新月の光

恵あかり

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外伝 流(不定期連載)

春爛漫

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 玲陽が都に来て、初めての春が巡ってきた。
 歌仙よりも北に位置する紅蘭の冬は厳しい。硬く引き締まった雪と氷は、土と時間を冷たく凍らせる。寒風にさらされた人々の心は、そのぶん、春の訪れに浮き立つことひとしおだった。
 冬の間、玲陽は慣れない寒さに苦しんだ。激しい心の揺れに翻弄され、生傷と古傷に苛まれ、耐え忍んだ。片時も離れず寄り添った犀星と、そばで支えてくれた友人の優しさに助けられ、春の訪れと共に徐々に回復のきざしを見せつつあった。
 玲陽は、子どものころから動き回ることが好きな性格だった。致命傷を受けた東雨に代わって力仕事を引き受け、時を見つけては犀星を相手に太刀の稽古にいそしんだ。
 東雨は、そんな玲陽の姿に励まされ、傷の悩みを抱えつつ、静かに平穏を噛み締めていた。
 だが、春が世界に色を添えても、東雨の心には、皇帝の命を受けて玲陽をたばかり続けた罪悪感が、いまだ消えずにくすぶっていたのも事実である。ともに過ごした時間の楽しさに偽りはない。それでも、思い出すたびに、後ろめたさがついてまわった。
 特に、自分を疑うことをしなかった玲陽のまごころは、東雨の胸に深い罪の意識を突き立て、痛みはうずき続けた。
 逆に、玲陽は東雨とのわだかまりを一切、記憶に留めていないようだった。東雨が置かれていた状況を知らなかったわけではない。少年が自分に向けた思いの裏に、策略の匂いがあったことに、玲陽も早くから気づいていた。
 それでも、迷い続ける東雨のやわらかな純真を信じることは、玲陽には難しいことではなかった。
 犀星の計らいは、東雨と皇帝の縁を断ち切ってくれた。守られている安心感に抱かれ、春は静かに穏やかに、東雨の心を満たしてくれた。繊細な変化に気づく季節。東雨の成長と心の安寧を、春風の優しさが後押しした。
「八穣園の東の池が、素晴らしいんです! 万彩淵ばんさいえんというんですが」
 東雨は夕餉の粥に大根の塩漬けを浸し、並んで座る犀星と玲陽を嬉しそうに見た。
「夏には、大きくて美しい色とりどりの蓮が咲くんです」
「今は時期じゃない」
 興味がなさそうに犀星が首を振る。東雨は負けじと身を乗り出した。
「それでも、水に映る新緑は綺麗ですし、何と言っても、池を巡るように植えられた枝垂れ桜は、本当に仙界にいるようで、風が吹くたびにくらくらするような美しさです」
 黙った犀星の顔を覗いて、東雨は短い溜息をついた。
「若様が、派手なのが好きじゃないのは知ってますけど」
 犀星はちら、と東雨を上目遣いに見て、
「遠い世界の絵そらごとのようで……」
「そう言って、まともに見に行ったことがないじゃないですか。いつも五亨庵に閉じこもって、みんなが楽しんでる宴には顔も出さない。だから、歌仙親王は雅を理解しない、とか言われるんです」
「騒がしさと風雅は違う」
 犀星が無表情で粥を口に運びながら、
「東雨の目当ては屋台だろう?」
「屋台?」
 玲陽が丁寧に粥を食みながら、顔を上げた。東雨はにっこりして、
「葛団子や砂糖をまぶした餅、桜と陳皮の甘いお茶、珍しい魚の乾物なども売っていて……」
「東雨どのの好きなものばかりですね」
 玲陽は嬉しそうに話す東雨を、さらに嬉しそうに眺めた。
「それでは、我慢しろという方が可哀想です」
「さすが陽様!  わかっていただけて嬉しいです」
 東雨がふっと笑う。犀星は気づかれない程度に目を細めた。
「いつも、近くを通る時に匂いだけ楽しんでいたんですが、もう、そろそろ限界で……」
 東雨は犀星を盗み見た。
「今年こそ、ぜひ、花見に行きたいです」
「目的は花ではなかろう」
 犀星は薄味の粥で満足していた。
 東雨は覚悟を決め、伝家の宝刀を抜いた。
「若様、陽様に、お見せたくないんですか」
 ぴたり、と犀星が止まる。玲陽はにっこりして、
「無理に、とは言いませんが、気になります」
「…………」
「花見もお祭りも、子供の頃以来です。それに、都と歌仙では花の種類が違っていて、初めて見るものばかり」
 玲陽の丁寧な話に、犀星は固まったまま、目を泳がせた。
「だが、あまり騒がしいのは……」
「少しだけ!  少しだけでいいんです!」
 子供じみた口調で、東雨は押した。
「都の流儀を嫌うのは若様の自由ですけど、知らないままに嫌っても、そんなの、ただの無知と変わりません」
 ここぞとばかりに、東雨は正論を並べた。
「若様はこだわりが強すぎます。歌仙のやり方を大切にするのは構いません。でも、それでご自身の見識を狭めてしまっては、もったいないです」
 言い返すこともできず、犀星は恨めしそうに東雨を見た。
「これは、兄様の負け」
 玲陽がうっすらと笑った。東雨は胸を張り、犀星は最後のあがきのように、
「都は、自分達がなんでも一番だと思っているようだが、そんなのはただの驕りだ」
 東雨が呆れた顔で、
「十年以上ここにいて、一向に染まらないなんて……若様も相当です」
「兄様らしいです」
 玲陽は気にしない口調で、
「こうと決めたら絶対に譲らない頑固なところは、昔からですから」
「陽様、よくこんな若様と一緒にいて、疲れませんね」
 思わず、玲陽は苦笑いした。犀星が頬杖をついて、
「東雨、おまえは俺と一緒で疲れていたのか」
「だって、最初の頃は何を考えているかさっぱりわからなかったし、その後はやたらと無茶ばかりするし」
「…………」
「勿論、理に合わないことをする方ではない、と知っていますから、そこは我慢してますけど」
「我慢、か……」
 変化に乏しい犀星の口角がさがった。圧する雰囲気に耐えかねて、犀星は救いを求めるように玲陽を見た。が、その玲陽も今は東雨の味方である。
「兄様、そろそろ、東雨どののご苦労に応えてあげなくては」
「別に、好きにさせているつもりだ」
 犀星が、これ以上どうしろというんだ、と困り顔を見せた。
「もちろん、若様には感謝していますよ」
 なだめ、許すように東雨は甘い声を出した。
「他の臣下に比べたら、自由にやらせてもらってます。その分、仕事となると手荒いですけど、それも、信頼してくれているのだと知っています」
「素敵な関係ですね」
 玲陽が優しくまとめた。
「そうだ、東雨どの、粟餅を食べたことはありますか?」
「いえ…… 都では見たこともありません」
「では、試しに食べてみませんか?」
「え?」
「兄様が、米の餅より好きだ、というものがどんな味か、興味はありませんか?」
「確かに……気になります」
 こういう駆け引きは、犀星にはできないものだ。
「兄様も、久しぶりに召し上がりたいでしょう?」
「……ああ」
 これまた素直に、犀星も玲陽に乗せられた。
 人を操ろうとする気持ちもないのだが、自然とまわりは乗せられ、玲陽の意見が通ってしまうのが常だった。そもそもの玲陽は、近しい人々の笑顔が何よりも嬉しい、という心根である。誰もが惹かれるのは、自然な反応であった。
 翌日、犀星が五亨庵で執務に当たっている時分、玲陽と東雨は近隣の村まで、ふらりと粟を買いに出かけた。市場で済ませることもできたが、玲陽の体力を回復させるため、散歩を兼ねて都を出た。当然、最後の最後まで、犀星は玲陽の手を放さなかった。止めはしないものの、切ない表情を隠さない玲親王に、東雨はため息をこぼした。
「若様、小さな子供じゃないんですから」
 東雨に呆れられ、仕方なく犀星は諦めた。犀星が出かけるとなれば、必然的に近衛隊が同行することになる。都の中では、数名の暁隊による警護で許されていたが、それとて、涼景の格段のはからいと、目だぬように組まれた綿密な警備体制の上で、かろうじてなりたっている自由であった。
 一歩、都を出るだけで、涼景の仕事は三倍に膨らむ。それが正式な会見や視察であれば良いが、まさか、春先の山菜を取りに行きたいから、という理由では、さすがに難しかった。警備計画を立案し、下見し、訓練し、実施するまでに、季節は変わってしまうだろう。
 身軽な玲陽と東雨は、恨めしそうな犀星を残し、都を抜けて南の城門から農村地帯へと向かった。
 あたりには、雪解けのぬかるみがまだ残っていたが、その水を含んだ土からは、明らかに春の匂いがした。
 少しでも目立たぬよう、玲陽は薄茶の襟を合わせた交領こうりょうに、土色のを着て、泥を避けるように足首の紐ををすぼめていた。髪も後ろでひとつにしばり、目だなぬよう、灰の布で覆っている。
 麻でそろえられた着物は質素で、農村のあぜ道をぶらりとしても違和感がない。
 東雨は玲陽にならって動きやすい着物をまとい、大きな竹籠を背負っていた。
 髪こそ隠さないが、農作業に向かうようないでたちである。顔には浮きたつような笑みが浮かび、農民の子と言われても違和感がない。
 玲陽は代わりに籠を背負う、と申し出たが、こればかりは東雨が譲らなかった。
 春の畦道には、若い緑が多く見られた。東雨はまだ種まき前の畑の隅を覗いた。柔らかそうな薄い緑が、日の光を弾いてきらきらと東雨を見上げていた。
「ふきのとう、ですね」
 玲陽が手を伸ばした。
「陽様、それ……」
「もしかして、東雨どのは食べたこと、ないですか?」
「はい……」
 東雨はこくんとうなずいた。玲陽はにっこりとして、
「風味があって美味しいんです。特に、塩と魚醤で焼いて刻んで粥に入れると、それだけでご馳走ですよ」
 東雨はするはずのない、香ばしい香りを感じた。
「それでは……」
 と、東雨は玲陽に籠を向けた。そっと、玲陽は籠の底に優しい緑色の野草を並べた。
 宮中育ちの東雨は、いかに質素な暮らしといえど、野草に手を出すことはなかった。犀星はそのような食べ方も知っていただろうが、食材を取りに行くのも一苦労の身である。せめて、庭の畑に頼るにとどまっていた。
 東雨はあたりを見まわした。道の脇に棘のある木を見つけ、注意深く近づいた。枝の先に、淡い緑の芽が噴き出していた。
楤木そうぼくですね」
 玲陽は懐かしそうに、
「若芽は、菜種油で揚げて塩を振ると、美味しいんですよ」
「これも食べられるんですか?」
 東雨は指先で芽をつまんだ。
「ふきのとうより苦味が弱いので、食べやすいかもしれません」
 玲陽の話を聞きながら、東雨はすでにいくつも、芽を摘んでいた。玲陽は東雨を手伝いながら、懐かしい歌仙での暮らしを思い出していた。犀星と共に山に入り、二人きりの世界で笑っていた頃。犀星が十五歳を迎えれば終わるとわかっていながら、毎日を精一杯に感じて生きていた。残された日々を数えず、一瞬の笑顔を、乞うように求めていた少年時代。
 ふと、ぼんやりしていた玲陽の足元で、もぞもぞと東雨が動いた。
「陽様、これは?」
 東雨は、草の間から、たくましく伸びていた茎を差した。玲陽の顔がぱっと明るくなった。
「それはかいです。食べるには少し辛みが強いですが、体の流れをよくする効能が高いです。食材より薬草という感じでしょうか」
「食べられないんですか?」
 残念そうな東雨に、玲陽は優しく、
「試してみますか?  刻んで羹にできますし、粟粉で練って蒸し物にすれば、団子にすることもできますよ」
 東雨の目がきらきらと期待に輝く。玲陽は、次々と東雨に山菜を教え、調理法を説明した。物覚えのいい東雨はすぐにそれを身に着けた。
 一度覚えると、東雨の行動は早かった。ゆっくりと歩く玲陽を前後しながら、あれこれと、食べごろの山菜を集めてまわる。
 玲陽はその様子を眺め、さも嬉しそうに目を細めた。
 膳に出された山菜を見て、犀星はどんな顔をするだろうと、東雨は想像し、にんまりと笑った。いつしか、傷の痛みも遠のいて、楽しいことに心が向いていた。胸の中から消えてくれなかった罪悪感が、玲陽の穏やかな笑顔とともに、溶けていくように思われた。
「俺、陽様と一緒に来られて、よかったです」
 土手の草に座って一休みしながら、東雨は言った。玲陽が気持ち良さげに春風に髪を解く姿に見惚れていると、全てが悪い夢だったような気がしてくる。
「私も、東雨どのが元気になってくれて、本当によかったです」
 ぼんやりしていた東雨を、玲陽は優しく見た。
「疲れましたか?」
「い、いえ! 陽様よりは体力、ありますから!」
「そうですね」
 玲陽はうなずいた。
「私も、東雨どのに負けないように、取り戻さなくては」
「陽様は、剣術、お強いんですよね?」
 玲陽は苦笑した。
「昔のことです」
 遠くに目を向けて、玲陽は息を吐いた。
「あの頃、どうしても兄様に負けたくなくて、必死でした。強く、なりたかった」
「陽様は、優しい印象があります」
 東雨は素直に、
「若様は涼景を相手によく稽古してたので、違和感はないのですけど、陽様は刀よりも琴とか料理とか、そういう繊細なことが得意な気がして……」
「最近は、すっかり力を使うことから、遠のいていましたから」
 玲陽は笑って、
「でも、私だって兄様に負けるつもりはありませんよ。絶対、取り戻して見せますから」
「強気な陽様、珍しいです」
 東雨もつられて笑い、ふと、犀星の言葉を思い出した。
「そういえば、陽様は勝気で負けず嫌いだって、前に若様がおっしゃってました」
「負けたくないのは、兄様にだけ、です」
 玲陽は肩をすくめ、それから、膝を抱えた。
「私たち、おしまいがわかっていたんです」
「おしまい?」
「はい。どんなに一緒にいたいと願っても…… 兄様は、親王として都に行くことが決まっていました。私も一緒に行きたかったですけれど、玲家の事情や、都での安全面から、それは難しいと、だんだんわかってきて……」
 東雨は、黒々とした畑の向こうへ目を向けた。
「だから、余計に必死だったんです。私が強くなれば、もしかしたら、ついていけるかもしれない。そんなことを思って……」
「陽様……」
 東雨は、都にきてからの犀星を思い出した。
「若様も、同じでした。陽様を呼ぶんだって、必死になって……」
 東雨はそれ以上、言葉が続かなかったが、思いはしっかりと玲陽に伝わっていた。
「あの、陽様?」
 穏やかに、玲陽は振り返った。東雨は気まずそうに鼻の頭をこすった。
「その……嫌じゃないんですか? 俺なんかと二人で……」
 恐る恐る、東雨は尋ねた。
「俺は酷いことをしたんです。陽様のこと、騙すような真似をして。若様にも……涼景にも、たくさんの人たちに、嫌な思いをさせた……」
「…………」
「俺、楽しかった。陽様と一緒に料理をして、琴を聞かせてもらって、次の季節の約束をして……その気持ちは本当です。でも、悪いことをしたのも、本当です」
 声に詰まった東雨に、玲陽は表情を緩めた。
「兄様は、一度でも、あなたを責めましたか?」
 問われて、東雨は黙った。
「兄様も、涼景様も、一度でも、あなたを見捨てようとしましたか?」
「……いえ」
「私も同じです」
 玲陽はそう言って、輝く瞳に東雨を映した。
「あなたが思っているほど、私たちは薄情ではないつもりです」
「あ……」
 ぽろり、と東雨の目から涙がこぼれた。
 玲陽はそっと東雨の泣き顔を抱き寄せ、自らの袖を押し当てた。
「陽様……俺……」
「怖がらなくていいんです」
 玲陽には珍しく、自分から強く東雨を抱き締めると、そっと耳元で囁いた。
「もう、あなたは一人ではないのだから」
 慰めようとした玲陽だったが、それが逆に東雨の号泣を誘ってしまった。
 やれやれ、とその背を優しく叩いてあやしながら、玲陽はふと、子供の時の記憶を蘇らせた。
 犀星もよく、こうして自分の胸で泣いていた。
 私は泣き虫を引き寄せてしまうのだろうか。
 そんなことを思いながら、東雨をなだめつつ、自然と笑みが浮かんだ。
 もう、数えなくていい。
 不意に、玲陽は思った。
 残り少なくなっていく日々に怯え、犀星が泣くことはもう、ないのだ。
 これから先、いつか終わる日が来たとしても、それは数えることなく過ぎる日々の向こう側である。
 おしまいは、もう、ない。
 未来を断絶していた壁は消え、細い道が遠く、かすむほど先まで伸びているように、玲陽には思われた。
 犀星と、東雨と、共に歩けたら、それは何より優しい時間となるだろう。
 しゃくりあげる東雨の背中を撫でながら、玲陽は微笑んで目を閉じていた。

 玲陽と東雨が屋敷へと戻った頃には、すでに夕闇が近づいていた。裏口に近づいた玲陽は、懐かしい匂いに気がついた。
 厨房を覗くと、先に帰っていた犀星が、一人、静かにかまどのそばにいた。
 東雨が山菜や粟の袋を食材庫に収めている間、玲陽はそっと、犀星の手元を覗き込んだ。丁寧に下ごしらえしているものを見て、その表情がぱっと明るくなった。
「七草粥!」
 玲陽の歓喜の声に、犀星は満面に笑みを浮かべた。色鮮やかな旬の草が、砧の上に並んでいた。
「どうにか、宮中で見つけたんだ」
「嬉しい!」
 手を叩いて目を輝かせる玲陽を、犀星は眩しい笑みを浮かべて見つめた。
 東雨が振り返って、
「俺たちも、山菜を摘んできたんです。すごく楽しくて」
「東雨どのがたくさん頑張ってくれました。今夜あく抜きして、明日のご馳走にしましょう。せっかくなら、涼景様にも」
「涼景……」
 東雨は一瞬、緊張で笑みが凍りついた。
「……まぁ、陽様がそうしたいなら……」
 東雨は微妙な表情で、壁に掛けられた、涼景の無賃飲食の表を眺めた。
「陽の好きにするといい」
 すっかり玲陽の笑顔に心を奪われて、犀星は緩んだ表情のまま、粥をかき回した。よほど嬉しかったのか、玲陽は後ろから、犀星の体を抱きしめた。
 視界の隅で見ていた東雨が、少し、寂しそうな表情になるが、それも一瞬のことだった。この二人が平穏でいられることがどれほど得がたく、価値があるか。東雨は誰よりも知っていた。
「では、明日、弁当にして、五亨庵で食べましょう!」
 東雨は二人に提案した。
「八穣園じゃなくていいのか?」
 意外そうに、犀星が訊く。東雨はどこか照れて、
「いいんです。だって、五亨庵の庭も素晴らしいし、何より、お二人が落ち着ける場所じゃないですか」
 犀星と玲陽は顔を見合わせた。
「若様がおっしゃるように、花見にはまだ少し早いです。それに、若様がお出かけになると、近衛の人たちがたくさんついてきちゃいますし、そうなったら、若様も陽様もゆっくりできないでしょうし……」
「東雨……」
「五亨庵なら、その……涼景も呼べますし」
 犀星は手を止めると、微笑んで東雨を見た。
「感謝する」
 首を傾げる東雨を見て、犀星と玲陽は揃って笑った。
 夜の膳は、いつになく、会話が弾んだ。と言っても、東雨の話が多いのはいつもと変わらない。だが、それを聞く犀星の表情は、普段よりも柔らかく、相槌も多かった。玲陽は二人を幸せそうに眺めては、時々、涙ぐむような仕草で目に袖を当てた。
 夕餉を終え、自室で、木簡に目を通していた犀星は、ふと、窓から差し込む月光が揺れて、小さな囁き声を聞いた気がした。
 顔を上げると、一人分の幅に開いた板戸から、青白い中庭が見えた。
 満月の光に濡れ、昼間とは違った色合いを見せる花々、その奥に、若い蝋梅も枝を静かに掲げていた。犀星が好きなことを知って、歌仙から苗木を取り寄せ、涼景が植えてくれたものだった。
 庭の隅に置かれた石造りの簡素な長榻に、こちらに背を向けて、玲陽が座っていた。犀星が残り仕事で読み書きをするとき、玲陽は決まって席を外すようになっていた。寄り添えば、犀星の気がそれることを、玲陽はちゃんと承知していた。
 犀星はしばらく頬杖をついて、玲陽の後ろ姿を見つめていた。
 金色の髪が、月光を受けて光を放つように煌めく。
 自分よりも一回り細い身体、わずかに低い背丈、けれど、そのしなやかな動きは、体が回復するとともに、確実に戻ってきている。
 もともと、自分以上に剣術の腕が立ち、犀遠も認める資質が玲陽にはあった。体を鍛え、研鑽を積むべき時期を、玲陽は奪われた。犀星の優位は、それだけの差である。
 幼い日、共に刀を交えて鍛錬に励んだのは、国を守り、故郷を守る、そんな未来のためであった。十年前に別れてしまった道が再び重なり、こうして同じ未来を描けることに、犀星はつい涙腺が緩む。
 必ず、守る。
 そう、誓う想いに偽りはない。
 だが、それは同時に、共に生きることを、意味するようになっていた。
 どちらかがどちらかを守れるほど、自分達は強くはない。
 弱さを補ってこそ、共に生きる時間が得られるのだと、経験がふたりを導いてくれた。
 季節が移ろうように、玲陽との時間も、同じ一瞬は二度と来ない。
 風が吹き、雲が月明かりを弱めたとき、犀星はすでに体が動いていた。部屋を出ると、庭へと降り立つ。
 わずかに甘く湿った夜の空気が、着物の合わせから肌に忍んで来た。
「春の月って、どうしてこんなに白いのでしょう?」
 犀星が近づいたことを察した玲陽が、振り返りもせずに囁いた。
「まるで、溶けて消えてしまう、雪のよう……」
 犀星は隣りに座ると、後ろから右腕を玲陽の肩にかけた。左腕を前に回して、玲陽の胸の前で指を組み、ぴたりと体を寄せて抱きしめる。
 玲陽がその腕に首をもたせかけ、犀星はあらわになった首筋に顔を埋めた。
 玲陽の肌は薄く、まさに春の月のごとく、きめ細やかだった。
 顔を見れば、思わず唇を重ねたくなる衝動に駆られる。それを殺すように、いつしか体を絡めて抱き合うようになっていた。
 玲陽はそっと、自分の胸にあてがわれた犀星の手を、両手で包んだ。まるで、壊れやすい花弁を抱くかのように優しかった。
 犀星は、低く口ずさんだ。



花時已到人  
吾身獨失春  
君去櫻華在  
宛如隔世塵

花の時 すでに人に到れど、
われが身 独り春を失う。
君去りて 桜華《おうか》り、
さながら世をへだつ塵のごとし。
(伯華)



 玲陽の手から、犀星の心が伝わってくる。
 離れていた年月の空白は、玲陽の心にも夢のように影を落としていた。
「星」
 玲陽は答えて、


花時正滿庭  
吾目不知春  
所見唯君影  
君眸亦是身

花の時 まさに庭に満つれど、
われが目 春を知らず。
見るところ ただ君が影のみ、
君がひとみにも またれ我が身。



 犀星は強く、玲陽を抱き締めた。
 春の夜は、美しく、更けてゆく。
 白い月の光。玲陽の髪を春風が梳かし、その甘い香りを犀星は胸に深く吸い込んだ。
 と、その吸気の最後に、一瞬、つん、と鼻を刺激する匂いが混じった。
 玲陽も、異変に気づいたらしく、心地よさげに閉じていた目をうすく開いた。
 二人の間に、無言の、しかし、確かな緊張感が走る。
 血の匂い。
 いや、臓物の匂いか。
 こんな時間帯に、どこから漂ってきたのか。
 悲鳴も聞こえなかった。それらしい物音もしなかった。その匂いだけが、突然、流れてきた。
「陽」
 犀星は、甘えた声で呼んだ。
「はい」
 玲陽の返事にも、柔らかい響きがあった。
 短いやり取りは、暗黙の了解だった。
 犀星は、視線を流して背後を探った。
 玲陽は、犀星とは反対側の庭の暗がりに目を凝らした。
 気配はない。風が流れ、再び、今度は十分な割合を持って、その匂いが吹き付けてくる。
「風上」
 犀星が呟いた。言いながら、玲陽の首筋に唇を這わせる。
 疼くように鼻を鳴らして、玲陽が答えた。
「兄様……灯りを消して……虫が飛び込んでしまいます」
 月明かりしかない庭である。消さねばならない灯りなどない。
「優しいな、おまえは……」
 二人の会話は警告だった。
 犀星が着物の上から玲陽の体をまさぐった。そっと手を下ろし、玲陽の帯に結えてある刀の鍔を音を立てずに押し上げた。
 犀星の手を追って、玲陽が刀の柄に触れた瞬間、黒い影が二人の視界の隅を横切った。
 庭に放置していた去年の枯葉が、ガサリと音を立てた。
 空気を切り裂き、刀が振り下ろされた。二人はすでに、そこにはいなかった。一太刀の間合いに入らぬよう、距離を取って左右に飛び退き、影を見据えて構えていた。
「何者?」
 玲陽が声を張った。
「玲親王と知っての狼藉ですか!」
 布で顔の下半分を隠した男が、無言で犀星に飛びかかった。
 玲陽の動きは素早かった。一息に間合いを詰め、男の背後から刀を閃かせた。春の月が一瞬赤く染まる。
 犀星の目の前で、侵入者の男は刀を取り落とし、膝をついた。背中に負わされた傷は的確に急所を断ち、腕が上がらなくなっていた。
「兄様、不用心にも程があります。太刀も持たず、夜の庭に出てきたんですか?」
 玲陽は、慣れた動きで刀の血を払った。
「陽が持っていたから、大丈夫だと思った」
 犀星は、真顔で答え、男の刀を蹴って退けた。襟首を掴んで引き立たせ、顔を覆っていた布を剥ぎ取ると、口の中に詰め込む。舌を噛みきれないよう、先手を打つ。
 その間に、玲陽が男の腕を後ろに捻り、帯で縛った。
「足の筋を切られたくなければ、大人しくしていろ」
 犀星は男の髪紐を解いて、布を吐き出させぬよう、轡をかけた。
「どこの手合いですか?」
「俺の知り合いじゃない」
 犀星はじっと、男の顔を見て言った。
「だが、相当だな。体から血の匂いがする」
「偶然の盗人、というわけではないですね……」
「おそらく……」
 刺客。
 過去にも、犀星が命を狙われたことは幾度かあった。玲陽が都へ来る前の話である。
 と、裏門の方から、こちらへ、駆け込んでくる足音がした。
 犀星は長くため息をつくと、首を振った。
「随分と客の多い夜だ」
「親王! 無事か!」
「こちらだ」
 聞き覚えのある声を、犀星は自ら呼び寄せた。姿を見せたのは、蓮章だ。
「殺してないだろうな!」
 蓮章の鋭い目が犀星と男を見比べた。
「それは、どっちに言っている?」
 犀星は、蓮章の前に男を放り出した。
「どっちも、だ」
 状況を把握して、蓮章は
 蓮章は珍しく地味な格好だった。濃茶の着物に、音が立たない軽装の皮の鎧を身につけていた。明らかに、夜に動く出立ちだ。
「涼景様は?」
 玲陽が蓮章の後ろを見た。
「いや、俺一人だ」
 蓮章は首を振った。悔しげに自分を見上げている男を見て、苦笑を漏らした。
「陽が優しくてよかったな。俺だったら、あと一寸、深く斬っている」
 犀星が首を傾げた。
「蓮章、知り合いか?」
「こいつの身柄、預からせてもらう。何も言わずに引き渡してくれ」
「そうはいきません」
 玲陽が、刀を手にしたまま、蓮章を睨みつけた。
 その眼差しには、明らかな殺気がある。さしもの蓮章も、怒りを抱えた玲陽には弱い。
「兄様に手出しする者を、私が許すとお思いか?」
 蓮章は助けを求めるように犀星を見た。
 だが、犀星も真顔のまま、見返すだけだ。その感情の読み取れない静かな目は、玲陽と再会する前を思い出させた。
「仕方ないな」
 蓮章は男を見下ろした。
 男が激しく首を振った。
 刀を抜こうとした蓮章の手を、犀星が抑えた。
「この者は生かす」
「親王? だが……」
「私が見逃さないと言ったのは、あなたも同じですよ、蓮章様」
 玲陽は、感情の無い声で言いながら、蓮章を見据えていた。
「ここで口封じなんて、させません。そうでなければ、最初から私が殺しています」
「……だ、そうだ」
 犀星が蓮章の手を放す。
 ただ、握られていただけだというのに、蓮章の手首には犀星の手の跡がくっきりと残っている。
 舌打ちすると、蓮章は身体の緊張を緩めた。
「わかった! わかったから、二人とも、そう、角を立てるな」
「…………」
 二人の意思に逆らってまで場を収めることは、蓮章には荷が重い。
「知っていることを、全て、話していただきましょうか?」
 玲陽の視線は、並の刺客よりも凄みがあった。
 蓮章はどうにか苦笑して、
「それ、こいつと俺、どっちに言っている?」
「両方に、です」
 金色の目は本気だった。ひとたび火が付くと、玲陽を止められる者はいない。蓮章は肩をすくめた。

 夜中に起こされ、空き部屋に横たえられた血だらけの男に引き合わされて、東雨はたまらず悲鳴を上げた。血や怪我を見るのが何より恐ろしい東雨には、とんだ災難だった。
 そればかりか、すっかり油断して犀星の護衛を果たせなかったという失態が、余計に東雨を憂鬱にさせた。真っ青になっている東雨に、玲陽は微笑した。
「夜更けに、申し訳ありません。傷の手当を手伝っていただけますか?」
「はい……」
 これ以上、役立たずになってたまるものか、と、東雨は精一杯に顔を上げたが、すっかり腰が引けていた。
 男の傷を洗い、丁寧に薬草を当て、布を巻く。治療に当たる玲陽と東雨を横目に見ながら、蓮章はどこか、所在なさげだった。
「斬ったり、手当したり、忙しいな」
「こんなことになるなら、峰打ちにしておくんでした」
 蓮章にはにこりともせず、玲陽は言った。
「事情を」
 ぽつりと呟く犀星も、明らかに不機嫌だ。まるで、玲陽を得る前の歌仙親王に戻ったようである。
 犀星は真顔で蓮章と真正面から対峙していた。こちらが言葉をためらうほどに、蒼い目には逃げ場のない光が宿っていた。
「納得できるように」
 犀星はもう一言、追い詰めた。連章は余裕の笑みも消え失せ、横を向いた。
「…… 納得してもらえるかはわからないが、俺が知っている限りのことでよければ」
 蓮章は観念した。
「こいつは、易永えきえい。宮中を跋扈する汚れ役の下っ端だ」
「そんな人が、兄さまを狙ったと?」
 止血の布を結びながら、玲陽は顔を上げず、
「随分、軽く見られたものですね」
「事情があるんだ」
 いつになく覇気のない声で蓮章は言った。
「こいつは、半年前に拾われた新参だ。先日、四度目に縄をかけたとき、足抜けしたいと言ってきたんだ」
「四度って……」
 東雨は思わず手を止め、悲しそうに呟いた。
「いくら何でも、捕まりすぎでしょう?」
 蓮章もため息を漏らした。
「腕が悪いわけじゃない。ただ、損な役回りばかり押し付けられ、いいように捨て駒にされていたんだろう」
 蓮章の表情には、うっすらと憐憫すら見られた。
「大方、上の連中に、親王を消したら抜けさせてやる、とでも吹き込まれたんだろうよ」
 蓮章は腕を組んで、
「ここへ送り込めばどうなるかは知れている。暁も涼景もいる。第一、親王自身が剣術の使い手だ」
「何度も捉えられ、顔も覚えられて役に立たなくなった厄介者を、兄様に始末させようとしたってわけですか……」
 玲陽が、薬湯を湯で溶きながら、撫然として言った。
 易永は轡を噛んで苦しそうに頷いた。
「あの……蓮章様は、どうして何度も助けたんです?」
 恐る恐る、東雨が尋ねた。
「四回も捕まえたのに、四回も逃した、ってことですよね?」
 蓮章は声を沈めた。
「言っただろう? 奴らの尻拭いをさせられただけだと。第一、こいつひとり処分しても意味がない。この手のやからはいくらでも湧いてくる」
「答えになっていないな」
 犀星が、小さく呟いた。
 ああ、と、蓮章は諦めて首を振った。
「わかっている。俺が甘いって言いたいんだろ?  そう責めるな」
「どんな人であれ、どんな事情があれ」
 玲陽が、チラリと、蓮章を見た。
「もし、兄様に傷でもつけたら……」
 強烈な視線を感じ、蓮章は玲陽から顔を背けた。それはある意味、生きるための正常な反応だったのかもしれない。
 そばにいる無関係の東雨でさえ、玲陽の気迫に完全に圧倒されていた。涼景や蓮章とは違う意味で、玲陽もまた、修羅場をくぐってきている。秘めた凄みは、常人とは一線を画していた。こうなると、玲陽に容赦はなかった。
「蓮章様が情けで逃したりするから、この人は兄様を狙う羽目になりました。私も、見たくもない血を見なければなりません。この人も、必要ない怪我を負うことに……全部、蓮章様の判断の甘さからです」
 蓮章は逃げるように姿勢をずらした。
 逆鱗に触れる、とは、まさにこのことだった。
 恐れるべきは、宝順よりも、玲陽の方だ。
 そんな主人たちを見ながら、東雨は内心、複雑だった。
 自分とて、犀星の身に何かあれば、怒りに狂うだろうが、玲陽は我を見失っている訳ではない。ただ、本当に怒らせてはならない人、というのは、いるのだ。しかも、すぐそばに。
 犀星は微動だにせず、蓮章を見つめ、
「それで、これから、どうするつもりだ?」
「どうするって……」
 蓮章は、犀星の感情の見えない顔の方が、玲陽の燃える眼差しよりは遥かにマシだと思いながら、
 蓮章が蚊の泣くような声で、
「始末は俺がつける。どうせ逃しても、連中に消されるのを待つだけのこと。どちらにせよ、先はない」
「待ってください」
 有無を言わさない玲陽の声が遮った。
「助けてください」
「え?」
 蓮章は驚いて玲陽を振り返った。怒りは残っているものの、わずかにその波は引いていた。
「せっかく手当したのに、それも無駄にする気ですか?」
「いや、だが……」
「私が殺さないと選択したのです。生かして下さい」
 ぴしゃりと叩きつけるような、玲陽の声が命じた。蓮章は顔を歪めた。
「無茶を言うな。親王を狙ったとなれば、いくら俺でも庇いきれない……」
「俺が許すと言ってもか?」
 今度は、犀星が割って入った。
「一度は助けたのだろう? ならば、最後まで責任を持て」
 蓮章は黙った。順に二人を見て、最後に東雨にまで顔を向けた。東雨は、諦めてください、と言わんばかりに肩をすくめた。
 無理と無茶は、犀星と玲陽の常套手段である。
 どうしてこうなった?
 蓮章は頭を抱えた。恨めしげに易永を見たが、こちらもこちらで困り果てた顔である。
 蓮章は観念した。
「次に暁隊が都の夜番になるまで待て。夜のうちに都を逃す……俺にできるのはそこまでだ」
「あの……」
 東雨が、遠慮がちに口を挟んだ。
「そ、その……無事に都を出たとして、その後、逃げ切れるものなんでしょうか? 俺、色々脅され……聞かされてきましたけど、成功した話は聞いたことがないです。いつも連れ戻されて酷い目にあうって……」
「ああ……」
 蓮章は口元を手で覆った。
「まぁ、失敗することは確かにある」
「それじゃ……」
 東雨は、我がことのように震えた。
「東雨が言うように、十中八九、連れ戻される」
「それがわかっていて……」
 玲陽は、治療を終えて、血で染まった手を桶の水で洗いながら、
「生かしてやる、ですか。そんな曖昧な約束、残酷です。希望など、一層、無い方がいい」
 フッと、玲陽の気持ちが沈み込んだのを感じて、犀星が唐突に立ち上がった。
「蓮章、とりあえず、こいつは預かる。次の暁の都番はいつだ?」
「二日後だが……」
「では、その夜、迎えにきてくれ。それまで、易永はここで保護する。暁隊にも伝えろ」
「……伝えるって、これは俺の一存でやってることで、立場上……」
「やれ」
 短く、王令が降った。
 蓮章は大げさにため息をつき、首を振った。
 身から出た錆、自業自得だった。
「わかった。だが、おまえたちも気をつけろ。易永を消しに来る奴らがいるかもしれない。甘く見るな」
 蓮章は言い残して部屋を出ようとし、何かを感じて、玲陽を振り返った。
 自分の腕を抱いて俯いている玲陽には、もう、殺気はなかった。だが、代わりに痛いほどの悲しみが溢れていた。
 蓮章は見送りもないまま、屋敷の門を出た。見上げれば、先ほどよりわずかに西に傾いた月。思わず、全身からどっと汗が噴き出した。今になって、身体が震えてくる。
 何もかも、玲陽の言う通りだった。だが、自分にはその道を選ぶことしかできない。現実の激しい矛盾と向き合うしかない。
 本当に、勘弁してくれ……
 吐き気と眩暈を感じて、蓮章は門の柱に沿って、ずるずるとしゃがみ込んだ。
 心臓が破れるように脈を打つのに、身体中が冷たい。
 罪人ならばすべてを裁く。
 それが、昔の蓮章だった。
 冷徹になりきれなくなったのは、あの時からだ。
 三年前、千義との戦で前線に出た。
 初めて、戦場の凄惨さを目の当たりにした時、確かに、蓮章は心が裏返ったのだ。
 それは、正義を見失った瞬間でもあった。命を慈しんだ瞬間でもあった。
 暁隊と右近衛の権威をまとい、その懐の中で刺し殺す覚悟が決まらない。
 呼吸を整え、蓮章はゆっくりと立ち上がった。
 と、突然に、痺れた肩に、暖かなものが触れた。
 背後に立たれた?
 蓮章は振り返りもせずに、自嘲した。
 これで、暁将軍の片腕とは、あまりに不甲斐ない。
「蓮章様」
 その声に、蓮章の身体がさらに強張った。
「……陽?」
 掠れた声で、蓮章は呼び、振り返った。
 白い顔で、月の下に玲陽は立っていた。その目は見るべき場所を失ったように揺れていた。
「すみません。先ほどは、言い過ぎました……」
 玲陽の声からは、怒りが過ぎ去理、深い悲しみが満ちていた。
「私は……未熟です。自分の辛さを、あなたにぶつけてしまいました」
「……どういう意味だ?」
「私も、同じ夢を見せられていたから……」
 玲陽は、堪えきれない、というように、月を見上げた。
「でもね、蓮章様。私に希望をくれた人は、私を助けてくれたんです。本当に、助けに来てくれた……」
「…………」
「だから、お願いです。易永様を、どうか、救って下さい。裏切りしか知らないままにしないでください……そんな魂はもう、増やしたくない」
「……約束はできない」
 苦しくとも正直な蓮章の声が、しっとりと夜風に溶け、玲陽の心に届いた。
「俺には、親王のような覚悟はない」
 玲陽は、わずかに微笑んだらしかった。
「当然です。兄様には誰もかなわない。けれど、せめて精一杯のことを。それが、一度でも助けようとした相手に対する誠意です」
「……わかった」
 蓮章もまた、薄氷の笑みを浮かべた。
「すまなかった」
「いえ……」
 玲陽は、一度、瞼を伏せ、それから改めて蓮章を見つめた。
「ありがとうございました」
 蓮章は首を傾げた。玲陽の、気まずそうな顔が、月明かりに美しかった。
「大切な気持ちを、思い出させてくれました。ですから……ありがとうございました」
 視線が合う。玲陽の目は、先ほどまでとは、別人のように穏やかだ。
 蓮章は皮肉めいた笑みを浮かべることもなく、ただ、真剣な目で玲陽を見返した。 命の重み、救うことの責任。見せてしまった希望。
 自分のしたことの重さを、改めて、玲陽の目に教えられた気がした。
 信じること、信じられることを知った玲陽の心の深淵。自分などには想像もつかないほど、深く澄んだその場所に踏み込むことが許されるのは、犀星だけだ。
 自分は、力を尽くすのみである。せめて、玲陽が、友と認めてくれるほどに。
「二日後、迎えにくる」
「はい」
 蓮章は、自分の動揺を封印するかのように、玲陽に背中を向けた。
 すぐに闇に溶けて、その姿は見えなくなった。玲陽は苦しそうに胸を抑えた。
 今、この瞬間は、決して容易く手に入れたものではない。
 一瞬でも、あなたのそばで……
 玲陽は何かに急かされたように、屋敷へと駆け戻った。

 これを災難と呼ぶか、幸いと呼ぶか、それは人それぞれだった。
 東雨にとっては前者であり、犀星と玲陽にとっては後者とも言えた。
 易永の身を引き受けた犀星と玲陽は、東雨とともに介抱に全力を注いだ。体の傷だけではない。その打ちのめされた心を少しでも慰めようと、彼らはわずかな配慮も怠らなかった。
 蓮章が迎えに来るまでの二日間。それはもしかすると、易永にとって人生の最後の時間になるかもしれない。
 たとえどれほど蓮章が力を尽くしたところで、足抜けは決して簡単なことではない。客観的に見て、それがどれほど困難であるか、絶望的であるか、その証拠ばかりが目についてしまう。
「易永様、傷の具合はいかがですか?」
 玲陽は、易永にあてがった部屋にそっと足を踏み入れた。
 その手には暖かな薬湯を入れた椀と、粥を乗せた盆が大切そうに捧げられている。
「私たちの故郷に伝わる、この季節の山菜を使った粥なんです。お口に合うか分かりませんが……」
 玲陽は笑みを浮かべ、そっと怪我人の枕元の台に盆を乗せた。牀にうつ伏せ、起き上がることができないまま、彼はうずく痛みに目元を曇らせながら、それでもじっと玲陽の顔を見つめ続けた。
 玲陽のほうは、反対に彼の顔をまともに見られない。
 当然の防衛とはいえ、自分が傷つけた事実。後悔は無いが、胸は痛んだ。
 易永の置かれた状況を知れば、そこにはおのずと、心を寄せる余地があった。玲陽は自分から易永の世話を買って出た。
 玲陽はそっと、彼の枕元に交椅を寄せて座った。
 背中の傷を庇ってうつ伏せる易永は、玲陽には、自分の姿とも重なって思えた。一匙、粥を丁寧に掬い、口元に近づける。
 恐る恐る、易永は口を開いた。
 顎を動かすだけで、背中の傷は痛むに違いなかった。玲陽は焦らず、易永の嚥下に合わせた。続けて、冷ました薬湯も、舌を湿らせるように与えた。苦味を消す小さな砂糖菓子を、最後に添えた。
 その様子は、幼子を介抱する親のようである。
「易永様、申し訳ありませんでした」
 玲陽は、何度目かの詫びを入れた。易永は、決して玲陽を責める事はしなかった。易永なりに、玲陽の思いがいかばかりかを、ちゃんと理解していた。
「あなたは悪くない」
 易永はか細い声で言った。
「粥、美味しかった」
 易永は涙ぐみながら、
「お国は南陵郡だとか?」
「はい。兄様……歌仙様も、私も、歌仙です」
 玲陽は、透き通るように微笑んだ。それから、どきりとして、
「……私、名を名乗っていませんでした……犀光理と申します」
 易永は、静かに、
「存じている。承親悌と」
 はにかんだ玲陽は、自分を斬った人間とはまるで別人だ。
 易永は完全に、玲陽に惹きつけられていた。自覚はないが、それは玲陽の隠しようのない生まれ持った資質だった。
「易永様。もしよかったら話を聞かせてもらえませんか?」
 玲陽は決して、興味本位で言ったのではなかった。
 力になりたかった。
 と、部屋の扉が軽く叩かれた。
 易永を放っておけないのか、それとも玲陽と離れていられないのか、犀星が顔を覗かせた。犀星を素直に迎え入れて、玲陽はもう一つ、交椅を引き寄せた。
 宮中の権力者にとって、犀星は確固たる後ろ盾もない親王である。血統こそ上であっても、財力も発言力も自分たちの方が勝っていると言う自負がある。
 身の危険を脅かしてまで、あえて非力な親王に危害を加えようという者は少ない。
 だが、一方では、犀星の都の人々に対する影響が侮れないこともまた、間違いなかった。民にとっての死活問題を、犀星はいくつも解決に導いてきた結果は、人々の信頼を勝ち得るに値した。
 都中の治水工事がその代表的なものであるが、今年はそれに加え、都の外の田畑の灌水にも着手している。敏感な民たちは、犀星の働きに大きな期待を寄せていた。犀星の背後には、間違いなく都の人々の信頼があった。それは宮中の誰もが持ちえないものだ。
 民意。
 その重さが、かつては都に目を向けることもなかった貴人たちには、驚異となりつつあった。
 易永に命じた者も、十分にそれを心得ていたはずだった。
 易永はじっと親王の顔を見つめた。無礼とされる行為だが、今更そのようなことを恐れても仕方がなく思われた。昨夜からの様子を見る限り、犀星は他の宮廷人とは明らかに一線を画していた。
 身分も立場も国の上層にあり、武術も自分が叶うべくもない。だが、決しておごることなく、また玲陽や東雨に対しても、家族のように親しく接している姿を、易永は驚きと共に見守っていた。
 易永決しては愚かではない。犀星の人となりが、噂以上に秀でて特殊であることは、すでに確信に至っていた。
 犀星はさらに交椅を玲陽に寄せ、その膝の上で玲陽の手を握った。それは犀星にとっては当たり前の行動であったが、易永は思わず目を疑った。
 主従であり、従兄弟であることは、十分に心得ていた。玲陽の犀星に対する献身も、疑うべくはなかった。だが、実際には、その枠に収まらないことを、さらりと示されてしまった。
「なるほど……かなわないわけだ」
 易永はため息交じりに言った。そして、自嘲したような笑みを浮かべた。
「あなたたちの絆を刀で裂く事は不可能。国一番の剣豪であろうとも」
 易永の寂しげな声を、玲陽は目を細めて聞いていた。
「誰に命じられた?」
 犀星は静かに、問いかけた。
「知らない」
 易永はすぐに答えた。
「今更、隠すつもりはない。だが、俺は本当に何も知らされていない。俺に命じたのは、同胞だ。雇い主が誰かなど、聞かされてはない」
 その言葉に嘘がないことは、よどみない口調と静かな目を見れば明らかだった。
「では、どうしてあなたは、このような立場に?」
 玲陽は、寄り添うように尋ねた。
 易永はしばらく物思いにふけりながら何を話して良いものか、迷っている様子だった。
 やがて、易永は、ゆっくりと話し始めた。
「私はもともと貴家の出身だ。ただ、表舞台にはいられない。事情は様々だが、私と同じ境遇の者は多い」
「貴家の?」
 玲陽が繰り返す。
「それはどういう経緯です?」
 易永は遠くを見て、
「俺たちの先祖は、かつて帝のそばに仕えていた。しかし、度重なる跡継ぎ争いの中で敗れ、ときには一族が皆殺しに合う憂き目も見てきた。それでも、私たちは生き残った。汚れ役を買い、血をつないだ。権力者の道具として」
「人は、道具ではない」
 犀星はつぶやいた。
 短く、重たい犀星の言葉に、玲陽は頷いた。
「兄様のおっしゃる通りです。人の心は、簡単に割り切れるものではない。矛盾の中で生きること。それは私たちも味わってきました。あなたは、人です」
 易永は目を見開き、かすかに涙ぐんだ。
 玲陽はわずかに目を伏せ、
「私たちには選択肢が残されていた。自分を貫く力と機会が。ですが、易永様にはそれすらなかったのですね」
 犀星は耳元に玲陽の声を聞きながら、強く、その手を握った。
 握り返し、玲陽は易永を見つめた。
「生まれた場所で咲きなさい」
 玲陽の言葉は、犀星の記憶にもあるものだった。
 玲陽の語り口は穏やかで、遠い昔の物語のようであった。
「私の母は自分の境遇を嘆いた私に、よく言いました。私もその言葉を信じ、必死に生きようとしました。けれど、それは一つの諦めなのだと、最近思うようになったのです。確かに草木は生まれた場所で一生終えるしかないかもしれない。けれど、私たちは草花ではありません」
「…………」
「あなたが、宿命の中に生まれたとしても、その場にとどまることが、あなたの意思でないのなら、自由のために、あなたがとった行動は、誰にも責められるものではありません」
 犀星は、いつしかしっとりとした笑みすら浮かべて、頷いた。
 易永の胸に満ちていく思いが、暖かく、傷の痛みすら遠ざけた。
 自分にこれほどの理解を示し、共感と言う名のぬくもりをくれること、自分が殺そうとした相手が、このように深い思いで自分の心を解きほぐしてくれるということに、易永は信じがたい思いと、同時に味わったことのない不可思議な安堵感を感じた。
 この二人ともっと早く出会っていたのなら、自分はまた違う道を探すことができたかもしれない。
 犀星は、揺れる易永の心と、何かを求める期待を敏感に感じ取った。声を抑え、ささやくように、犀星は言った。
「これからどうしたい? 都を出て、すべてと縁を切って、どこか行くあてがあるのか?」
 易永は目元を歪めた。傷の痛みのせいではなかった。ただ、かれが望む未来の困難さが、残酷なまでに想像された。
 叶わない。それは何より、易永自身がわかっていることだった。
 そして、それを受け入れるしかない覚悟もまた、すでに決まっていた。
 それでも、自分を想ってくれた二人に、真実を話す気には到底なれなかった。
 易永は声を震わせた。
「一目、見たい場所がある。私の母が生まれ育った町。都から東へ五十里......」
「易永様」
 玲陽が、静かに、しかし、強い気配で遮った。
「私に、嘘は通じません」
 あからさまに動揺して、易永は玲陽を見つめた。金色の瞳は、決して自分を責めてはいなかったが、偽りで乗り切れる局面ではないことを、彼に覚悟させた。
 玲陽が見ている世界は、易永の知覚する世界とはあまりに違う。
「易永様、あなたの背負うものは、普通ではない。私にだって、それくらいはわかるんです」
 玲陽は責めるでもなく、戸惑う易永の背中を押した。
「話を聞いても、私たちには何もできないかもしれない。けれど、話してくれるなら、こちらも最善を尽くす覚悟があります
 犀星が静かにうなずく。
 易永は交互にふたりを見た。
 その姿は、凡人の域を逸している。
 美貌だけの飾り物ではない。このふたりからは、人間を超越した神聖さがあった。まるで、生き物ですらないかのような、卓越した存在。
 命のやりとりをしてきた易永には、それが余計に如実に感じられるのだ。
 彼は、観念した。
「俺は……疲れた。命じられるままに殺めた。相手など構わなかった」
 易永は一度、声を飲み、それから一息に、
「慕った人を殺せと言われた時も逆らうことができなかった。その人を手にかけ、その人は私を恐怖の目で見つめたままこの世を去った」
 易永の見えないところで、犀星と玲陽の指が強く絡んだ。
「その人は……俺の本心を知ることもなく、いや、誰に殺されたすら、知ることなく」
 犀星がちらりと玲陽を盗み見る。思った通り、玲陽は易永を見ているようで、見てはいなかった。玲陽の目は、易永の後ろの壁に注がれている。
 犀星はその視線を目で追った。
 黒い靄が、明らかに易永の傷口に揺らめいていた。
 嘆きが高まった。
「もうたくさんだ! 繰り返している意味がわからない。今更、愚かだと悟っても遅すぎる。俺が命を奪った者たちには、大切な相手がいた」
 玲陽はじっと傀儡を見つめ、犀星はその手を力づけるように握りしめた。
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 動揺する易永を、犀星はまっすぐに見据えた。
「どうする? 今なら、その女だけを消すことができる。おまえは助かる」
 易永の血走った目が、犀星を見つめ、玲陽を見つめた。
「このまま、共に行くというのなら、それも叶えることができます」
 玲陽は、敢えて感情を抑えて、易永に問いかけた。犀星が最後を通告した。
「選べ。おまえの生き方を。おまえは、自由だ」
 易永の顔が、苦しみの表情から、解き放たれるように、清々しく澄んでいく。
 まるで、固く閉じていたつぼみが、春の日差しに花弁を開くかのようだった。

 その頃、玲陽から厳しい課題を突きつけられた蓮章は、朱雀門のそばにある自分の屋敷の庭先で、憂鬱な心を抱えたまま、ぼんやりと突っ立っていた。
 鎧を脱ぎ、着慣れた緩い着物を身にまとったことすら、ほとんど記憶にないほど、心ここに在らず、夢現つで会った。
 助けるのならば最後まで責任を持つべきこと。
 犀星が玲陽を助けたように。
 それは、蓮章にも痛いほどにわかっていた。
 しかし、犀星と玲陽は、あらゆる側面で普通ではない。彼らの関係は一般論では語れない。とは言え、人の命がかかっていることに変わりは無い。
 蓮章はふわりと裾を揺らして、柱にもたれた。月を見て、日を数える。
 あと、二日。
 暁隊が都の夜番になれば、蓮章の一存で鑑札を渡し、逃がしてやることは可能だった。当然、それは違法行為に他ならないが、蓮章にとっては法より人の道であった。
 しかし、都を出た後の事までは、現実的に、彼にもどうしようもないことなのだ。
 うまく逃げ伸びる者がいるのも事実である。だが、それはごくわずかの話だった。易永が必ず助かると言う保証はどこにもなく、そのために自分がしてやれる事は、何もない。
 どうしたら、彼を自由にできるのか。
 蓮章は蓮章なりに、それを考えていたつもりだった。
 普段は浮ついた彼であるが、実のところ、誰よりも思慮深い一面を持っている。だからこそ、涼景の信頼を得て、多少ならざる横暴にも目をつむって任せてもらっている。涼景だけではない。他の部下たちも一目を置く。ただし、その品行についてはまた、別の話である。
 蓮章が月の光に照らされて溶けてしまいそうなほど、白く儚く庭にいるのを、ふらりと涼景が見つけて近づいてきた。
 物思いにふける時、親友がどこにいるかくらい、今までの経験から涼景には容易に想像がつく。彼との付き合いは甘いものではなく、また、浅いものでもなかった。
「東雨が知らせに来た」
 涼景は蓮章の後ろから声をかけた。
「背中が、がら空きだぞ」
「おまえ相手に警戒する必要はないだろ」
 蓮章は投げやりな調子で答えた。言葉こそそっけないが、そこには涼景に対する深い信頼と、言わずとも通じる心の距離がある。
「何があった?」
 涼景の短い問いに、蓮章はぽつりぽつりと、そして結局、すべてを語った。
 蓮章の心の乱れが、涼景にも我がこととして伝わっていく。
「まったく、冷徹なんだか、甘ったるいんだか、おまえは本当に面白い」
 にこりともせず、涼景は言った。蓮章は黙り込んだ。
 事実、蓮章という男はそういう人物であった。
 他者のために動く。そのためならば、ときには大胆なことも平気でやってのける。涼景はそんな蓮章の気概が好きだった。だからこそ、彼とは気が合うのだ。だが、同時に自分を傷つけても厭わないその気性は、涼景を悩ませもした。涼景にとって、蓮章とは、研ぎ澄まされた刃に映った、もう一人の自分だった。
「涼、どうしたらいいと思う?」
 蓮章は一言、呟いた。
 涼景は蓮章と並んで、殺風景な庭を眺めながら、唇を緩ませた。
「珍しく、簡単なことで悩んでいるんだな」
「馬鹿を言え。簡単ならば悩まない。少なくとも俺にとっては難題だ」
「そうか?」
 涼景は、勝手に厨房から持ってきた盃を出すと、ぶら下げていた酒を注いで、蓮章に手渡した。
 蓮章は浮かない顔で、
「せっかくの一献がもったいないだろう? 俺は酔えないんだから」
「知っている」
 涼景はさっさと自分の杯を空にすると、次の酒を注ぎながら、
「それでも、飲め」
 蓮章はそれ以上、口答えすることもなく、おとなしく杯の酒を煽った。
 酒も薬も効かない蓮章を、涼景はそれでも変わらずに扱った。交わしたければ盃を差し出し、怪我をすれば薬を塗り、体調を崩せば薬湯を煎じた。
 無駄なこと、と思いながら、なぜか蓮章には、そんな涼景が嬉しくもあった。
「簡単なことだと言うなら、お前は、どう答えを出す?」
 蓮章は、酒を揺らして、涼景を盗み見た。
「そいつが足抜けしたいと言った理由、聞いたのか?」
「いや……」
 蓮章は首を振った
「ただ、あいつは今まで相当なことをさせられてきている……あいつからは拭いきれない血の匂いがする」
「心の限界、か」
 涼景は小さく、
「蓮、おまえは、自分の感情に素直すぎる。いらぬ想いを引き受けるな」
「放っておけ、というのか?」
「見くびるな。そんなこと、おまえができないことくらい、わかっている」
 蓮章は得も言われぬ複雑な表情を浮かべた。
 涼景は満足そうにそれを眺めた。
「蓮、おまえはとっくに、やるべきことはすべてやっているさ」
「……俺は、何も……」
 涼景はまるで、酒のせいだ、と言わんばかりに、蓮章の方を抱き寄せた。
「おまえが賢かったのは、易永をあのふたりに預けたことだ。あいつらは、俺たちが何をするより、易永を救う」
「…………」
「二日後、迎えに行く必要は無い」
「どうして?」
「俺を信じろ。迎えには行かなくていい」
 蓮章はじっと、涼景を見つめた。いつでも自信に溢れ、何がその身を傷つけようとも、決して屈することのない親友は、自分よりもはるかに強い。
 蓮章は、見つめていた酒を一気に干した。
「わかった。もしあいつらが文句を言いに来たら、涼が止めた、と言うぞ」
「構わない」
 涼景は、蓮章の杯に半分、酒を満たしながら、
「酔えなくても、味わうことくらいできるだろう。それでいい」
 おまえはおまえのままでいい。
 言外の意味を解して、蓮章は目を閉じた。
 陽、すまない。俺はどこまでも中途半端だ……
 勝手な情け心で助けようとした易永を守り切ることができず、その上、弱った心を友人に委ねてしまう。何一つ、自分で満足にやり遂げることはできない。
「蓮」
 息を止めるように、涙をこらえている友人を横目で見て、涼景は静かに言った。
「この庭には、春の花がないんだな。今度、俺の庭から持ってきてやる」




血刃染朱殷
一身尽成穢
花散由我罪
君命去天涯

血刃けつじん朱殷しゅあんに染まり
一身いっしん尽くけがれと成る
花散るは我が罪に由り
君の命 天涯てんがいに去る



 春爛漫の朝焼けの朝。
 東雨が部屋を訪れたとき、犀星と玲陽は互いに背を持たせかけて、床に座り込んでいた。
 犀星は握りしめた玲陽の手を、玲陽は誰もいない牀を、それぞれに見つめたまま。
 易永の答えこそ、彼を救う唯一の道だったのか。
 闇の中に生まれ落ちた彼が、唯一選ぶことのできたものは、果たして、幸福と呼べたのか。
 犀星と玲陽の胸には、同じ、春の嵐が吹き荒れていた。
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