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外伝 流(不定期連載)
探梅
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玲陽が都に来て、初めての冬が終わろうとする頃の、五亨庵。
「星、お茶にしませんか?」
慈圓が用事で出かけて二人きりになると、玲陽は休息の準備をして長榻に犀星を招いた。
「朝から、一度も休んでいませんよね? 少し、根を詰め過ぎです」
「だが……」
「何をお考えですか?」
玲陽は犀星の席まで行くと、手元を覗き込んだ。
都の外側の田畑が描かれた絵地図である。
「今年は、後に回していた南西の河川工事を計画してみようと。手伝ってくれるか?」
「勿論です」
玲陽は興味津々で地図を見た。とがめる者がいないのを幸いに、犀星は隣に立った玲陽の腰を引き寄せた。ついでにそっと撫でる。
「このところ、干ばつや洪水のたびに、畑の被害が甚大になっている。気候が変化しているのかもしれない。今までの治水対策では追いつかない」
玲陽は犀星の手をどうしたものかと迷いながら、
「それで、新たに整備を?」
「ああ。早めに現地を見に行きたいと思っている」
「お役に立てるよう、精一杯努めさせていただきます、歌仙様」
玲陽はわざとらしく、そう笑った。つられて、犀星も破顔する。二人なら、何倍もの力が出せる。その相手が玲陽なら、本当に何でもできると確信する。
「陽」
仕事中らしからぬ甘い呼び声に、玲陽はそっと応えて、犀星の上体を抱き寄せた。
「休憩をしないのは、気を抜いたら甘えたくなるから、ですか?」
犀星は玲陽の胸もとに顔を押し当てて、甘い香りにうっとりと目を閉じた。
「確かに、こんな姿を玄草様に見せるわけにはいきませんね」
玲陽は、犀星の不思議な色合いの髪に頬を寄せ、苦笑した。
光が溜まる五亨庵が、柔らかく二人を包み込む。抱きしめ合う二人の心音が重なり、呼吸が溶け合って甘く香る。
冬は確実に遠ざかり、春は確実に近づいてくる午後。まだ肌寒い中で、互いの温もりは宝玉よりも価値がある。次第にうっとりとそこに浸り、時間の感覚が遠ざかる。
「……おまえたち、何をしているんだ?」
ビクっとして、二人は声を振り返った。
五亨庵の入り口に、涼景が腕組みして立っていた。
「涼景様、いつの間に……」
「近くを通りかかったから、覗きに来てみれば……」
すっかり呆れ顔で、涼景はため息をついた。
「いつもこうなのか?」
「い、いえ、偶然、その、玄草様がいらっしゃらなかったので……」
「ほう?」
涼景は目を細め、玲陽は肩をすくめた。犀星が無言で絵地図に目を戻す。
いつものように涼景は中央に降り、長榻に腰を下ろした。上目遣いに犀星を見て、ふっと、唇を緩める。
「他の連中がいないと、いつもこうか?」
「この冬はもう、火を焚かないことにしたので、ちょっと寒くて」
玲陽が照れ隠しの言い訳を挟む。涼景はさらににやりとした。
「それで、温め合っていた、と?」
ポッと頬を赤らめて、玲陽がうつむく。
「その方が経済的だ」
さらりと犀星が答えた。
「そりゃ、何より」
うろたえる玲陽を、涼景はさも面白そうに眺めていた。
「本当に、おまえたちは仲がいいな」
涼景は勝手に茶を注ぎながら、
「別に、責めてなどいない。おまえたちが幸せでいてくれると、俺も嬉しい」
「涼景様……」
玲陽はくつろいだ涼景の前におとなしく座り、両手を膝に揃えて湯気を見た。
「茉莉花茶です」
「おまえが好きなやつだな」
「ご存知でしたか?」
「ああ。昔からよく、星が言っていた。大切な人が好きなのだ、と」
「大切……」
玲陽は繰り返し、また、照れて黙りこむ。犀星は自分の席から長榻を見下ろした。
「陽をからかうな」
「だったら、おまえもこっちに来て話をしろ。どうせ、仕事詰めで気も休まらないんだろ?」
「俺は、陽がそばにいてくれたら……」
「ああ、わかったわかった!」
涼景が遮る。
「惚気は晩酌の時にでも聞いてやる。酒が入らないと、こっちまで照れくさくなる」
「涼景様……」
玲陽は、遠慮がちに、
「あの、東雨どのは?」
涼景は瞬時に真面目な顔に戻ると、
「大丈夫だ。だいぶ回復している」
玲陽は苦しそうに胸を押さえた。その仕草を見て、素早く犀星は席を降りると、玲陽を押し倒すように長榻に並んで座る。涼景は唇の端を歪めた。
「星、おまえ、本当にわかりやすいな」
「それより、俺たちも東雨のところに行きたいのだが?」
「まだ、待て。おまえたちが動くと目立つ。もう少し、ほとぼりが冷めるまでは、安寿様と俺に任せておけ」
「ですが……心配で」
玲陽は自分の腕を抱いた。外側から、犀星が抱えて引き寄せる。涼景は安心させるように微笑んだ。
「体は確実に癒えてきている。命の危険は脱した。あの傷は一生痛むだろうが……」
「一生の傷……」
玲陽は犀星の着物を握りしめた。密着する体に震えが走る。犀星に触れてさえ痛む、玲陽の背中。同じように、東雨に刻まれた、生涯の傷。それを思うと、胸が詰まった。
「まぁ、これで良かったかどうかは、あいつが決めることだ」
涼景は茶を含みながら、
「情報は針の縫い目からでも漏れるもの。東雨の生死についてはすでに宮中に知れ渡っているだろうが、宝順さえ黙認してくれれば、波風を立てるものはいないだろう」
犀星は形の良い目元を曇らせた。
「今のところ、兄上からは何もない」
「殺してしまえばそれまでだが、生かしておけば、また使い道がある、と考えたのだろう」
「これ以上、手出しは許さぬ」
誓いのようにつぶやき、犀星は玲陽を抱く腕に力を込めた。涼景がやれやれと首を振る。
「陽も東雨も離したくない、か。まるで、わがままな子どもだな」
「どう思われても構わない」
犀星は静かに、
「俺はただ、穏やかに生きて欲しいだけだ」
「おまえと一緒では、穏やかさなど無縁だと思うが」
犀星が軽く涼景を睨む。涼景は逆にいたずらに笑い返した。
「あいつが親王づきの近侍になれば、おまえも今より、自由に出歩ける」
「すでに勝手に出歩いて、暁隊の皆さんにはご迷惑をおかけしています」
玲陽が小声で告げ口する。
「こいつは、昔からそうだ。俺が何度言っても聞かない。隊士も十分、諦めている」
「自由奔放に育ち過ぎました、私たち」
涼景は暖かな茶の香りを楽しみながら、
「確かに、宮中は窮屈だろう。歌仙の野山を駆け回っていたおまえたちからしたら」
「懐かしいです」
玲陽は両手を湯呑みで温めながら、
「昔、この季節になると、よく山深くに入りました。梅を探して……」
「探梅、か」
涼景は興味深そうにつぶやいた。
「何代か前までは宮中行事だったが、廃止になったんだ。雪解けの山道で難儀をする、ということで。今は庭園の梅見の会に変わった」
「よかったな」
犀星は傍に絵地図を広げながら、
「おまえの仕事が一つ、減ったわけだ」
「そうだな。宝順では、自分の足で歩くとは絶対に言わないだろうからな。かといって、馬も進めん。輿の担ぎ手が酷い目に合う上、梅を探すのは俺たちの仕事になる」
「何のための山歩きか、わからないですね」
玲陽が苦笑いする。
「全くだ。あいつは花より色、だから」
「涼景、次に体が空くのはいつだ?」
犀星は絵地図を指して、
「調べたいことがある。この山へ、行きたいんだが」
「は?」
涼景が顔をしかめる。
「まさか、おまえ、公休に俺を使う気か?」
「仕方がないだろう? 近衛なしで出歩くな、と、右近衛隊長に言われている」
「…………」
「おまえが無理なら、別の……ああ、蓮章でもいい」
「あいつには言うな。仕事を増やしたら、あとで俺がどんな目に会わされるか……」
「だったら、やはり、おまえしかいない」
涼景は諦めの息をついた。
「わかった。何を調べに?」
「梅の開花」
「は?」
再び、涼景は度肝を抜かれた。
「探梅だ。陽の体力をつけるにも、ちょうどいいだろ」
「そりゃ、反対はしないが……危険だぞ」
「だから、おまえに頼んでいる。俺に何かあったら、おまえが咎を受けるんだろう?」
「それはそうだが……」
涼景は苦い顔をした。
「兄様、涼景様はお疲れですから、お休みの日まで連れ回してはお可哀想です」
「陽……」
わかってくれるか、と、涼景は玲陽を見た。玲陽はにっこりして小首を傾げ、
「ですから、私たちだけで行きましょう」
「そういうことじゃない……」
涼景の期待は、見事に裏切られた。
入嶺尋殘雪
春禽已自聲
願攜梅一朶
初發祝君榮
(伯華)
嶺に入りて残雪を尋ぬ。
春禽すでに自ずから声す。
願わくは梅一朶を攜え、
初めて発きて君の栄えを祝わん。
「ついでに、このあたりの川の様子を見たいんだ」
こっちが本命だ、というように、犀星は絵地図を涼景に示した。
「今年は、南西の治水を行いたい。昨年、台風で酷い被害が出ている。二年続けて畑が荒れては、皆、窮するだろう」
「そういうことなら、名目が立つ。わざわざ、俺の休日を返上しなくてもいい」
「視察計画書はできている。護衛の指名はおまえに任せる。陽が同行することは絶対だ」
犀星が顔を上げると、涼景は、任せろと頷いた。
「梅の花……」
玲陽はぼんやりと宙を見ていた。
「兄様。梅の木って……」
「うん?」
「いえ……」
「なんだ?」
「その……一番、仙界に近い木と言われています。だから……」
「待て、陽!」
涼景が、玲陽の言葉の続きを止める。
「お前が『嫌な予感が……』とか言い出すと、決まって本当に厄介なことが起こるんだ。だから、せめて、思っても、口にはしないでくれ」
「別に、悪いことじゃないですよ」
玲陽は安心させるように微笑んだ。
「逆です。梅の木は、仙界への通り道。その人の夢幻の願いを叶えてくれると言われているんです。悪い話じゃないでしょう?」
「そ、そうか。よかった……」
「涼景、おまえ、相当疲れてるな」
「その俺を巻き込もうとしているのは、どこの誰だ?」
犀星はじっと、涼景を見つめて、
「おまえを、信頼しているから」
「……こいつ」
犀星の殺し文句に、何度、無茶をさせられてきたことか。
そんな二人のやり取りを、玲陽は微笑ましく見守る。
まるで、兄弟みたいだ。
面倒見の良い兄と、それをうまく操る弟。
そんな関係が、涼景と犀星の間に見えて、玲陽は心から平穏を感じる。
こんな時間が、長く続けばいい。
梅の木を見つけたら、そう、願い事をしよう。
玲陽は冬の寒さも忘れて、じゃれ合うように言い合う二人を、いつまでも眺めていた。
趣ある梅の探索とは裏腹、この季節の山道は雪解けでぬかるんで足場が悪い。
特に、犀星が示した山の状況は酷く、人が入った形跡もない。
「いい所ですね」
玲陽はしっかりと足元を固めた服装で、山歩きに備えている。犀星も同様に慣れた様子だ。
涼景は、とりあえず言われた通りに支度をしてきたが、実際に歩き始めると、その困難さを思い知った。数々の戦場を渡り歩いてきたが、大軍を動かすため、地盤のしっかりした場所を選部ことが多い。遊撃で動く場合も、ここまでの悪路を通ることはない。
山の麓に近衛隊を残して周辺の警護に当たらせ、涼景は犀星と玲陽を追った。
「おい」
難なく進んでいく犀星たちに遅れをとって、涼景は呼び止めた。
何事か、と二人が振り返る。
犀星はともかく、玲陽は体力的に落ちているはずだ。それなのに、軽々と山道を登ってゆく。
「大丈夫か?」
犀星が引き返してきて、涼景の足元を見る。
「ちゃんと、足場を選ばないと、疲れるだけだぞ」
「足場って……どこも泥が深い上に、下手に雪を踏めば滑るし……」
「涼景様にも、苦手なものがあったんですね」
「おまえたちが慣れすぎなんだ」
「陽、先頭を頼む。俺が後ろに回るから」
「わかりました」
今までの涼景は、この二人に劣等感を感じた事はなかった。自分より優れた面は知っていたが、それは素直に尊敬し、友人として自慢でもあった。
同時に、武芸に関しては決して負けない自負があった。それは立場上、譲ってはならない領分でもあった。
馬の駆け合い、戦場での動き、武術や戦略に至るまで、全て自分が率先して犀星の面倒を見てきた。だが、単純な春山の歩き方については、両者の方が一歩も二歩も先である。さすがの涼景も認めざるをえない。
犀星が目指しているのは、山の中腹にある切り立った露頭だった。そこからは都の南西側の一面が見渡せる上、川の流れや、畑の面積、家屋の状況、残雪など、しっかりと確認できる。その情報に氾濫区域の地図を重ねれば、やるべき治水工事の全容が見えてくるはずだ。
涼景に治水はわからない。だからこそ、せめて自分はこの二人が自由に動けるように、と山歩きを許可した。
「こんなに酷いとは……」
悪路に苦戦しながら、暁将軍は愚痴をこぼした。
玲陽はできる限り足場のしっかりした場所を選び、一歩一歩ゆっくりと歩いてくれた。犀星は涼景がずり落ちないよう、時折背中を支えてくれる。涼景にはどこも同じに見える泥道だが、彼らには足場が良し悪しの判断がつくらしい。
さらに問題は草木だった。この山には、人が通る道はない。道なき道を行くとはまさにこのことである。
こんな情けない思いは、いつ以来だろうか。
涼景は、玲陽が歩いた足跡を追いかけた。犀星は二度踏まれた場所を少し避け、それでも安全な場所を確保しながらついて行く。これは、まさに経験からしか学べない技術だった。
そうして進むうちに、次第と草木はその深さを増していく。
「兄様」
玲陽が振り返る。
「荊《いばら》ですね。迂回しますか?」
犀星は少し考えてから、
「まっすぐに行こう」
涼景を驚かせる返答が返ってきた。
「おい、ちょっと待て。おまえたちに、かすり傷一つつける訳にはいかないんだ」
涼景の言い分を、二人は気にした様子はなかった。犀星はわずかに笑って、
「別に、このまま踏み入るわけじゃない」
玲陽もにっこりした。
「涼景様なら、刀で斬ります? それとも焼き払いますか?」
涼景は返答に窮して、意地の悪い友人を交互に眺めた。三人でいる時、彼らの間には悪ふざけが混じる。もしかすると、自分はそれを求めて、苦労がわかりきったこの役目を引き受けたのかもしれない。
涼景が迷っているうちに、荊はいよいよその茂りを濃くし、もうこれ以上一歩も先へ進めない状態になった。
「では、突っ切りましょう」
玲陽が涼景を振り返った。
「涼景様、木登りはお得意ですか?」
「は?」
涼景は首をかしげた。玲陽は木を見上げた。
「幸い、この辺はまだ葉が出ていませんので、登るにはうってつけです」
「……本気か?」
「暁将軍は、木に登った経験がなかったか?」
後ろから犀星がからかう。
「将軍になるためには必要ないですからね」
玲陽も、犀星の言葉に乗じる。
涼景は複雑な心境で、高く伸びた楓を見上げた。大木は今、葉を落とし、太い枝が力強く張っている。
玲陽は近くの何本かを確かめ、その若さを確認していた。老木であれば、思わぬところで折れる可能性がある。見誤れば大怪我をする。子供の頃、何度も危険な思いをしている。
玲陽が選んだ木を見て、犀星も頷いた。
「なぁ、本当に?」
最後の救いを求めるように涼景が言った。二人は情け容赦なく、揃って頷いた。
まずは玲陽が幹に手をかける。体の回復を考えれば、木登りなどまだ難しいように思われたが、あっという間に幹を伝い、手頃な枝まで上がってしまった。
「涼景様は縄を使ったほうがいいと思います」
玲陽の言葉に、犀星は荷物から荒縄を取り出し、ちょうど腕を広げたほどの長さに刀で切ると、涼景に渡した。
「おい、これをどうするんだ?」
「引っ掛けて登るんだ。おまえ、本当に登り方を知らないのか?」
犀星はここまでは冗談だったが、さすがにまるで経験がない涼景に呆れ顔である。
「とにかく、陽の登り方を見ておけ。お前は腕の代わりに縄を使え」
さっぱりわからない、というように、困惑しながら、涼景は玲陽を見た。
玲陽は小さな幹の凹凸に足先をかけ、幹を抱くような姿勢で構えた。足場を踏み、それをもとに体を伸縮させ、上のほうに手をかけ、また足を上に上げ、さらにそこから上に向かって伸び上がり、幹に回した腕に体重をかけながら、まるで尺取り虫のように上がってゆく。
「神業だな」
涼景が思わずつぶやいた。
「これぐらいのこと、五歳の子供でもできる」
犀星は軽く言った。
「陽は腕を使えるが、おまえは代わりに縄を使ってみろ。慣れていないと、素手は危ない」
「あ、ああ……」
「心配するな。落ちたら俺が支える。それとも一番後ろで置いて行かれたいか?」
仕方なく、涼景はため息をついた。これはある意味、一種の試練だ。剣術の稽古や作戦を立てるより、どんな強者と一騎討ちを交えるより、あの宝順と一夜を過ごすより、違った意味で命がけである。
そういえばしばらく、こんな胸躍ることをしていなかったな
涼景の好奇心が湧き上がってくる。
「よし、やってみるか」
涼景はやり方だけ教わると、自分から木に取り付いた。友人の前で恥ずかしい格好は見せられない。仮にも暁将軍と言われる涼景である。腕力には自信があった。体力も二人に負けはしない。体の使い方も決して鈍い方ではない。
はじめこそ、危なっかしい動きであったが、やがて容量を得ると、するすると登って行く。
「さすがは涼景様です!」
上の枝に腰掛けて玲陽が言う。
「慣れてしまえば難しい事はありません。猫だって気に登れるんです」
「猫と比べるな」
涼景は汗のにじんだ額で玲陽を見上げ、ニヤリと笑った。
「気を付けろ、表面に苔があると滑りやすい」
犀星が注意を促す。
「この時期の苔は凍結しています。氷と同じだと思ってください」
二人から学びながら、涼景はどうにか一番下の太い枝までたどり着いた。その頃には、玲陽はもう一つ上の枝に移動している。
あれだけ道をふさいでいた荊が、今ははるか下である。
目の前には、力強く枝を広げた高木が、空の向こうまで続いている。
方向から見て、何本か先が目的の露頭だ。
真っ直ぐ行く、とはこういうことだったらしい。納得はしつつ、涼景はその発想の突飛さに、面白い友を持ったと嬉しくなる。
「で、ここからどうするんだ?」
涼景はとりあえず枝で一息つきながら、まだ幹に取り付いている犀星に言葉をかけた。
「まさか、枝を渡っていくとか言わないよな」
涼景の冗談に、玲陽は真剣な顔で頷いた。
「大丈夫です。任せてください」
「え?」
呆気に取られている涼景には構わず、玲陽は自分の荷物の中から、細めの縄を取り出した。その先には分銅がついている。まるで恐ろしいものでも見るように、涼景は息を呑んだ。
「なんだよ、それ……」
「どこかで見た事はありませんか?」
「……攻城戦の時に使う、鉤縄に似ているが?」
「そうです。鉤だと、木を痛めるので、分銅に変えてあります」
玲陽は、見極めた枝に向かって縄を放り投げた。見事に縄が枝に引っかかり、分銅が遠心力でくるくると回転し、固定される。
「縄と枝の摩擦で、私たちの体重くらいは支えてくれますから」
「それで、どうやって向こうまで……」
涼景は嫌な予感しかしなかった。
「こうやって」
玲陽は足場にしていた枝に立ち上がると、軽々とそれを蹴って、分銅が巻き付いた枝の一本下に飛び移った。
「…………」
今見た光景が信じられず、数瞬、涼景は瞬きを忘れた。玲陽は縄を外すと、
「こんな感じで、渡っていきます」
「いや、こんな感じって……いきなりは無理だろ!」
「無理じゃありません。今、私がやりました」
「だから、おまえにできても、俺には……」
「涼景、おまえの分の渡り綱」
気づけば、すぐ横まで来ていた犀星が、分銅付きの縄を涼景に差し出している。
「ほ、本気かよ……」
「陽、一本先へ。涼景は俺が一緒に飛ぶ」
「わかりました」
玲陽は自分の綱を外して、さらにその先の枝に巻きつけ、軽々と渡る。
「自分が飛び移りたい枝の、少し手前の上を狙え。木の枝は、少しずつずれて伸びている。体が勢いで振られて、ちょうど速度が弱まったあたりで足を着けるように決める」
「理屈はわかるが、そんなに簡単には……」
「陽はこういう時に道筋を読むのが得意なんだ。あいつが使った枝を使えば、うまくいくから」
犀星は、何でもない、という調子で涼景を力づけるが、涼景はそれどころではない。
「とにかく、やってみろ。無理そうだったら、ここで待っていてくれていいから」
「そんな訳に行くか!」
すでに、護衛の域を超え、意地になって涼景は縄を構えた。
攻城戦で鉤縄を使う訓練は積んでいる。それと同じ……
自分に言い聞かせ、玲陽が選んだ枝を目掛けて縄を放る。だが、攻城戦と違うのは、足場が頼りない枝の上、ということだ。思わず癖で片足を後ろに引いたが、そこには踏むべき大地がない。一瞬で全身に汗が噴き出した。
犀星が、体勢を崩した涼景を、器用に支えた。
涼景は観念した。
「すまん、星。俺は足でまといだ。ここからは二人で行ってくれ」
「いいのか? 護衛なしで勝手に動いて」
「この状況で、おまえたちに護衛は必要ない」
「そうか。じゃあ、ここに座って、幹にもたれて休んでいろ。帰りもこの枝を通るから、迎えにくる。心配するな」
「残念だが、そうさせてもらう」
残念、というより、心底、悔しそうな涼景を見て、犀星は目を細めた。
「気にするな。無茶を言ってると承知している」
「おまえたち、生まれる場所を間違えたな」
「うん?」
「俺なんかより、よほど優秀な将軍になっていた」
「俺はともかく……」
犀星は声を低めた。
「陽は、戦いは好かない」
「……そうだな」
涼景は犀星の手を借りて、楽な姿勢に座りこんだ。
「星、気をつけろ」
「ああ。視察を済ませたら、すぐに戻るから」
「俺のことは気にするな」
涼景はすっかり自分の敗北を認めていた。
「本当は、陽に、自信をつけさせたかったんだろ? 自分はもう、思うように動ける、と」
犀星は真顔で涼景を見た。
「おまえが、陽のためにしか行動しないことは知っているさ」
「見くびるな。俺はおまえのことも考えている」
「そうか?」
「そうだ」
「その結果がこれだぞ」
「いい気晴らしになっただろ?」
「……負けたよ、おまえには」
涼景は柔らかく笑った。
「兄様? 大丈夫ですか?」
先をゆく玲陽が振り返って叫んだ。涼景は優しく笑った。
「行けよ。ここから先は、おまえたちだけの世界だ」
「……わかった」
犀星は顔を上げた。
玲陽の後を追って、犀星は枝を飛び移っていく。二人が器用だということは知っていたが、まさかここまで差があるとは……
涼景は悔しさを通り越して、素直にその特技を認めざるを得なかった。
犀星と玲陽は、軽快に枝を渡り、あっという間に目指す露頭へたどり着いた。
玲陽が近くで居心地の良い枝を選び、よじ登る。息を吐き、景色を楽しむように幹にもたれてゆったりと座る。犀星はそのすぐ下の枝に陣取り、近くの枝に荷物を引っ掛けて身軽になってから、竹簡と小筆を取り出した。
景色を目の奥に記憶し、思い出すために必要な走り書きを残す。
一面に広がる雪解けの大地は、様々な色が入り混じっていた。地平のあたりはまだ白や灰色で、近くなるほど茶と黒、まばらに緑もある気がしたが、ほとんどは濡れた枯れ草に覆われていた。
細く走る際立った線は、農地を区切る道である。土を積み上げただけで、ところどころが途切れている。それに沿って並ぶ木造の家は、半分以上が空き家だった。
本来、畑として耕作されるべき土地は荒れて、何年も放置されている区画も多い。
北西の山脈から一本の川が足元まで続いている。太久江から別れた、西の支流・京河である。犀星が花街の治水に利用したのも、この豊かな水源であった。
京河は川幅が伍江より広く、流れも穏やかで氾濫の少ない大河である。農地の中央を横切っており、農業用水として便宜が良い。
玲陽は初春の透き通る風の中、川面のきらめきを眩しそうに眺めながら、足元の犀星に問いかけた。
「広大な平野と豊かな水源があるのに、どうしてこれほど区画が不統一で、人がいないのです?」
犀星は遠くに目を向けた。
「このあたりは、もともと国有地だったが、長い間に貴人への褒賞として分配されたんだ。都に隣接するから、権力の集中を避けて、わざと不自由な形に切り分け、反目し合う家々に」
「意図的に地域の統一を妨げた、ということ?」
「そうなる」
玲陽は、宮中の仕組みを思い出した。身近なところでも、左右の近衛隊の例がある。二人の親王の警護を左右に分ける、という業務上の細分化だけではなく、性格を異にする人材に任せることで結託を防ぎ、皇帝の権力を唯一のものとする計らいがあった。犀星が続けた。
「耕作しにくい上、他領に対する嫌がらせもある。災害時の責任の所在もあいまいで、農民にとっては不自由しかない。耕作権を放棄する者が増え、さらに管理者が不明瞭になり、農地として本来の能力を発揮できていない」
「悪循環ですね」
玲陽は髪を耳に搔き上げた。風が裾を揺らし、動いて火照った体を静かに冷ましてくれた。
「せっかくの土地が、勿体無いです」
「ああ。ここが機能すれば、この冬のような食糧不足も緩和される。どうしても、手をつけたい」
玲陽は頷いた。
「どうするつもりですか?」
「そうだな」
犀星は事前に書き留めていた竹簡を探った。
「まずは、散乱している耕作権の確認からだ。書類上の所有者と合わせて、責任を明確にする。それから、五亨庵の名で区画整備を立案する。水路と地形に沿って耕作単位を再統合し、境界を明確かつ、複雑にならないよう整える」
「所有している貴人たちからの反発は?」
「あるだろうな」
犀星は頷いた。
「しかし、彼らとて、ここを金と食糧を産む土地に変えたいのも本音。隣接する他家への見栄から協力を申し出られないだけのこと。俺はあくまで、その仲介に徹する。彼らは実より名を重んじる。そこを尊重してやれば、ことは運びやすい」
「確かに。そして、星が求めるのは、結果として付いてくる実のみ」
「そういうことだ」
玲陽は表情を緩め、目を細めて景色を眺めた。その目の奥には、犀星の理想が現実となり、水路と土手で美しく綾取られた大地が見えるようだった。
「今まで、ここは粟の栽培が多かったが」
犀星は静かに、
「最近は気温が下がりやすく、収穫が極端に落ちるようになった」
玲陽は幾つかの植物を想像しながら、
「黍や高粱はこの辺りの気候には合わない。小麦もいいですけど、大麦の方がさらに寒さに強い。早春から蒔くことができますし、短い夏でも収穫が望めます。食用として調理もしやすく、様々な用途があり、主食として優れています」
「保存もしやすいから、冬季間も重宝するだろう」
二人は視線を交わして微笑んだ。
犀星の目が、青空より蒼くきらめく。
「やはり、おまえと一緒がいい」
溢れた犀星の本音に、玲陽の胸が強く鳴った。嬉しさで自然と頬が赤らむ。
「自信を持って、進めることができる」
玲陽は恥ずかしさを隠すように、声を抑えた。
「玲家がおさめていた土地は平野部がほとんどで、田畑の管理が主な仕事でした。叔父上は、犀家の領地だけではなく、私の家族が放り出していた平野部の管理にも、力を貸してくださいました」
懐かしそうに、玲陽はゆっくりと語った。
「あの時はよくわからなかったですが、本当に良い勉強をさせてもらっていたのだと、今になって思います」
「そうだな。机上の空論ではなく、実際にその難しさを体験し、そしてやりがいを感じた」
「星なら、必ず、この仕事を成し遂げてくれます」
玲陽は、楽しい遊びを前にした子どものように、声を弾ませた。犀星は少し空を見上げた。
「今年はこの一帯。来年は東、その次の年は……」
犀星の視線がより遠くへ、やがて地平線へと伸びていく。
玲陽は胸が熱くなるのを感じた。未来を語る犀星が、あまりに眩しい。
「すべての人々を幸せにはできない。けれど、せめて一人でも多くの人々を助けたい」
犀星は玲陽を見上げた。
「俺は、おまえと再会して、思い知った。大切な人と共にいられること、ただそれだけが、どれほど意味があるかを知った。これはきっと、誰の身にも必要な生きる意味になる。その基盤を作りたい」
「あなたの力になれるなら、私は全力を注ぎたいです」
「陽」
「星。私はあなたの手足です。どうか、存分にお使いください」
犀星はふと、唇を結んだ。
自分が思っている以上に、玲陽は自分の近くにいる。自分が望む以上に、自分に尽くそうとしてくれている。
その思いが何よりも犀星を力づけ、勇気を与えてくれる。
「頼りにしている」
「お任せください、歌仙様」
玲陽が笑う。
不意に、犀星は横を向いた。
「だが、一つだけ、訂正する」
「え?」
「おまえは俺の手足じゃない。心臓だ」
思わず、玲陽は体がぐらついてヒヤリとした。
「それじゃ、一瞬たりとも休めませんね」
冗談のつもりが、声は上ずっていた。
二人は時を忘れ、眼下の景色を眺めながら、少年の日のように互いに夢を語りあった。
この国の未来。まだ冷たい風が吹く中、二人の胸には暖かな希望が満ちる。膨らむ。
枯れ果てた大地も、緑に色づき、やがて黄金色に輝き、人々の笑い声が溢れる。そんな世界が目に見えるようだった。
玲陽は枝に立つと、大きく身体を伸ばした。
久しぶりに存分に動き、心から世界を楽しんでいた。ちらりと犀星を見ると、真剣に筆を動かしながら、どこか幸せそうな笑顔である。
名も知らぬ誰かのために。
犀星の覚悟は、玲陽にとって何よりも、誇らしく、力強い。
玲陽は周りを見渡した。木々の枝にはまだわずかに雪が積もり冬が残っている。残念ながら梅の木は見当たらない。
だが、自分のすぐそばで、春を夢見て花を咲かせようとしている犀星の姿そのものが、厳しい冬の寒さにも雪にも負けない、美しい一輪の白い花に思われた。
世界で一番、美しい伯華を見つけました。
その人の隣で過ごせる日々は、目がくらむほどの、輝きに満ち溢れている。
細枝開雪朶
一點似君情
願化融陽照
寒氷盡自輕
(光理)
細枝に雪朶開く。
一點、君情に似たり。
願わくは融陽と化して照らし、
寒氷尽く自ずから軽からん。
友人たちが、先の露頭であれこれと考えを巡らせている間、涼景もまた試行錯誤を重ねた挙句、どうにか自力で木を降りることに成功した。
枝の上でくつろぐなど、慣れていない彼には心地の良いものではない。自分の身の安全を考えて、とりあえず地面の上にいた方がいい。
やっとの思いで降りてきた木を見上げ、涼景はため息をついた。あの二人には決して見せられない、情けない顔になる。
「確かに、猫でも登れるのにな……」
玲陽が言っていたことを思い出す。
慣れないことをしたために、普段は使わない体の節々がこわばっている。
日にあたって乾いた場所を探すと、涼景は四肢を投げ出し、腕を枕に寝転んだ。
「猫なら、陽だまりで居眠りしていても叱られまい……」
穏やかな日差しと、心地よい風、誰からも見つからない山の中。近くには、信頼する友人がいて、必ず迎えに来てくれる。
久しぶりに深い安堵と重たい疲れが、涼景の意識を瞬く間に眠りの中へ引き込んでゆく。
夢の中で、自分はじっと、山に暖かな季節が来るのを待っていた。
枝の上にいるのだろうか。
地面がはるか下に見える。
紅色の梅の花が、静かにすぐそばで自分を見つめていた。
不思議に思って、さらに周囲を見れば、自分が梅の木になり、その花は自分が咲かせたものだとわかる。
そうか、俺は……
わざわざ探して歩くより、自分が梅になった方が早いな。
夢ゆえの不思議さで、疑問もなく、彼は思った。
ふと、視界に動くものが入る。
一人の少女が、白い息を吐きはがら、あたりをきょろきょろと見回し、何かを探しながらこちらへくる。
ほら、花が咲いたぞ。
涼景は呼びかけようとして、声が出ないことに気づいた。
少女は自分には気づかない。
ただ、一生懸命に枝から枝へ、せわしなく目を向けている。
近づくにつれ、涼景には少女が誰か、はっきりわかった。
燕春だ。
自分が愛してやまない、たった一人の実の妹。
「兄様! 涼景!」
精一杯の声で、彼女は自分を呼んでいる。
「どちらです?」
俺はここにいる!
答えたくても、答えられない。
なぜ、見上げてくれない? おまえの、すぐそばにいる。
春! 俺はここだ!
涼景は胸いっぱいに叫んだが、声は出ない。
「兄様!」
苦しそうに呼びながら、燕春が自分の下を通りすぎ、遠ざかっていく。
春!
涼景は振り返ろうとした。後を追おうとした。
だが、今の自分は梅の木だ。動くことはできない。
小さくなっていく燕春の声が、彼の心を締め付けた。
「ああっ!」
自分の声に、涼景は目を覚ました。
体を確かめると、元通り、人である。
ただの夢。
涼景はぼんやりと、空を見上げた。
都はまだ冷えるが、歌仙はもう、至るところで梅が咲いているだろう。
探すまでもなく、屋敷の庭から、山々を彩る紅白の梅が眺められる季節だ。
身体の弱い妹は、間近で梅の花を見たことはない。
深院君難出
山寒獨探梅
願持芳一朶
為綰黒雲來
(仙水)
深院、君 出づるに難し。
山寒くして、獨り梅を探む。
願わくは芳しき一朶を持ち、
黒雲の來るを為《ため》に綰かん。
一枝、取ってきてやろう、と言ったことがある。自然に咲くものをむやみに傷つけるな、と妹に叱られたことを思い出した。
『私は、兄様と一緒にいたいのです。梅の花はただの口実』
そう言って、燕春は涼景の頬に口付けた。
あの頃は、穢れとは縁遠く、そして、自らの感情に素直であった。そして、怖さを知らなかった。
だが、今は違う。
燕春は年齢を重ね、物事を理解し、女になった。
ただの兄妹の触れ合いの域を越えてしまった二人に、引き返す道はない。せめて、できる限り、遠ざかること。
はるかな距離だけが、救いだ。
玲陽を迎えに歌仙に戻った時も、自宅には最初の夜しか立ち寄らなかった。
そばに燕春を感じれば、自制心を保つ自信はない。
我知らず、涼景は片手で目頭を押さえた。
時がたてば、燕春とて、自分から離れていくだろう。
そんな願いのような祈りは虚しく、彼女が自分を恋慕う心は、時折届く文から、苦しいほどに伝わってくる。いつも、最後まで読むことができず、かといって手放すこともできず、涼景の文箱には、細い線で書かれた熱い想いだけが溜まっていく。
涼景の胸中を知っているのは、犀星と蓮章だけである。おそらく、今では宝順も勘づいているに違いない。一族を守るという理由だけで、ここまでの屈辱に耐えられるほど、手ぬるい扱いは受けてはいない。
『お前は、年の離れた若い娘が好みか?』
一度、宝順にそう、問われたことがある。
その時は適当にはぐらかしたが、燕春のことを言っていたのは間違いなかった。
犀星たちの気配は、遠のいたままだ。
まだしばらくはかかりそうだ。
涼景は、手頃な枝を拾うと、木の根本に突き立てた。ここで待っていろ、という記しである。
そうしてから、ぶらりと、足場の良さそうなところを探しつつ、南へと向かう。
「そもそも、梅の開花を調べに来たんじゃなかったのか」
草を分けて進みながら、涼景は、忘れたい思いを振り切るように、一歩一歩を踏み締めた。
宮中では滅多に嗅ぐことのない、泥の匂い。そして、冷たく心地よい湿気を含んだ風。葉を落とした木にも、しっかりと宿る命。
燕春からの手紙とは別に、自分が家のことを任せている女官長からも、定期的に妹の体調についての正確な報告が届いている。それによれば、毎年冬場は床につききりで、起き上がる力もないほど、食も細くなるらしい。
燕家はかつての名家ではあるが、今は没落の一途を辿っている。だからこそ、涼景の出世が家の頼みであり、それを願って両親は息子を都へ送り出した。今では、涼景一人の肩に、遠縁も含め、全ての血族の命運がかかっている。十分過ぎる俸禄も、彼の手元にはほとんど残らない。
それでも、燕春にだけは辛い思いをさせないよう、どうにか工面して送っている。
一人で歩いていると、いろいろなことが思い出される。
自分が初めて私情で人を殴ったのは、数年前、ちょうどこの時期に本家に戻った時だった。
あれは先代・父の八回忌、親族が集まっての宴席の後、酔いを覚ましに庭に出た時、遠縁の男たちが話している会話が、偶然聞こえてきた。
『どうせ、永くないのだから、妹に金を使うのは無駄じゃないか。そのぶん、こちらに回して欲しいものだ』
酒が入ってのこと。
その場限りで収められたが、涼景ははっきりと拳の感触を覚えている。
どれだけ、戦場で敵を手にかけても、そこには感情などなかった。
戦いは責務であり、人を殺めることへの罪悪感は、何千人殺そうとも消えるものではない。
だが、あの時、親族を殴ったのは、明らかに自分の感情だった。悔しさと、悲しさ、憎しみか恨みか、やり場のない怒り。
相手が一撃で気を失った上、周囲も止めに入ってくれたが、そうではなければ、本当に殺していたかもしれない。あの時ほど、自分で自分が恐ろしいと思ったことはない。
親族のほとんどが燕春に同情的だ。
しかし、人の数ほど考え方は違う。正誤を決めつけるほど涼景も世間知らずではない。それでも、自分なりの正義は持っている。完全に相反したとき、やはり、感情に流されるのは、人間として避けられないことなのかもしれない。
「春……」
無意識に、涼景は呟いた。
その名を、人前で口にすることはない。
名を呼んだだけで、心を見抜かれてしまいそうで、涼景は常に何かに怯えていた。
また、取り止めのない記憶がよぎる。
『なぁ、一人でする、って、普通なのか?』
あれは、犀星が二十歳になる前、二人で酒を飲んでいた時だった。突然の問いかけに、涼景は一瞬、何のことかわからなかった。
『東雨が言うんだ。自分ともしない、一人でもしない、大丈夫なのか、って』
思わず酒を吹き出しかけたのを覚えている。
犀星は帝の血を引いている。
不用意に落胤を残さないよう、女と交わることは禁じられていた。そのため、性処理については男性相手か、自分で始末するしかない。そのために東雨も性技を仕込まれていた。
あの時は、さすがに参ったな。
涼景は記憶をたどり、苦笑いした。
実のところ、涼景とて人並みに処理する程度のことは自然とあった。
だが、その度に深い自己嫌悪に苛まれた。
思わず、口から出るのは、妹の名。目を閉じて想像するのは、その体。あられも無い姿で自分にすがる燕春を想像して、涼景は達した。自らが汚した手を見たとき、彼は泣くより他に、何もできなかった。
この手で、再び妹に触れることなどできない。
潔癖なまでに、涼景は数日、自分を責め続け、激しい後悔で狂いかけた。
涼景のそばにいた犀星と蓮章が、彼の様子がおかしいことに気づいた。二人に問い詰められ、涼景は観念して妹への想いを明かしたのだ。あの時の光景を、今でもはっきりと覚えている。
犀星は清めるように、そっと手を握ってくれた。
蓮章は背後から暖かく、抱きしめてくれた。
胸のつかえが消え、呼吸が楽になり、ようやくまとわりついていた霧が晴れた。
妹を思ったのは、あの時、一度きりだ。それに懲りて、たまらなくなる時は花街に逃げる。
もう二度と、考えたくない。
そういう意味では、燕春を想像する余裕もない宝順との閨は、涼景にとってはまだ気が楽なのかもしれない。
犀星も蓮章も、あれ以来、燕春のことを口に出すことはなかった。今までと変わらずに、自分を信じ、支え、苦楽を共にしてくれている。
犀星の母は、犀遠との仲を引き裂かれ、先帝に手篭めにされて犀星を身ごもった。犀星は、女であることを望まれていながら、男として生まれてきた。そして、自分が生まれることで、母を苦しめ、死に追いやった。
蓮章の出生は、本人も語らないが、複雑な事情があるらしい。ここまで腹を割って話せる仲でありながら、その一点だけは、彼から聞かされたことはない。涼景もまた、無理に問い詰めるつもりもない。
「人の心とは、ままならない」
誰が聞くわけでもない。足を止め、涼景は行手の木の枝を見上げた。その視線がひとところに止まる。
じっと立ったまま、静かに呟いた。
「望む人と結ばれることは、冬山に梅を見つけるより難しい」
彼の視線の先には、薄紅色をした、小さな梅の花がひとつ、誇らしげに開いていた。
病弱ゆえ、外出もままならない燕春は、こんな景色を見ることはない。
それどころか、いつまで、命があるか、それさえわからない。
生まれ変わるなら、梅の木になれ。紅でも白でも構わない。おまえの花を、誰よりも早く、俺が見つけてやる。
熱い涙が、涼景の頬を伝って、残雪の上に落ちた。
燕春がこの世を去ったのは、この年の暮れであった。
だがそれを、涼景が知ることは永遠になかった。
「星、お茶にしませんか?」
慈圓が用事で出かけて二人きりになると、玲陽は休息の準備をして長榻に犀星を招いた。
「朝から、一度も休んでいませんよね? 少し、根を詰め過ぎです」
「だが……」
「何をお考えですか?」
玲陽は犀星の席まで行くと、手元を覗き込んだ。
都の外側の田畑が描かれた絵地図である。
「今年は、後に回していた南西の河川工事を計画してみようと。手伝ってくれるか?」
「勿論です」
玲陽は興味津々で地図を見た。とがめる者がいないのを幸いに、犀星は隣に立った玲陽の腰を引き寄せた。ついでにそっと撫でる。
「このところ、干ばつや洪水のたびに、畑の被害が甚大になっている。気候が変化しているのかもしれない。今までの治水対策では追いつかない」
玲陽は犀星の手をどうしたものかと迷いながら、
「それで、新たに整備を?」
「ああ。早めに現地を見に行きたいと思っている」
「お役に立てるよう、精一杯努めさせていただきます、歌仙様」
玲陽はわざとらしく、そう笑った。つられて、犀星も破顔する。二人なら、何倍もの力が出せる。その相手が玲陽なら、本当に何でもできると確信する。
「陽」
仕事中らしからぬ甘い呼び声に、玲陽はそっと応えて、犀星の上体を抱き寄せた。
「休憩をしないのは、気を抜いたら甘えたくなるから、ですか?」
犀星は玲陽の胸もとに顔を押し当てて、甘い香りにうっとりと目を閉じた。
「確かに、こんな姿を玄草様に見せるわけにはいきませんね」
玲陽は、犀星の不思議な色合いの髪に頬を寄せ、苦笑した。
光が溜まる五亨庵が、柔らかく二人を包み込む。抱きしめ合う二人の心音が重なり、呼吸が溶け合って甘く香る。
冬は確実に遠ざかり、春は確実に近づいてくる午後。まだ肌寒い中で、互いの温もりは宝玉よりも価値がある。次第にうっとりとそこに浸り、時間の感覚が遠ざかる。
「……おまえたち、何をしているんだ?」
ビクっとして、二人は声を振り返った。
五亨庵の入り口に、涼景が腕組みして立っていた。
「涼景様、いつの間に……」
「近くを通りかかったから、覗きに来てみれば……」
すっかり呆れ顔で、涼景はため息をついた。
「いつもこうなのか?」
「い、いえ、偶然、その、玄草様がいらっしゃらなかったので……」
「ほう?」
涼景は目を細め、玲陽は肩をすくめた。犀星が無言で絵地図に目を戻す。
いつものように涼景は中央に降り、長榻に腰を下ろした。上目遣いに犀星を見て、ふっと、唇を緩める。
「他の連中がいないと、いつもこうか?」
「この冬はもう、火を焚かないことにしたので、ちょっと寒くて」
玲陽が照れ隠しの言い訳を挟む。涼景はさらににやりとした。
「それで、温め合っていた、と?」
ポッと頬を赤らめて、玲陽がうつむく。
「その方が経済的だ」
さらりと犀星が答えた。
「そりゃ、何より」
うろたえる玲陽を、涼景はさも面白そうに眺めていた。
「本当に、おまえたちは仲がいいな」
涼景は勝手に茶を注ぎながら、
「別に、責めてなどいない。おまえたちが幸せでいてくれると、俺も嬉しい」
「涼景様……」
玲陽はくつろいだ涼景の前におとなしく座り、両手を膝に揃えて湯気を見た。
「茉莉花茶です」
「おまえが好きなやつだな」
「ご存知でしたか?」
「ああ。昔からよく、星が言っていた。大切な人が好きなのだ、と」
「大切……」
玲陽は繰り返し、また、照れて黙りこむ。犀星は自分の席から長榻を見下ろした。
「陽をからかうな」
「だったら、おまえもこっちに来て話をしろ。どうせ、仕事詰めで気も休まらないんだろ?」
「俺は、陽がそばにいてくれたら……」
「ああ、わかったわかった!」
涼景が遮る。
「惚気は晩酌の時にでも聞いてやる。酒が入らないと、こっちまで照れくさくなる」
「涼景様……」
玲陽は、遠慮がちに、
「あの、東雨どのは?」
涼景は瞬時に真面目な顔に戻ると、
「大丈夫だ。だいぶ回復している」
玲陽は苦しそうに胸を押さえた。その仕草を見て、素早く犀星は席を降りると、玲陽を押し倒すように長榻に並んで座る。涼景は唇の端を歪めた。
「星、おまえ、本当にわかりやすいな」
「それより、俺たちも東雨のところに行きたいのだが?」
「まだ、待て。おまえたちが動くと目立つ。もう少し、ほとぼりが冷めるまでは、安寿様と俺に任せておけ」
「ですが……心配で」
玲陽は自分の腕を抱いた。外側から、犀星が抱えて引き寄せる。涼景は安心させるように微笑んだ。
「体は確実に癒えてきている。命の危険は脱した。あの傷は一生痛むだろうが……」
「一生の傷……」
玲陽は犀星の着物を握りしめた。密着する体に震えが走る。犀星に触れてさえ痛む、玲陽の背中。同じように、東雨に刻まれた、生涯の傷。それを思うと、胸が詰まった。
「まぁ、これで良かったかどうかは、あいつが決めることだ」
涼景は茶を含みながら、
「情報は針の縫い目からでも漏れるもの。東雨の生死についてはすでに宮中に知れ渡っているだろうが、宝順さえ黙認してくれれば、波風を立てるものはいないだろう」
犀星は形の良い目元を曇らせた。
「今のところ、兄上からは何もない」
「殺してしまえばそれまでだが、生かしておけば、また使い道がある、と考えたのだろう」
「これ以上、手出しは許さぬ」
誓いのようにつぶやき、犀星は玲陽を抱く腕に力を込めた。涼景がやれやれと首を振る。
「陽も東雨も離したくない、か。まるで、わがままな子どもだな」
「どう思われても構わない」
犀星は静かに、
「俺はただ、穏やかに生きて欲しいだけだ」
「おまえと一緒では、穏やかさなど無縁だと思うが」
犀星が軽く涼景を睨む。涼景は逆にいたずらに笑い返した。
「あいつが親王づきの近侍になれば、おまえも今より、自由に出歩ける」
「すでに勝手に出歩いて、暁隊の皆さんにはご迷惑をおかけしています」
玲陽が小声で告げ口する。
「こいつは、昔からそうだ。俺が何度言っても聞かない。隊士も十分、諦めている」
「自由奔放に育ち過ぎました、私たち」
涼景は暖かな茶の香りを楽しみながら、
「確かに、宮中は窮屈だろう。歌仙の野山を駆け回っていたおまえたちからしたら」
「懐かしいです」
玲陽は両手を湯呑みで温めながら、
「昔、この季節になると、よく山深くに入りました。梅を探して……」
「探梅、か」
涼景は興味深そうにつぶやいた。
「何代か前までは宮中行事だったが、廃止になったんだ。雪解けの山道で難儀をする、ということで。今は庭園の梅見の会に変わった」
「よかったな」
犀星は傍に絵地図を広げながら、
「おまえの仕事が一つ、減ったわけだ」
「そうだな。宝順では、自分の足で歩くとは絶対に言わないだろうからな。かといって、馬も進めん。輿の担ぎ手が酷い目に合う上、梅を探すのは俺たちの仕事になる」
「何のための山歩きか、わからないですね」
玲陽が苦笑いする。
「全くだ。あいつは花より色、だから」
「涼景、次に体が空くのはいつだ?」
犀星は絵地図を指して、
「調べたいことがある。この山へ、行きたいんだが」
「は?」
涼景が顔をしかめる。
「まさか、おまえ、公休に俺を使う気か?」
「仕方がないだろう? 近衛なしで出歩くな、と、右近衛隊長に言われている」
「…………」
「おまえが無理なら、別の……ああ、蓮章でもいい」
「あいつには言うな。仕事を増やしたら、あとで俺がどんな目に会わされるか……」
「だったら、やはり、おまえしかいない」
涼景は諦めの息をついた。
「わかった。何を調べに?」
「梅の開花」
「は?」
再び、涼景は度肝を抜かれた。
「探梅だ。陽の体力をつけるにも、ちょうどいいだろ」
「そりゃ、反対はしないが……危険だぞ」
「だから、おまえに頼んでいる。俺に何かあったら、おまえが咎を受けるんだろう?」
「それはそうだが……」
涼景は苦い顔をした。
「兄様、涼景様はお疲れですから、お休みの日まで連れ回してはお可哀想です」
「陽……」
わかってくれるか、と、涼景は玲陽を見た。玲陽はにっこりして小首を傾げ、
「ですから、私たちだけで行きましょう」
「そういうことじゃない……」
涼景の期待は、見事に裏切られた。
入嶺尋殘雪
春禽已自聲
願攜梅一朶
初發祝君榮
(伯華)
嶺に入りて残雪を尋ぬ。
春禽すでに自ずから声す。
願わくは梅一朶を攜え、
初めて発きて君の栄えを祝わん。
「ついでに、このあたりの川の様子を見たいんだ」
こっちが本命だ、というように、犀星は絵地図を涼景に示した。
「今年は、南西の治水を行いたい。昨年、台風で酷い被害が出ている。二年続けて畑が荒れては、皆、窮するだろう」
「そういうことなら、名目が立つ。わざわざ、俺の休日を返上しなくてもいい」
「視察計画書はできている。護衛の指名はおまえに任せる。陽が同行することは絶対だ」
犀星が顔を上げると、涼景は、任せろと頷いた。
「梅の花……」
玲陽はぼんやりと宙を見ていた。
「兄様。梅の木って……」
「うん?」
「いえ……」
「なんだ?」
「その……一番、仙界に近い木と言われています。だから……」
「待て、陽!」
涼景が、玲陽の言葉の続きを止める。
「お前が『嫌な予感が……』とか言い出すと、決まって本当に厄介なことが起こるんだ。だから、せめて、思っても、口にはしないでくれ」
「別に、悪いことじゃないですよ」
玲陽は安心させるように微笑んだ。
「逆です。梅の木は、仙界への通り道。その人の夢幻の願いを叶えてくれると言われているんです。悪い話じゃないでしょう?」
「そ、そうか。よかった……」
「涼景、おまえ、相当疲れてるな」
「その俺を巻き込もうとしているのは、どこの誰だ?」
犀星はじっと、涼景を見つめて、
「おまえを、信頼しているから」
「……こいつ」
犀星の殺し文句に、何度、無茶をさせられてきたことか。
そんな二人のやり取りを、玲陽は微笑ましく見守る。
まるで、兄弟みたいだ。
面倒見の良い兄と、それをうまく操る弟。
そんな関係が、涼景と犀星の間に見えて、玲陽は心から平穏を感じる。
こんな時間が、長く続けばいい。
梅の木を見つけたら、そう、願い事をしよう。
玲陽は冬の寒さも忘れて、じゃれ合うように言い合う二人を、いつまでも眺めていた。
趣ある梅の探索とは裏腹、この季節の山道は雪解けでぬかるんで足場が悪い。
特に、犀星が示した山の状況は酷く、人が入った形跡もない。
「いい所ですね」
玲陽はしっかりと足元を固めた服装で、山歩きに備えている。犀星も同様に慣れた様子だ。
涼景は、とりあえず言われた通りに支度をしてきたが、実際に歩き始めると、その困難さを思い知った。数々の戦場を渡り歩いてきたが、大軍を動かすため、地盤のしっかりした場所を選部ことが多い。遊撃で動く場合も、ここまでの悪路を通ることはない。
山の麓に近衛隊を残して周辺の警護に当たらせ、涼景は犀星と玲陽を追った。
「おい」
難なく進んでいく犀星たちに遅れをとって、涼景は呼び止めた。
何事か、と二人が振り返る。
犀星はともかく、玲陽は体力的に落ちているはずだ。それなのに、軽々と山道を登ってゆく。
「大丈夫か?」
犀星が引き返してきて、涼景の足元を見る。
「ちゃんと、足場を選ばないと、疲れるだけだぞ」
「足場って……どこも泥が深い上に、下手に雪を踏めば滑るし……」
「涼景様にも、苦手なものがあったんですね」
「おまえたちが慣れすぎなんだ」
「陽、先頭を頼む。俺が後ろに回るから」
「わかりました」
今までの涼景は、この二人に劣等感を感じた事はなかった。自分より優れた面は知っていたが、それは素直に尊敬し、友人として自慢でもあった。
同時に、武芸に関しては決して負けない自負があった。それは立場上、譲ってはならない領分でもあった。
馬の駆け合い、戦場での動き、武術や戦略に至るまで、全て自分が率先して犀星の面倒を見てきた。だが、単純な春山の歩き方については、両者の方が一歩も二歩も先である。さすがの涼景も認めざるをえない。
犀星が目指しているのは、山の中腹にある切り立った露頭だった。そこからは都の南西側の一面が見渡せる上、川の流れや、畑の面積、家屋の状況、残雪など、しっかりと確認できる。その情報に氾濫区域の地図を重ねれば、やるべき治水工事の全容が見えてくるはずだ。
涼景に治水はわからない。だからこそ、せめて自分はこの二人が自由に動けるように、と山歩きを許可した。
「こんなに酷いとは……」
悪路に苦戦しながら、暁将軍は愚痴をこぼした。
玲陽はできる限り足場のしっかりした場所を選び、一歩一歩ゆっくりと歩いてくれた。犀星は涼景がずり落ちないよう、時折背中を支えてくれる。涼景にはどこも同じに見える泥道だが、彼らには足場が良し悪しの判断がつくらしい。
さらに問題は草木だった。この山には、人が通る道はない。道なき道を行くとはまさにこのことである。
こんな情けない思いは、いつ以来だろうか。
涼景は、玲陽が歩いた足跡を追いかけた。犀星は二度踏まれた場所を少し避け、それでも安全な場所を確保しながらついて行く。これは、まさに経験からしか学べない技術だった。
そうして進むうちに、次第と草木はその深さを増していく。
「兄様」
玲陽が振り返る。
「荊《いばら》ですね。迂回しますか?」
犀星は少し考えてから、
「まっすぐに行こう」
涼景を驚かせる返答が返ってきた。
「おい、ちょっと待て。おまえたちに、かすり傷一つつける訳にはいかないんだ」
涼景の言い分を、二人は気にした様子はなかった。犀星はわずかに笑って、
「別に、このまま踏み入るわけじゃない」
玲陽もにっこりした。
「涼景様なら、刀で斬ります? それとも焼き払いますか?」
涼景は返答に窮して、意地の悪い友人を交互に眺めた。三人でいる時、彼らの間には悪ふざけが混じる。もしかすると、自分はそれを求めて、苦労がわかりきったこの役目を引き受けたのかもしれない。
涼景が迷っているうちに、荊はいよいよその茂りを濃くし、もうこれ以上一歩も先へ進めない状態になった。
「では、突っ切りましょう」
玲陽が涼景を振り返った。
「涼景様、木登りはお得意ですか?」
「は?」
涼景は首をかしげた。玲陽は木を見上げた。
「幸い、この辺はまだ葉が出ていませんので、登るにはうってつけです」
「……本気か?」
「暁将軍は、木に登った経験がなかったか?」
後ろから犀星がからかう。
「将軍になるためには必要ないですからね」
玲陽も、犀星の言葉に乗じる。
涼景は複雑な心境で、高く伸びた楓を見上げた。大木は今、葉を落とし、太い枝が力強く張っている。
玲陽は近くの何本かを確かめ、その若さを確認していた。老木であれば、思わぬところで折れる可能性がある。見誤れば大怪我をする。子供の頃、何度も危険な思いをしている。
玲陽が選んだ木を見て、犀星も頷いた。
「なぁ、本当に?」
最後の救いを求めるように涼景が言った。二人は情け容赦なく、揃って頷いた。
まずは玲陽が幹に手をかける。体の回復を考えれば、木登りなどまだ難しいように思われたが、あっという間に幹を伝い、手頃な枝まで上がってしまった。
「涼景様は縄を使ったほうがいいと思います」
玲陽の言葉に、犀星は荷物から荒縄を取り出し、ちょうど腕を広げたほどの長さに刀で切ると、涼景に渡した。
「おい、これをどうするんだ?」
「引っ掛けて登るんだ。おまえ、本当に登り方を知らないのか?」
犀星はここまでは冗談だったが、さすがにまるで経験がない涼景に呆れ顔である。
「とにかく、陽の登り方を見ておけ。お前は腕の代わりに縄を使え」
さっぱりわからない、というように、困惑しながら、涼景は玲陽を見た。
玲陽は小さな幹の凹凸に足先をかけ、幹を抱くような姿勢で構えた。足場を踏み、それをもとに体を伸縮させ、上のほうに手をかけ、また足を上に上げ、さらにそこから上に向かって伸び上がり、幹に回した腕に体重をかけながら、まるで尺取り虫のように上がってゆく。
「神業だな」
涼景が思わずつぶやいた。
「これぐらいのこと、五歳の子供でもできる」
犀星は軽く言った。
「陽は腕を使えるが、おまえは代わりに縄を使ってみろ。慣れていないと、素手は危ない」
「あ、ああ……」
「心配するな。落ちたら俺が支える。それとも一番後ろで置いて行かれたいか?」
仕方なく、涼景はため息をついた。これはある意味、一種の試練だ。剣術の稽古や作戦を立てるより、どんな強者と一騎討ちを交えるより、あの宝順と一夜を過ごすより、違った意味で命がけである。
そういえばしばらく、こんな胸躍ることをしていなかったな
涼景の好奇心が湧き上がってくる。
「よし、やってみるか」
涼景はやり方だけ教わると、自分から木に取り付いた。友人の前で恥ずかしい格好は見せられない。仮にも暁将軍と言われる涼景である。腕力には自信があった。体力も二人に負けはしない。体の使い方も決して鈍い方ではない。
はじめこそ、危なっかしい動きであったが、やがて容量を得ると、するすると登って行く。
「さすがは涼景様です!」
上の枝に腰掛けて玲陽が言う。
「慣れてしまえば難しい事はありません。猫だって気に登れるんです」
「猫と比べるな」
涼景は汗のにじんだ額で玲陽を見上げ、ニヤリと笑った。
「気を付けろ、表面に苔があると滑りやすい」
犀星が注意を促す。
「この時期の苔は凍結しています。氷と同じだと思ってください」
二人から学びながら、涼景はどうにか一番下の太い枝までたどり着いた。その頃には、玲陽はもう一つ上の枝に移動している。
あれだけ道をふさいでいた荊が、今ははるか下である。
目の前には、力強く枝を広げた高木が、空の向こうまで続いている。
方向から見て、何本か先が目的の露頭だ。
真っ直ぐ行く、とはこういうことだったらしい。納得はしつつ、涼景はその発想の突飛さに、面白い友を持ったと嬉しくなる。
「で、ここからどうするんだ?」
涼景はとりあえず枝で一息つきながら、まだ幹に取り付いている犀星に言葉をかけた。
「まさか、枝を渡っていくとか言わないよな」
涼景の冗談に、玲陽は真剣な顔で頷いた。
「大丈夫です。任せてください」
「え?」
呆気に取られている涼景には構わず、玲陽は自分の荷物の中から、細めの縄を取り出した。その先には分銅がついている。まるで恐ろしいものでも見るように、涼景は息を呑んだ。
「なんだよ、それ……」
「どこかで見た事はありませんか?」
「……攻城戦の時に使う、鉤縄に似ているが?」
「そうです。鉤だと、木を痛めるので、分銅に変えてあります」
玲陽は、見極めた枝に向かって縄を放り投げた。見事に縄が枝に引っかかり、分銅が遠心力でくるくると回転し、固定される。
「縄と枝の摩擦で、私たちの体重くらいは支えてくれますから」
「それで、どうやって向こうまで……」
涼景は嫌な予感しかしなかった。
「こうやって」
玲陽は足場にしていた枝に立ち上がると、軽々とそれを蹴って、分銅が巻き付いた枝の一本下に飛び移った。
「…………」
今見た光景が信じられず、数瞬、涼景は瞬きを忘れた。玲陽は縄を外すと、
「こんな感じで、渡っていきます」
「いや、こんな感じって……いきなりは無理だろ!」
「無理じゃありません。今、私がやりました」
「だから、おまえにできても、俺には……」
「涼景、おまえの分の渡り綱」
気づけば、すぐ横まで来ていた犀星が、分銅付きの縄を涼景に差し出している。
「ほ、本気かよ……」
「陽、一本先へ。涼景は俺が一緒に飛ぶ」
「わかりました」
玲陽は自分の綱を外して、さらにその先の枝に巻きつけ、軽々と渡る。
「自分が飛び移りたい枝の、少し手前の上を狙え。木の枝は、少しずつずれて伸びている。体が勢いで振られて、ちょうど速度が弱まったあたりで足を着けるように決める」
「理屈はわかるが、そんなに簡単には……」
「陽はこういう時に道筋を読むのが得意なんだ。あいつが使った枝を使えば、うまくいくから」
犀星は、何でもない、という調子で涼景を力づけるが、涼景はそれどころではない。
「とにかく、やってみろ。無理そうだったら、ここで待っていてくれていいから」
「そんな訳に行くか!」
すでに、護衛の域を超え、意地になって涼景は縄を構えた。
攻城戦で鉤縄を使う訓練は積んでいる。それと同じ……
自分に言い聞かせ、玲陽が選んだ枝を目掛けて縄を放る。だが、攻城戦と違うのは、足場が頼りない枝の上、ということだ。思わず癖で片足を後ろに引いたが、そこには踏むべき大地がない。一瞬で全身に汗が噴き出した。
犀星が、体勢を崩した涼景を、器用に支えた。
涼景は観念した。
「すまん、星。俺は足でまといだ。ここからは二人で行ってくれ」
「いいのか? 護衛なしで勝手に動いて」
「この状況で、おまえたちに護衛は必要ない」
「そうか。じゃあ、ここに座って、幹にもたれて休んでいろ。帰りもこの枝を通るから、迎えにくる。心配するな」
「残念だが、そうさせてもらう」
残念、というより、心底、悔しそうな涼景を見て、犀星は目を細めた。
「気にするな。無茶を言ってると承知している」
「おまえたち、生まれる場所を間違えたな」
「うん?」
「俺なんかより、よほど優秀な将軍になっていた」
「俺はともかく……」
犀星は声を低めた。
「陽は、戦いは好かない」
「……そうだな」
涼景は犀星の手を借りて、楽な姿勢に座りこんだ。
「星、気をつけろ」
「ああ。視察を済ませたら、すぐに戻るから」
「俺のことは気にするな」
涼景はすっかり自分の敗北を認めていた。
「本当は、陽に、自信をつけさせたかったんだろ? 自分はもう、思うように動ける、と」
犀星は真顔で涼景を見た。
「おまえが、陽のためにしか行動しないことは知っているさ」
「見くびるな。俺はおまえのことも考えている」
「そうか?」
「そうだ」
「その結果がこれだぞ」
「いい気晴らしになっただろ?」
「……負けたよ、おまえには」
涼景は柔らかく笑った。
「兄様? 大丈夫ですか?」
先をゆく玲陽が振り返って叫んだ。涼景は優しく笑った。
「行けよ。ここから先は、おまえたちだけの世界だ」
「……わかった」
犀星は顔を上げた。
玲陽の後を追って、犀星は枝を飛び移っていく。二人が器用だということは知っていたが、まさかここまで差があるとは……
涼景は悔しさを通り越して、素直にその特技を認めざるを得なかった。
犀星と玲陽は、軽快に枝を渡り、あっという間に目指す露頭へたどり着いた。
玲陽が近くで居心地の良い枝を選び、よじ登る。息を吐き、景色を楽しむように幹にもたれてゆったりと座る。犀星はそのすぐ下の枝に陣取り、近くの枝に荷物を引っ掛けて身軽になってから、竹簡と小筆を取り出した。
景色を目の奥に記憶し、思い出すために必要な走り書きを残す。
一面に広がる雪解けの大地は、様々な色が入り混じっていた。地平のあたりはまだ白や灰色で、近くなるほど茶と黒、まばらに緑もある気がしたが、ほとんどは濡れた枯れ草に覆われていた。
細く走る際立った線は、農地を区切る道である。土を積み上げただけで、ところどころが途切れている。それに沿って並ぶ木造の家は、半分以上が空き家だった。
本来、畑として耕作されるべき土地は荒れて、何年も放置されている区画も多い。
北西の山脈から一本の川が足元まで続いている。太久江から別れた、西の支流・京河である。犀星が花街の治水に利用したのも、この豊かな水源であった。
京河は川幅が伍江より広く、流れも穏やかで氾濫の少ない大河である。農地の中央を横切っており、農業用水として便宜が良い。
玲陽は初春の透き通る風の中、川面のきらめきを眩しそうに眺めながら、足元の犀星に問いかけた。
「広大な平野と豊かな水源があるのに、どうしてこれほど区画が不統一で、人がいないのです?」
犀星は遠くに目を向けた。
「このあたりは、もともと国有地だったが、長い間に貴人への褒賞として分配されたんだ。都に隣接するから、権力の集中を避けて、わざと不自由な形に切り分け、反目し合う家々に」
「意図的に地域の統一を妨げた、ということ?」
「そうなる」
玲陽は、宮中の仕組みを思い出した。身近なところでも、左右の近衛隊の例がある。二人の親王の警護を左右に分ける、という業務上の細分化だけではなく、性格を異にする人材に任せることで結託を防ぎ、皇帝の権力を唯一のものとする計らいがあった。犀星が続けた。
「耕作しにくい上、他領に対する嫌がらせもある。災害時の責任の所在もあいまいで、農民にとっては不自由しかない。耕作権を放棄する者が増え、さらに管理者が不明瞭になり、農地として本来の能力を発揮できていない」
「悪循環ですね」
玲陽は髪を耳に搔き上げた。風が裾を揺らし、動いて火照った体を静かに冷ましてくれた。
「せっかくの土地が、勿体無いです」
「ああ。ここが機能すれば、この冬のような食糧不足も緩和される。どうしても、手をつけたい」
玲陽は頷いた。
「どうするつもりですか?」
「そうだな」
犀星は事前に書き留めていた竹簡を探った。
「まずは、散乱している耕作権の確認からだ。書類上の所有者と合わせて、責任を明確にする。それから、五亨庵の名で区画整備を立案する。水路と地形に沿って耕作単位を再統合し、境界を明確かつ、複雑にならないよう整える」
「所有している貴人たちからの反発は?」
「あるだろうな」
犀星は頷いた。
「しかし、彼らとて、ここを金と食糧を産む土地に変えたいのも本音。隣接する他家への見栄から協力を申し出られないだけのこと。俺はあくまで、その仲介に徹する。彼らは実より名を重んじる。そこを尊重してやれば、ことは運びやすい」
「確かに。そして、星が求めるのは、結果として付いてくる実のみ」
「そういうことだ」
玲陽は表情を緩め、目を細めて景色を眺めた。その目の奥には、犀星の理想が現実となり、水路と土手で美しく綾取られた大地が見えるようだった。
「今まで、ここは粟の栽培が多かったが」
犀星は静かに、
「最近は気温が下がりやすく、収穫が極端に落ちるようになった」
玲陽は幾つかの植物を想像しながら、
「黍や高粱はこの辺りの気候には合わない。小麦もいいですけど、大麦の方がさらに寒さに強い。早春から蒔くことができますし、短い夏でも収穫が望めます。食用として調理もしやすく、様々な用途があり、主食として優れています」
「保存もしやすいから、冬季間も重宝するだろう」
二人は視線を交わして微笑んだ。
犀星の目が、青空より蒼くきらめく。
「やはり、おまえと一緒がいい」
溢れた犀星の本音に、玲陽の胸が強く鳴った。嬉しさで自然と頬が赤らむ。
「自信を持って、進めることができる」
玲陽は恥ずかしさを隠すように、声を抑えた。
「玲家がおさめていた土地は平野部がほとんどで、田畑の管理が主な仕事でした。叔父上は、犀家の領地だけではなく、私の家族が放り出していた平野部の管理にも、力を貸してくださいました」
懐かしそうに、玲陽はゆっくりと語った。
「あの時はよくわからなかったですが、本当に良い勉強をさせてもらっていたのだと、今になって思います」
「そうだな。机上の空論ではなく、実際にその難しさを体験し、そしてやりがいを感じた」
「星なら、必ず、この仕事を成し遂げてくれます」
玲陽は、楽しい遊びを前にした子どものように、声を弾ませた。犀星は少し空を見上げた。
「今年はこの一帯。来年は東、その次の年は……」
犀星の視線がより遠くへ、やがて地平線へと伸びていく。
玲陽は胸が熱くなるのを感じた。未来を語る犀星が、あまりに眩しい。
「すべての人々を幸せにはできない。けれど、せめて一人でも多くの人々を助けたい」
犀星は玲陽を見上げた。
「俺は、おまえと再会して、思い知った。大切な人と共にいられること、ただそれだけが、どれほど意味があるかを知った。これはきっと、誰の身にも必要な生きる意味になる。その基盤を作りたい」
「あなたの力になれるなら、私は全力を注ぎたいです」
「陽」
「星。私はあなたの手足です。どうか、存分にお使いください」
犀星はふと、唇を結んだ。
自分が思っている以上に、玲陽は自分の近くにいる。自分が望む以上に、自分に尽くそうとしてくれている。
その思いが何よりも犀星を力づけ、勇気を与えてくれる。
「頼りにしている」
「お任せください、歌仙様」
玲陽が笑う。
不意に、犀星は横を向いた。
「だが、一つだけ、訂正する」
「え?」
「おまえは俺の手足じゃない。心臓だ」
思わず、玲陽は体がぐらついてヒヤリとした。
「それじゃ、一瞬たりとも休めませんね」
冗談のつもりが、声は上ずっていた。
二人は時を忘れ、眼下の景色を眺めながら、少年の日のように互いに夢を語りあった。
この国の未来。まだ冷たい風が吹く中、二人の胸には暖かな希望が満ちる。膨らむ。
枯れ果てた大地も、緑に色づき、やがて黄金色に輝き、人々の笑い声が溢れる。そんな世界が目に見えるようだった。
玲陽は枝に立つと、大きく身体を伸ばした。
久しぶりに存分に動き、心から世界を楽しんでいた。ちらりと犀星を見ると、真剣に筆を動かしながら、どこか幸せそうな笑顔である。
名も知らぬ誰かのために。
犀星の覚悟は、玲陽にとって何よりも、誇らしく、力強い。
玲陽は周りを見渡した。木々の枝にはまだわずかに雪が積もり冬が残っている。残念ながら梅の木は見当たらない。
だが、自分のすぐそばで、春を夢見て花を咲かせようとしている犀星の姿そのものが、厳しい冬の寒さにも雪にも負けない、美しい一輪の白い花に思われた。
世界で一番、美しい伯華を見つけました。
その人の隣で過ごせる日々は、目がくらむほどの、輝きに満ち溢れている。
細枝開雪朶
一點似君情
願化融陽照
寒氷盡自輕
(光理)
細枝に雪朶開く。
一點、君情に似たり。
願わくは融陽と化して照らし、
寒氷尽く自ずから軽からん。
友人たちが、先の露頭であれこれと考えを巡らせている間、涼景もまた試行錯誤を重ねた挙句、どうにか自力で木を降りることに成功した。
枝の上でくつろぐなど、慣れていない彼には心地の良いものではない。自分の身の安全を考えて、とりあえず地面の上にいた方がいい。
やっとの思いで降りてきた木を見上げ、涼景はため息をついた。あの二人には決して見せられない、情けない顔になる。
「確かに、猫でも登れるのにな……」
玲陽が言っていたことを思い出す。
慣れないことをしたために、普段は使わない体の節々がこわばっている。
日にあたって乾いた場所を探すと、涼景は四肢を投げ出し、腕を枕に寝転んだ。
「猫なら、陽だまりで居眠りしていても叱られまい……」
穏やかな日差しと、心地よい風、誰からも見つからない山の中。近くには、信頼する友人がいて、必ず迎えに来てくれる。
久しぶりに深い安堵と重たい疲れが、涼景の意識を瞬く間に眠りの中へ引き込んでゆく。
夢の中で、自分はじっと、山に暖かな季節が来るのを待っていた。
枝の上にいるのだろうか。
地面がはるか下に見える。
紅色の梅の花が、静かにすぐそばで自分を見つめていた。
不思議に思って、さらに周囲を見れば、自分が梅の木になり、その花は自分が咲かせたものだとわかる。
そうか、俺は……
わざわざ探して歩くより、自分が梅になった方が早いな。
夢ゆえの不思議さで、疑問もなく、彼は思った。
ふと、視界に動くものが入る。
一人の少女が、白い息を吐きはがら、あたりをきょろきょろと見回し、何かを探しながらこちらへくる。
ほら、花が咲いたぞ。
涼景は呼びかけようとして、声が出ないことに気づいた。
少女は自分には気づかない。
ただ、一生懸命に枝から枝へ、せわしなく目を向けている。
近づくにつれ、涼景には少女が誰か、はっきりわかった。
燕春だ。
自分が愛してやまない、たった一人の実の妹。
「兄様! 涼景!」
精一杯の声で、彼女は自分を呼んでいる。
「どちらです?」
俺はここにいる!
答えたくても、答えられない。
なぜ、見上げてくれない? おまえの、すぐそばにいる。
春! 俺はここだ!
涼景は胸いっぱいに叫んだが、声は出ない。
「兄様!」
苦しそうに呼びながら、燕春が自分の下を通りすぎ、遠ざかっていく。
春!
涼景は振り返ろうとした。後を追おうとした。
だが、今の自分は梅の木だ。動くことはできない。
小さくなっていく燕春の声が、彼の心を締め付けた。
「ああっ!」
自分の声に、涼景は目を覚ました。
体を確かめると、元通り、人である。
ただの夢。
涼景はぼんやりと、空を見上げた。
都はまだ冷えるが、歌仙はもう、至るところで梅が咲いているだろう。
探すまでもなく、屋敷の庭から、山々を彩る紅白の梅が眺められる季節だ。
身体の弱い妹は、間近で梅の花を見たことはない。
深院君難出
山寒獨探梅
願持芳一朶
為綰黒雲來
(仙水)
深院、君 出づるに難し。
山寒くして、獨り梅を探む。
願わくは芳しき一朶を持ち、
黒雲の來るを為《ため》に綰かん。
一枝、取ってきてやろう、と言ったことがある。自然に咲くものをむやみに傷つけるな、と妹に叱られたことを思い出した。
『私は、兄様と一緒にいたいのです。梅の花はただの口実』
そう言って、燕春は涼景の頬に口付けた。
あの頃は、穢れとは縁遠く、そして、自らの感情に素直であった。そして、怖さを知らなかった。
だが、今は違う。
燕春は年齢を重ね、物事を理解し、女になった。
ただの兄妹の触れ合いの域を越えてしまった二人に、引き返す道はない。せめて、できる限り、遠ざかること。
はるかな距離だけが、救いだ。
玲陽を迎えに歌仙に戻った時も、自宅には最初の夜しか立ち寄らなかった。
そばに燕春を感じれば、自制心を保つ自信はない。
我知らず、涼景は片手で目頭を押さえた。
時がたてば、燕春とて、自分から離れていくだろう。
そんな願いのような祈りは虚しく、彼女が自分を恋慕う心は、時折届く文から、苦しいほどに伝わってくる。いつも、最後まで読むことができず、かといって手放すこともできず、涼景の文箱には、細い線で書かれた熱い想いだけが溜まっていく。
涼景の胸中を知っているのは、犀星と蓮章だけである。おそらく、今では宝順も勘づいているに違いない。一族を守るという理由だけで、ここまでの屈辱に耐えられるほど、手ぬるい扱いは受けてはいない。
『お前は、年の離れた若い娘が好みか?』
一度、宝順にそう、問われたことがある。
その時は適当にはぐらかしたが、燕春のことを言っていたのは間違いなかった。
犀星たちの気配は、遠のいたままだ。
まだしばらくはかかりそうだ。
涼景は、手頃な枝を拾うと、木の根本に突き立てた。ここで待っていろ、という記しである。
そうしてから、ぶらりと、足場の良さそうなところを探しつつ、南へと向かう。
「そもそも、梅の開花を調べに来たんじゃなかったのか」
草を分けて進みながら、涼景は、忘れたい思いを振り切るように、一歩一歩を踏み締めた。
宮中では滅多に嗅ぐことのない、泥の匂い。そして、冷たく心地よい湿気を含んだ風。葉を落とした木にも、しっかりと宿る命。
燕春からの手紙とは別に、自分が家のことを任せている女官長からも、定期的に妹の体調についての正確な報告が届いている。それによれば、毎年冬場は床につききりで、起き上がる力もないほど、食も細くなるらしい。
燕家はかつての名家ではあるが、今は没落の一途を辿っている。だからこそ、涼景の出世が家の頼みであり、それを願って両親は息子を都へ送り出した。今では、涼景一人の肩に、遠縁も含め、全ての血族の命運がかかっている。十分過ぎる俸禄も、彼の手元にはほとんど残らない。
それでも、燕春にだけは辛い思いをさせないよう、どうにか工面して送っている。
一人で歩いていると、いろいろなことが思い出される。
自分が初めて私情で人を殴ったのは、数年前、ちょうどこの時期に本家に戻った時だった。
あれは先代・父の八回忌、親族が集まっての宴席の後、酔いを覚ましに庭に出た時、遠縁の男たちが話している会話が、偶然聞こえてきた。
『どうせ、永くないのだから、妹に金を使うのは無駄じゃないか。そのぶん、こちらに回して欲しいものだ』
酒が入ってのこと。
その場限りで収められたが、涼景ははっきりと拳の感触を覚えている。
どれだけ、戦場で敵を手にかけても、そこには感情などなかった。
戦いは責務であり、人を殺めることへの罪悪感は、何千人殺そうとも消えるものではない。
だが、あの時、親族を殴ったのは、明らかに自分の感情だった。悔しさと、悲しさ、憎しみか恨みか、やり場のない怒り。
相手が一撃で気を失った上、周囲も止めに入ってくれたが、そうではなければ、本当に殺していたかもしれない。あの時ほど、自分で自分が恐ろしいと思ったことはない。
親族のほとんどが燕春に同情的だ。
しかし、人の数ほど考え方は違う。正誤を決めつけるほど涼景も世間知らずではない。それでも、自分なりの正義は持っている。完全に相反したとき、やはり、感情に流されるのは、人間として避けられないことなのかもしれない。
「春……」
無意識に、涼景は呟いた。
その名を、人前で口にすることはない。
名を呼んだだけで、心を見抜かれてしまいそうで、涼景は常に何かに怯えていた。
また、取り止めのない記憶がよぎる。
『なぁ、一人でする、って、普通なのか?』
あれは、犀星が二十歳になる前、二人で酒を飲んでいた時だった。突然の問いかけに、涼景は一瞬、何のことかわからなかった。
『東雨が言うんだ。自分ともしない、一人でもしない、大丈夫なのか、って』
思わず酒を吹き出しかけたのを覚えている。
犀星は帝の血を引いている。
不用意に落胤を残さないよう、女と交わることは禁じられていた。そのため、性処理については男性相手か、自分で始末するしかない。そのために東雨も性技を仕込まれていた。
あの時は、さすがに参ったな。
涼景は記憶をたどり、苦笑いした。
実のところ、涼景とて人並みに処理する程度のことは自然とあった。
だが、その度に深い自己嫌悪に苛まれた。
思わず、口から出るのは、妹の名。目を閉じて想像するのは、その体。あられも無い姿で自分にすがる燕春を想像して、涼景は達した。自らが汚した手を見たとき、彼は泣くより他に、何もできなかった。
この手で、再び妹に触れることなどできない。
潔癖なまでに、涼景は数日、自分を責め続け、激しい後悔で狂いかけた。
涼景のそばにいた犀星と蓮章が、彼の様子がおかしいことに気づいた。二人に問い詰められ、涼景は観念して妹への想いを明かしたのだ。あの時の光景を、今でもはっきりと覚えている。
犀星は清めるように、そっと手を握ってくれた。
蓮章は背後から暖かく、抱きしめてくれた。
胸のつかえが消え、呼吸が楽になり、ようやくまとわりついていた霧が晴れた。
妹を思ったのは、あの時、一度きりだ。それに懲りて、たまらなくなる時は花街に逃げる。
もう二度と、考えたくない。
そういう意味では、燕春を想像する余裕もない宝順との閨は、涼景にとってはまだ気が楽なのかもしれない。
犀星も蓮章も、あれ以来、燕春のことを口に出すことはなかった。今までと変わらずに、自分を信じ、支え、苦楽を共にしてくれている。
犀星の母は、犀遠との仲を引き裂かれ、先帝に手篭めにされて犀星を身ごもった。犀星は、女であることを望まれていながら、男として生まれてきた。そして、自分が生まれることで、母を苦しめ、死に追いやった。
蓮章の出生は、本人も語らないが、複雑な事情があるらしい。ここまで腹を割って話せる仲でありながら、その一点だけは、彼から聞かされたことはない。涼景もまた、無理に問い詰めるつもりもない。
「人の心とは、ままならない」
誰が聞くわけでもない。足を止め、涼景は行手の木の枝を見上げた。その視線がひとところに止まる。
じっと立ったまま、静かに呟いた。
「望む人と結ばれることは、冬山に梅を見つけるより難しい」
彼の視線の先には、薄紅色をした、小さな梅の花がひとつ、誇らしげに開いていた。
病弱ゆえ、外出もままならない燕春は、こんな景色を見ることはない。
それどころか、いつまで、命があるか、それさえわからない。
生まれ変わるなら、梅の木になれ。紅でも白でも構わない。おまえの花を、誰よりも早く、俺が見つけてやる。
熱い涙が、涼景の頬を伝って、残雪の上に落ちた。
燕春がこの世を去ったのは、この年の暮れであった。
だがそれを、涼景が知ることは永遠になかった。
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