、何しに来たの?」
「どう見ても夜這いだろ」
軽い口調で言うその素振りは、蓮章にそっくりである。
「なるほどね。夜這いの相手は、窓の下ってわけか」
「こうしていれば、こちらに気づかれても、あんただと思うだろ」
慎は袍の襟を引いた。
「やはり、ここからはよく見える」
あまりに真剣な目に、玲凛は深いため息が漏れた。
似たような目を、玲凛はいつも間近で見ていた。犀星と玲陽も、互いを追う時、同じ顔をするのだ。相手が尊くてたまらないというような、不思議と寂しげな顔だった。
そばにいて、思いも通じているというのに、どうしてそんな顔をするのかと、玲凛には不思議でならなかった。
自分には縁がない。
玲凛は慎に体を向けたまま、横になった。玲凛など眼中になく、慎はひたすらに庭を見つめていた。時折、唇や瞼がぴくんと震え、押し殺した感情が、体から溢れ出した。
しめやかに月明かりに濡れたその姿は、どこか儚くさえあった。
「あんたなら、どうやって皇帝を殺す?」
「え?」
突然の不穏な問いかけに、玲凛の声が思わず高くなった。
「そんなこと、考えたこともないわ」
玲凛は首を振った。
「宝順が星兄様を都に呼び寄せたせいで、陽兄様は寂しい思いをすることになった。だから、恨みがないと言えば嘘だけど」
「…………」
「でも、さすがに殺そうなんて思わないわ。星兄様や叔父上……犀侶香様の命の恩人でもあるから」
「恩人、か」
慎はせせら笑った。
「俺にとっては仇でしかない」
玲凛に目を向けることなく、慎は窓の外を見ていた。
「俺の家族はあいつに殺された」
「…………」
「俺は一度、あいつを殺そうとして、し損じてる。その時、俺の代わりに毒を飲んで匿ってくれたのがリィだ」
「それで惚れ込んで、そばにいるってわけ?」
「それもある。だが、あいつの近くにいれば、また機会も訪れようと思ってな」
「皇帝を殺す?」
玲凛は、突然の慎の話を持て余したように、
「そんなこと、私に話してどうすんのよ」
「少しくらい付き合え。俺には、他に口をきく相手がいない」
拗ねた口調で、慎はつぶやいた。
「俺はあの時、死んだことになっている。もうこの世にはいない人間だ。リィの影としてしか存在できない」
慎はじっと目を動かさなかった。その想いは、どこか切羽詰まっていた。
「あんた、なんかやらかす気?」
「どうしてそう思う?」
「今のあんた、相当参ってるように見える」
「……だろうな」
「蓮章様のそばを離れるつもり?」
「俺にそんなことはできない。だが、あいつの方が俺を置いていくんだ」
慎の目が歪んだ。
「どんなに思い続けようと……絶対に振り向いてくれないってわかってるのにな」
「あんたも蓮章様も、見かけによらず一途ね」
「……みっともないか?」
「ううん」
玲凛は首を振った。
「でも、苦しいだろうな、って」
玲凛は幼い日に見た、玲陽の横顔を思い出した。
犀星を都に奪われ、ひとり残された玲陽は、呆然として風の中に立っていた。
「苦しい、な」
慎が悲しく笑う。
「今、あいつ、何を考えてると思う?」
玲凛は、蓮章の飄々とした顔を思い出した。
「少しくらい、仕事のこと、考えてるんじゃないの?」
「ない、な」
慎は目を細めた。
「……俺とおんなじ顔してやがる。恋しくて、恋しくて、たまらねぇって」
「…………」
「少し前まではこうじゃなかった。もっと心を押し隠すことができていた。今じゃ全部丸見えだ」
慎の声には、悔しい思いが感じられた。
見つめるだけで苦しくてたまらない。それなのに、目をそらすことができない。気持ちを隠せないのは、慎も同じだった。
玲凛にまで、その息苦しさが伝わって来るようだ。
「……あんた、本当に、蓮章様を見るためだけに来たの?」
「それ以外に何がある?」
「そんなに会いたいなら、直接行けばいいでしょう? 姿なんて、ごまかせるでしょうに」
「…………」
「喧嘩でもした?」
「いや……」
慎の声は痛いほどに鋭く細かった。
「必要だから……」
「よくわからないんだけど?」
「だろうな」
非難するでもなく、ただ、ありのままに、慎は言った。
玲凛は言い返さなかった。慎の背負う情の重みが、玲凛を黙らせた。
玲凛は褥を整え、目を閉じた。闇の中に、慎の白い姿がいつまでも消えなかった。
静かに、夜風が柔らかな慎の髪を揺らした。
唇が動き、蓮章を呼んだが、声にはしなかった。
灰色の瞳が、月の光の下で美しく輝いた。二度と像を映すことのない瞳。蓮章のそばにいるために、激しい失明の痛みにも耐えた。そうして手に入れた居場所は、想像した以上に孤独だった。
「邪魔して悪かった」
慎は袍を畳み、牀に戻した。玲凛を一瞥することもなく、静かに部屋を出ていく。
ゆっくり歩いても、心臓は早く鳴った。
玲凛のために借り切った妓楼は、どの部屋もしんと静まり返っていた。火の気のない部屋は牢のようでさえあった。
慎もかつて、この街で花を売る一人だった。
その扉を開き、外へ連れ出してくれたのが蓮章だった。自分には生きる意味も価値もある。そう、思わせてくれた。
だが、それは同時に、慎の心に別の鎖を固くかけた。それこそが、妓楼の扉よりも重く、決して開くことのない孤独の部屋だった。
暗闇は、慎から全てを奪った。
たった一つの瞳は、闇の中であまりにも頼りなかった。指先の感触と、外から漂ってくるわずかな風の気配にすがって、恐る恐る足元を探った。
静かに階段を降り、一歩一歩確かめるように、表へと向かう。入り口を見張っていた自警団が、ちらりと慎を振り返ったが、何かを言うことは無かった。
慎もまた無言のまま、扉を細く開け、外へ滑り出た。
星空の下、前庭に入ると同時に、蓮章と目があった。数瞬、互いに動けず、沈黙が続いた。
見回りの足音が聞こえた。
慎は我に返って蓮章に近づき、背中に顔を寄せた。
「天輝殿へ」
蓮章が目を見張った。その顔には誤魔化しようのない戸惑いと、そして悲しいほどの期待があった。慎は呼吸で告げた。
「あんたは、俺だ」
今まで蓮章がそうしていたように、慎は門にもたれかかり、二階の部屋を見上げた。
背後で、着物が翻り、駆け出す足音がした。
慎は痛い喉に込み上げた声を飲み込んだ。
届かない。見送るしかない。待ち続けるしかない。
既に何を待っているのかも、定かではない。決して戻らぬ、いや、はじめから存在すらしなかった心を、ひたすら待ち続けるのだ。
遠ざかっていく足音を、必死に聞き逃すまいとしながら、慎の心が泣いていた。
部屋に戻るなり、玲陽はたまらず、正面から犀星を抱きしめた。
背中に回した腕がしっかりと力を込めて、暖かい人を掻き抱いた。そうなることがわかっていたのか、犀星は無言で応じた。玲陽の腰の後ろに両腕を組み、答えるように引き寄せた。
ふっと吐息を漏らし、玲陽は犀星の首筋に顔を埋めた。犀星は受け入れ、玲陽の髪に口元を擦り寄せた。
我慢できない。
玲陽は時折、息を洩らして身じろぎし、そのたびに犀星は深く抱いた。
部屋に明かりはなく、窓から差し込む月光だけが唯一の頼りだった。だが、既にその明かりすら、二人には必要なかった。自然と目を閉じ、視覚を捨てた。
互いの呼吸、肌のぬくもり、胸深く吸う匂い、耳に触れる優しい声。それらは目で見る以上に、相手の存在を近く、確かに感じられる術だった。
玲陽は頬を寄せた。震える声で、
「星、あなたに、触れたい」
「うん」
犀星はそっと、玲陽の髪に指を差し入れた。柔らかい琥珀の髪が指の股を滑り、心地よくくすぐった。そのまま耳に唇を寄せ、ひんやりとした耳殻を柔らかく噛んだ。びくりと玲陽の体が震え、一瞬こわばってから、握り締めた綿が元の形に戻るように、ゆっくりと脱力した。
犀星は体を離し、額を重ねた。暗がりの中で、輪郭だけがぼんやりと浮かぶ。それだけで充分だった。玲陽の腰を導き、暗がりの中、もつれるように牀の端に腰掛けた。二人並んで互いの体に触れ合う。寄り添う息遣いが二人を結びつける。
玲陽の指が犀星の首元を行き来した。そっと滑らせ、襟をたどる。更に進んで指先が帯にいたり、結び目を探り当てた。解こうとしたが、思ったよりも固く締められていた。玲陽は、犀星の耳元にため息を落とした。
「あなた、またこんなにきつく……こんなに締めては、体を痛めてしまいます」
玲陽の口調は優しく甘かった。犀星の心が穏やかに温められた。
「固いほうが落ち着く」
言いながら、犀星は肩の力を抜いた。
「どうして……?」
「こうしていると、あの時のことを思い出すから」
「あの時?」
「子供の頃、陽がふざけて、俺を抱きしめた時のことを。おまえの腕の力が忘れられず、つい、こうして締めてしまう」
「そんな……」
玲陽は思わず黙った。
犀星が人よりも固く着付ける癖があることは知っていたが、理由を聞いたのは初めてだった。
部屋の暗さが、玲陽に味方していた。今、顔を見られたら、恥ずかしくてたまらない。
「そんなの、もう忘れてください」
玲陽は首を振った。犀星も、首を振った。
「忘れられない。あの思い出があるから、俺はずっと耐えてこられた」
「あなたは本当に、ずっと私のことを……?」
「おかしいか」
「いいえ。でも、不思議です」
「不思議……?」
「はい」
玲陽は帯を少しずつ緩めながら、
「十年、ですよ。その間、私はあなたに文一つ出さなかった。なのに、あなたはずっと私を思い続けて、私のために途方もないことを成し遂げた」
「陽と一緒に居られるだけの、礎が欲しかった」
犀星は玲陽の襟を緩めた。一呼吸、声を漏らして、玲陽は犀星の頬に手を添え、顔を覗いた。
「十年も会わなければ、人は変わります。あなたのことを、私は忘れていたかもしれない。あなたが思ってくれた私ではなくなったかもしれない。あなたは、そんな心配はしなかったのですか?」
答えるように、犀星はそっと玲陽の肩を撫でた。
「それは思わなかった。だが、別のことが怖かった。自分が変わってしまうのではないかと。俺は、おまえを置き去りにした。二度と会ってはもらえないのではないかと。恐ろしいほどの孤独だった」
「…………」
「でも、もし……もし陽が俺を拒絶するのなら、二度と会えないのなら、その時は自分を終わらせると決めていた」
命がけの想い。
玲陽の胸が高鳴った。犀星の顔に、そっと顔を近づけると、鼻筋が触れた。
「息、止めてください」
犀星が玲陽の腕を掴み、力を込めた。それに合わせて玲陽も息を止めた。
二人は唇を重ねた。
柔らかな熱が互いの間を行き来した。息はしないまま、その感触にゆっくりと沈んでいく。
闇の中に、静かな時が響く。
やがて胸が苦しくなり、どちらからともなく顔を離した。呼吸を戻すと、一気に全身に血が巡り、取り戻すように心臓が速く打つ。
玲陽の傀儡喰らいを避けてかわす口づけは、綱渡りのように危うかった。一歩間違えば犀星の命が消えるのだ。
呼吸を整えながら、玲陽は犀星の髪に手を伸ばした。簪を抜き、結い上げていた紐を解く。帯とは違い、こちらはするりと片手で引き抜くことができた。長い髪が背中に広がった。簪と紐を、木架に置くのももどかしく、玲陽はそのまま犀星を牀に押し倒した。
黙ってされるに任せながら、犀星もまた玲陽の帯を器用に緩めていた。ゆっくりと、時折小さく笑い声を立てながら、二人は間を隔てる布を取り去っていく。子どもがじゃれ合うような、他愛のない短い歓声が弾けた。
毎夜、共に眠るようになっても、どちらも着物に手をかけることはしなかった。
玲陽がそれを拒んだ。
傷ついた体を見られたくない。
その思いを、犀星は大切にした。
だが、今。
花街という特殊な空間、祭りの夜という寄せくる興奮、明かりが失われた暗い部屋の中、聞く者がいないという安心感、そして一日の心地よい疲れ。
何もかもが重なって、玲陽の心が動いた。
玲陽は、犀星の中衣の腰紐を引き、襟を割り、腹から胸にかけて、そっと手のひらで撫で上げた。心地よさそうに長く息を吐いて、犀星は体をそらした。差し出すように喉を上向ける。
吸い寄せられて、玲陽はその薄い肌に甘く歯を立てた。喉の脈動が唇に触れ、体の芯がじんと熱くなる。犀星の着物をすべて取り去り、自らも最後の一枚を脱ぎ落とした。
暗いことが救いだった。
玲陽の肌がかすかに震えているのを感じ、犀星が優しく問いかけた。
「寒いか?」
「いいえ。ただ……やっぱり……」
「怖いか」
「そうですね……怖いです。私の体は傷だらけで、とても……見目がよくはない。あなたがそれを見て、どう思うだろうって考えたら」
「どう思ってほしい?」
「……気にしないでほしいです」
「それはできない」
玲陽が強く犀星の手を掴んだ。犀星は、優しく笑った。
「気にしないのは無理だ。癒したい」
玲陽はまた、違う感動で心が震えるのを感じた。
底の底まで、すべて見透かされていた。
どうしてこの人は、私の内側を、私以上に察するのか。
玲陽は体の力を抜いて、犀星の上に体を横たえた。
犀星は片膝を立て、脚を開いて、玲陽の体を間に招いた。
自分でもどうしていいかわからないほどに、玲陽の体は熱かった。
重ね合う肌。布越しではないその感触に、一瞬、ぞくりと背中が寒くなった。腕の中に大人しく抱かれる犀星の肉体。生々しく熱を帯び、血が通い、弾力があった。望むと同時に、玲陽は恐れた。かつて自分が味わってきた悪夢が思い出されて、呼吸を浅くさせた。
その変化を、犀星は見逃さなかった。背中の傷をいたわりながら、玲陽を自分に引き寄せた。少しずつ、感触を塗り込めていくように、丁寧に肌を合わせた。
手のひらが温かく、玲陽の細い肩をしっかりと掴んでいた。犀星は玲陽の下から顔を見上げ、静かに話しかけた。
「何も心配は要らないから」
どこまでも自分を甘やかす犀星の言葉と仕草に、玲陽はこみ上げてくる想いを必死にこらえた。
泣いてしまいそうな、叫んでしまいそうな。
衝動的な感情が溢れてくる。
犀星とこうしたいと、ずっと願っていた。だが、それは、過去の悪夢を蘇らせるのと同義だった。
もし、あの時の悪夢に飲まれ、恐怖に耐えられなくなってしまったら。
犀星を拒絶してしまったら。
それを思うと、玲陽には勇気が出なかった。
何もかも知っているから。
犀星は優しく玲陽の頭を、片腕に絡めとった。
「陽」
呼ぶ声はどこまでも深い。暗くてはっきりとはしないが、月明かりを弾く犀星の瞳が自分にまっすぐ向いていることはわかった。
「陽、おいで」
その一言が、すべての許しだった。
玲陽は静かに応じた。互いの熱が交差して、直接触れ合った。
「星……」
短く声が上がる。玲陽の体は傷ついてはいても、諦めてはいなかった。生きること、大切な人を乞うことに、正直だった。
それは本能的な渇望だった。だが、自ら潤いを求めることはなかった。犀星に対して以外は。
犀星がゆっくりと腰の位置を変えた。促されるように、玲陽もそこに腰を落とした。玲陽はそっと伸ばした手で、柔らかく二人を重ね、ひとつに包み込んだ。
びくりと、犀星の腰が浮いた。戸惑いが吐息に漏れた。それをなだめるように、頬から耳へと玲陽は静かに口づけた。ついばんで、わざと音を立てる。
こんなふうに体を重ねることは、過去には嫌悪でしかなかった。だというのに、今はまるで別の意味を持っていた。
星、だから。
体は思いを伝えるための道具にすぎなかった。使い方次第で相手を傷つけもすれば、癒しもするのだ。
玲陽は、傷つけられる行為しか知らない。だが、犀星とならば、別の意味にもたどり着ける気がした。
「嫌だったら言ってください。無理強いはしたくない」
玲陽の言葉に、犀星は小さくうなずいた。
「心配するな。おまえ相手に遠慮はしない。嫌なら嫌だと言える」
「それで、いいです」
玲陽はそっと、際どく唇の端に口づけ、それから胸を合わせた。
自分よりも一回りたくましい犀星の体は、温かく力強い。それでいて信じられないほどに柔らかく、滑らかだった。肌の間に優しい熱が生まれ、互いの境界線がゆっくりと溶けてゆく。
玲陽はそっと手を動かした。甘く指を絡め、二人を重ねて一緒に握り込んだ。慣れていない犀星の体が、遅れてそれを追った。
「陽……」
低い息が、困惑を含んで玲陽を呼んだ。
「なんだか……おかしい」
戸惑いながら、犀星の腰が波のようにゆっくりと揺れた。
「星、いい。そのままで……」
犀星に合わせ、玲陽もまた優しく撫でた。指で、自分自身で、犀星に触れ、感じ、安心を与え続けた。
唇は常に犀星の顔のあたりに優しく遊び、もう一方の手でそっと立てられた膝に触れた。膝から太股を丁寧に撫でると、皮膚の下の筋肉の張りまでが伝わって来た。
体をよじりらせ、緩やかに浮き沈みしながら、犀星の全身が慣れていない感覚に飲み込まれていく。玲陽がもたらす未知なる刺激が、ゆっくりと確実に、犀星を昂らせていった。
犀星の苦渋は胸に残っていた。孤独の残滓と、身に負った罪。救えなかった時間への懺悔。
だが、今はすべてが玲陽と共にあった。
恐れることはない。
心の重なりが、体へとつながっていくのを強く感じた。お互いに触れ合う腰が、優しく相手を求めて揺動に耽った。
身を任せる犀星の呼吸に、かすかに音が混じり始めた。緩んだ喉から、意図せぬ声が甘やかな喘ぎとなって、暗い室内に響いた。
玲陽が思わず犀星の肩にしがみついた。ぐっと堪える声が、犀星の耳元に落ち、息が弾んだ。触れ合う互いが脈動し、熱が敏感になった一点に集まっていくのがわかった。
玲陽は、犀星の二の腕を強く握った。二人を絡め取っている手は、その動きを早め、力を強めた。
犀星は、呼吸を整えようと精一杯だった。だが、そうしようとすればするほど、制御できない声が喉から溢れ出た。
玲陽の動きが変わった。犀星の下腹部がそれを受けて、今まで味わったことのない感覚を全身に伝えてきた。
「陽……」
切ない声が、玲陽をまた一段高みへと押し上げた。犀星が玲陽を押し上げ、玲陽が犀星を引き上げた。その繰り返しで、二人は混ざり合い、同じ場所へ、共に昇るのだ。
優しさと、渇きと、悦びと。
すべてが溶解して、その感情に溺れ、二人はしっかりと結ばれていた。
無意識に、犀星の脚が、玲陽の腰に絡んだ。感覚が、次第にその強さを増し、短く呼吸が切れ、断続的に漏れた。
吐き出す声を止めることもできず、互いに相手の動きに翻弄されるがままだった。
ひときわ強く、玲陽が身を低めた。犀星の喉から大きな呻きが上がったが、構わず、玲陽は動きを極めた。直接触れる犀星の熱が、どこまでも玲陽を大胆にさせた。
「陽……」
乱れた呼吸の間で、犀星は呼びかけた。
「……いい。ついていける」
犀星は腕を回し、玲陽の頭を抱えた。
玲陽は指を滑らせ、犀星の先端を執拗なほどに優しく撫でた。犀星の体が不規則に跳ねて、甘い声が喉を突いた。それは犀星自身を高ぶらせると同時に、玲陽に最後の一片の配慮を捨てさせた。
玲陽の頭の中に白い靄がかかって、思考がすべてしびれたように遠のいていた。一気に押し寄せてくる感覚に、玲陽は喘ぎ、さらに大きく動いた。
月の明かりの中、二人の体にじんわりと汗がにじんでいた。月光を弾いて、全身が光っているように、白く浮かび上がった。
高い声を上げて、玲陽が背中をのけぞらせた。わずかに遅れて、犀星の全身が痙攣した。こらえようとしたが、声は抑えられなかった。
一つの大きな息が、重なり、時が止まった。
やがて互いに脱力して、ぐったりと四肢が絡め落ちた。
二人の間で弾けた二人分の熱が、全身の呼吸で伸縮する犀星の脇腹へ、一筋、流れて落ちた。
呼吸をゆっくりと合わせ、余韻の中で、どちらからともなく、くすくすと笑い声を漏らした。体をずらして、玲陽は犀星の横に寝転んだ。受け止めていた玲陽の重みを失い、犀星の胸が空気を楽に迎え入れた。
「大丈夫……ですか」
玲陽が、今さらのように言った。その息は、未だ興奮にうわずっていた。
「何が?」
犀星は少し体を捻って、玲陽のほうに顔を向けた。犀星の体もまだ、治りきらない鼓動の高鳴りに、うわずった気配に包まれていた。
月に照らされた犀星の体の流線が、玲陽の目に飛び込んできた。
こんなに美しい人を自分が抱いていたのかと思うと、すぐにまた全身の血が熱くなった。
「怖く、なかったですか?」
「少し。こんなこと、初めてだから」
犀星の言い方は、あまりにも真っ直ぐで、玲陽は思わず声を立てて笑った。
「初めて、ですか」
「そうだ。こんなことを思いつくとは、おまえは、すごいな」
玲陽は嬉しそうに笑って、
「私も、初めてです」
優しく言った。
傷つけることしか、傷つけられることしか知らなかった玲陽の、初めての夜。
暗がりでも、声だけで、二人には相手の表情が想像できた。
「星、可愛かったです」
どう返答していいかわからず、犀星は思わず黙り込んだ。それから、ふいに、悪戯な作り声で、
「凛と、どっちが可愛い?」
「あなたに決まってます」
「凛が聞いたら悲しむな」
「意地悪」
玲陽の声はとろけるように甘かった。
「こういう時は、目の前の相手のことだけ考えてください」
「おまえは?」
「私は、とっくにあなたしか見ていない」
小さな嫉妬だったのだろうか。
犀星は、どこかに感じていた胸のつかえが、すっと消えていった。
自分はいつも玲陽のことばかりだ。
見返りを求めるわけではないが、やはり同じように思ってもらえることが素直に嬉しかった。
犀星は玲陽と向き合い、顔の前に手を置いた。黙って、玲陽は指を絡めた。優しく握りあう。犀星はその繋ぎに唇を寄せた。
見えずとも、互いに見つめ合うのが感じられた。
「子どもの頃、よく、こうしていたな」
犀星は、余韻の残る声で言った。
「気づけば、手を繋いでいるのが当たり前だった」
「最初、あなたから来たんですよ」
玲陽は懐かしそうに、
「あれは、歌仙には珍しい寒い夜。足が冷えて眠れない、と言って、夜中にいきなり、私の牀に潜り込んで来て」
「そうだったか?」
「そうです。十二歳の冬」
「そんなこと、よく覚えているな」
玲陽は少し体を縮めた。
「だって……」
「うん?」
「……いえ、いいです」
玲陽は首を振った。自分に抱きつくようにして眠る犀星に感じ入って、玲陽はあの夜、精通を迎えたのだ。あまりのことに驚いてしまい、病気なのではないかと、泣きながら犀遠の部屋に駆け込んだことが思い出された。
玲陽が一足先に大人になった夜、犀星は何も知らず、朝まで玲陽の牀で眠っていたのだった。
犀星は、どうしても言いたくない、という顔もの玲陽を、それ以上問い詰めはしなかった。代わりに、話題を別の方向に差し出した。
「こうしていると、昔のことを思い出すな」
「余計なことまで、掘り起こさないでくださいよ」
何を言い出すか予想がつかない犀星に警戒しながら、玲陽は毛氈の端で口元を隠した。
「陽との思い出に、余計なものなんてない」
「だから、ずるいって言われるんです、あなた」
「そうか?」
「そうです。いつだって」
玲陽はつないだ指の力を強弱させ、犀星の反応を楽しんだ。
「いつだって、あなたは私を試すみたいにからかって」
「そんなこと、した覚えがない」
犀星は首をすくめた。
「俺はそんなに器用じゃない」
「無自覚にやるから、余計に悪いんです」
玲陽は少し、体を寄せた。
「私が、あなたのことを、名前で呼ぶようになった時のこと、覚えていますか?」
犀星は、懐かしんで、
「ああ。俺の十三の誕生日だ。陽に、祝いに何が欲しいか、と聞かれて……」
「自分のことを、名で呼べ、とあなたは言った」
「それの、どこが悪い?」
「断れないじゃないですか」
玲陽は手を握りしめて、
「まるで、一生を誓わされた気分でしたよ」
「それは良かった」
「どこが?」
「ちゃんと、真意が通じてた」
「……星!」
玲陽の指が犀星の手に食い込んだ。負けじと、犀星も握り返した。そのやりとりは、無邪気な子供のふざけあいのようであった。
「痛いです」
「痛くしている」
犀星は玲陽の背中に反対の腕を添え、一気に顔を引き寄せた。
「……近いです」
「わざとだ」
「……照れるので……」
「今さらか?」
「それは……」
犀星の息を感じて、玲陽は体をこわばらせた。
普段から、犀星の執着はあまりに分かりやすいのだ。手を握り、腰を引き寄せ、顔を近づけ、抱きしめて、最後にはところかまわず口づけを落とす。玲陽という体を隅々まで自分に重ねていたいという、原始的な欲求が隠すことなく現れている。
そのくせ、語る言葉は気まぐれで、色気よりからかう口調が多かった。
体にも心にも、玲陽への強く揺るぎない執着が溢れていた。
それを一身に受けても、玲陽は動じなかった。
むしろ、さらに欲しいと訴えた。
相手に対して、底のない独占欲を見せるのは、犀星より、玲陽の方だった。
足りない。まだ、足りない。
そう呟きながら、玲陽は笑って犀星のそばにすり寄った。
すべて、二人きりの時間の中で、誰の目にも触れることなく交わされたつながりだった。
犀星が、ひときわ声を甘くして、玲陽を呼んだ。
「陽、一つ、約束が欲しい」
「何です、唐突に……」
犀星は、繋いだ玲陽の手に口付けた。
「約束、してくれるか?」
「……するかしないかは、内容によります」
「それなら、言わない」
「何ですか、その理屈は」
玲陽は呆れた声で、しかし、そんな犀星の要求すら、好ましいと言わんばかりに笑顔を見せた。
犀星は、玲陽が断ることはないと確信しながら、それでも本人の言葉を欲しがった。
「断わられたくないから、約束してくれないなら言わない」
「また、わがままを言う……」
犀星は玲陽の機嫌をとるように、何度も、唇で指に触れ、甘く噛んだ。
「なぁ、約束、して」
「ですから、内容を聞いて判断を……」
「陽……」
「……です……から……」
「うん」
ああ、だめだ。
玲陽は観念した。
自分にだけ向けられる犀星の甘えは、どうにも逆らいがたい。狂おしく心を乱し、すべてを投げ打ってでも手を伸ばしてしまう。それが、犀星の無自覚な手管だと知っていても、抗うことはできなかった。
無防備な仕草と吐息に、玲陽の理性が崩れた。
いつもの展開、先の見えていた結末だった。
「……わかりました。約束します。だから、言ってください」
「約束、な」
犀星は満足そうに、玲陽と額を重ねて唇を寄せた。それから、とびきりのささやき声で、
「俺が、命を終える時、そばにいて欲しい」
「……え?」
思いもしないことだった。何を言われたのか、とっさに、玲陽は理解できなかった。犀星は繰り返した。
「俺のそばにいて、口付けて」
「…………」
「俺の魂がどこかへ消えてしまう前に、陽が奪って」
「…………」
「そうしたら、ずっと一緒にいられるだろう?」
絡めた手が震えていた。
犀星は、自分を殺してくれと、そう、玲陽に願っていたのだ。
理解し、そして、玲陽は迷った。
「……私が、先にいなくなるかもしれません、ですから、その約束は……」
玲陽の声は上擦っていた。犀星が、じっと自分を見つめているのがわかった。
「その時は、俺がおまえのそばにいる。だから、俺を、連れて行け」
ぞくり、として、玲陽は唇を噛んだ。犀星が静かに囁いた。
「傀儡喰らいは、呪われた力なのかもしれない。けれど、それは同時に、俺たちを結びつけてくれると思う」
そんなふうに、考えたこともなかった。
玲陽は犀星に体を傾けた。
「あなたが、言うのは……」
声がわずかに波打った。
「一緒に、死のうってこと?」
「違う」
犀星は即答した。
「ずっと、一緒にいよう」
「…………」
「約束、してくれるか?」
汗が引き、しっとりと冷えた犀星の胸に、玲陽は顔を埋めた。
交わした言葉反芻し、逃げ道も、逃げる気持ちもないことを知った。
「……言ったじゃないですか。する、って」
優しく、玲陽は言った。
「そうだった」
くすり、と犀星は笑った。
抱き寄せて、引き寄せて、温め合う。
もう、二人に言葉はいらなかった。
まことの心が結ばれ、雫をたたえて咲き誇る、花街の夜。
月光を映すせせらぎが、静かに更けていく宵闇を縫って、慈しむように流れていた。
全身に絡みつくのは、色濃い疲れか浴びせられた屈辱か。
身体の内からこみ上げる重苦しさが、ずしりと手足の自由を奪う。
壁に沿って、水の垂れる音がかすかに響く。
石の間。
硬くざらついた床に、一糸纏わぬ体を無防備に投げ出す。見る者がないのを良いことに、震えるままに、しばし時をやり過ごし、堪える。
人には見せぬと誓った涙が、今は止めどなく流れ続けた。
身のうちの炎が徐々に引き、体の随所が痛みを訴えた。頭がしびれ、激しいめまいと頭痛、そして吐き気が襲う。何もかもが中途半端だった。苦しみなのか快楽の名残か、未だ果たせぬ渇望か。ただ呼吸だけは止めないよう、涼景はひたすら、息を繰り返した。
宝順帝と夕泉親王。
二人の間で弄ばれた体は、もう自分のものとも思われなかった。ただ重たいだけの肉の塊が残された虚無感と脱力感。何があったか、それすらはっきりと思い出すことも拒まれ、頭の中に靄がかかり、ここ数刻の出来事の全てを、心が、魂が、封じ込めようとしていた。
床に当てた耳から、石を伝い、かすかに足音が聞こえてくる。天輝殿を守る左近衛の巡回。石の間の中には、ただ一人取り残された自分だけだ。悲鳴を聞きつけた近衛たちは、一夜の惨劇を知っている。だが、彼らが干渉することはない。それが石の間の不文律だった。
腕に力を込め、肘を伸ばして体を支え、上体を起こす。腰が崩れて、脚に力が入らなかった。無惨に散った床の上の汚れを、涼景は感情もなく眺めた。自ら、清めねばならない。
『片付けておけ』
いつもと変わらぬその一言は、限界を超えた涼景の上に、容赦なく命じられた。
時が経つにつれ、少しずつ乾き、肌に張り付いていく穢れ。通常なら耐え難いものさえ、今は感覚があまりに鈍い。
普段から鍛錬を怠らない身体が、あまりに不自由だった。
腕で這い、壁際の水瓶に寄る。柄杓で水を汲み、頭から浴びる。とりつかれたように、何度も、何度も繰り返す。水はややぬるく、しかしそれが逆に肌に粘って残り、いつまでたっても晴れなかった。
膝で立つと、内腿に不浄が垂れ落ちた。ぞわりと背筋を走る嫌悪感。手を伸ばしたが、肩が痛んで後ろに回らなかった。悔しさに、また、涙だけが流れた。
手ぬぐいを掴み、顔を拭い、涼景は深く息を吐いた。
いくつかの灯りはもう油が尽きて、芯だけがぽつんと赤く光っている。壁を支えによろめいて立ち上がる。垂れ落ちる雫。濡れたままの姿が、余計に己の惨めさを思い知らせる。見回せば、暗がりに、はぎ取られた着物が無造作に投げ出されていた。
涼景はまたしばしその光景を眺め、それから桶いっぱいに水を汲むと、床の傾斜に沿って高い位置から静かに流した。何色とも知れぬものが、床の溝に沿ってトロトロと流れ下り、部屋の隅の排水溝までたどり着いた。見届け、また、水を汲み、床に流す。
その単調な作業の中で、涼景は少しずつ自分の体の制御を取り戻していった。竹の箒で、水とともに汚れを掃く。耳障りな硬質の音。跳ねて足元にまとわりつく水滴。石の隙間に入り込んだ、誰のものともわからぬものを、ただ黙々と搔き出し清めてゆく。素足が、我が身に起きたことを、まざまざと伝えてきた。
時を使い、床を清めると、涼景は周りを見渡した。幸い、壁に汚れはなかった。もう一度足元を洗い、着物を羽織る。帯を結ぶ手が震えていた。いつもよりも力が入らず、胸元をしっかりと合わせることができない。ただ上辺だけ取り繕うように袖を通し、ようやく内側から閂を外した。
最後の油灯の芯が、燃え尽きようとしていた。
涼景は、重たい扉を体の重みで押し開けた。開いた隙間から差し込むいくつかの小さな油灯の炎が、眩しいほどに目を刺した。
扉のすぐ脇には、警備の左近衛が立っていた。涼景が現れても、正面を向いたまま、ちらりとも目を動かさない。ここを警備する者にとって、石の間で起きる事は、すべてこの世の出来事ではない。知る必要のない、幻であった。
涼景は必死に前を見て、片足を引きずりながら、ゆっくりと歩いた。体の節々が痛み、腹の中までが灼けるように疼いていた。
早くこの危うい状況から逃れたい。今の自分を誰にも見られたくはない。その思いが、涼景の疲れきった体を動かしていた。
すれ違う近衛も禁軍も、誰も自分を見ない。まるでそこには何もないかのように素通りしていく。たまらず、膝をついて崩れ落ちたが、気にとめる者はいなかった。呼吸を整え、自力で立ち上がり、また、ずるずると出口に向かう。
今の涼景は右近衛隊長でもなければ、軍を任される暁将軍でもない。ただの、権力者の欲望を満たした、生きた人形の残骸である。
天輝殿の中央通路を抜け、前殿の謁見室の脇を通り、正面の門をくぐる。涼景が近づけば、左近衛たちは心得ているとばかりに、無言で一人分の隙間を開け、彼を通した。早く出て行けと言うかのように、整然とした動きだった。
涼景の表情は凍りついていた。そこには、苦しみも怒りもない。ただ、現実に起きたすべて忘れるような虚無。
最後の長く幅の広い階段を危なげに降り、ちらりと厩舎の方に目を向ける。このような夜は、馬を使うことはない。事後の体はとても馬上には耐えられない。
少しでも早く隠れたい。誰にも、今の自分を見られたくはない。
涼景は自然と道をそれ、茂みを踏んで木立の中に分け入り、木々の根元に座り込んだ。人目を逃れたという安心感で、心が遠のいた。
右衛房に戻らねば……
早く湯を浴びて、奥の部屋で眠ろう。明日も忙しく予定が詰まっている。涼景の心はせわしなく己を駆り立てたが、すぐに体は動かなかった。
覚悟していた以上に、今夜は凄まじかった。二人分の情を一身に受け、しかも、いびつにねじれた欲望の形に翻弄され、涼景の体は限界を超えさせられた。やすやすと壊され、途中からわけもわからぬ暴力に、意識は飛んだ。気がついたときには泣き叫ぶ声も枯れていた。
木の幹に寄りかかっていた涼景は、座る力も尽きて、そのまま横倒しに草の中へ倒れた。時折、喉が締まって咳き込むたびに、全身が軋んだ。土の匂いが近く、懐かしさに涙が滲んだ。
「蓮……」
救いを求める名。
会いたいわけではない。むしろ会えるはずがない。今のこの姿を最も見られたくないのは、他でもない親友である。自分が傷つく以上に、傷ついた自分を見て心を引き裂かれるのは、彼なのだ。
蓮にだけは……
それは涼景の最後の矜持だった。
しばらくそうしてから、やがて木を頼りに、少しずつ体を起こした。いつしか、全身がすっかりと冷えて、震え始めていた。涙腺が熱くなるが、ぐっと飲み込んだ。
息を乱して顔を上げると、木立の奥に人影がひとつ、明らかにこちらを向いて立っていた。白い星明かりがその面に弾け、柔らかく輪郭が見えると、涼景は途端に顔をこわばらせた。胸の中で、複雑な拒絶感が渦巻き、心を押し潰した。
「涼……景」
乱れた、そして、懐かしい音が呼ぶ。
「…………」
何かを言った気がしたが、涼景は自分の声が聞こえなかった。人影は静かに寄ると、涼景の左肩を背負った。
「……リィに、頼まれた」
涼景を大切に支え、酷く掠れた男の声が静かに告げた。
思わず、涼景は顔を背けた。
それは意地か、それとも愛着か。声も出せないままだった。
涼景の体が傾き、男はさらに深く腕を回した。
涼景の着物を濡らす水が、じっとりと男の裾に染み込んでいった。
無言のまま、涼景は自分より細い体に頼った。伝わる熱が熱くてたまらなかった。
涼景は小さく咳き込んだ。
男は片手で器用に自分の襟を探り、小さな飴を取り出した。
黙って涼景の口元に持って行く。びくりとした涼景と目が合ったが、男の表情は静かなままだった。
流される心地で、涼景は唇を開いた。男はそっと、飴を含ませた。かすかに唇に指先が触れ、柔らかい熱が残った。
スッと鼻に抜ける、薄荷の香りがした。喉を案じたようでもあり、喋らなくていい言い訳を作ったようでもあった。
涼景はころりと、舌の上で飴を転がした。普段は気にならない薄荷の香りが、なぜか目にしみた。
男は何も言わなかった。
だが、寄り添う柔らかい安心感が、涼景の心を弱くしていった。
俺はいつから、これほど、油断するようになった?
考えれば考えるほどに、涼景の心は揺れた。それは、踏み外せば瞬く間に谷底に落ち込むほど、危うい線の上にあった。
草を踏み、夜の中をゆっくりと歩く。
虫の音が、二人の道を導くように先々で響く。
涼景は、触れ合うほどに近い灰色の瞳を盗み見た。
肉体の辛さも忘れるほど、心は痺れていた。
夜風は甘く、花の香がした。
右衛房までの道は長く、短い。門の篝火の灯りが見え、門番の姿が黒く揺れた。
男は足を止め、そっと、体を引いた。涼景は体重を自身に戻した。涼景が自力で立てる事を確かめて、男は目を合わせもせず、背を向け、闇に消えた。
いつの間にそうされたのか、涼景の右手首には赤い紐の端が結ばれ、長く、垂れて落ちていた。
部屋の格子窓から前庭を見下ろすと、篝火が灯された門のそばに立つ蓮章がよく見えた。
歌仙親王の護衛である蓮章が、そちらの警備を部下に任せ、自ら玲凛の元についていた。もちろん、これは全て玲陽の望みであり、それはすなわち犀星の意思だった。
玲陽は、決して部屋には入るな、と蓮章に何度も言い聞かせていた。玲凛は呆れた笑みを浮かべた。
「近づかずに護衛しろ、なんて、難易度高いわね」
玲凛は、さっぱりとした木綿の夜着に袖を通した。野宿もいとわない玲凛には、花街の宿の角部屋など贅沢すぎた。置かれた調度品の価値も、楽しむ者がいなければ無意味だった。
玲凛はとりあえず牀に横になったものの、落ち着かなかった。
「下で寝てもいいかな」
褥を引き寄せながら床に降りる。硬い床の上の方が、柔らかな牀よりも体に馴染んだ。毛氈を敷いただけの床板の感触に、玲凛は小さく息をついた。
やはり、こっちの方がいい。
枕元の低い木架に乗せた油灯がひとつだけ、かすかに部屋を照らしていた。
宿のすぐ脇を水路が走り、その水音が玲凛の敏感な耳に、かすかに聞き取れた。
今日一日の、多彩な出来事が暗い天井に浮かび、幻燈のように揺れた。
歌仙の野山でひとり、猪を追っていた自分が、紅蘭の花街を玲陽たちと笑って歩く日が来るなど、思いもしないことだった。
世界って、本当に広い。この先、何があるかわからない。
玲凛にとって、それは希望であり、胸躍る幸せだった。
陽兄様たち、今頃、どうしてるだろう。
想像して、玲凛は思わず微笑んだ。
明日、からかってあげなくちゃ。
満ち足りた思いで目を閉じると、綿のような疲れに包まれた。
ぼんやりとしてきた聴覚に、かすかに不審なものが混じり、玲凛は目を開けた。抱いて寝ている大太刀を握り、上半身を起こす。
かすかに、床板がきしむ音がした。
刀の柄を握り、すぐに引き抜けるよう構える。万一、間合いに入ってくれば一太刀で沈める。寝込みを襲う相手に対し、玲凛に容赦はない。
絹の帳がよけられ、弱々しい灯りの中、蓮章らしき人物が、姿を表した。
玲凛は少しだけ肩の力を抜いた。
「あんた、どこから入ってきたの?」
「裏口から堂々と」
気づかれる事は想定していたと見えて、落ち着いた様子で慎は答えた。慎のまとう気配に敵意はない。玲凛は柄から手を離した。
「裏口に誰か見張りがいたでしょ? 変な噂でも立てられると厄介なんだけど」
玲凛は過保護な兄のことを思い出し、顔をしかめた。
「心配するな。他人の逢瀬を話題にするほど、花街の自警団は無粋じゃない。それよりあんた、どうして床で寝ている?」
「こっちの方が落ち着く」
鼻で笑うと、慎は室内を見回した。牀の上には、玲凛の袍がきちんと畳まれて置かれていた。
「少しの間、袍を貸してくれ。人に着せるのは得意だろ」
玲凛は首を傾げた。昼間の芙蓉とのやり取りを思い出して、
「もしかして、あんた見てたの?」
「一日中」
慎は袍を手に取ると肩に羽織った。静かに窓際に交椅を寄せ、格子枠の縁に肘をついてそっと外を覗く。
温い月明かりが、慎の面を照らし出した。そのまなざしは、美しい月ではなく、眼下の前庭へと落ちていた。
玲凛は半身を起こしたまま、それを眺めた。
蓮章様のことを見てる?
灰色の目は、開いてはいるが見えてはいない。それなのに、一途に思う眼差しがあった。ただひたすら、じっと動かない。
慎の横顔に、玲凛は声を低めた。
「あんた、何しに来たの?」
「どう見ても夜這いだろ」
軽い口調で言うその素振りは、蓮章にそっくりである。
「なるほどね。夜這いの相手は、窓の下ってわけか」
「こうしていれば、こちらに気づかれても、あんただと思うだろ」
慎は袍の襟を引いた。
「やはり、ここからはよく見える」
あまりに真剣な目に、玲凛は深いため息が漏れた。
似たような目を、玲凛はいつも間近で見ていた。犀星と玲陽も、互いを追う時、同じ顔をするのだ。相手が尊くてたまらないというような、不思議と寂しげな顔だった。
そばにいて、思いも通じているというのに、どうしてそんな顔をするのかと、玲凛には不思議でならなかった。
自分には縁がない。
玲凛は慎に体を向けたまま、横になった。玲凛など眼中になく、慎はひたすらに庭を見つめていた。時折、唇や瞼がぴくんと震え、押し殺した感情が、体から溢れ出した。
しめやかに月明かりに濡れたその姿は、どこか儚くさえあった。
「あんたなら、どうやって皇帝を殺す?」
「え?」
突然の不穏な問いかけに、玲凛の声が思わず高くなった。
「そんなこと、考えたこともないわ」
玲凛は首を振った。
「宝順が星兄様を都に呼び寄せたせいで、陽兄様は寂しい思いをすることになった。だから、恨みがないと言えば嘘だけど」
「…………」
「でも、さすがに殺そうなんて思わないわ。星兄様や叔父上……犀侶香様の命の恩人でもあるから」
「恩人、か」
慎はせせら笑った。
「俺にとっては仇でしかない」
玲凛に目を向けることなく、慎は窓の外を見ていた。
「俺の家族はあいつに殺された」
「…………」
「俺は一度、あいつを殺そうとして、し損じてる。その時、俺の代わりに毒を飲んで匿ってくれたのがリィだ」
「それで惚れ込んで、そばにいるってわけ?」
「それもある。だが、あいつの近くにいれば、また機会も訪れようと思ってな」
「皇帝を殺す?」
玲凛は、突然の慎の話を持て余したように、
「そんなこと、私に話してどうすんのよ」
「少しくらい付き合え。俺には、他に口をきく相手がいない」
拗ねた口調で、慎はつぶやいた。
「俺はあの時、死んだことになっている。もうこの世にはいない人間だ。リィの影としてしか存在できない」
慎はじっと目を動かさなかった。その想いは、どこか切羽詰まっていた。
「あんた、なんかやらかす気?」
「どうしてそう思う?」
「今のあんた、相当参ってるように見える」
「……だろうな」
「蓮章様のそばを離れるつもり?」
「俺にそんなことはできない。だが、あいつの方が俺を置いていくんだ」
慎の目が歪んだ。
「どんなに思い続けようと……絶対に振り向いてくれないってわかってるのにな」
「あんたも蓮章様も、見かけによらず一途ね」
「……みっともないか?」
「ううん」
玲凛は首を振った。
「でも、苦しいだろうな、って」
玲凛は幼い日に見た、玲陽の横顔を思い出した。
犀星を都に奪われ、ひとり残された玲陽は、呆然として風の中に立っていた。
「苦しい、な」
慎が悲しく笑う。
「今、あいつ、何を考えてると思う?」
玲凛は、蓮章の飄々とした顔を思い出した。
「少しくらい、仕事のこと、考えてるんじゃないの?」
「ない、な」
慎は目を細めた。
「……俺とおんなじ顔してやがる。恋しくて、恋しくて、たまらねぇって」
「…………」
「少し前まではこうじゃなかった。もっと心を押し隠すことができていた。今じゃ全部丸見えだ」
慎の声には、悔しい思いが感じられた。
見つめるだけで苦しくてたまらない。それなのに、目をそらすことができない。気持ちを隠せないのは、慎も同じだった。
玲凛にまで、その息苦しさが伝わって来るようだ。
「……あんた、本当に、蓮章様を見るためだけに来たの?」
「それ以外に何がある?」
「そんなに会いたいなら、直接行けばいいでしょう? 姿なんて、ごまかせるでしょうに」
「…………」
「喧嘩でもした?」
「いや……」
慎の声は痛いほどに鋭く細かった。
「必要だから……」
「よくわからないんだけど?」
「だろうな」
非難するでもなく、ただ、ありのままに、慎は言った。
玲凛は言い返さなかった。慎の背負う情の重みが、玲凛を黙らせた。
玲凛は褥を整え、目を閉じた。闇の中に、慎の白い姿がいつまでも消えなかった。
静かに、夜風が柔らかな慎の髪を揺らした。
唇が動き、蓮章を呼んだが、声にはしなかった。
灰色の瞳が、月の光の下で美しく輝いた。二度と像を映すことのない瞳。蓮章のそばにいるために、激しい失明の痛みにも耐えた。そうして手に入れた居場所は、想像した以上に孤独だった。
「邪魔して悪かった」
慎は袍を畳み、牀に戻した。玲凛を一瞥することもなく、静かに部屋を出ていく。
ゆっくり歩いても、心臓は早く鳴った。
玲凛のために借り切った妓楼は、どの部屋もしんと静まり返っていた。火の気のない部屋は牢のようでさえあった。
慎もかつて、この街で花を売る一人だった。
その扉を開き、外へ連れ出してくれたのが蓮章だった。自分には生きる意味も価値もある。そう、思わせてくれた。
だが、それは同時に、慎の心に別の鎖を固くかけた。それこそが、妓楼の扉よりも重く、決して開くことのない孤独の部屋だった。
暗闇は、慎から全てを奪った。
たった一つの瞳は、闇の中であまりにも頼りなかった。指先の感触と、外から漂ってくるわずかな風の気配にすがって、恐る恐る足元を探った。
静かに階段を降り、一歩一歩確かめるように、表へと向かう。入り口を見張っていた自警団が、ちらりと慎を振り返ったが、何かを言うことは無かった。
慎もまた無言のまま、扉を細く開け、外へ滑り出た。
星空の下、前庭に入ると同時に、蓮章と目があった。数瞬、互いに動けず、沈黙が続いた。
見回りの足音が聞こえた。
慎は我に返って蓮章に近づき、背中に顔を寄せた。
「天輝殿へ」
蓮章が目を見張った。その顔には誤魔化しようのない戸惑いと、そして悲しいほどの期待があった。慎は呼吸で告げた。
「あんたは、俺だ」
今まで蓮章がそうしていたように、慎は門にもたれかかり、二階の部屋を見上げた。
背後で、着物が翻り、駆け出す足音がした。
慎は痛い喉に込み上げた声を飲み込んだ。
届かない。見送るしかない。待ち続けるしかない。
既に何を待っているのかも、定かではない。決して戻らぬ、いや、はじめから存在すらしなかった心を、ひたすら待ち続けるのだ。
遠ざかっていく足音を、必死に聞き逃すまいとしながら、慎の心が泣いていた。
部屋に戻るなり、玲陽はたまらず、正面から犀星を抱きしめた。
背中に回した腕がしっかりと力を込めて、暖かい人を掻き抱いた。そうなることがわかっていたのか、犀星は無言で応じた。玲陽の腰の後ろに両腕を組み、答えるように引き寄せた。
ふっと吐息を漏らし、玲陽は犀星の首筋に顔を埋めた。犀星は受け入れ、玲陽の髪に口元を擦り寄せた。
我慢できない。
玲陽は時折、息を洩らして身じろぎし、そのたびに犀星は深く抱いた。
部屋に明かりはなく、窓から差し込む月光だけが唯一の頼りだった。だが、既にその明かりすら、二人には必要なかった。自然と目を閉じ、視覚を捨てた。
互いの呼吸、肌のぬくもり、胸深く吸う匂い、耳に触れる優しい声。それらは目で見る以上に、相手の存在を近く、確かに感じられる術だった。
玲陽は頬を寄せた。震える声で、
「星、あなたに、触れたい」
「うん」
犀星はそっと、玲陽の髪に指を差し入れた。柔らかい琥珀の髪が指の股を滑り、心地よくくすぐった。そのまま耳に唇を寄せ、ひんやりとした耳殻を柔らかく噛んだ。びくりと玲陽の体が震え、一瞬こわばってから、握り締めた綿が元の形に戻るように、ゆっくりと脱力した。
犀星は体を離し、額を重ねた。暗がりの中で、輪郭だけがぼんやりと浮かぶ。それだけで充分だった。玲陽の腰を導き、暗がりの中、もつれるように牀の端に腰掛けた。二人並んで互いの体に触れ合う。寄り添う息遣いが二人を結びつける。
玲陽の指が犀星の首元を行き来した。そっと滑らせ、襟をたどる。更に進んで指先が帯にいたり、結び目を探り当てた。解こうとしたが、思ったよりも固く締められていた。玲陽は、犀星の耳元にため息を落とした。
「あなた、またこんなにきつく……こんなに締めては、体を痛めてしまいます」
玲陽の口調は優しく甘かった。犀星の心が穏やかに温められた。
「固いほうが落ち着く」
言いながら、犀星は肩の力を抜いた。
「どうして……?」
「こうしていると、あの時のことを思い出すから」
「あの時?」
「子供の頃、陽がふざけて、俺を抱きしめた時のことを。おまえの腕の力が忘れられず、つい、こうして締めてしまう」
「そんな……」
玲陽は思わず黙った。
犀星が人よりも固く着付ける癖があることは知っていたが、理由を聞いたのは初めてだった。
部屋の暗さが、玲陽に味方していた。今、顔を見られたら、恥ずかしくてたまらない。
「そんなの、もう忘れてください」
玲陽は首を振った。犀星も、首を振った。
「忘れられない。あの思い出があるから、俺はずっと耐えてこられた」
「あなたは本当に、ずっと私のことを……?」
「おかしいか」
「いいえ。でも、不思議です」
「不思議……?」
「はい」
玲陽は帯を少しずつ緩めながら、
「十年、ですよ。その間、私はあなたに文一つ出さなかった。なのに、あなたはずっと私を思い続けて、私のために途方もないことを成し遂げた」
「陽と一緒に居られるだけの、礎が欲しかった」
犀星は玲陽の襟を緩めた。一呼吸、声を漏らして、玲陽は犀星の頬に手を添え、顔を覗いた。
「十年も会わなければ、人は変わります。あなたのことを、私は忘れていたかもしれない。あなたが思ってくれた私ではなくなったかもしれない。あなたは、そんな心配はしなかったのですか?」
答えるように、犀星はそっと玲陽の肩を撫でた。
「それは思わなかった。だが、別のことが怖かった。自分が変わってしまうのではないかと。俺は、おまえを置き去りにした。二度と会ってはもらえないのではないかと。恐ろしいほどの孤独だった」
「…………」
「でも、もし……もし陽が俺を拒絶するのなら、二度と会えないのなら、その時は自分を終わらせると決めていた」
命がけの想い。
玲陽の胸が高鳴った。犀星の顔に、そっと顔を近づけると、鼻筋が触れた。
「息、止めてください」
犀星が玲陽の腕を掴み、力を込めた。それに合わせて玲陽も息を止めた。
二人は唇を重ねた。
柔らかな熱が互いの間を行き来した。息はしないまま、その感触にゆっくりと沈んでいく。
闇の中に、静かな時が響く。
やがて胸が苦しくなり、どちらからともなく顔を離した。呼吸を戻すと、一気に全身に血が巡り、取り戻すように心臓が速く打つ。
玲陽の傀儡喰らいを避けてかわす口づけは、綱渡りのように危うかった。一歩間違えば犀星の命が消えるのだ。
呼吸を整えながら、玲陽は犀星の髪に手を伸ばした。簪を抜き、結い上げていた紐を解く。帯とは違い、こちらはするりと片手で引き抜くことができた。長い髪が背中に広がった。簪と紐を、木架に置くのももどかしく、玲陽はそのまま犀星を牀に押し倒した。
黙ってされるに任せながら、犀星もまた玲陽の帯を器用に緩めていた。ゆっくりと、時折小さく笑い声を立てながら、二人は間を隔てる布を取り去っていく。子どもがじゃれ合うような、他愛のない短い歓声が弾けた。
毎夜、共に眠るようになっても、どちらも着物に手をかけることはしなかった。
玲陽がそれを拒んだ。
傷ついた体を見られたくない。
その思いを、犀星は大切にした。
だが、今。
花街という特殊な空間、祭りの夜という寄せくる興奮、明かりが失われた暗い部屋の中、聞く者がいないという安心感、そして一日の心地よい疲れ。
何もかもが重なって、玲陽の心が動いた。
玲陽は、犀星の中衣の腰紐を引き、襟を割り、腹から胸にかけて、そっと手のひらで撫で上げた。心地よさそうに長く息を吐いて、犀星は体をそらした。差し出すように喉を上向ける。
吸い寄せられて、玲陽はその薄い肌に甘く歯を立てた。喉の脈動が唇に触れ、体の芯がじんと熱くなる。犀星の着物をすべて取り去り、自らも最後の一枚を脱ぎ落とした。
暗いことが救いだった。
玲陽の肌がかすかに震えているのを感じ、犀星が優しく問いかけた。
「寒いか?」
「いいえ。ただ……やっぱり……」
「怖いか」
「そうですね……怖いです。私の体は傷だらけで、とても……見目がよくはない。あなたがそれを見て、どう思うだろうって考えたら」
「どう思ってほしい?」
「……気にしないでほしいです」
「それはできない」
玲陽が強く犀星の手を掴んだ。犀星は、優しく笑った。
「気にしないのは無理だ。癒したい」
玲陽はまた、違う感動で心が震えるのを感じた。
底の底まで、すべて見透かされていた。
どうしてこの人は、私の内側を、私以上に察するのか。
玲陽は体の力を抜いて、犀星の上に体を横たえた。
犀星は片膝を立て、脚を開いて、玲陽の体を間に招いた。
自分でもどうしていいかわからないほどに、玲陽の体は熱かった。
重ね合う肌。布越しではないその感触に、一瞬、ぞくりと背中が寒くなった。腕の中に大人しく抱かれる犀星の肉体。生々しく熱を帯び、血が通い、弾力があった。望むと同時に、玲陽は恐れた。かつて自分が味わってきた悪夢が思い出されて、呼吸を浅くさせた。
その変化を、犀星は見逃さなかった。背中の傷をいたわりながら、玲陽を自分に引き寄せた。少しずつ、感触を塗り込めていくように、丁寧に肌を合わせた。
手のひらが温かく、玲陽の細い肩をしっかりと掴んでいた。犀星は玲陽の下から顔を見上げ、静かに話しかけた。
「何も心配は要らないから」
どこまでも自分を甘やかす犀星の言葉と仕草に、玲陽はこみ上げてくる想いを必死にこらえた。
泣いてしまいそうな、叫んでしまいそうな。
衝動的な感情が溢れてくる。
犀星とこうしたいと、ずっと願っていた。だが、それは、過去の悪夢を蘇らせるのと同義だった。
もし、あの時の悪夢に飲まれ、恐怖に耐えられなくなってしまったら。
犀星を拒絶してしまったら。
それを思うと、玲陽には勇気が出なかった。
何もかも知っているから。
犀星は優しく玲陽の頭を、片腕に絡めとった。
「陽」
呼ぶ声はどこまでも深い。暗くてはっきりとはしないが、月明かりを弾く犀星の瞳が自分にまっすぐ向いていることはわかった。
「陽、おいで」
その一言が、すべての許しだった。
玲陽は静かに応じた。互いの熱が交差して、直接触れ合った。
「星……」
短く声が上がる。玲陽の体は傷ついてはいても、諦めてはいなかった。生きること、大切な人を乞うことに、正直だった。
それは本能的な渇望だった。だが、自ら潤いを求めることはなかった。犀星に対して以外は。
犀星がゆっくりと腰の位置を変えた。促されるように、玲陽もそこに腰を落とした。玲陽はそっと伸ばした手で、柔らかく二人を重ね、ひとつに包み込んだ。
びくりと、犀星の腰が浮いた。戸惑いが吐息に漏れた。それをなだめるように、頬から耳へと玲陽は静かに口づけた。ついばんで、わざと音を立てる。
こんなふうに体を重ねることは、過去には嫌悪でしかなかった。だというのに、今はまるで別の意味を持っていた。
星、だから。
体は思いを伝えるための道具にすぎなかった。使い方次第で相手を傷つけもすれば、癒しもするのだ。
玲陽は、傷つけられる行為しか知らない。だが、犀星とならば、別の意味にもたどり着ける気がした。
「嫌だったら言ってください。無理強いはしたくない」
玲陽の言葉に、犀星は小さくうなずいた。
「心配するな。おまえ相手に遠慮はしない。嫌なら嫌だと言える」
「それで、いいです」
玲陽はそっと、際どく唇の端に口づけ、それから胸を合わせた。
自分よりも一回りたくましい犀星の体は、温かく力強い。それでいて信じられないほどに柔らかく、滑らかだった。肌の間に優しい熱が生まれ、互いの境界線がゆっくりと溶けてゆく。
玲陽はそっと手を動かした。甘く指を絡め、二人を重ねて一緒に握り込んだ。慣れていない犀星の体が、遅れてそれを追った。
「陽……」
低い息が、困惑を含んで玲陽を呼んだ。
「なんだか……おかしい」
戸惑いながら、犀星の腰が波のようにゆっくりと揺れた。
「星、いい。そのままで……」
犀星に合わせ、玲陽もまた優しく撫でた。指で、自分自身で、犀星に触れ、感じ、安心を与え続けた。
唇は常に犀星の顔のあたりに優しく遊び、もう一方の手でそっと立てられた膝に触れた。膝から太股を丁寧に撫でると、皮膚の下の筋肉の張りまでが伝わって来た。
体をよじりらせ、緩やかに浮き沈みしながら、犀星の全身が慣れていない感覚に飲み込まれていく。玲陽がもたらす未知なる刺激が、ゆっくりと確実に、犀星を昂らせていった。
犀星の苦渋は胸に残っていた。孤独の残滓と、身に負った罪。救えなかった時間への懺悔。
だが、今はすべてが玲陽と共にあった。
恐れることはない。
心の重なりが、体へとつながっていくのを強く感じた。お互いに触れ合う腰が、優しく相手を求めて揺動に耽った。
身を任せる犀星の呼吸に、かすかに音が混じり始めた。緩んだ喉から、意図せぬ声が甘やかな喘ぎとなって、暗い室内に響いた。
玲陽が思わず犀星の肩にしがみついた。ぐっと堪える声が、犀星の耳元に落ち、息が弾んだ。触れ合う互いが脈動し、熱が敏感になった一点に集まっていくのがわかった。
玲陽は、犀星の二の腕を強く握った。二人を絡め取っている手は、その動きを早め、力を強めた。
犀星は、呼吸を整えようと精一杯だった。だが、そうしようとすればするほど、制御できない声が喉から溢れ出た。
玲陽の動きが変わった。犀星の下腹部がそれを受けて、今まで味わったことのない感覚を全身に伝えてきた。
「陽……」
切ない声が、玲陽をまた一段高みへと押し上げた。犀星が玲陽を押し上げ、玲陽が犀星を引き上げた。その繰り返しで、二人は混ざり合い、同じ場所へ、共に昇るのだ。
優しさと、渇きと、悦びと。
すべてが溶解して、その感情に溺れ、二人はしっかりと結ばれていた。
無意識に、犀星の脚が、玲陽の腰に絡んだ。感覚が、次第にその強さを増し、短く呼吸が切れ、断続的に漏れた。
吐き出す声を止めることもできず、互いに相手の動きに翻弄されるがままだった。
ひときわ強く、玲陽が身を低めた。犀星の喉から大きな呻きが上がったが、構わず、玲陽は動きを極めた。直接触れる犀星の熱が、どこまでも玲陽を大胆にさせた。
「陽……」
乱れた呼吸の間で、犀星は呼びかけた。
「……いい。ついていける」
犀星は腕を回し、玲陽の頭を抱えた。
玲陽は指を滑らせ、犀星の先端を執拗なほどに優しく撫でた。犀星の体が不規則に跳ねて、甘い声が喉を突いた。それは犀星自身を高ぶらせると同時に、玲陽に最後の一片の配慮を捨てさせた。
玲陽の頭の中に白い靄がかかって、思考がすべてしびれたように遠のいていた。一気に押し寄せてくる感覚に、玲陽は喘ぎ、さらに大きく動いた。
月の明かりの中、二人の体にじんわりと汗がにじんでいた。月光を弾いて、全身が光っているように、白く浮かび上がった。
高い声を上げて、玲陽が背中をのけぞらせた。わずかに遅れて、犀星の全身が痙攣した。こらえようとしたが、声は抑えられなかった。
一つの大きな息が、重なり、時が止まった。
やがて互いに脱力して、ぐったりと四肢が絡め落ちた。
二人の間で弾けた二人分の熱が、全身の呼吸で伸縮する犀星の脇腹へ、一筋、流れて落ちた。
呼吸をゆっくりと合わせ、余韻の中で、どちらからともなく、くすくすと笑い声を漏らした。体をずらして、玲陽は犀星の横に寝転んだ。受け止めていた玲陽の重みを失い、犀星の胸が空気を楽に迎え入れた。
「大丈夫……ですか」
玲陽が、今さらのように言った。その息は、未だ興奮にうわずっていた。
「何が?」
犀星は少し体を捻って、玲陽のほうに顔を向けた。犀星の体もまだ、治りきらない鼓動の高鳴りに、うわずった気配に包まれていた。
月に照らされた犀星の体の流線が、玲陽の目に飛び込んできた。
こんなに美しい人を自分が抱いていたのかと思うと、すぐにまた全身の血が熱くなった。
「怖く、なかったですか?」
「少し。こんなこと、初めてだから」
犀星の言い方は、あまりにも真っ直ぐで、玲陽は思わず声を立てて笑った。
「初めて、ですか」
「そうだ。こんなことを思いつくとは、おまえは、すごいな」
玲陽は嬉しそうに笑って、
「私も、初めてです」
優しく言った。
傷つけることしか、傷つけられることしか知らなかった玲陽の、初めての夜。
暗がりでも、声だけで、二人には相手の表情が想像できた。
「星、可愛かったです」
どう返答していいかわからず、犀星は思わず黙り込んだ。それから、ふいに、悪戯な作り声で、
「凛と、どっちが可愛い?」
「あなたに決まってます」
「凛が聞いたら悲しむな」
「意地悪」
玲陽の声はとろけるように甘かった。
「こういう時は、目の前の相手のことだけ考えてください」
「おまえは?」
「私は、とっくにあなたしか見ていない」
小さな嫉妬だったのだろうか。
犀星は、どこかに感じていた胸のつかえが、すっと消えていった。
自分はいつも玲陽のことばかりだ。
見返りを求めるわけではないが、やはり同じように思ってもらえることが素直に嬉しかった。
犀星は玲陽と向き合い、顔の前に手を置いた。黙って、玲陽は指を絡めた。優しく握りあう。犀星はその繋ぎに唇を寄せた。
見えずとも、互いに見つめ合うのが感じられた。
「子どもの頃、よく、こうしていたな」
犀星は、余韻の残る声で言った。
「気づけば、手を繋いでいるのが当たり前だった」
「最初、あなたから来たんですよ」
玲陽は懐かしそうに、
「あれは、歌仙には珍しい寒い夜。足が冷えて眠れない、と言って、夜中にいきなり、私の牀に潜り込んで来て」
「そうだったか?」
「そうです。十二歳の冬」
「そんなこと、よく覚えているな」
玲陽は少し体を縮めた。
「だって……」
「うん?」
「……いえ、いいです」
玲陽は首を振った。自分に抱きつくようにして眠る犀星に感じ入って、玲陽はあの夜、精通を迎えたのだ。あまりのことに驚いてしまい、病気なのではないかと、泣きながら犀遠の部屋に駆け込んだことが思い出された。
玲陽が一足先に大人になった夜、犀星は何も知らず、朝まで玲陽の牀で眠っていたのだった。
犀星は、どうしても言いたくない、という顔もの玲陽を、それ以上問い詰めはしなかった。代わりに、話題を別の方向に差し出した。
「こうしていると、昔のことを思い出すな」
「余計なことまで、掘り起こさないでくださいよ」
何を言い出すか予想がつかない犀星に警戒しながら、玲陽は毛氈の端で口元を隠した。
「陽との思い出に、余計なものなんてない」
「だから、ずるいって言われるんです、あなた」
「そうか?」
「そうです。いつだって」
玲陽はつないだ指の力を強弱させ、犀星の反応を楽しんだ。
「いつだって、あなたは私を試すみたいにからかって」
「そんなこと、した覚えがない」
犀星は首をすくめた。
「俺はそんなに器用じゃない」
「無自覚にやるから、余計に悪いんです」
玲陽は少し、体を寄せた。
「私が、あなたのことを、名前で呼ぶようになった時のこと、覚えていますか?」
犀星は、懐かしんで、
「ああ。俺の十三の誕生日だ。陽に、祝いに何が欲しいか、と聞かれて……」
「自分のことを、名で呼べ、とあなたは言った」
「それの、どこが悪い?」
「断れないじゃないですか」
玲陽は手を握りしめて、
「まるで、一生を誓わされた気分でしたよ」
「それは良かった」
「どこが?」
「ちゃんと、真意が通じてた」
「……星!」
玲陽の指が犀星の手に食い込んだ。負けじと、犀星も握り返した。そのやりとりは、無邪気な子供のふざけあいのようであった。
「痛いです」
「痛くしている」
犀星は玲陽の背中に反対の腕を添え、一気に顔を引き寄せた。
「……近いです」
「わざとだ」
「……照れるので……」
「今さらか?」
「それは……」
犀星の息を感じて、玲陽は体をこわばらせた。
普段から、犀星の執着はあまりに分かりやすいのだ。手を握り、腰を引き寄せ、顔を近づけ、抱きしめて、最後にはところかまわず口づけを落とす。玲陽という体を隅々まで自分に重ねていたいという、原始的な欲求が隠すことなく現れている。
そのくせ、語る言葉は気まぐれで、色気よりからかう口調が多かった。
体にも心にも、玲陽への強く揺るぎない執着が溢れていた。
それを一身に受けても、玲陽は動じなかった。
むしろ、さらに欲しいと訴えた。
相手に対して、底のない独占欲を見せるのは、犀星より、玲陽の方だった。
足りない。まだ、足りない。
そう呟きながら、玲陽は笑って犀星のそばにすり寄った。
すべて、二人きりの時間の中で、誰の目にも触れることなく交わされたつながりだった。
犀星が、ひときわ声を甘くして、玲陽を呼んだ。
「陽、一つ、約束が欲しい」
「何です、唐突に……」
犀星は、繋いだ玲陽の手に口付けた。
「約束、してくれるか?」
「……するかしないかは、内容によります」
「それなら、言わない」
「何ですか、その理屈は」
玲陽は呆れた声で、しかし、そんな犀星の要求すら、好ましいと言わんばかりに笑顔を見せた。
犀星は、玲陽が断ることはないと確信しながら、それでも本人の言葉を欲しがった。
「断わられたくないから、約束してくれないなら言わない」
「また、わがままを言う……」
犀星は玲陽の機嫌をとるように、何度も、唇で指に触れ、甘く噛んだ。
「なぁ、約束、して」
「ですから、内容を聞いて判断を……」
「陽……」
「……です……から……」
「うん」
ああ、だめだ。
玲陽は観念した。
自分にだけ向けられる犀星の甘えは、どうにも逆らいがたい。狂おしく心を乱し、すべてを投げ打ってでも手を伸ばしてしまう。それが、犀星の無自覚な手管だと知っていても、抗うことはできなかった。
無防備な仕草と吐息に、玲陽の理性が崩れた。
いつもの展開、先の見えていた結末だった。
「……わかりました。約束します。だから、言ってください」
「約束、な」
犀星は満足そうに、玲陽と額を重ねて唇を寄せた。それから、とびきりのささやき声で、
「俺が、命を終える時、そばにいて欲しい」
「……え?」
思いもしないことだった。何を言われたのか、とっさに、玲陽は理解できなかった。犀星は繰り返した。
「俺のそばにいて、口付けて」
「…………」
「俺の魂がどこかへ消えてしまう前に、陽が奪って」
「…………」
「そうしたら、ずっと一緒にいられるだろう?」
絡めた手が震えていた。
犀星は、自分を殺してくれと、そう、玲陽に願っていたのだ。
理解し、そして、玲陽は迷った。
「……私が、先にいなくなるかもしれません、ですから、その約束は……」
玲陽の声は上擦っていた。犀星が、じっと自分を見つめているのがわかった。
「その時は、俺がおまえのそばにいる。だから、俺を、連れて行け」
ぞくり、として、玲陽は唇を噛んだ。犀星が静かに囁いた。
「傀儡喰らいは、呪われた力なのかもしれない。けれど、それは同時に、俺たちを結びつけてくれると思う」
そんなふうに、考えたこともなかった。
玲陽は犀星に体を傾けた。
「あなたが、言うのは……」
声がわずかに波打った。
「一緒に、死のうってこと?」
「違う」
犀星は即答した。
「ずっと、一緒にいよう」
「…………」
「約束、してくれるか?」
汗が引き、しっとりと冷えた犀星の胸に、玲陽は顔を埋めた。
交わした言葉反芻し、逃げ道も、逃げる気持ちもないことを知った。
「……言ったじゃないですか。する、って」
優しく、玲陽は言った。
「そうだった」
くすり、と犀星は笑った。
抱き寄せて、引き寄せて、温め合う。
もう、二人に言葉はいらなかった。
まことの心が結ばれ、雫をたたえて咲き誇る、花街の夜。
月光を映すせせらぎが、静かに更けていく宵闇を縫って、慈しむように流れていた。
全身に絡みつくのは、色濃い疲れか浴びせられた屈辱か。
身体の内からこみ上げる重苦しさが、ずしりと手足の自由を奪う。
壁に沿って、水の垂れる音がかすかに響く。
石の間。
硬くざらついた床に、一糸纏わぬ体を無防備に投げ出す。見る者がないのを良いことに、震えるままに、しばし時をやり過ごし、堪える。
人には見せぬと誓った涙が、今は止めどなく流れ続けた。
身のうちの炎が徐々に引き、体の随所が痛みを訴えた。頭がしびれ、激しいめまいと頭痛、そして吐き気が襲う。何もかもが中途半端だった。苦しみなのか快楽の名残か、未だ果たせぬ渇望か。ただ呼吸だけは止めないよう、涼景はひたすら、息を繰り返した。
宝順帝と夕泉親王。
二人の間で弄ばれた体は、もう自分のものとも思われなかった。ただ重たいだけの肉の塊が残された虚無感と脱力感。何があったか、それすらはっきりと思い出すことも拒まれ、頭の中に靄がかかり、ここ数刻の出来事の全てを、心が、魂が、封じ込めようとしていた。
床に当てた耳から、石を伝い、かすかに足音が聞こえてくる。天輝殿を守る左近衛の巡回。石の間の中には、ただ一人取り残された自分だけだ。悲鳴を聞きつけた近衛たちは、一夜の惨劇を知っている。だが、彼らが干渉することはない。それが石の間の不文律だった。
腕に力を込め、肘を伸ばして体を支え、上体を起こす。腰が崩れて、脚に力が入らなかった。無惨に散った床の上の汚れを、涼景は感情もなく眺めた。自ら、清めねばならない。
『片付けておけ』
いつもと変わらぬその一言は、限界を超えた涼景の上に、容赦なく命じられた。
時が経つにつれ、少しずつ乾き、肌に張り付いていく穢れ。通常なら耐え難いものさえ、今は感覚があまりに鈍い。
普段から鍛錬を怠らない身体が、あまりに不自由だった。
腕で這い、壁際の水瓶に寄る。柄杓で水を汲み、頭から浴びる。とりつかれたように、何度も、何度も繰り返す。水はややぬるく、しかしそれが逆に肌に粘って残り、いつまでたっても晴れなかった。
膝で立つと、内腿に不浄が垂れ落ちた。ぞわりと背筋を走る嫌悪感。手を伸ばしたが、肩が痛んで後ろに回らなかった。悔しさに、また、涙だけが流れた。
手ぬぐいを掴み、顔を拭い、涼景は深く息を吐いた。
いくつかの灯りはもう油が尽きて、芯だけがぽつんと赤く光っている。壁を支えによろめいて立ち上がる。垂れ落ちる雫。濡れたままの姿が、余計に己の惨めさを思い知らせる。見回せば、暗がりに、はぎ取られた着物が無造作に投げ出されていた。
涼景はまたしばしその光景を眺め、それから桶いっぱいに水を汲むと、床の傾斜に沿って高い位置から静かに流した。何色とも知れぬものが、床の溝に沿ってトロトロと流れ下り、部屋の隅の排水溝までたどり着いた。見届け、また、水を汲み、床に流す。
その単調な作業の中で、涼景は少しずつ自分の体の制御を取り戻していった。竹の箒で、水とともに汚れを掃く。耳障りな硬質の音。跳ねて足元にまとわりつく水滴。石の隙間に入り込んだ、誰のものともわからぬものを、ただ黙々と搔き出し清めてゆく。素足が、我が身に起きたことを、まざまざと伝えてきた。
時を使い、床を清めると、涼景は周りを見渡した。幸い、壁に汚れはなかった。もう一度足元を洗い、着物を羽織る。帯を結ぶ手が震えていた。いつもよりも力が入らず、胸元をしっかりと合わせることができない。ただ上辺だけ取り繕うように袖を通し、ようやく内側から閂を外した。
最後の油灯の芯が、燃え尽きようとしていた。
涼景は、重たい扉を体の重みで押し開けた。開いた隙間から差し込むいくつかの小さな油灯の炎が、眩しいほどに目を刺した。
扉のすぐ脇には、警備の左近衛が立っていた。涼景が現れても、正面を向いたまま、ちらりとも目を動かさない。ここを警備する者にとって、石の間で起きる事は、すべてこの世の出来事ではない。知る必要のない、幻であった。
涼景は必死に前を見て、片足を引きずりながら、ゆっくりと歩いた。体の節々が痛み、腹の中までが灼けるように疼いていた。
早くこの危うい状況から逃れたい。今の自分を誰にも見られたくはない。その思いが、涼景の疲れきった体を動かしていた。
すれ違う近衛も禁軍も、誰も自分を見ない。まるでそこには何もないかのように素通りしていく。たまらず、膝をついて崩れ落ちたが、気にとめる者はいなかった。呼吸を整え、自力で立ち上がり、また、ずるずると出口に向かう。
今の涼景は右近衛隊長でもなければ、軍を任される暁将軍でもない。ただの、権力者の欲望を満たした、生きた人形の残骸である。
天輝殿の中央通路を抜け、前殿の謁見室の脇を通り、正面の門をくぐる。涼景が近づけば、左近衛たちは心得ているとばかりに、無言で一人分の隙間を開け、彼を通した。早く出て行けと言うかのように、整然とした動きだった。
涼景の表情は凍りついていた。そこには、苦しみも怒りもない。ただ、現実に起きたすべて忘れるような虚無。
最後の長く幅の広い階段を危なげに降り、ちらりと厩舎の方に目を向ける。このような夜は、馬を使うことはない。事後の体はとても馬上には耐えられない。
少しでも早く隠れたい。誰にも、今の自分を見られたくはない。
涼景は自然と道をそれ、茂みを踏んで木立の中に分け入り、木々の根元に座り込んだ。人目を逃れたという安心感で、心が遠のいた。
右衛房に戻らねば……
早く湯を浴びて、奥の部屋で眠ろう。明日も忙しく予定が詰まっている。涼景の心はせわしなく己を駆り立てたが、すぐに体は動かなかった。
覚悟していた以上に、今夜は凄まじかった。二人分の情を一身に受け、しかも、いびつにねじれた欲望の形に翻弄され、涼景の体は限界を超えさせられた。やすやすと壊され、途中からわけもわからぬ暴力に、意識は飛んだ。気がついたときには泣き叫ぶ声も枯れていた。
木の幹に寄りかかっていた涼景は、座る力も尽きて、そのまま横倒しに草の中へ倒れた。時折、喉が締まって咳き込むたびに、全身が軋んだ。土の匂いが近く、懐かしさに涙が滲んだ。
「蓮……」
救いを求める名。
会いたいわけではない。むしろ会えるはずがない。今のこの姿を最も見られたくないのは、他でもない親友である。自分が傷つく以上に、傷ついた自分を見て心を引き裂かれるのは、彼なのだ。
蓮にだけは……
それは涼景の最後の矜持だった。
しばらくそうしてから、やがて木を頼りに、少しずつ体を起こした。いつしか、全身がすっかりと冷えて、震え始めていた。涙腺が熱くなるが、ぐっと飲み込んだ。
息を乱して顔を上げると、木立の奥に人影がひとつ、明らかにこちらを向いて立っていた。白い星明かりがその面に弾け、柔らかく輪郭が見えると、涼景は途端に顔をこわばらせた。胸の中で、複雑な拒絶感が渦巻き、心を押し潰した。
「涼……景」
乱れた、そして、懐かしい音が呼ぶ。
「…………」
何かを言った気がしたが、涼景は自分の声が聞こえなかった。人影は静かに寄ると、涼景の左肩を背負った。
「……リィに、頼まれた」
涼景を大切に支え、酷く掠れた男の声が静かに告げた。
思わず、涼景は顔を背けた。
それは意地か、それとも愛着か。声も出せないままだった。
涼景の体が傾き、男はさらに深く腕を回した。
涼景の着物を濡らす水が、じっとりと男の裾に染み込んでいった。
無言のまま、涼景は自分より細い体に頼った。伝わる熱が熱くてたまらなかった。
涼景は小さく咳き込んだ。
男は片手で器用に自分の襟を探り、小さな飴を取り出した。
黙って涼景の口元に持って行く。びくりとした涼景と目が合ったが、男の表情は静かなままだった。
流される心地で、涼景は唇を開いた。男はそっと、飴を含ませた。かすかに唇に指先が触れ、柔らかい熱が残った。
スッと鼻に抜ける、薄荷の香りがした。喉を案じたようでもあり、喋らなくていい言い訳を作ったようでもあった。
涼景はころりと、舌の上で飴を転がした。普段は気にならない薄荷の香りが、なぜか目にしみた。
男は何も言わなかった。
だが、寄り添う柔らかい安心感が、涼景の心を弱くしていった。
俺はいつから、これほど、油断するようになった?
考えれば考えるほどに、涼景の心は揺れた。それは、踏み外せば瞬く間に谷底に落ち込むほど、危うい線の上にあった。
草を踏み、夜の中をゆっくりと歩く。
虫の音が、二人の道を導くように先々で響く。
涼景は、触れ合うほどに近い灰色の瞳を盗み見た。
肉体の辛さも忘れるほど、心は痺れていた。
夜風は甘く、花の香がした。
右衛房までの道は長く、短い。門の篝火の灯りが見え、門番の姿が黒く揺れた。
男は足を止め、そっと、体を引いた。涼景は体重を自身に戻した。涼景が自力で立てる事を確かめて、男は目を合わせもせず、背を向け、闇に消えた。
いつの間にそうされたのか、涼景の右手首には赤い紐の端が結ばれ、長く、垂れて落ちていた。
0
あなたにおすすめの小説
腹に彼の子が宿っている? そうですか、ではお幸せに。
四季
恋愛
「わたくしの腹には彼の子が宿っていますの! 貴女はさっさと消えてくださる?」
突然やって来た金髪ロングヘアの女性は私にそんなことを告げた。
王様の恥かきっ娘
青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。
本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。
孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます
物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります
これもショートショートで書く予定です。
妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?
木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。
彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。
公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。
しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。
だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。
二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。
彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。
※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。
教養が足りない、ですって
たくわん
恋愛
侯爵令嬢エリーゼは、公爵家の長男アレクシスとの婚約披露宴で突然婚約破棄される。理由は「教養が足りず、公爵夫人として恥ずかしい」。社交界の人々の嘲笑の中、エリーゼは静かに会場を去る。
婚約破棄されないまま正妃になってしまった令嬢
alunam
恋愛
婚約破棄はされなかった……そんな必要は無かったから。
既に愛情の無くなった結婚をしても相手は王太子。困る事は無かったから……
愛されない正妃なぞ珍しくもない、愛される側妃がいるから……
そして寵愛を受けた側妃が世継ぎを産み、正妃の座に成り代わろうとするのも珍しい事ではない……それが今、この時に訪れただけ……
これは婚約破棄される事のなかった愛されない正妃。元・辺境伯爵シェリオン家令嬢『フィアル・シェリオン』の知らない所で、周りの奴等が勝手に王家の連中に「ざまぁ!」する話。
※あらすじですらシリアスが保たない程度の内容、プロット消失からの練り直し試作品、荒唐無稽でもハッピーエンドならいいんじゃい!的なガバガバ設定
それでもよろしければご一読お願い致します。更によろしければ感想・アドバイスなんかも是非是非。全十三話+オマケ一話、一日二回更新でっす!
後の祭り
ねこまんまときみどりのことり
ライト文芸
母親を馬車の事故で亡くしたナズナは、馬車に乗っていた貴族の男性に、義理の娘として引き取られた。引き取られた先の子爵邸では、義母や義妹に傷付けられて泣いて過ごすこともあったが、懸命に生きていく。引き取られた裏には、別の理由もあったようで。
小説家になろうさん、カクヨムさんにも載せています。
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】
23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも!
そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。
お願いですから、私に構わないで下さい!
※ 他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる