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第三部「凛廻」(完結)
22 紅花祭
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ついに待ち望んでいた日が訪れた。
犀星にとって、それはいつ叶うとも知れない悲願の日であった。
そして、玲陽にとっては、触れるもの全てが初めての、都の祭。
二人は五亨庵から蓮章と三人で連れ立ち、まるでどこにでもいる庶民の顔をして、花街の門までやってきた。
今回の警備計画は、右近衛では密かに、逢引き警備と呼ばれていた。その名からも想像できる通り、発案も執行も蓮章である。ものものしさを嫌う犀星のために、私服の右近衛や暁隊が市井にまぎれてさりげなく見守っている。花街に入れば、景色に溶け込んだ自警団が目を光らせている。
あくまでも、犀星と玲陽が周囲に気兼ねなく過ごせるように、との蓮章の計らいが随所に見られた。不器用な涼景では、こうはいかない。ずらりと並んだ近衛や、無骨な暁隊士に囲まれていては、安全は確保されても趣は無視されることになっただろう。
犀星が丹精込めて育ててきた花街を、玲陽は大変に気に入っている。これまでも、何度か治水工事で訪れるたびに、玲陽は町の皆に歓迎された。
歌仙様の従兄弟がきた、しかも美麗である、と、花街は大盛り上がりだ。そして街の性質らしく、ふたりが恋仲である、という話が公然と語られた。
今までどれだけ出入りしても、犀星が花街の『客』になることはなかった。どんな女郎も敵わなかった難攻不落の歌仙親王。蒼氷の親王が寄り添うように歩く玲陽が、『只者』であるはずがない。
人々の屈託のない接し方は玲陽を驚かせたが、今は照れながらも笑顔で返せるまでになっていた。
花街の住人は警戒心が強い。
それをここまで解きほぐしたのは、犀星の人柄と、ここに残してきた数々の実績である。
数年前までの荒れっぷりが嘘のように、街の景観は見事に、そして機能的に整えられた。治水を中心とした犀星の事業は人々の生活を大きく向上させた。同時に、裏の事情に通じた蓮章の助けもあり、自警団の質の改善にも着手して治安の安定にも貢献した。
実利を重んじる犀星には珍しく、見た目の美しさにも配慮したのは、種を明かせば、すべて、玲陽のためであった。
優雅にそよぐ柳並木の水路は、人工の川のせせらぎで、玲陽を懐かしい心地にさせた。河川敷に植えられた草花も、水路に作られた小さな滝も、何もかもが、玲陽の胸に優しい水音と清涼感を届けてくれた。街の奥行きや道幅、柳の下に並べられた長榻の色形に至るまで、玲陽の好みにぴたりと重なる。
ここでは誰も、公私混同などと野暮な事は言わない。それも上等ではないか、と蓮章などは開き直って笑う。結果として、多くの民衆に役立っている。それで良い。
まさに、こいつが国を動かしているな。
蓮章は、光沢のある金色の髪を結い上げた玲陽の横顔を見て、にやりとした。
犀星に寄り添い、玲陽は終始穏やかだった。濃灰の絹の袍は、彼の髪色と並ぶと銀糸のように見えた。墨色の直裾は一見質素だが、わずかに色の違う糸で細やかな刺繍が施されている。腰帯は暗紅色に濃紺の紐を絡めて綾取り、音の良い玉佩が揺れる。
誰にとがめられることもなく、玲陽の腕を取る犀星は、対照的に淡い色合いをまとっていた。好みの薄水と白襟の袍に、生成りの裳。黒地の帯にあしらわれた金の綾紐は、玲陽と対をなす互いの髪色だ。
最近の多忙と睡眠不足で調子を崩している蓮章だったが、犀星と玲陽の静かで優しい雰囲気に触れていると、心の波が収まっていく気がした。
これなら、夜には……
蓮章らしくそこまで想定して、滞在する部屋の内装、小物の指示まで抜かりはない。
すべては順調に見えた。だが、玲陽の曇りのない笑みは、花街の道の途中で、突如、途切れた。
「陽兄様!」
こちらを見て手を振る少女に気づいて、玲陽は言葉をなくした。
柳の下で、玲凛は一人の暁隊の隊士とともに、兄たちを待っていた。
「お待ちしておりました」
見つけるなり、玲凛は玲陽の元に駆け寄ってきた。玲陽は心配顔で、玲凛の無事を確かめた。よもや可愛い妹に悪い虫でもついてはいまいかと、気が気ではない。
「凛どのが、どうしてこんなところに? ……まさか!」
険しい顔で、玲陽は暁の隊士を睨んだ。隊士は慌てて顔を背けた。
「どういうことです! あの人はどなたです! どうして花街にあなたがいるのです!」
「まぁ、落ち着け、陽」
矢継ぎ早に質問をぶつける玲陽に、蓮章が、
「別に、あの隊士は問題ない。凛の護衛を頼んだだけだ」
玲陽の疑いの眼差しが、蓮章を貫く。玲凛が笑って、
「あいつ、私より弱いから、護衛の意味はないんだけどね。一人でいるなって、蓮章様がうるさいから……」
実に不本意だ、と玲凛も首を振った。罪のない隊士はうなだれて、やれやれとその場を離れていく。玲凛は犀星と玲陽を見比べた。
「心配しないでください。私、兄様たちの邪魔はしませんから」
悪戯っぽく片目をつむる。
「ただちょっと、友達と約束があって来たんです」
「友達? 約束? 何のことです!」
玲陽の顔が、さらに険しくなる。
玲凛は、たった一人でも戦場を生き残る強者である。だが、玲陽にとっては、いつまでも可愛くて大切な、か弱い妹なのだ。
「心配しないでください。友達といっても、男じゃありませんから」
玲凛は、玲陽の過保護な気質をちゃんと理解し、うまくあしらう。
「前にここに来たときに、紅花祭で琵琶を奏でるから聞いてくれって、言われたんです。その約束で……」
玲陽の顔が困惑と動揺、そして最終的に険悪に歪む。
「前に来た、ってどういうことですか?」
蓮章が横から、
「以前、凛に花街の事件の調査に協力してもらったことが……」
何の罪もなく、ただ事実を説明しただけの蓮章の頬に、玲陽の容赦ない不意打ちの平手が飛んだ。
こ気味よく乾いた音が辺りに響き、思わずすれ違う人々が足を止めて振り返る。
「いきなり殴るな!」
蓮章はよろめいて、玲陽を睨む。だが、それ以上に玲陽の怒りが上回っていた。
「事件の調査? 蓮章様、凛どのをそんなことに巻き込んでいたんですか!」
「それは、その、いろいろと事情があって……」
蓮章は、確実に痕がついたであろう頬を撫でた。玲陽に殴られるのはこれが初めてではない。
「まったく、おまえはどうしてそう、すぐに手が出るんだ?」
「出させるようなことをするからです」
「そこまで悪いことしたか?」
「しました。よりによって、いたいけな少女である凛どのを、花街へ……しかも犯罪の捜査に協力させるなど……」
「いたいけな少女は、ひとりで三十人の男を倒したりしない」
ピクッと、玲陽の目尻が動いた。
「それ、何の話です?」
声が、明らかに怒りに震えていた。玲凛がにっこりして、
「大丈夫ですよ。単に暁隊の連中をのしただけですから」
びん、と空気が張った。
蓮章は飛び退き、玲陽は踏み込み、犀星がため息をついた。物見高い通行人までが、あとじさり、逃げるように離れていく。
「蓮章様! 凛どのを暁隊に任せるのはいいですが、危険な目に合わせないって約束したじゃないですか!」
「危険な目に合っているのは凛じゃなくて、隊士の方だ」
「そんな詭弁を!」
「事実だ!」
犀星が、ちらりと玲凛を見た。玲凛はその視線の意図に気づいて、頷いた。
「陽兄様、行きましょう」
言いながら、素早く玲陽の手を取る。引き寄せられて、玲陽の怒りが一瞬で消沈する。柔らかい玲凛のからだの感触に声も出ない。
「ほら、陽兄様、こっち! あそこのお店の鹿肉、美味しいんですよ」
玲凛にしかできない力技で、玲陽を蓮章から引き離す。犀星は真顔のままそれを見送り、蓮章は着物の乱れを気にしながら、呆れた顔でそばに寄った。
「なぁ、陽のあの性格、どうにかならないのか?」
「無理だ」
犀星は首を振った。
「さすがに、あれだけは俺にも止められない」
「昔からか?」
「ああ。俺も何度やられたか、覚えていない」
「……苦労してるんだな」
ため息混じりの一言に、犀星は真顔のまま、何も答えなかった。
少し先を、楽しそうに歩く玲凛は、年相応の無邪気な少女に見える。見えるだけで、騙されてはいけない、と蓮章は知っている。
玲陽は、すっかり怒りをおさめて、はにかみながら玲凛の手をとっている。
「でもさぁ」
蓮章は、チラチラと町並みを見た。紅花祭と言うだけあって、赤い花弁を巻いた紙が路地の軒先にかかり、甘い香の匂いが漂っている。艶やかな花模様の布、窓にも飾りが揺れる。
「この街で、男女が手をつないで歩いてるって事はさぁ」
意味ありげに、蓮章は犀星を見た。
「ああいうのに引っかかるんだけど」
と、顎で示す。
蓮章が懸念した通り、派手な羽織の男が、玲陽と玲凛の足を止めていた。
「あのまま、宿に連れ込まれるぞ」
「…………」
「まぁ、親王がいいならいいんだが……」
「よくない」
蓮章の言葉に、犀星は一気に二人に追いついた。素早く間に入り、さらうように玲陽に腕を絡めて引き寄せる。
「わかりやす過ぎるだろ」
にやりと、蓮章はさらに顔を緩めた。
紅花祭の花街は、一年で最も華やかで美しい。そこかしこから聞こえてくる笛や、太鼓、琴の音。そしてそれに合わせて響き渡る歌声、きらきらとした多くの人々の笑い声、話し声。時には、ちょっとした怒鳴り合いも。
皆が美しく飾り、特別な着物をまとって、化粧を濃くし、髪を複雑に盛り上げ、揺れる簪を挿し、扇を持って高い靴を履く。一人の者は少なく、友や伴侶と連れ合って出かける。祭のときだけは、花街は男女遊郭の街ではない。人々の憩いの場、弦楽の娯楽の場に変わる。
さすがに幼子の出入りは避けているが、それでも老若男女があふれる眺めは、普段の花街とは一つ違う。
花街の賑わいは、喧嘩沙汰になりかけた四人の間を柔らかく繋いでいく。
通りの向こうから仮面をつけた芸妓たちが、艶やかな踊りで練り歩いてくる。道の脇に避けて眺めながら、蓮章がふとつぶやいた。
「あの中に俺の知る女が何人いると思う?」
犀星と玲陽が、思わず黙り込む。
玲凛がすかさず、
「全員でしょ」
あっさりと言い切った。蓮章はいたずらっぽく笑っただけで否定しない。
今日ばかりは金を持たなくても花街が楽しめるとあって、あちらこちらに人だかりができている。
普段より品揃えのいい簪や髪紐が、所狭しと店先に並ぶ。色とりどりの飴や、糖蜜につけた果実もある。
薄荷の飴の白さを眺めて、蓮章が微笑して手に取る。東雨への土産に、と、犀星が果実を物色する。
試飲と称し、街路で怪しげな酒が配られている。赤い花弁を浮かべた甘い酒だ。
警戒して、玲凛はこのようなものには興味を示さない。
勧められると断れない玲陽が、また一口受け取ってしまう。見た目は透き通って少量だが、かなりきつい。ぽっと頬が赤くなり、一瞬、足取りが危うくなる。そこは慣れたもので、犀星が背中からさりげなく玲陽を抱えた。
蓮章がそれを見て口笛を吹き、玲凛がコロコロと可愛く笑う。
正面から非番の暁隊の面々がこちらに気づいて、色めき立って寄ってきた。旦次を先頭に、これでもかというほどの悪人面が揃う。玲凛はにっこり笑った。
すっかりこの集団に溶け込んでいる妹を、玲陽は嬉しさと心配のないまざった目で眺める。こんなに可愛い妹は、さぞ、男たちによこしまな目で見られているのだろうと、兄として腹立たしい玲陽である。しかし、旦次が遠慮なく引き寄せたのは、玲凛ではなく、蓮章だ。
「祭りの後で飲まねぇか?」
「今日は警護で来ている」
珍しく、蓮章が真面目なことを言った。
「じゃあ警護の後で? 奢るぜ」
「飲むだけじゃ済まねぇだろう」
言いながら、蓮章はそっと旦次の耳に唇を寄せた。だが触れはしない。これが蓮章のいつもの遊びである。わかっていると見えて、暁隊の面々も揃って下卑た笑みを浮かべた。
「じゃあ俺たちは俺たちで楽しむとするか」
と、手を振って去って行く。すれ違う者たちの顔はみな明るく、晴れ渡った青空に高く笑い声がこだまする。少しホッとした顔で見送る玲陽を、さらに柔らかな表情で犀星が見つめる。
華やかな世界も色彩も、玲陽の目には本当に久しくなかったものである。何よりも隣に犀星がいるのだから、目に映る全てが美しく見える。既にこの二人の間に入る者はなく、言葉をかける者もいない。勝手にやっていてくれという、優しい放置の目が彼らを見守っていた。
半分の月が美しく南の空に見えた。いたるところで様々な曲が奏でられている。ひとつの風に乗って、協奏曲のように重なった。
通りの店を覗いて冷やかしながらゆっくり歩き、ようやく目的の街の中央にたどり着いた。犀星を迎え入れてくれる楼閣は毎年決まっている。中央の辻の舞台を上から見下ろせる、張り出しのある二階の部屋だ。
「じゃ、俺はここで」
蓮章は、役目はここまで、と門の前で足を止めた。
「部屋からあまり身を乗り出すなよ。それから、勝手に出歩くな。夜の案内の頃に迎えに来るから待っていろ」
玲陽は店に入る前、確かめるように蓮章を見た。
「蓮章様。凛どののこと、くれぐれも、本当に、絶対に、よろしくお願いします」
「よろしく、か? じゃあ、せっかくだから、花街の真髄を俺が直接……」
蓮章の冗談に、ぴりりと真剣な怒りが玲陽の顔を走る。蓮章は軽く跳ねて、玲陽の一撃をかわす。
「だから、その性格、どうにかしろ!」
「お互い様です!」
玲凛に関しては、一歩も引かない玲陽である。蓮章もさすがに辟易して、話題を放り出した。
「俺をあてにするな、凛の方が強いんだから。だいたい、俺がどうにかしようとしても、こいつが勝手に……」
蓮章が振り返ったとき、三人の目の前から、既に玲凛の姿は消えていた。
「ほら、これだ」
蓮章は肩をすくめた。背後で、玲陽の殺気が高まる。
「すぐに探さないと……」
玲陽が、自分も行こうと踏み出すが、それを犀星が引き止める。
「心配するな、陽。俺たちがうろつくと、警備を困らせる。蓮章はうまくやってくれる」
「ですが……」
「なにより、玲凛は自分で自分の身を守れる」
「わかってるなら、最初から俺の味方をしてくれよ」
蓮章の嘆きを静かに一笑に伏して、犀星はそっと玲陽の腰に腕を回した。
「では、頼んだ」
犀星は目で蓮章に後を託し、後ろ髪引かれる思いの玲陽を促して、店に上がっていった。
蓮章はふっと長く息を吐いた。
とりあえず犀星と玲陽の身は安全だ。見物客を装って店の前にたむろしていた自警団の数名が、蓮章に頷いてみせた。
問題は、と、蓮章は人混みに目を走らせた。
玲凛の桃色の華やかな装いは、普段であればよく目立つのだが、この花街の客層の中では埋もれてしまう。
どこかで騒ぎでも起こしてくれれば、すぐにわかるのだが、と物騒なことを考えつつ、とりあえず歩みだす。
彼が一人で歩いていれば、あれこれと声がかかる。知り合いは勿論、初対面、男に女。様々だが、誰もが揃って袖を引く。
だが、残念ながら今の蓮章は、完全に対象外の、しかし決して見逃してはならない相手を探している。
「あの娘、琵琶の舞台に出ると言っていたな……」
蓮章は舞台を振り返った。大勢の前で、それぞれの楼閣の代表者が技を競い合う。
今、舞台上にいるのは南側の老舗の楼閣だ。琴を弾く者が一人、笛が二人、鼓が一人。そこに歌い手が一人立ち、さらにひときわ華やかな服装の舞子が二人。それぞれに技を競うかのように、音に乗せ、風に乗せ、優雅に舞う。近くにいる客には、舞い手の香の匂いまでが漂ってくる。
観衆は舞台に群がり、酒を飲み、何かを食いながらその一時を楽しむ。楽の音と、優美な曲線の布が風に舞うさまを、誰もが無心で楽しむ時間である。
蓮章は、辻に設けられた巨大な舞台の周りを中心に、あたりを覗いて歩いた。人の間を器用に抜け、大太刀を下げた少女を探す。少しして、路地の陰でようやく目指す玲凛を見つけた。その隣に、琵琶を抱え、背中を丸めている少女がいる。
蓮章は人目を避けて、二人の後ろに近づいた。すぐに玲凛が振り返り、見てくれ、というように少女を目で示す。
少女・芙蓉は、かつて玲凛が花街で出会った女郎である。女郎と言っても、気立てと容貌が優れず、客に縁は薄く、その分、琵琶の腕前でどうにか食いついないでいた。今日も、所属する妓楼の舞い姫のために、辻舞台で演奏するはずだ。
すでに、直前の出し物は始まっており、舞台の周りには人だかりができ、思い思いに歓声が飛び交っている。
犀星と玲陽も、二人だけの部屋から、舞台の様子を見物しているはずである。
「支度はいいのか?」
蓮章は、芙蓉に声をかけた。芙蓉は蓮章をちらりと見た。その小さな目は、涙でぐっしょり濡れている。
「何があったの?」
玲凛はそっと声をかけた。
「もうすぐ、出番なんでしょう? 着替えは?」
芙蓉の格好はどう見ても、舞台に上がる着物とは思えなかった。以前会った時と変わらぬ、地味な麻の着古したものだ。
玲凛は、今、舞台上で琴を弾いている芸妓たちの姿と見比べた。舞姫が主役とはいえ、楽器を奏でる者もそれなりに華やかな服装をしている。
玲凛は口元を歪めた。
「もしかして、着物、用意してもらえなかったの?」
小さく芙蓉はうなずいた。グスッと鼻をすする。
「これじゃ、笑われる……怖くて、弾けない」
「そんなことで自信をなくす必要なんてないわ。着物で音楽の良し悪しが決まるわけじゃないんだから」
「でも、やっぱり恥ずかしい」
芙蓉は膝と琵琶を抱えた。
「妓楼の連中は、何も言わないのか?」
蓮章はわずかに苛立って問いかけた。芙蓉は首を振った。
「貸してくれる、って言われてたの。でも、さっき、墨をこぼしてしまったから、貸せなくなったって」
「それ、わざとじゃないの!」
玲凛の声が高くなる。
「ただの意地悪じゃない。そいつら、どこ? 殴ってやる」
「おい、待て、凛」
蓮章はいきり立つ玲凛を遮った。
「全く、血の気が多いのはさすが兄妹だな」
「だって、腹がたつじゃない!」
「だからって、おまえが殴りつければ、余計に芙蓉の立場が悪くなる。ここは恨みを買うと後戻りできない」
「じゃあ、どうするのよ?」
残念ながら玲凛には花街の外聞に関する機微はわからない。だが、少しでも芙蓉の為に、何かしてやりたいという気持ちだけは誰よりも強い。
「そうだ」
玲凛はふと自分の着物を見た。
「ねぇ。これでもいいの?」
芙蓉が驚いたように顔を上げた。
「その着物……?」
「うん。これ、貸してあげる」
玲凛は蓮章が止める間も無く、帯を解いて袍と裳を脱いだ。下に着込んだ薄い黄色の絹の中衣が、体の線を浮き出させ、まるで寝所に座る女郎の身なりを思わせた。蓮章の顔色が変わる。
「凛、やめろ! こんなところでそんな格好……」
「別に裸じゃないんだから、構わないでしょ」
「構う! 見られたら、俺が陽に殺される!」
「芙蓉をこのままにするよりマシよ」
思わず、蓮章は返答に詰まった。どこから悲しんで良いのかわからなかった。
「そんな上等な着物、申し訳ないです」
芙蓉は差し出された玲凛の着物から体を引いた。玲凛は、自分がどんな着物を着ているのか、よくわかってはいない。ただ玲家にいた頃から、与えられるものの中で好みのものを選んでいただけである。
しかしどれを選ぼうと、玲家の娘として与えられるその着物は、どれも相当な代物だった。価値も気にせず身にまとい、泥にまみれ川に飛び込み、土埃を浴びる。玲凛とは、そのような人間である。
幸い、今日はまだ、着物は汚れていない。
「好みじゃないかもしれなけど、我慢して」
「そういう問題じゃない、別の問題がいろいろ……」
蓮章は頭を抱えた。
一度言い出すと、玲凛は曲げない。
芙蓉も、中衣一枚に仮帯の玲凛に焦っている。
「凛さんに、そんな格好させられない」
「私こそ、あんたにそんな格好させられない」
玲凛は黙って、無理矢理彼女から琵琶を取り上げると、着物を着せた。
「帯も」
言いながら、手早く芙蓉に着付けていく。
「少し大きいけれど」
玲凛は襟元を調えようとするが、どうにもうまくいかない。
見かねて、蓮章が手を出した。
「任せろ」
「あんた、できるの?」
「脱がせる方が得意だが」
背中側に少したるみを持たせ、緩やかなひだを作る。蓮章は自分がまとっていた首の洒落布をはずすと、袍の袖をくくるようにたすき掛けし、飾りの結び目を作った。
「凛、簪と櫛」
「うん」
玲凛は、自分の髪から白玉の簪とつげの櫛を抜き、芙蓉の髪に刺した。
服装に比べて地味な芙蓉の顔を見て、玲凛は眉を歪めた。
「ごめんなさいね。化粧は知らないのよ」
言い終わらぬうちに、蓮章が自分の荷物からさっさと化粧道具を取り出し、白粉をはたいていた。
「あんた、そんなの持ち歩いてるの?」
「近衛副長の必需品だ。覚えておけ」
「絶対嘘でしょ」
手際よく、蓮章は化粧を施すと、芙蓉を立たせ、全身を軽く手直しした。
「隅に座って琵琶を弾くだけなら、どうにか形になるだろう」
「そろそろ行かなきゃ。前の曲が終わっちゃう」
二人がかりで整えてもらい、少しは落ち着いたのか、芙蓉はもう一度琵琶を抱きしめた。
「大丈夫よ」
玲凛は身軽になった格好で、ひらひらと袖を振った。薄い菜の花色の優雅な中衣の下に、白い襦袢の色が透ける。腰には不釣り合いの大太刀の紐をくくりつけた、なんとも色めかしい姿である。
「凛、おまえ、その格好で……」
蓮章の方が気を遣う。
「大丈夫。寒くないから」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題?」
「下着姿で歩くなと言ってるんだ」
「下着じゃないわ。もう一枚着てるもの」
「そういう問題では……」
「だったらどういう問題?」
答えが出そうもない。二人のやりとりを見て、思わず芙蓉がくすっと笑う。それを機に、蓮章も玲凛も黙った。
「二人とも、ありがとう。私、がんばるね」
芙蓉が精一杯の声を出し、舞台へ歩いていく。玲凛は蓮章の陰に隠れ、路地の目立たないところから芙蓉の様子を見守った。
ちょうど直前の演目が終わり、壇上で優雅な礼が済んだところだ。続いて芙蓉が所属する妓楼の番である。芙蓉は舞台の端の小さな階段を一歩一歩登って、琵琶奏者の席についた。交椅に座り調弦する。その音すらも、春風の中で美しく響く。
「まぁ、見てくれはどうにかなったか」
蓮章は、ホッと息をついた。
「顔の方は、あれが限界だ……」
「琵琶の腕前は一流よ」
玲凛が路地から身を乗り出し、蓮章に押し戻される。このような姿を衆目にさらすわけにはいかない。
観客たちがざわざわと声を立てる。楼閣に身を置く者は、皆、見目が良いと相場が決まっている。が、残念ながら芙蓉はそれには当てはまらない。それが逆に面白いらしく、あのようなもので夜が務まるのか、と、揶揄が飛ぶ。
芙蓉の耳にも、その心ない言葉が入ってくる。だが、それは今に始まったことではない。玲凛は、蓮章の後ろで、下卑たことを口走る男たちを睨みつけていた。
「イラつくわねぇ」
自然と拳が固くなる。
「文句言ってないで、黙って聞きなさいよ」
「……凛、おかしい」
蓮章が舞台の周りを見回しながら、声を低めた。
芙蓉が琵琶を奏で、琴や笛と合奏を行う。楼閣一の舞い手がそれに合わせて踊るはずであった。だが、調弦が終わっても誰も現れない。芙蓉の表情に不安と焦りと、そして色が抜けていく感があった。
「凛、絶対にここにいろ。人前に出るな」
蓮章は強めに玲凛に釘をさすと、舞台脇で薄ら笑いを浮かべていた采に近づいた。
花街を知り尽くしている蓮章である。
その男が、芙蓉の妓楼の関係者だということは一目でわかった。
「おい」
蓮章は男に声をかけた。
「次の演目だろ? もう琵琶の準備はできている。他の奏者と舞い手はどうした?」
男は蓮章を一瞥し、それからふっと笑う。
「同じ舞台に上がるのは恥なんだとさ」
男は周りに聞こえる大声で言い、客から笑い声が起きた。見ると、舞台の隅で芙蓉が体を小さくして震えている。
蓮章の隣に、案の定、じっとしていられない玲凛が駆け寄った。黄色い着衣がひらひらと舞い、それだけでまるで花街の女のような風情があった。蓮章と並んだ姿に、観客たちが冷やかしの声を上げる。玲凛は一睨みでそれを封じた。
「芙蓉のこと、とことんいじめる気なのね」
玲凛の目尻に、強い怒りが沸いた。
「いいわ。だったら私がやる」
采の男が、一瞬きょとんとする。
玲凛は、蓮章が止める間もなく、つかつかと階段を上がり、舞台の上に立った。鮮やかに艶を放つ絹の中衣がひらりと舞う。
玲凛はそっと着物の袖から右腕を抜いた。下に着込んだ白い襦袢が肌の色と相まって、柔らかく光を跳ねる。ゆるやかに着物を着崩したその姿は、客を取る女そのものだった。
周りから、下卑た声が上がる。それは感嘆であり、ため息であり、期待であり、そして一種異様な興奮だった。
十六歳の、まだ何も知らない生娘の玲凛。だが、それゆえの魅力が、確かに備わっている。
犀星たちの部屋を見上げる勇気は、蓮章にはなかった。
「凛のやつ、俺を殺す気か」
舞台の裏で、蓮章は思わずよろけて壁に背を預けた。
よりによって、歌仙親王の従兄妹、いや、あの玲陽の妹を、あられもない姿で、舞台の上に立たせ、男たちの好奇の目にさらしたとあっては、まず、少なく見積もっても八つ裂きは免れない。
蓮章の絶望をよそに、玲凛は腰に刺していた大太刀をずらりと抜いた。身の丈に合わぬ長い刀身が、白々と日の光を弾き、それ自体が輝きを発するかのように、人々の目を引きつけた。
玲凛は、小さく芙蓉を振り返って微笑んだ。
「どんな曲でもいい。あなたが好きなのをやって」
「でも……」
「大丈夫。私が舞うから」
舞う?
蓮章は耳を疑った。
玲凛が芸事に全く興味がないことは、蓮章も知っている。
覚悟を決めたのか、芙蓉が息を消し、静かに一つ目の音を鳴らした。
玲凛は舞台中央ですっと背筋を伸ばすと目を閉じ、刀を横一文字に構えた。見た目は美しい少女である。女郎も真っ青の立ち姿。だが、その手には強者とて扱いに困るほどの大太刀が、片手で軽々と構えられている。重量があるというのに、軸が震えることすらない。
見物人たちは皆、ほとんどが剣術の素人であるが、中には何人か知る者もいて、その技量に目を見張った。
芙蓉の音が、徐々に連なってゆく。その旋律は春風を巻き込み、人々の心に景色を見せた。花街の十字路の舞台ではなく、それぞれの心の中にある懐かしい故郷の景色が、鮮明に浮かび上がってくる。音のひとつひとつが思い出と結びつき、心を捉えていく。
玲凛はしばし音を聞き、そして何かを掴んだように一歩、踏み出した。音の合間に、刀が空を裂く音が鳴る。それはまるで琵琶と呼応するように、語り合うように響き渡る。震える弦の音と、風の裂ける音。
そして玲凛の一切の無駄のない美しい踏み込みと、剣舞の型。
普段荒っぽい戦い方が板についている玲凛が、このような整った型を踏めることに蓮章は驚いた。基本ができている。玲凛の傍若無人ぶりは、確固とした一沙流の型に支えられたものだった。
蓮章は自分の悲惨な運命も忘れて、しばし、玲凛の剣舞に見入った。
初めは野次や下品な笑いを振りまいていた観衆も、次第にその力量に気づいたのだろう、少しずつその声は静まり、場は琵琶と風音、玲凛の衣摺れすら聞こえる静寂に満たされる。
春風に乗って飛ぶ、可憐な蝶のように裾ははためき、光となった刀身が白い奇跡を描いて人々を魅了する。
妓楼の二階の部屋で、犀星と玲陽は、その姿を目にし、思わず湯呑みを取り落とした。
「あれって、一沙ですよね」
玲陽が震える声で言った。犀星は無表情のまま、しかしこめかみに薄く血管が浮く。犀遠が編み出した一沙流を知る者は限られる。見まごうはずはなかった。その太刀筋は一筆書きを描き、一度鞘から抜かれたなら、一瞬たりとも止まることはない。大太刀は生き物のように玲凛とともに舞台の上を躍動した。
「なぜ、凛が?」
「なぜでしょう」
二人はいつしか、しっかりと手を握っていたが、それは愛情を確かめるというよりも、互いの動揺を抑えるためだった。
観客たちからどよめきが起こる。琵琶の音は美しく、そしてそれに合わせる玲凛の舞も、非のうちようがなかった。舞踏も剣術も理解する蓮章には、ことさら、響く。
花街の祭りの舞台で、剣舞が披露されたなどという話は、前代未聞である。だが、それでも人々は徐々に喝采を上げ始めた。一人が手を叩けば、次がまた続く。
玲凛の動きが、曲に合わせ少しずつ変化していく。調子が乗ったのか、芙蓉も普段よりも激しい旋律を、余すところなく、誤ることなく、弾き切った。
曲の高まりに合わせて、玲凛は身を翻し、上に下へと刀を自在に走らせ、右手で振ったかと思えば、軽く放って左手で掴み、それを横に薙ぎ払い、さらに自分の跳躍と重ねて高く突き上げる。
それはもう、一沙流の型を越えて、玲凛なりの美しい新たな剣術であった。
「こいつ、こんなこともできるのか……」
蓮章が、ぼそりと呟いた。
「陽、あれ」
犀星が、呆然としている玲陽に、琵琶の少女を見るよう促した。
「凛が言っていたのは、あの娘か?」
玲凛の姿に混乱していた玲陽は、うろたえながら、琵琶奏者を見た。
「あれ、凛どのの着物ですよね?」
「ああ。おそらく、簪も。蓮章の肩掛けと……」
犀星は状況をある程度、状況を察した。
「陽、頼みがある」
「はい?」
玲陽は間近く犀星の横顔を見た。頬に犀星の唇が触れて甘やかに囁く。
「これは、やむにやまれぬ人助けだ。蓮章を、殴らないでやってくれ」
犀星の一言が効いたのだろう。夕方、妓楼の門の前まで迎えに来た蓮章を、玲陽はこわばった笑いを浮かべたまま、震えつつもどうにか迎え入れた。
蓮章のほうも相当な覚悟を決めていたようで、いつ首を切られてもおかしくないという絶望的な表情を浮かべ、それでも体は少しだけ玲陽から距離をとってわずかな延命を計っているように思われた。
その二人を犀星と玲凛は顔を見合わせ、安堵を交えて何度がうなずきあった。
物事がややこしくなる前に、と、犀星が先に切り出した。
「あの娘の琵琶は、相当の腕前だったな」
「そうなの! すごいんだから」
よりによって、芸事の素養が皆無の二人が揃って褒めたところで、はるかに造詣の深い玲陽と蓮章の眼差しを、より冷たくさせるだけだった。
「確かに素晴らしい腕前でした」
とりあえず、ここは流さなくては、と玲陽は平常心を保つ。先ほど見せつけられた玲凛の危うげな姿については、あえて触れずにおく。蓮章は、玲陽から三歩の距離をとりながら、
「どれほど実力があろうと、花街では、お互いに足の引っ張り合いが必定。あの娘もその犠牲者だ」
犀星がうなずいた。
「あの娘の妓楼、手を入れる必要がありそうか?」
蓮章は少し唸った。犀星が一声かければ、妓楼ごと、簡単に潰すことができる。
親王の従兄妹である玲凛の友人を辱めた罪、玲凛自身にあのようなことをさせた事実。その詫びすらなく放置している現状。素性を知れば、妓楼主が震え上がることは間違いない。
平穏が訪れれば、徐々に街の質を乱すものも現れる。今後の見せしめのために罰するのもまた、治安の維持には欠かせない。
「このまま見過ごすことはできないが、親王は関わらない方がいい」
蓮章は、首を横に振った。
「ここはわざわざ、恨みを買う必要はない。あの妓楼には、俺から言っておく」
眉間にしわを寄せ、玲凛が蓮章を睨んだ。
「何を甘いこと、言ってんのよ。ここはさっさと潰しちゃえばいいのに」
「おまえには情けがないのか?」
「それは情けって言わないの。甘さ。あの子がこれからどんな目に合うか考えてもみてよ」
「考えるのはおまえの方だ。妓楼を潰せば、無関係の者まで路頭に迷う。重要なのは、このようなことが繰り返されないよう、芙蓉の今後を確保することだ」
二人の言い合いが始まる。
「もしここであの妓楼が潰されたら、芙蓉が逆恨みされる。しかも、親王の後ろ盾がある娘を粗末にはできない。待遇に苦慮するのが目に見えている芙蓉を、他の楼閣も容易に受け入れはしない」
「あれだけの腕前があるなら、文句はないでしょう?」
「実力だけではどうにもならない世界もある。女の嫉妬や情念は、時に理不尽を押し通す力となる」
玲陽はじっと考えていた顔を上げた。
「どうにか、なりませんか? このままにしておくのは、あまりに忍びないです」
「それとも、ここでも役立たずなわけ?」
玲凛が嫌味たっぷりに蓮章を煽る。
「……きついな」
蓮章は言葉を濁した。
黙っていた犀星が、皆を見回した。
「誰もが歓迎するとは限らないだろう。特にあのように派手に振る舞ってしまっては。だが、陽も言うように彼女の腕は良い。俺もどうにかしてやりたい。蓮章、無理を承知で、頼めないだろうか」
三人は揃って犀星を見た。蒼氷の親王として、情を見せることは稀である。不器用な犀星だが、その心の中には柔らかな感情が溢れている。東雨などはよくそれを言い当てて、若様は本当は感情豊かだと言う。
犀星の表情は大きく変わりはしないが、青い瞳には人としての思いやりが宿っていた。
花街において、女同士の嫉妬の渦は避けられない。たとえ芙蓉ひとりをどうにかしたところで、こんこんと湧き出す妬みの泉を止めることは、誰にもできない。
「わかった、やれるだけはやってみよう」
蓮章がついに折れた。
「ここは歌仙親王の街だ。おまえが望む理想を追いかけて良いと思う」
玲凛は少し首をかしげて蓮章を見た。
普段の蓮章は常に軽く冗談を口にし、物事を茶化して歩く軽い男である。だが、それはあくまでも一面に過ぎない。蓮章にとって犀星は、自分の大切な花街を蘇らせてくれた恩人である。面と向かって言う事はなくても、できる限りの力を貸したいと願い続けている。
犀星に対する、忠誠にも似たまっすぐな思いが根付いているのだと、この時初めて、玲凛は思った。
これなら、兄様たちを任せて大丈夫かも。
玲凛は、ふっと笑顔になった。
「じゃあ、私、芙蓉と会う約束があるから」
「また約束ですか」
玲陽が途端に悲しそうな声を出す。玲凛の身を心配してというより、単に寂しい、という思いが出る。
「せっかく一緒に居られると思ったのですが」
目を伏せた玲陽の顔の下に玲凛は素早く潜り込み、上目遣いの、妹特有の特別な視線で見上げた。
「兄様、今夜一番、一緒にいなくてはいけない人は誰ですか」
その言葉に玲陽の頬がぱっと赤くなる。昼間、酒に酔った時よりも、危うげに目が潤む。
「陽兄様は、この世界で一番大切な人と一緒にいてください。それは私ではないはずです。だって私は、兄様の二番目ですから」
言い訳のしようのないその言葉に、玲陽は何をどう返していいか、わからぬまま、ただ困り果てて、そっと犀星の手元を見た。待っていましたとばかりに、犀星の手がすんなりと玲陽の指に絡む。そのまま、玲陽は恥じらうように下を向いてしまった。
玲凛は腰に手を当て、胸を張った。
「こうしてちゃんと着替えも済ませました。芙蓉にも、祭りを楽しめるだけの着物は用意しました。私は女同士楽しんできますから」
そこで、ちらりと蓮章を見る。
「兄様たちの邪魔、しないでよね」
「俺は親王の警護でここにいるんだ。邪魔はしないが目を離すことはできない」
「そうでした。そうでした」
玲凛は軽く明るく笑い、そして手を振る。
「今夜は安全な場所に泊まりますので」
花街に安全な場所などあるのか、と、思わず玲陽が心の中で叫んだ。それを察したように蓮章がそっと横から、
「宿についてはちゃんと手配してある。誰にも手出しさせない場所だ。安心しろ」
蓮章は悪戯めいて笑った。
「陽は余計なことは考えず、眠りたい場所で眠ればいい。まぁ、眠らないというのも一興か」
含みのある言い方に、さらに玲陽は何も言えなくなってしまう。
終始、犀星は微笑み、静かに見守る。何を言われても動揺することもなく、揺れることもない。だが、心の中は玲陽へのひたすらの情が渦巻いているのだろうと、蓮章は小さく笑いながら、いつになく穏やかな犀星を眺めた。
玲凛と別れ、三人はゆっくりと歩き始めた。
夕闇が少しずつ近づき、人々の流れが変わる。
中央の舞台には篝火が焚かれ、静かな舞と弦楽がゆったりと流れている。
人々が向かう先は大通りに並行して走る、最大の水路である。丁寧に石が積み上げられた堤に、揺れる草花。この街を流れる川といった趣だ。犀星が自然の地形に近づけて、流れを作り、川底を下げて砂利を敷いた。至るところに小さな滝を設け、蓮の咲く池も配置されている。水を割って音を響かせる岩も、風情と共に大水の流れを制御する役割を兼ねて置かれている。
堤は、ゆるやかに道へとつながり、その途中には灯籠が立てられ、生け垣には季節ごとの花が咲き、柳が長く枝の影を落とす。それらはわざと上の道から見えないよう、陰を作るように植えられている。二人きりになりたい者たちの、良い隠れ場所だ。
今夜などは特に人が多く、どこにいても人目にはつくのだが、逆に誰もが想い人のことしか見ていない。二人の世界があちらこちらに点在し、その間を冷やかしながら独り身や集団が通り抜けていく。
玲凛は芙蓉と約束したという、上流に向かった。
「上は騒がしい。俺たちは下へ行こう」
蓮章が先に立って二人を導く。
大人しく蓮章の後ろに続きながら、犀星は玲陽の手を、丁寧に握り直した。
去年まで、紅花祭に参加する際、いつも犀星と蓮章の二人きりだった。荒んでいた花街が、確実に力強く息づいていく様子は、犀星にも蓮章にも嬉しい眺めだった。
しかし、どんなに賑わう祭りを見ても、犀星にはどこか遠い世界の出来事と思われ、寂しさを感じる瞬間があったのも事実である。人々が寄り添いながら歩く姿を見ると、胸深くに悲しみと寂しさが渦巻いた。
そんな犀星が、今宵、初めて大切な人を伴って、夜の街へと踏み出した。時折、玲陽の鈴のような声と、それに答える犀星の低い弦に似た声が交差する。蓮章は背後にその優しいやりとりを聞きながら、自分には叶わない恋路を想った。
大通りに沿って流れる水路は、通称、柳川、と呼ばれている。花街らしい名前である。正式な名称はあるにはあったが、今更それを持ち出すほど、さすがの犀星も野暮ではない。人々にならって、柳川と呼ぶ。
堤の並木には、ひらひらと赤い紐がかけられ、枝とともに風にそよぐ。月は西に傾き、星がちらちらと空を飾り始めていた。
「雲がなくてよかった」
蓮章が一段明るい声で言った。
「今までで、一番良い星空かもしれないな」
つぶやくような蓮章の声は、犀星と玲陽に祝福を与えるようだった。それからふと、普段の調子に戻って玲陽を振り返り、にやりとする。
「陽にとっては、満天の星より、隣の星の方が美しいだろうがな」
「蓮章様……」
言い返すこともできず、玲陽は目をそらした。その視線の先に、柳に揺れる赤い紐が映る。
「親王、これ」
蓮章はふと立ち止まり、枝の紐を差した。
一瞬、犀星の顔に動揺が走る。蓮章は意味ありげに、
「俺は向こう向いてるからさ」
そう言って、柳の裏に回った。玲陽が不思議そうに犀星を見つめる。
「……こういうのは、苦手なのだが」
犀星はそっと手を伸ばすと、柳の枝から紐を解き、片端を玲陽の手首にゆるく結えた。玲陽は顔の前に手首を持ち上げて、夜空に透かして風に揺らぐ紐を見た。
「これは?」
「…………」
答えず、犀星は黙ったまま、突っ立っている。玲陽は察した。長く垂れた紐の反対を、犀星の手首に優しく結ぶ。
「これで、いいですか?」
カッと犀星の頬が朱に染まる。玲陽はにっこりと微笑んだ。蓮章がチラッとこちらを振り返るのが見える。視線で、玲陽に何事かを促す。玲陽は思い切って、犀星に一歩寄ると、肩を抱き寄せ、そっと頬に口付けた。
それがあまりに唐突で、息を詰めたような短い声が犀星の唇をついて出た。蓮章さえ、どきりとするような、色めいた吐息に、玲陽はの指が食い込む。
「星……」
星あかりの下、揺れる柳の枝の陰。
思わず互いを引き寄せ、視線が切なげに深く絡み合う。
「続きは宿でやってくれ」
蓮章が声を上げた。犀星が固まり、玲陽は慌てて顔を伏せた。
その時、玲陽の目の前にゆらりと何かが流れてきた。
水路の黒い水の上を、白っぽい小さな花びらが一枚、ゆらりと通り過ぎる。水の流れに乗って、右へ左へ回りながら、音もなく川下へと消えてゆく。
「花流しが始まったな」
蓮章が上流を見た。
「花流し?」
「椿の花びらを川に流す」
玲陽は水路に近づき、しゃがみ込んだ。
上流から花びらが一枚二枚。赤や白、桃色の花弁が星空を映す柳川を、小舟のように流れていく。
「あ……」
花びらには何か文字が書かれている。玲陽は、目で追いながら、川下へ見送った。
さりげなく犀星が玲陽の隣に膝をつく。
玲陽の目は、花を浮かべる川面よりも、川面を見つめる犀星の幻想的な横顔に注がれる。祭りの柳川は美しい光景だったが、それ以上に犀星を見ていたかった。
蓮章が後ろから、
「人の名前を花びらに書いて流すんだ」
玲陽は問いたげに小さく振り返った。
「何のために?」
「相手と想いを通じるために」
蓮章が言うと、やたらと色っぽく聞こえる。
「花街で誰かに恋をしても、叶うことは稀だ。愛しい相手が自分のもとに来てくれるよう、願いを込めて、その名を書く。それが花流しだ」
話を聞きながら、玲陽は次々に通り過ぎていく花びらを眺めた。
これだけたくさんの思いが募り、この街が動いている。
ここには多くの人たちの願いが溢れている。それは人恋しさだけではない。もしかするともっとたくさんの隠された願いが埋もれているのかもしれない。
そしてそれが簡単には手に入らない世界。さらには、願ってはならないとされる社会。
「人が人として生きていく上で、夢を見ることすら許されない。それがこの花街だ」
長くこの街で生きてきた蓮章の言葉は、ずしりと玲陽の胸に沈んだ。
「芙蓉のこともその一つ……」
犀星がつぶやく。
川を見つめる犀星の目は、その底まで見通すほどにまっすぐである。
「もしかして、兄様がこの街を大切にするのは……」
玲陽の言葉はそこで途切れたが、犀星は優しく目を細めた。
「おまえたちもやるか?」
蓮章が、軽く尋ねた。
「え?」
「花流しだ」
「好きな相手の名前を書いて?」
玲陽はにこっと笑った。暗くても、その笑みがあまりにも強く、透明であることがはっきりとわかる。犀星は何も言わず、川下の方へとわずかに顔を向けた。
蓮章は一瞬笑って、ふいと真顔になる。
「そうか。おまえらには必要なかったな」
玲陽は、惹きつけられるように、蓮章の横顔を見上げた。
「蓮章様には、名前を書きたい相手がいるんですか?」
暗がりのせいだろうか、思わずそんなことを大胆に問いかける。蓮章は、しばらく黙って、物思いにふけってから首を横に振った。
「今でこそ、人と人を結ぶための花流しだが、元は違うんだ。だから俺は書かない」
「違う?」
「もともと、この慣わしは女郎たちの間に自然に広がったものだ。二度とは会えない相手への思いを断ち切るためのもの」
「想いを断ち切る? それって真逆じゃないですか」
「そうだ。世の中には、そういうこともよくある。忘れたい相手、愛しくてたまらなくても、忘れねばならない相手の名を書いて流す。決別だ」
玲陽の胸に、犀星と引き裂かれた幼い日の痛みが蘇った。
頭の芯が焼けて全身に鳥肌が立つ、恐怖。
ぴくっと震えた玲陽の手を、すかさず犀星が包んだ。互いの手首に結んだ赤い紐が交わる。それを眺める蓮章の目は、どこか寂しげだ。
「蓮章様は……」
「あいつの名を書くくらいなら」
突然、蓮章の声が強くなる。
「この手で終わらせる」
玲陽は小さくため息を漏らした。
自分と犀星がこうして共にいられる中、蓮章の胸中はいかばかりか。
玲陽の心の古傷がひどく痛んだ。それを癒す犀星の温もりが、今の玲陽にはある。ただ、蓮章の想いだけは、乾いて川面を彷徨うようだ。
花びらは次々と流れてくる。
中には、途中で石につかえるものもある。それがあまりにも悲しくて、玲陽はそっと手を述べて、花びらを流れに戻してやった。
その細く、白い白い指先が、星の光に美しく光る。
犀星はそっと玲陽の背中を抱いた。玲陽は、少し遠慮がちに顔を預けた。今は、そうすることしかできなかった。
叶わぬ想いが水を彩る。
こうしていられる今が、奇跡だった。いや、その奇跡は、犀星の強い想いが引き寄せてくれたのだ。
二人の胸の内を、一体何枚の花びらが流れすぎていったことだろうか。
二度と、流しはしない。手放しはしない。
犀星と玲陽の間をつなぐ赤い紐は、決して切れることはない。
玲陽はそっと上流を見た。
いくつもの行灯が揺れて、人々が次々に名を書いている様子がわかる。
その中には、玲凛と芙蓉の姿もあった。
玲凛は目の前の薄桃色の花びらをじっと見つめ、筆を高く掲げたまま動くことができない。芙蓉は不思議そうに、玲凛を見た。険しく、困った顔している。
「好きな人、いないの?」
何事にもてきぱきと答えを出し、迷うということがない玲凛にしては珍しい。
芙蓉が小さく笑った。
「凛さんなら綺麗だから、どんな人だって振り向いてくれるよ」
「うーん……」
「思い切って書いちゃって」
促されても、玲凛の悩みは続く。
実のところ、名前を書くという行為自体が、玲凛にとっては呪術的な意味を持ってしまう。不用意なことはできなかった。当然、そんな事情を芙蓉が知るはずもない。
「決めた!」
玲凛は覚悟した。そして小筆の先を丁寧に使い、細い線で彼女らしからぬ繊細な文字を綴った。
横から芙蓉が覗き込む、そして眉を寄せ、首をかしげる。
「二歳の牡鹿? なに、これ?」
芙蓉が問う。玲陽は真面目に言った。
「次に狩りたいやつ」
思わず芙蓉が吹き出した。
「そうじゃなくて、好きな男性だよ」
「でも、牡鹿だからいいじゃない」
玲凛は真顔で言った。
「あ、三歳にしておこう。その方が角も固くなるし、肉もまだ美味しいし、使い道も増える」
玲凛は『二』の文字に一本線を足した。そしてその花びらをそっと水に浮かべる。
幸いなことに、それが川下の犀星たちの目に触れることはなかった。
「これで次の狩では間違いなく!」
屈託なく、玲凛はにこっと笑う。その横で、芙蓉も静かに筆を走らせる。玲凛は、そっと芙蓉の手元を気にした。
「見ていい?」
芙蓉は照れた顔を向け、それから小さくうなずいた。のぞいて、玲凛は首をかしげた。
「どうして、自分の名前?」
「私、これしか書けないの」
玲凛の眉がかすかに動いた。玲凛は幼い頃から周囲に字を習い、読み書きを覚えた。だが、芙蓉は違う。
琵琶の譜面は読めても、文字は読めない。そして書けない。唯一書けるのが自分の名前だけである。
「自分を大事にするってこと。本当の自分になれるってことだよ」
玲凛が明るく笑った。
芙蓉は一瞬戸惑って、それから涙ぐむように目を三日月の形にし、そしてうなずいた。
「そうだよね。私はちゃんと、私になる。もう誰のものでもなく、私になるんだ」
その言い方が、まるで必死に思われて、玲凛は一瞬戸惑った。
花びらは次々と流れ、明るい人々の笑い声が満ちていく。
空には半月が輝き、街には篝火が燃える。
花街の年に一度の紅花祭は、水辺にたくさんの思いの花を浮かべて、静かに更けていった。
犀星にとって、それはいつ叶うとも知れない悲願の日であった。
そして、玲陽にとっては、触れるもの全てが初めての、都の祭。
二人は五亨庵から蓮章と三人で連れ立ち、まるでどこにでもいる庶民の顔をして、花街の門までやってきた。
今回の警備計画は、右近衛では密かに、逢引き警備と呼ばれていた。その名からも想像できる通り、発案も執行も蓮章である。ものものしさを嫌う犀星のために、私服の右近衛や暁隊が市井にまぎれてさりげなく見守っている。花街に入れば、景色に溶け込んだ自警団が目を光らせている。
あくまでも、犀星と玲陽が周囲に気兼ねなく過ごせるように、との蓮章の計らいが随所に見られた。不器用な涼景では、こうはいかない。ずらりと並んだ近衛や、無骨な暁隊士に囲まれていては、安全は確保されても趣は無視されることになっただろう。
犀星が丹精込めて育ててきた花街を、玲陽は大変に気に入っている。これまでも、何度か治水工事で訪れるたびに、玲陽は町の皆に歓迎された。
歌仙様の従兄弟がきた、しかも美麗である、と、花街は大盛り上がりだ。そして街の性質らしく、ふたりが恋仲である、という話が公然と語られた。
今までどれだけ出入りしても、犀星が花街の『客』になることはなかった。どんな女郎も敵わなかった難攻不落の歌仙親王。蒼氷の親王が寄り添うように歩く玲陽が、『只者』であるはずがない。
人々の屈託のない接し方は玲陽を驚かせたが、今は照れながらも笑顔で返せるまでになっていた。
花街の住人は警戒心が強い。
それをここまで解きほぐしたのは、犀星の人柄と、ここに残してきた数々の実績である。
数年前までの荒れっぷりが嘘のように、街の景観は見事に、そして機能的に整えられた。治水を中心とした犀星の事業は人々の生活を大きく向上させた。同時に、裏の事情に通じた蓮章の助けもあり、自警団の質の改善にも着手して治安の安定にも貢献した。
実利を重んじる犀星には珍しく、見た目の美しさにも配慮したのは、種を明かせば、すべて、玲陽のためであった。
優雅にそよぐ柳並木の水路は、人工の川のせせらぎで、玲陽を懐かしい心地にさせた。河川敷に植えられた草花も、水路に作られた小さな滝も、何もかもが、玲陽の胸に優しい水音と清涼感を届けてくれた。街の奥行きや道幅、柳の下に並べられた長榻の色形に至るまで、玲陽の好みにぴたりと重なる。
ここでは誰も、公私混同などと野暮な事は言わない。それも上等ではないか、と蓮章などは開き直って笑う。結果として、多くの民衆に役立っている。それで良い。
まさに、こいつが国を動かしているな。
蓮章は、光沢のある金色の髪を結い上げた玲陽の横顔を見て、にやりとした。
犀星に寄り添い、玲陽は終始穏やかだった。濃灰の絹の袍は、彼の髪色と並ぶと銀糸のように見えた。墨色の直裾は一見質素だが、わずかに色の違う糸で細やかな刺繍が施されている。腰帯は暗紅色に濃紺の紐を絡めて綾取り、音の良い玉佩が揺れる。
誰にとがめられることもなく、玲陽の腕を取る犀星は、対照的に淡い色合いをまとっていた。好みの薄水と白襟の袍に、生成りの裳。黒地の帯にあしらわれた金の綾紐は、玲陽と対をなす互いの髪色だ。
最近の多忙と睡眠不足で調子を崩している蓮章だったが、犀星と玲陽の静かで優しい雰囲気に触れていると、心の波が収まっていく気がした。
これなら、夜には……
蓮章らしくそこまで想定して、滞在する部屋の内装、小物の指示まで抜かりはない。
すべては順調に見えた。だが、玲陽の曇りのない笑みは、花街の道の途中で、突如、途切れた。
「陽兄様!」
こちらを見て手を振る少女に気づいて、玲陽は言葉をなくした。
柳の下で、玲凛は一人の暁隊の隊士とともに、兄たちを待っていた。
「お待ちしておりました」
見つけるなり、玲凛は玲陽の元に駆け寄ってきた。玲陽は心配顔で、玲凛の無事を確かめた。よもや可愛い妹に悪い虫でもついてはいまいかと、気が気ではない。
「凛どのが、どうしてこんなところに? ……まさか!」
険しい顔で、玲陽は暁の隊士を睨んだ。隊士は慌てて顔を背けた。
「どういうことです! あの人はどなたです! どうして花街にあなたがいるのです!」
「まぁ、落ち着け、陽」
矢継ぎ早に質問をぶつける玲陽に、蓮章が、
「別に、あの隊士は問題ない。凛の護衛を頼んだだけだ」
玲陽の疑いの眼差しが、蓮章を貫く。玲凛が笑って、
「あいつ、私より弱いから、護衛の意味はないんだけどね。一人でいるなって、蓮章様がうるさいから……」
実に不本意だ、と玲凛も首を振った。罪のない隊士はうなだれて、やれやれとその場を離れていく。玲凛は犀星と玲陽を見比べた。
「心配しないでください。私、兄様たちの邪魔はしませんから」
悪戯っぽく片目をつむる。
「ただちょっと、友達と約束があって来たんです」
「友達? 約束? 何のことです!」
玲陽の顔が、さらに険しくなる。
玲凛は、たった一人でも戦場を生き残る強者である。だが、玲陽にとっては、いつまでも可愛くて大切な、か弱い妹なのだ。
「心配しないでください。友達といっても、男じゃありませんから」
玲凛は、玲陽の過保護な気質をちゃんと理解し、うまくあしらう。
「前にここに来たときに、紅花祭で琵琶を奏でるから聞いてくれって、言われたんです。その約束で……」
玲陽の顔が困惑と動揺、そして最終的に険悪に歪む。
「前に来た、ってどういうことですか?」
蓮章が横から、
「以前、凛に花街の事件の調査に協力してもらったことが……」
何の罪もなく、ただ事実を説明しただけの蓮章の頬に、玲陽の容赦ない不意打ちの平手が飛んだ。
こ気味よく乾いた音が辺りに響き、思わずすれ違う人々が足を止めて振り返る。
「いきなり殴るな!」
蓮章はよろめいて、玲陽を睨む。だが、それ以上に玲陽の怒りが上回っていた。
「事件の調査? 蓮章様、凛どのをそんなことに巻き込んでいたんですか!」
「それは、その、いろいろと事情があって……」
蓮章は、確実に痕がついたであろう頬を撫でた。玲陽に殴られるのはこれが初めてではない。
「まったく、おまえはどうしてそう、すぐに手が出るんだ?」
「出させるようなことをするからです」
「そこまで悪いことしたか?」
「しました。よりによって、いたいけな少女である凛どのを、花街へ……しかも犯罪の捜査に協力させるなど……」
「いたいけな少女は、ひとりで三十人の男を倒したりしない」
ピクッと、玲陽の目尻が動いた。
「それ、何の話です?」
声が、明らかに怒りに震えていた。玲凛がにっこりして、
「大丈夫ですよ。単に暁隊の連中をのしただけですから」
びん、と空気が張った。
蓮章は飛び退き、玲陽は踏み込み、犀星がため息をついた。物見高い通行人までが、あとじさり、逃げるように離れていく。
「蓮章様! 凛どのを暁隊に任せるのはいいですが、危険な目に合わせないって約束したじゃないですか!」
「危険な目に合っているのは凛じゃなくて、隊士の方だ」
「そんな詭弁を!」
「事実だ!」
犀星が、ちらりと玲凛を見た。玲凛はその視線の意図に気づいて、頷いた。
「陽兄様、行きましょう」
言いながら、素早く玲陽の手を取る。引き寄せられて、玲陽の怒りが一瞬で消沈する。柔らかい玲凛のからだの感触に声も出ない。
「ほら、陽兄様、こっち! あそこのお店の鹿肉、美味しいんですよ」
玲凛にしかできない力技で、玲陽を蓮章から引き離す。犀星は真顔のままそれを見送り、蓮章は着物の乱れを気にしながら、呆れた顔でそばに寄った。
「なぁ、陽のあの性格、どうにかならないのか?」
「無理だ」
犀星は首を振った。
「さすがに、あれだけは俺にも止められない」
「昔からか?」
「ああ。俺も何度やられたか、覚えていない」
「……苦労してるんだな」
ため息混じりの一言に、犀星は真顔のまま、何も答えなかった。
少し先を、楽しそうに歩く玲凛は、年相応の無邪気な少女に見える。見えるだけで、騙されてはいけない、と蓮章は知っている。
玲陽は、すっかり怒りをおさめて、はにかみながら玲凛の手をとっている。
「でもさぁ」
蓮章は、チラチラと町並みを見た。紅花祭と言うだけあって、赤い花弁を巻いた紙が路地の軒先にかかり、甘い香の匂いが漂っている。艶やかな花模様の布、窓にも飾りが揺れる。
「この街で、男女が手をつないで歩いてるって事はさぁ」
意味ありげに、蓮章は犀星を見た。
「ああいうのに引っかかるんだけど」
と、顎で示す。
蓮章が懸念した通り、派手な羽織の男が、玲陽と玲凛の足を止めていた。
「あのまま、宿に連れ込まれるぞ」
「…………」
「まぁ、親王がいいならいいんだが……」
「よくない」
蓮章の言葉に、犀星は一気に二人に追いついた。素早く間に入り、さらうように玲陽に腕を絡めて引き寄せる。
「わかりやす過ぎるだろ」
にやりと、蓮章はさらに顔を緩めた。
紅花祭の花街は、一年で最も華やかで美しい。そこかしこから聞こえてくる笛や、太鼓、琴の音。そしてそれに合わせて響き渡る歌声、きらきらとした多くの人々の笑い声、話し声。時には、ちょっとした怒鳴り合いも。
皆が美しく飾り、特別な着物をまとって、化粧を濃くし、髪を複雑に盛り上げ、揺れる簪を挿し、扇を持って高い靴を履く。一人の者は少なく、友や伴侶と連れ合って出かける。祭のときだけは、花街は男女遊郭の街ではない。人々の憩いの場、弦楽の娯楽の場に変わる。
さすがに幼子の出入りは避けているが、それでも老若男女があふれる眺めは、普段の花街とは一つ違う。
花街の賑わいは、喧嘩沙汰になりかけた四人の間を柔らかく繋いでいく。
通りの向こうから仮面をつけた芸妓たちが、艶やかな踊りで練り歩いてくる。道の脇に避けて眺めながら、蓮章がふとつぶやいた。
「あの中に俺の知る女が何人いると思う?」
犀星と玲陽が、思わず黙り込む。
玲凛がすかさず、
「全員でしょ」
あっさりと言い切った。蓮章はいたずらっぽく笑っただけで否定しない。
今日ばかりは金を持たなくても花街が楽しめるとあって、あちらこちらに人だかりができている。
普段より品揃えのいい簪や髪紐が、所狭しと店先に並ぶ。色とりどりの飴や、糖蜜につけた果実もある。
薄荷の飴の白さを眺めて、蓮章が微笑して手に取る。東雨への土産に、と、犀星が果実を物色する。
試飲と称し、街路で怪しげな酒が配られている。赤い花弁を浮かべた甘い酒だ。
警戒して、玲凛はこのようなものには興味を示さない。
勧められると断れない玲陽が、また一口受け取ってしまう。見た目は透き通って少量だが、かなりきつい。ぽっと頬が赤くなり、一瞬、足取りが危うくなる。そこは慣れたもので、犀星が背中からさりげなく玲陽を抱えた。
蓮章がそれを見て口笛を吹き、玲凛がコロコロと可愛く笑う。
正面から非番の暁隊の面々がこちらに気づいて、色めき立って寄ってきた。旦次を先頭に、これでもかというほどの悪人面が揃う。玲凛はにっこり笑った。
すっかりこの集団に溶け込んでいる妹を、玲陽は嬉しさと心配のないまざった目で眺める。こんなに可愛い妹は、さぞ、男たちによこしまな目で見られているのだろうと、兄として腹立たしい玲陽である。しかし、旦次が遠慮なく引き寄せたのは、玲凛ではなく、蓮章だ。
「祭りの後で飲まねぇか?」
「今日は警護で来ている」
珍しく、蓮章が真面目なことを言った。
「じゃあ警護の後で? 奢るぜ」
「飲むだけじゃ済まねぇだろう」
言いながら、蓮章はそっと旦次の耳に唇を寄せた。だが触れはしない。これが蓮章のいつもの遊びである。わかっていると見えて、暁隊の面々も揃って下卑た笑みを浮かべた。
「じゃあ俺たちは俺たちで楽しむとするか」
と、手を振って去って行く。すれ違う者たちの顔はみな明るく、晴れ渡った青空に高く笑い声がこだまする。少しホッとした顔で見送る玲陽を、さらに柔らかな表情で犀星が見つめる。
華やかな世界も色彩も、玲陽の目には本当に久しくなかったものである。何よりも隣に犀星がいるのだから、目に映る全てが美しく見える。既にこの二人の間に入る者はなく、言葉をかける者もいない。勝手にやっていてくれという、優しい放置の目が彼らを見守っていた。
半分の月が美しく南の空に見えた。いたるところで様々な曲が奏でられている。ひとつの風に乗って、協奏曲のように重なった。
通りの店を覗いて冷やかしながらゆっくり歩き、ようやく目的の街の中央にたどり着いた。犀星を迎え入れてくれる楼閣は毎年決まっている。中央の辻の舞台を上から見下ろせる、張り出しのある二階の部屋だ。
「じゃ、俺はここで」
蓮章は、役目はここまで、と門の前で足を止めた。
「部屋からあまり身を乗り出すなよ。それから、勝手に出歩くな。夜の案内の頃に迎えに来るから待っていろ」
玲陽は店に入る前、確かめるように蓮章を見た。
「蓮章様。凛どののこと、くれぐれも、本当に、絶対に、よろしくお願いします」
「よろしく、か? じゃあ、せっかくだから、花街の真髄を俺が直接……」
蓮章の冗談に、ぴりりと真剣な怒りが玲陽の顔を走る。蓮章は軽く跳ねて、玲陽の一撃をかわす。
「だから、その性格、どうにかしろ!」
「お互い様です!」
玲凛に関しては、一歩も引かない玲陽である。蓮章もさすがに辟易して、話題を放り出した。
「俺をあてにするな、凛の方が強いんだから。だいたい、俺がどうにかしようとしても、こいつが勝手に……」
蓮章が振り返ったとき、三人の目の前から、既に玲凛の姿は消えていた。
「ほら、これだ」
蓮章は肩をすくめた。背後で、玲陽の殺気が高まる。
「すぐに探さないと……」
玲陽が、自分も行こうと踏み出すが、それを犀星が引き止める。
「心配するな、陽。俺たちがうろつくと、警備を困らせる。蓮章はうまくやってくれる」
「ですが……」
「なにより、玲凛は自分で自分の身を守れる」
「わかってるなら、最初から俺の味方をしてくれよ」
蓮章の嘆きを静かに一笑に伏して、犀星はそっと玲陽の腰に腕を回した。
「では、頼んだ」
犀星は目で蓮章に後を託し、後ろ髪引かれる思いの玲陽を促して、店に上がっていった。
蓮章はふっと長く息を吐いた。
とりあえず犀星と玲陽の身は安全だ。見物客を装って店の前にたむろしていた自警団の数名が、蓮章に頷いてみせた。
問題は、と、蓮章は人混みに目を走らせた。
玲凛の桃色の華やかな装いは、普段であればよく目立つのだが、この花街の客層の中では埋もれてしまう。
どこかで騒ぎでも起こしてくれれば、すぐにわかるのだが、と物騒なことを考えつつ、とりあえず歩みだす。
彼が一人で歩いていれば、あれこれと声がかかる。知り合いは勿論、初対面、男に女。様々だが、誰もが揃って袖を引く。
だが、残念ながら今の蓮章は、完全に対象外の、しかし決して見逃してはならない相手を探している。
「あの娘、琵琶の舞台に出ると言っていたな……」
蓮章は舞台を振り返った。大勢の前で、それぞれの楼閣の代表者が技を競い合う。
今、舞台上にいるのは南側の老舗の楼閣だ。琴を弾く者が一人、笛が二人、鼓が一人。そこに歌い手が一人立ち、さらにひときわ華やかな服装の舞子が二人。それぞれに技を競うかのように、音に乗せ、風に乗せ、優雅に舞う。近くにいる客には、舞い手の香の匂いまでが漂ってくる。
観衆は舞台に群がり、酒を飲み、何かを食いながらその一時を楽しむ。楽の音と、優美な曲線の布が風に舞うさまを、誰もが無心で楽しむ時間である。
蓮章は、辻に設けられた巨大な舞台の周りを中心に、あたりを覗いて歩いた。人の間を器用に抜け、大太刀を下げた少女を探す。少しして、路地の陰でようやく目指す玲凛を見つけた。その隣に、琵琶を抱え、背中を丸めている少女がいる。
蓮章は人目を避けて、二人の後ろに近づいた。すぐに玲凛が振り返り、見てくれ、というように少女を目で示す。
少女・芙蓉は、かつて玲凛が花街で出会った女郎である。女郎と言っても、気立てと容貌が優れず、客に縁は薄く、その分、琵琶の腕前でどうにか食いついないでいた。今日も、所属する妓楼の舞い姫のために、辻舞台で演奏するはずだ。
すでに、直前の出し物は始まっており、舞台の周りには人だかりができ、思い思いに歓声が飛び交っている。
犀星と玲陽も、二人だけの部屋から、舞台の様子を見物しているはずである。
「支度はいいのか?」
蓮章は、芙蓉に声をかけた。芙蓉は蓮章をちらりと見た。その小さな目は、涙でぐっしょり濡れている。
「何があったの?」
玲凛はそっと声をかけた。
「もうすぐ、出番なんでしょう? 着替えは?」
芙蓉の格好はどう見ても、舞台に上がる着物とは思えなかった。以前会った時と変わらぬ、地味な麻の着古したものだ。
玲凛は、今、舞台上で琴を弾いている芸妓たちの姿と見比べた。舞姫が主役とはいえ、楽器を奏でる者もそれなりに華やかな服装をしている。
玲凛は口元を歪めた。
「もしかして、着物、用意してもらえなかったの?」
小さく芙蓉はうなずいた。グスッと鼻をすする。
「これじゃ、笑われる……怖くて、弾けない」
「そんなことで自信をなくす必要なんてないわ。着物で音楽の良し悪しが決まるわけじゃないんだから」
「でも、やっぱり恥ずかしい」
芙蓉は膝と琵琶を抱えた。
「妓楼の連中は、何も言わないのか?」
蓮章はわずかに苛立って問いかけた。芙蓉は首を振った。
「貸してくれる、って言われてたの。でも、さっき、墨をこぼしてしまったから、貸せなくなったって」
「それ、わざとじゃないの!」
玲凛の声が高くなる。
「ただの意地悪じゃない。そいつら、どこ? 殴ってやる」
「おい、待て、凛」
蓮章はいきり立つ玲凛を遮った。
「全く、血の気が多いのはさすが兄妹だな」
「だって、腹がたつじゃない!」
「だからって、おまえが殴りつければ、余計に芙蓉の立場が悪くなる。ここは恨みを買うと後戻りできない」
「じゃあ、どうするのよ?」
残念ながら玲凛には花街の外聞に関する機微はわからない。だが、少しでも芙蓉の為に、何かしてやりたいという気持ちだけは誰よりも強い。
「そうだ」
玲凛はふと自分の着物を見た。
「ねぇ。これでもいいの?」
芙蓉が驚いたように顔を上げた。
「その着物……?」
「うん。これ、貸してあげる」
玲凛は蓮章が止める間も無く、帯を解いて袍と裳を脱いだ。下に着込んだ薄い黄色の絹の中衣が、体の線を浮き出させ、まるで寝所に座る女郎の身なりを思わせた。蓮章の顔色が変わる。
「凛、やめろ! こんなところでそんな格好……」
「別に裸じゃないんだから、構わないでしょ」
「構う! 見られたら、俺が陽に殺される!」
「芙蓉をこのままにするよりマシよ」
思わず、蓮章は返答に詰まった。どこから悲しんで良いのかわからなかった。
「そんな上等な着物、申し訳ないです」
芙蓉は差し出された玲凛の着物から体を引いた。玲凛は、自分がどんな着物を着ているのか、よくわかってはいない。ただ玲家にいた頃から、与えられるものの中で好みのものを選んでいただけである。
しかしどれを選ぼうと、玲家の娘として与えられるその着物は、どれも相当な代物だった。価値も気にせず身にまとい、泥にまみれ川に飛び込み、土埃を浴びる。玲凛とは、そのような人間である。
幸い、今日はまだ、着物は汚れていない。
「好みじゃないかもしれなけど、我慢して」
「そういう問題じゃない、別の問題がいろいろ……」
蓮章は頭を抱えた。
一度言い出すと、玲凛は曲げない。
芙蓉も、中衣一枚に仮帯の玲凛に焦っている。
「凛さんに、そんな格好させられない」
「私こそ、あんたにそんな格好させられない」
玲凛は黙って、無理矢理彼女から琵琶を取り上げると、着物を着せた。
「帯も」
言いながら、手早く芙蓉に着付けていく。
「少し大きいけれど」
玲凛は襟元を調えようとするが、どうにもうまくいかない。
見かねて、蓮章が手を出した。
「任せろ」
「あんた、できるの?」
「脱がせる方が得意だが」
背中側に少したるみを持たせ、緩やかなひだを作る。蓮章は自分がまとっていた首の洒落布をはずすと、袍の袖をくくるようにたすき掛けし、飾りの結び目を作った。
「凛、簪と櫛」
「うん」
玲凛は、自分の髪から白玉の簪とつげの櫛を抜き、芙蓉の髪に刺した。
服装に比べて地味な芙蓉の顔を見て、玲凛は眉を歪めた。
「ごめんなさいね。化粧は知らないのよ」
言い終わらぬうちに、蓮章が自分の荷物からさっさと化粧道具を取り出し、白粉をはたいていた。
「あんた、そんなの持ち歩いてるの?」
「近衛副長の必需品だ。覚えておけ」
「絶対嘘でしょ」
手際よく、蓮章は化粧を施すと、芙蓉を立たせ、全身を軽く手直しした。
「隅に座って琵琶を弾くだけなら、どうにか形になるだろう」
「そろそろ行かなきゃ。前の曲が終わっちゃう」
二人がかりで整えてもらい、少しは落ち着いたのか、芙蓉はもう一度琵琶を抱きしめた。
「大丈夫よ」
玲凛は身軽になった格好で、ひらひらと袖を振った。薄い菜の花色の優雅な中衣の下に、白い襦袢の色が透ける。腰には不釣り合いの大太刀の紐をくくりつけた、なんとも色めかしい姿である。
「凛、おまえ、その格好で……」
蓮章の方が気を遣う。
「大丈夫。寒くないから」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題?」
「下着姿で歩くなと言ってるんだ」
「下着じゃないわ。もう一枚着てるもの」
「そういう問題では……」
「だったらどういう問題?」
答えが出そうもない。二人のやりとりを見て、思わず芙蓉がくすっと笑う。それを機に、蓮章も玲凛も黙った。
「二人とも、ありがとう。私、がんばるね」
芙蓉が精一杯の声を出し、舞台へ歩いていく。玲凛は蓮章の陰に隠れ、路地の目立たないところから芙蓉の様子を見守った。
ちょうど直前の演目が終わり、壇上で優雅な礼が済んだところだ。続いて芙蓉が所属する妓楼の番である。芙蓉は舞台の端の小さな階段を一歩一歩登って、琵琶奏者の席についた。交椅に座り調弦する。その音すらも、春風の中で美しく響く。
「まぁ、見てくれはどうにかなったか」
蓮章は、ホッと息をついた。
「顔の方は、あれが限界だ……」
「琵琶の腕前は一流よ」
玲凛が路地から身を乗り出し、蓮章に押し戻される。このような姿を衆目にさらすわけにはいかない。
観客たちがざわざわと声を立てる。楼閣に身を置く者は、皆、見目が良いと相場が決まっている。が、残念ながら芙蓉はそれには当てはまらない。それが逆に面白いらしく、あのようなもので夜が務まるのか、と、揶揄が飛ぶ。
芙蓉の耳にも、その心ない言葉が入ってくる。だが、それは今に始まったことではない。玲凛は、蓮章の後ろで、下卑たことを口走る男たちを睨みつけていた。
「イラつくわねぇ」
自然と拳が固くなる。
「文句言ってないで、黙って聞きなさいよ」
「……凛、おかしい」
蓮章が舞台の周りを見回しながら、声を低めた。
芙蓉が琵琶を奏で、琴や笛と合奏を行う。楼閣一の舞い手がそれに合わせて踊るはずであった。だが、調弦が終わっても誰も現れない。芙蓉の表情に不安と焦りと、そして色が抜けていく感があった。
「凛、絶対にここにいろ。人前に出るな」
蓮章は強めに玲凛に釘をさすと、舞台脇で薄ら笑いを浮かべていた采に近づいた。
花街を知り尽くしている蓮章である。
その男が、芙蓉の妓楼の関係者だということは一目でわかった。
「おい」
蓮章は男に声をかけた。
「次の演目だろ? もう琵琶の準備はできている。他の奏者と舞い手はどうした?」
男は蓮章を一瞥し、それからふっと笑う。
「同じ舞台に上がるのは恥なんだとさ」
男は周りに聞こえる大声で言い、客から笑い声が起きた。見ると、舞台の隅で芙蓉が体を小さくして震えている。
蓮章の隣に、案の定、じっとしていられない玲凛が駆け寄った。黄色い着衣がひらひらと舞い、それだけでまるで花街の女のような風情があった。蓮章と並んだ姿に、観客たちが冷やかしの声を上げる。玲凛は一睨みでそれを封じた。
「芙蓉のこと、とことんいじめる気なのね」
玲凛の目尻に、強い怒りが沸いた。
「いいわ。だったら私がやる」
采の男が、一瞬きょとんとする。
玲凛は、蓮章が止める間もなく、つかつかと階段を上がり、舞台の上に立った。鮮やかに艶を放つ絹の中衣がひらりと舞う。
玲凛はそっと着物の袖から右腕を抜いた。下に着込んだ白い襦袢が肌の色と相まって、柔らかく光を跳ねる。ゆるやかに着物を着崩したその姿は、客を取る女そのものだった。
周りから、下卑た声が上がる。それは感嘆であり、ため息であり、期待であり、そして一種異様な興奮だった。
十六歳の、まだ何も知らない生娘の玲凛。だが、それゆえの魅力が、確かに備わっている。
犀星たちの部屋を見上げる勇気は、蓮章にはなかった。
「凛のやつ、俺を殺す気か」
舞台の裏で、蓮章は思わずよろけて壁に背を預けた。
よりによって、歌仙親王の従兄妹、いや、あの玲陽の妹を、あられもない姿で、舞台の上に立たせ、男たちの好奇の目にさらしたとあっては、まず、少なく見積もっても八つ裂きは免れない。
蓮章の絶望をよそに、玲凛は腰に刺していた大太刀をずらりと抜いた。身の丈に合わぬ長い刀身が、白々と日の光を弾き、それ自体が輝きを発するかのように、人々の目を引きつけた。
玲凛は、小さく芙蓉を振り返って微笑んだ。
「どんな曲でもいい。あなたが好きなのをやって」
「でも……」
「大丈夫。私が舞うから」
舞う?
蓮章は耳を疑った。
玲凛が芸事に全く興味がないことは、蓮章も知っている。
覚悟を決めたのか、芙蓉が息を消し、静かに一つ目の音を鳴らした。
玲凛は舞台中央ですっと背筋を伸ばすと目を閉じ、刀を横一文字に構えた。見た目は美しい少女である。女郎も真っ青の立ち姿。だが、その手には強者とて扱いに困るほどの大太刀が、片手で軽々と構えられている。重量があるというのに、軸が震えることすらない。
見物人たちは皆、ほとんどが剣術の素人であるが、中には何人か知る者もいて、その技量に目を見張った。
芙蓉の音が、徐々に連なってゆく。その旋律は春風を巻き込み、人々の心に景色を見せた。花街の十字路の舞台ではなく、それぞれの心の中にある懐かしい故郷の景色が、鮮明に浮かび上がってくる。音のひとつひとつが思い出と結びつき、心を捉えていく。
玲凛はしばし音を聞き、そして何かを掴んだように一歩、踏み出した。音の合間に、刀が空を裂く音が鳴る。それはまるで琵琶と呼応するように、語り合うように響き渡る。震える弦の音と、風の裂ける音。
そして玲凛の一切の無駄のない美しい踏み込みと、剣舞の型。
普段荒っぽい戦い方が板についている玲凛が、このような整った型を踏めることに蓮章は驚いた。基本ができている。玲凛の傍若無人ぶりは、確固とした一沙流の型に支えられたものだった。
蓮章は自分の悲惨な運命も忘れて、しばし、玲凛の剣舞に見入った。
初めは野次や下品な笑いを振りまいていた観衆も、次第にその力量に気づいたのだろう、少しずつその声は静まり、場は琵琶と風音、玲凛の衣摺れすら聞こえる静寂に満たされる。
春風に乗って飛ぶ、可憐な蝶のように裾ははためき、光となった刀身が白い奇跡を描いて人々を魅了する。
妓楼の二階の部屋で、犀星と玲陽は、その姿を目にし、思わず湯呑みを取り落とした。
「あれって、一沙ですよね」
玲陽が震える声で言った。犀星は無表情のまま、しかしこめかみに薄く血管が浮く。犀遠が編み出した一沙流を知る者は限られる。見まごうはずはなかった。その太刀筋は一筆書きを描き、一度鞘から抜かれたなら、一瞬たりとも止まることはない。大太刀は生き物のように玲凛とともに舞台の上を躍動した。
「なぜ、凛が?」
「なぜでしょう」
二人はいつしか、しっかりと手を握っていたが、それは愛情を確かめるというよりも、互いの動揺を抑えるためだった。
観客たちからどよめきが起こる。琵琶の音は美しく、そしてそれに合わせる玲凛の舞も、非のうちようがなかった。舞踏も剣術も理解する蓮章には、ことさら、響く。
花街の祭りの舞台で、剣舞が披露されたなどという話は、前代未聞である。だが、それでも人々は徐々に喝采を上げ始めた。一人が手を叩けば、次がまた続く。
玲凛の動きが、曲に合わせ少しずつ変化していく。調子が乗ったのか、芙蓉も普段よりも激しい旋律を、余すところなく、誤ることなく、弾き切った。
曲の高まりに合わせて、玲凛は身を翻し、上に下へと刀を自在に走らせ、右手で振ったかと思えば、軽く放って左手で掴み、それを横に薙ぎ払い、さらに自分の跳躍と重ねて高く突き上げる。
それはもう、一沙流の型を越えて、玲凛なりの美しい新たな剣術であった。
「こいつ、こんなこともできるのか……」
蓮章が、ぼそりと呟いた。
「陽、あれ」
犀星が、呆然としている玲陽に、琵琶の少女を見るよう促した。
「凛が言っていたのは、あの娘か?」
玲凛の姿に混乱していた玲陽は、うろたえながら、琵琶奏者を見た。
「あれ、凛どのの着物ですよね?」
「ああ。おそらく、簪も。蓮章の肩掛けと……」
犀星は状況をある程度、状況を察した。
「陽、頼みがある」
「はい?」
玲陽は間近く犀星の横顔を見た。頬に犀星の唇が触れて甘やかに囁く。
「これは、やむにやまれぬ人助けだ。蓮章を、殴らないでやってくれ」
犀星の一言が効いたのだろう。夕方、妓楼の門の前まで迎えに来た蓮章を、玲陽はこわばった笑いを浮かべたまま、震えつつもどうにか迎え入れた。
蓮章のほうも相当な覚悟を決めていたようで、いつ首を切られてもおかしくないという絶望的な表情を浮かべ、それでも体は少しだけ玲陽から距離をとってわずかな延命を計っているように思われた。
その二人を犀星と玲凛は顔を見合わせ、安堵を交えて何度がうなずきあった。
物事がややこしくなる前に、と、犀星が先に切り出した。
「あの娘の琵琶は、相当の腕前だったな」
「そうなの! すごいんだから」
よりによって、芸事の素養が皆無の二人が揃って褒めたところで、はるかに造詣の深い玲陽と蓮章の眼差しを、より冷たくさせるだけだった。
「確かに素晴らしい腕前でした」
とりあえず、ここは流さなくては、と玲陽は平常心を保つ。先ほど見せつけられた玲凛の危うげな姿については、あえて触れずにおく。蓮章は、玲陽から三歩の距離をとりながら、
「どれほど実力があろうと、花街では、お互いに足の引っ張り合いが必定。あの娘もその犠牲者だ」
犀星がうなずいた。
「あの娘の妓楼、手を入れる必要がありそうか?」
蓮章は少し唸った。犀星が一声かければ、妓楼ごと、簡単に潰すことができる。
親王の従兄妹である玲凛の友人を辱めた罪、玲凛自身にあのようなことをさせた事実。その詫びすらなく放置している現状。素性を知れば、妓楼主が震え上がることは間違いない。
平穏が訪れれば、徐々に街の質を乱すものも現れる。今後の見せしめのために罰するのもまた、治安の維持には欠かせない。
「このまま見過ごすことはできないが、親王は関わらない方がいい」
蓮章は、首を横に振った。
「ここはわざわざ、恨みを買う必要はない。あの妓楼には、俺から言っておく」
眉間にしわを寄せ、玲凛が蓮章を睨んだ。
「何を甘いこと、言ってんのよ。ここはさっさと潰しちゃえばいいのに」
「おまえには情けがないのか?」
「それは情けって言わないの。甘さ。あの子がこれからどんな目に合うか考えてもみてよ」
「考えるのはおまえの方だ。妓楼を潰せば、無関係の者まで路頭に迷う。重要なのは、このようなことが繰り返されないよう、芙蓉の今後を確保することだ」
二人の言い合いが始まる。
「もしここであの妓楼が潰されたら、芙蓉が逆恨みされる。しかも、親王の後ろ盾がある娘を粗末にはできない。待遇に苦慮するのが目に見えている芙蓉を、他の楼閣も容易に受け入れはしない」
「あれだけの腕前があるなら、文句はないでしょう?」
「実力だけではどうにもならない世界もある。女の嫉妬や情念は、時に理不尽を押し通す力となる」
玲陽はじっと考えていた顔を上げた。
「どうにか、なりませんか? このままにしておくのは、あまりに忍びないです」
「それとも、ここでも役立たずなわけ?」
玲凛が嫌味たっぷりに蓮章を煽る。
「……きついな」
蓮章は言葉を濁した。
黙っていた犀星が、皆を見回した。
「誰もが歓迎するとは限らないだろう。特にあのように派手に振る舞ってしまっては。だが、陽も言うように彼女の腕は良い。俺もどうにかしてやりたい。蓮章、無理を承知で、頼めないだろうか」
三人は揃って犀星を見た。蒼氷の親王として、情を見せることは稀である。不器用な犀星だが、その心の中には柔らかな感情が溢れている。東雨などはよくそれを言い当てて、若様は本当は感情豊かだと言う。
犀星の表情は大きく変わりはしないが、青い瞳には人としての思いやりが宿っていた。
花街において、女同士の嫉妬の渦は避けられない。たとえ芙蓉ひとりをどうにかしたところで、こんこんと湧き出す妬みの泉を止めることは、誰にもできない。
「わかった、やれるだけはやってみよう」
蓮章がついに折れた。
「ここは歌仙親王の街だ。おまえが望む理想を追いかけて良いと思う」
玲凛は少し首をかしげて蓮章を見た。
普段の蓮章は常に軽く冗談を口にし、物事を茶化して歩く軽い男である。だが、それはあくまでも一面に過ぎない。蓮章にとって犀星は、自分の大切な花街を蘇らせてくれた恩人である。面と向かって言う事はなくても、できる限りの力を貸したいと願い続けている。
犀星に対する、忠誠にも似たまっすぐな思いが根付いているのだと、この時初めて、玲凛は思った。
これなら、兄様たちを任せて大丈夫かも。
玲凛は、ふっと笑顔になった。
「じゃあ、私、芙蓉と会う約束があるから」
「また約束ですか」
玲陽が途端に悲しそうな声を出す。玲凛の身を心配してというより、単に寂しい、という思いが出る。
「せっかく一緒に居られると思ったのですが」
目を伏せた玲陽の顔の下に玲凛は素早く潜り込み、上目遣いの、妹特有の特別な視線で見上げた。
「兄様、今夜一番、一緒にいなくてはいけない人は誰ですか」
その言葉に玲陽の頬がぱっと赤くなる。昼間、酒に酔った時よりも、危うげに目が潤む。
「陽兄様は、この世界で一番大切な人と一緒にいてください。それは私ではないはずです。だって私は、兄様の二番目ですから」
言い訳のしようのないその言葉に、玲陽は何をどう返していいか、わからぬまま、ただ困り果てて、そっと犀星の手元を見た。待っていましたとばかりに、犀星の手がすんなりと玲陽の指に絡む。そのまま、玲陽は恥じらうように下を向いてしまった。
玲凛は腰に手を当て、胸を張った。
「こうしてちゃんと着替えも済ませました。芙蓉にも、祭りを楽しめるだけの着物は用意しました。私は女同士楽しんできますから」
そこで、ちらりと蓮章を見る。
「兄様たちの邪魔、しないでよね」
「俺は親王の警護でここにいるんだ。邪魔はしないが目を離すことはできない」
「そうでした。そうでした」
玲凛は軽く明るく笑い、そして手を振る。
「今夜は安全な場所に泊まりますので」
花街に安全な場所などあるのか、と、思わず玲陽が心の中で叫んだ。それを察したように蓮章がそっと横から、
「宿についてはちゃんと手配してある。誰にも手出しさせない場所だ。安心しろ」
蓮章は悪戯めいて笑った。
「陽は余計なことは考えず、眠りたい場所で眠ればいい。まぁ、眠らないというのも一興か」
含みのある言い方に、さらに玲陽は何も言えなくなってしまう。
終始、犀星は微笑み、静かに見守る。何を言われても動揺することもなく、揺れることもない。だが、心の中は玲陽へのひたすらの情が渦巻いているのだろうと、蓮章は小さく笑いながら、いつになく穏やかな犀星を眺めた。
玲凛と別れ、三人はゆっくりと歩き始めた。
夕闇が少しずつ近づき、人々の流れが変わる。
中央の舞台には篝火が焚かれ、静かな舞と弦楽がゆったりと流れている。
人々が向かう先は大通りに並行して走る、最大の水路である。丁寧に石が積み上げられた堤に、揺れる草花。この街を流れる川といった趣だ。犀星が自然の地形に近づけて、流れを作り、川底を下げて砂利を敷いた。至るところに小さな滝を設け、蓮の咲く池も配置されている。水を割って音を響かせる岩も、風情と共に大水の流れを制御する役割を兼ねて置かれている。
堤は、ゆるやかに道へとつながり、その途中には灯籠が立てられ、生け垣には季節ごとの花が咲き、柳が長く枝の影を落とす。それらはわざと上の道から見えないよう、陰を作るように植えられている。二人きりになりたい者たちの、良い隠れ場所だ。
今夜などは特に人が多く、どこにいても人目にはつくのだが、逆に誰もが想い人のことしか見ていない。二人の世界があちらこちらに点在し、その間を冷やかしながら独り身や集団が通り抜けていく。
玲凛は芙蓉と約束したという、上流に向かった。
「上は騒がしい。俺たちは下へ行こう」
蓮章が先に立って二人を導く。
大人しく蓮章の後ろに続きながら、犀星は玲陽の手を、丁寧に握り直した。
去年まで、紅花祭に参加する際、いつも犀星と蓮章の二人きりだった。荒んでいた花街が、確実に力強く息づいていく様子は、犀星にも蓮章にも嬉しい眺めだった。
しかし、どんなに賑わう祭りを見ても、犀星にはどこか遠い世界の出来事と思われ、寂しさを感じる瞬間があったのも事実である。人々が寄り添いながら歩く姿を見ると、胸深くに悲しみと寂しさが渦巻いた。
そんな犀星が、今宵、初めて大切な人を伴って、夜の街へと踏み出した。時折、玲陽の鈴のような声と、それに答える犀星の低い弦に似た声が交差する。蓮章は背後にその優しいやりとりを聞きながら、自分には叶わない恋路を想った。
大通りに沿って流れる水路は、通称、柳川、と呼ばれている。花街らしい名前である。正式な名称はあるにはあったが、今更それを持ち出すほど、さすがの犀星も野暮ではない。人々にならって、柳川と呼ぶ。
堤の並木には、ひらひらと赤い紐がかけられ、枝とともに風にそよぐ。月は西に傾き、星がちらちらと空を飾り始めていた。
「雲がなくてよかった」
蓮章が一段明るい声で言った。
「今までで、一番良い星空かもしれないな」
つぶやくような蓮章の声は、犀星と玲陽に祝福を与えるようだった。それからふと、普段の調子に戻って玲陽を振り返り、にやりとする。
「陽にとっては、満天の星より、隣の星の方が美しいだろうがな」
「蓮章様……」
言い返すこともできず、玲陽は目をそらした。その視線の先に、柳に揺れる赤い紐が映る。
「親王、これ」
蓮章はふと立ち止まり、枝の紐を差した。
一瞬、犀星の顔に動揺が走る。蓮章は意味ありげに、
「俺は向こう向いてるからさ」
そう言って、柳の裏に回った。玲陽が不思議そうに犀星を見つめる。
「……こういうのは、苦手なのだが」
犀星はそっと手を伸ばすと、柳の枝から紐を解き、片端を玲陽の手首にゆるく結えた。玲陽は顔の前に手首を持ち上げて、夜空に透かして風に揺らぐ紐を見た。
「これは?」
「…………」
答えず、犀星は黙ったまま、突っ立っている。玲陽は察した。長く垂れた紐の反対を、犀星の手首に優しく結ぶ。
「これで、いいですか?」
カッと犀星の頬が朱に染まる。玲陽はにっこりと微笑んだ。蓮章がチラッとこちらを振り返るのが見える。視線で、玲陽に何事かを促す。玲陽は思い切って、犀星に一歩寄ると、肩を抱き寄せ、そっと頬に口付けた。
それがあまりに唐突で、息を詰めたような短い声が犀星の唇をついて出た。蓮章さえ、どきりとするような、色めいた吐息に、玲陽はの指が食い込む。
「星……」
星あかりの下、揺れる柳の枝の陰。
思わず互いを引き寄せ、視線が切なげに深く絡み合う。
「続きは宿でやってくれ」
蓮章が声を上げた。犀星が固まり、玲陽は慌てて顔を伏せた。
その時、玲陽の目の前にゆらりと何かが流れてきた。
水路の黒い水の上を、白っぽい小さな花びらが一枚、ゆらりと通り過ぎる。水の流れに乗って、右へ左へ回りながら、音もなく川下へと消えてゆく。
「花流しが始まったな」
蓮章が上流を見た。
「花流し?」
「椿の花びらを川に流す」
玲陽は水路に近づき、しゃがみ込んだ。
上流から花びらが一枚二枚。赤や白、桃色の花弁が星空を映す柳川を、小舟のように流れていく。
「あ……」
花びらには何か文字が書かれている。玲陽は、目で追いながら、川下へ見送った。
さりげなく犀星が玲陽の隣に膝をつく。
玲陽の目は、花を浮かべる川面よりも、川面を見つめる犀星の幻想的な横顔に注がれる。祭りの柳川は美しい光景だったが、それ以上に犀星を見ていたかった。
蓮章が後ろから、
「人の名前を花びらに書いて流すんだ」
玲陽は問いたげに小さく振り返った。
「何のために?」
「相手と想いを通じるために」
蓮章が言うと、やたらと色っぽく聞こえる。
「花街で誰かに恋をしても、叶うことは稀だ。愛しい相手が自分のもとに来てくれるよう、願いを込めて、その名を書く。それが花流しだ」
話を聞きながら、玲陽は次々に通り過ぎていく花びらを眺めた。
これだけたくさんの思いが募り、この街が動いている。
ここには多くの人たちの願いが溢れている。それは人恋しさだけではない。もしかするともっとたくさんの隠された願いが埋もれているのかもしれない。
そしてそれが簡単には手に入らない世界。さらには、願ってはならないとされる社会。
「人が人として生きていく上で、夢を見ることすら許されない。それがこの花街だ」
長くこの街で生きてきた蓮章の言葉は、ずしりと玲陽の胸に沈んだ。
「芙蓉のこともその一つ……」
犀星がつぶやく。
川を見つめる犀星の目は、その底まで見通すほどにまっすぐである。
「もしかして、兄様がこの街を大切にするのは……」
玲陽の言葉はそこで途切れたが、犀星は優しく目を細めた。
「おまえたちもやるか?」
蓮章が、軽く尋ねた。
「え?」
「花流しだ」
「好きな相手の名前を書いて?」
玲陽はにこっと笑った。暗くても、その笑みがあまりにも強く、透明であることがはっきりとわかる。犀星は何も言わず、川下の方へとわずかに顔を向けた。
蓮章は一瞬笑って、ふいと真顔になる。
「そうか。おまえらには必要なかったな」
玲陽は、惹きつけられるように、蓮章の横顔を見上げた。
「蓮章様には、名前を書きたい相手がいるんですか?」
暗がりのせいだろうか、思わずそんなことを大胆に問いかける。蓮章は、しばらく黙って、物思いにふけってから首を横に振った。
「今でこそ、人と人を結ぶための花流しだが、元は違うんだ。だから俺は書かない」
「違う?」
「もともと、この慣わしは女郎たちの間に自然に広がったものだ。二度とは会えない相手への思いを断ち切るためのもの」
「想いを断ち切る? それって真逆じゃないですか」
「そうだ。世の中には、そういうこともよくある。忘れたい相手、愛しくてたまらなくても、忘れねばならない相手の名を書いて流す。決別だ」
玲陽の胸に、犀星と引き裂かれた幼い日の痛みが蘇った。
頭の芯が焼けて全身に鳥肌が立つ、恐怖。
ぴくっと震えた玲陽の手を、すかさず犀星が包んだ。互いの手首に結んだ赤い紐が交わる。それを眺める蓮章の目は、どこか寂しげだ。
「蓮章様は……」
「あいつの名を書くくらいなら」
突然、蓮章の声が強くなる。
「この手で終わらせる」
玲陽は小さくため息を漏らした。
自分と犀星がこうして共にいられる中、蓮章の胸中はいかばかりか。
玲陽の心の古傷がひどく痛んだ。それを癒す犀星の温もりが、今の玲陽にはある。ただ、蓮章の想いだけは、乾いて川面を彷徨うようだ。
花びらは次々と流れてくる。
中には、途中で石につかえるものもある。それがあまりにも悲しくて、玲陽はそっと手を述べて、花びらを流れに戻してやった。
その細く、白い白い指先が、星の光に美しく光る。
犀星はそっと玲陽の背中を抱いた。玲陽は、少し遠慮がちに顔を預けた。今は、そうすることしかできなかった。
叶わぬ想いが水を彩る。
こうしていられる今が、奇跡だった。いや、その奇跡は、犀星の強い想いが引き寄せてくれたのだ。
二人の胸の内を、一体何枚の花びらが流れすぎていったことだろうか。
二度と、流しはしない。手放しはしない。
犀星と玲陽の間をつなぐ赤い紐は、決して切れることはない。
玲陽はそっと上流を見た。
いくつもの行灯が揺れて、人々が次々に名を書いている様子がわかる。
その中には、玲凛と芙蓉の姿もあった。
玲凛は目の前の薄桃色の花びらをじっと見つめ、筆を高く掲げたまま動くことができない。芙蓉は不思議そうに、玲凛を見た。険しく、困った顔している。
「好きな人、いないの?」
何事にもてきぱきと答えを出し、迷うということがない玲凛にしては珍しい。
芙蓉が小さく笑った。
「凛さんなら綺麗だから、どんな人だって振り向いてくれるよ」
「うーん……」
「思い切って書いちゃって」
促されても、玲凛の悩みは続く。
実のところ、名前を書くという行為自体が、玲凛にとっては呪術的な意味を持ってしまう。不用意なことはできなかった。当然、そんな事情を芙蓉が知るはずもない。
「決めた!」
玲凛は覚悟した。そして小筆の先を丁寧に使い、細い線で彼女らしからぬ繊細な文字を綴った。
横から芙蓉が覗き込む、そして眉を寄せ、首をかしげる。
「二歳の牡鹿? なに、これ?」
芙蓉が問う。玲陽は真面目に言った。
「次に狩りたいやつ」
思わず芙蓉が吹き出した。
「そうじゃなくて、好きな男性だよ」
「でも、牡鹿だからいいじゃない」
玲凛は真顔で言った。
「あ、三歳にしておこう。その方が角も固くなるし、肉もまだ美味しいし、使い道も増える」
玲凛は『二』の文字に一本線を足した。そしてその花びらをそっと水に浮かべる。
幸いなことに、それが川下の犀星たちの目に触れることはなかった。
「これで次の狩では間違いなく!」
屈託なく、玲凛はにこっと笑う。その横で、芙蓉も静かに筆を走らせる。玲凛は、そっと芙蓉の手元を気にした。
「見ていい?」
芙蓉は照れた顔を向け、それから小さくうなずいた。のぞいて、玲凛は首をかしげた。
「どうして、自分の名前?」
「私、これしか書けないの」
玲凛の眉がかすかに動いた。玲凛は幼い頃から周囲に字を習い、読み書きを覚えた。だが、芙蓉は違う。
琵琶の譜面は読めても、文字は読めない。そして書けない。唯一書けるのが自分の名前だけである。
「自分を大事にするってこと。本当の自分になれるってことだよ」
玲凛が明るく笑った。
芙蓉は一瞬戸惑って、それから涙ぐむように目を三日月の形にし、そしてうなずいた。
「そうだよね。私はちゃんと、私になる。もう誰のものでもなく、私になるんだ」
その言い方が、まるで必死に思われて、玲凛は一瞬戸惑った。
花びらは次々と流れ、明るい人々の笑い声が満ちていく。
空には半月が輝き、街には篝火が燃える。
花街の年に一度の紅花祭は、水辺にたくさんの思いの花を浮かべて、静かに更けていった。
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