新月の光

恵あかり

文字の大きさ
34 / 70
外伝 流(不定期連載)

探梅

しおりを挟む
​ 玲陽が都に来て、初めての冬が終わろうとする頃の、五亨庵。
「星、お茶にしませんか?」
 慈圓が用事で出かけて二人きりになると、玲陽は休息の準備をして長榻に犀星を招いた。
「朝から、一度も休んでいませんよね? 少し、根を詰め過ぎです」
「だが……」
「何をお考えですか?」
 玲陽は犀星の席まで行くと、手元を覗き込んだ。
 都の外側の田畑が描かれた絵地図である。
「今年は、後に回していた南西の河川工事を計画してみようと。手伝ってくれるか?」
「勿論です」
 玲陽は興味津々で地図を見た。とがめる者がいないのを幸いに、犀星は隣に立った玲陽の腰を引き寄せた。ついでにそっと撫でる。
「このところ、干ばつや洪水のたびに、畑の被害が甚大になっている。気候が変化しているのかもしれない。今までの治水対策では追いつかない」
 玲陽は犀星の手をどうしたものかと迷いながら、
「それで、新たに整備を?」
「ああ。早めに現地を見に行きたいと思っている」
「お役に立てるよう、精一杯努めさせていただきます、歌仙様」
 玲陽はわざとらしく、そう笑った。つられて、犀星も破顔する。二人なら、何倍もの力が出せる。その相手が玲陽なら、本当に何でもできると確信する。
「陽」
 仕事中らしからぬ甘い呼び声に、玲陽はそっと応えて、犀星の上体を抱き寄せた。
「休憩をしないのは、気を抜いたら甘えたくなるから、ですか?」
 犀星は玲陽の胸もとに顔を押し当てて、甘い香りにうっとりと目を閉じた。
「確かに、こんな姿を玄草様に見せるわけにはいきませんね」
 玲陽は、犀星の不思議な色合いの髪に頬を寄せ、苦笑した。
 光が溜まる五亨庵が、柔らかく二人を包み込む。抱きしめ合う二人の心音が重なり、呼吸が溶け合って甘く香る。
 冬は確実に遠ざかり、春は確実に近づいてくる午後。まだ肌寒い中で、互いの温もりは宝玉よりも価値がある。次第にうっとりとそこに浸り、時間の感覚が遠ざかる。
「……おまえたち、何をしているんだ?」
 ビクっとして、二人は声を振り返った。
 五亨庵の入り口に、涼景が腕組みして立っていた。
「涼景様、いつの間に……」
「近くを通りかかったから、覗きに来てみれば……」
 すっかり呆れ顔で、涼景はため息をついた。
「いつもこうなのか?」
「い、いえ、偶然、その、玄草様がいらっしゃらなかったので……」
「ほう?」
 涼景は目を細め、玲陽は肩をすくめた。犀星が無言で絵地図に目を戻す。
 いつものように涼景は中央に降り、長榻に腰を下ろした。上目遣いに犀星を見て、ふっと、唇を緩める。
「他の連中がいないと、いつもこうか?」
「この冬はもう、火を焚かないことにしたので、ちょっと寒くて」
 玲陽が照れ隠しの言い訳を挟む。涼景はさらににやりとした。
「それで、温め合っていた、と?」
 ポッと頬を赤らめて、玲陽がうつむく。
「その方が経済的だ」
 さらりと犀星が答えた。
「そりゃ、何より」
 うろたえる玲陽を、涼景はさも面白そうに眺めていた。
「本当に、おまえたちは仲がいいな」
 涼景は勝手に茶を注ぎながら、
「別に、責めてなどいない。おまえたちが幸せでいてくれると、俺も嬉しい」
「涼景様……」
 玲陽はくつろいだ涼景の前におとなしく座り、両手を膝に揃えて湯気を見た。
「茉莉花茶です」
「おまえが好きなやつだな」
「ご存知でしたか?」
「ああ。昔からよく、星が言っていた。大切な人が好きなのだ、と」
「大切……」
 玲陽は繰り返し、また、照れて黙りこむ。犀星は自分の席から長榻を見下ろした。
「陽をからかうな」
「だったら、おまえもこっちに来て話をしろ。どうせ、仕事詰めで気も休まらないんだろ?」
「俺は、陽がそばにいてくれたら……」
「ああ、わかったわかった!」
 涼景が遮る。
「惚気は晩酌の時にでも聞いてやる。酒が入らないと、こっちまで照れくさくなる」
「涼景様……」
 玲陽は、遠慮がちに、
「あの、東雨どのは?」
 涼景は瞬時に真面目な顔に戻ると、
「大丈夫だ。だいぶ回復している」
 玲陽は苦しそうに胸を押さえた。その仕草を見て、素早く犀星は席を降りると、玲陽を押し倒すように長榻に並んで座る。涼景は唇の端を歪めた。
「星、おまえ、本当にわかりやすいな」
「それより、俺たちも東雨のところに行きたいのだが?」
「まだ、待て。おまえたちが動くと目立つ。もう少し、ほとぼりが冷めるまでは、安寿様と俺に任せておけ」
「ですが……心配で」
 玲陽は自分の腕を抱いた。外側から、犀星が抱えて引き寄せる。涼景は安心させるように微笑んだ。
「体は確実に癒えてきている。命の危険は脱した。あの傷は一生痛むだろうが……」
「一生の傷……」
 玲陽は犀星の着物を握りしめた。密着する体に震えが走る。犀星に触れてさえ痛む、玲陽の背中。同じように、東雨に刻まれた、生涯の傷。それを思うと、胸が詰まった。
「まぁ、これで良かったかどうかは、あいつが決めることだ」
 涼景は茶を含みながら、
「情報は針の縫い目からでも漏れるもの。東雨の生死についてはすでに宮中に知れ渡っているだろうが、宝順さえ黙認してくれれば、波風を立てるものはいないだろう」
 犀星は形の良い目元を曇らせた。
「今のところ、兄上からは何もない」
「殺してしまえばそれまでだが、生かしておけば、また使い道がある、と考えたのだろう」
「これ以上、手出しは許さぬ」
 誓いのようにつぶやき、犀星は玲陽を抱く腕に力を込めた。涼景がやれやれと首を振る。
「陽も東雨も離したくない、か。まるで、わがままな子どもだな」
「どう思われても構わない」
 犀星は静かに、
「俺はただ、穏やかに生きて欲しいだけだ」
「おまえと一緒では、穏やかさなど無縁だと思うが」
 犀星が軽く涼景を睨む。涼景は逆にいたずらに笑い返した。
「あいつが親王づきの近侍になれば、おまえも今より、自由に出歩ける」
「すでに勝手に出歩いて、暁隊の皆さんにはご迷惑をおかけしています」
 玲陽が小声で告げ口する。
「こいつは、昔からそうだ。俺が何度言っても聞かない。隊士も十分、諦めている」
「自由奔放に育ち過ぎました、私たち」
 涼景は暖かな茶の香りを楽しみながら、
「確かに、宮中は窮屈だろう。歌仙の野山を駆け回っていたおまえたちからしたら」
「懐かしいです」
 玲陽は両手を湯呑みで温めながら、
「昔、この季節になると、よく山深くに入りました。梅を探して……」
「探梅、か」
 涼景は興味深そうにつぶやいた。
「何代か前までは宮中行事だったが、廃止になったんだ。雪解けの山道で難儀をする、ということで。今は庭園の梅見の会に変わった」
「よかったな」
 犀星は傍に絵地図を広げながら、
「おまえの仕事が一つ、減ったわけだ」
「そうだな。宝順では、自分の足で歩くとは絶対に言わないだろうからな。かといって、馬も進めん。輿の担ぎ手が酷い目に合う上、梅を探すのは俺たちの仕事になる」
「何のための山歩きか、わからないですね」
 玲陽が苦笑いする。
「全くだ。あいつは花より色、だから」
「涼景、次に体が空くのはいつだ?」
 犀星は絵地図を指して、
「調べたいことがある。この山へ、行きたいんだが」
「は?」
 涼景が顔をしかめる。
「まさか、おまえ、公休に俺を使う気か?」
「仕方がないだろう? 近衛なしで出歩くな、と、右近衛隊長に言われている」
「…………」
「おまえが無理なら、別の……ああ、蓮章でもいい」
「あいつには言うな。仕事を増やしたら、あとで俺がどんな目に会わされるか……」
「だったら、やはり、おまえしかいない」
 涼景は諦めの息をついた。
「わかった。何を調べに?」
「梅の開花」
「は?」
 再び、涼景は度肝を抜かれた。
「探梅だ。陽の体力をつけるにも、ちょうどいいだろ」
「そりゃ、反対はしないが……危険だぞ」
「だから、おまえに頼んでいる。俺に何かあったら、おまえが咎を受けるんだろう?」
「それはそうだが……」
 涼景は苦い顔をした。
「兄様、涼景様はお疲れですから、お休みの日まで連れ回してはお可哀想です」
「陽……」
 わかってくれるか、と、涼景は玲陽を見た。玲陽はにっこりして小首を傾げ、
「ですから、私たちだけで行きましょう」
「そういうことじゃない……」
 涼景の期待は、見事に裏切られた。



入嶺尋殘雪
春禽已自聲
願攜梅一朶
初發祝君榮
(​伯華)

みねに入りて残雪を尋ぬ。
春禽しゅんきんすでに自ずから声す。
願わくは梅一朶ばいいちだたずさえ、
初めてひらきて君の栄えを祝わん。



「ついでに、このあたりの川の様子を見たいんだ」
 こっちが本命だ、というように、犀星は絵地図を涼景に示した。
「今年は、南西の治水を行いたい。昨年、台風で酷い被害が出ている。二年続けて畑が荒れては、皆、窮するだろう」
「そういうことなら、名目が立つ。わざわざ、俺の休日を返上しなくてもいい」
「視察計画書はできている。護衛の指名はおまえに任せる。陽が同行することは絶対だ」
 犀星が顔を上げると、涼景は、任せろと頷いた。
「梅の花……」
 玲陽はぼんやりと宙を見ていた。
「兄様。梅の木って……」
「うん?」
「いえ……」
「なんだ?」
「その……一番、仙界に近い木と言われています。だから……」
「待て、陽!」
 涼景が、玲陽の言葉の続きを止める。
「お前が『嫌な予感が……』とか言い出すと、決まって本当に厄介なことが起こるんだ。だから、せめて、思っても、口にはしないでくれ」
「別に、悪いことじゃないですよ」
 玲陽は安心させるように微笑んだ。
「逆です。梅の木は、仙界への通り道。その人の夢幻の願いを叶えてくれると言われているんです。悪い話じゃないでしょう?」
「そ、そうか。よかった……」
「涼景、おまえ、相当疲れてるな」
「その俺を巻き込もうとしているのは、どこの誰だ?」
 犀星はじっと、涼景を見つめて、
「おまえを、信頼しているから」
「……こいつ」
 犀星の殺し文句に、何度、無茶をさせられてきたことか。
 そんな二人のやり取りを、玲陽は微笑ましく見守る。
 まるで、兄弟みたいだ。
 面倒見の良い兄と、それをうまく操る弟。
 そんな関係が、涼景と犀星の間に見えて、玲陽は心から平穏を感じる。
 こんな時間が、長く続けばいい。
 梅の木を見つけたら、そう、願い事をしよう。
​ 玲陽は冬の寒さも忘れて、じゃれ合うように言い合う二人を、いつまでも眺めていた。

 趣ある梅の探索とは裏腹、この季節の山道は雪解けでぬかるんで足場が悪い。
 特に、犀星が示した山の状況は酷く、人が入った形跡もない。
「いい所ですね」
 玲陽はしっかりと足元を固めた服装で、山歩きに備えている。犀星も同様に慣れた様子だ。
 涼景は、とりあえず言われた通りに支度をしてきたが、実際に歩き始めると、その困難さを思い知った。数々の戦場を渡り歩いてきたが、大軍を動かすため、地盤のしっかりした場所を選部ことが多い。遊撃で動く場合も、ここまでの悪路を通ることはない。
 山の麓に近衛隊を残して周辺の警護に当たらせ、涼景は犀星と玲陽を追った。
「おい」
 難なく進んでいく犀星たちに遅れをとって、涼景は呼び止めた。
 何事か、と二人が振り返る。
 犀星はともかく、玲陽は体力的に落ちているはずだ。それなのに、軽々と山道を登ってゆく。
「大丈夫か?」
 犀星が引き返してきて、涼景の足元を見る。
「ちゃんと、足場を選ばないと、疲れるだけだぞ」
「足場って……どこも泥が深い上に、下手に雪を踏めば滑るし……」
「涼景様にも、苦手なものがあったんですね」
「おまえたちが慣れすぎなんだ」
「陽、先頭を頼む。俺が後ろに回るから」
「わかりました」
 今までの涼景は、この二人に劣等感を感じた事はなかった。自分より優れた面は知っていたが、それは素直に尊敬し、友人として自慢でもあった。
 同時に、武芸に関しては決して負けない自負があった。それは立場上、譲ってはならない領分でもあった。
 馬の駆け合い、戦場での動き、武術や戦略に至るまで、全て自分が率先して犀星の面倒を見てきた。だが、単純な春山の歩き方については、両者の方が一歩も二歩も先である。さすがの涼景も認めざるをえない。
 犀星が目指しているのは、山の中腹にある切り立った露頭だった。そこからは都の南西側の一面が見渡せる上、川の流れや、畑の面積、家屋の状況、残雪など、しっかりと確認できる。その情報に氾濫区域の地図を重ねれば、やるべき治水工事の全容が見えてくるはずだ。
 涼景に治水はわからない。だからこそ、せめて自分はこの二人が自由に動けるように、と山歩きを許可した。
「こんなに酷いとは……」
 悪路に苦戦しながら、暁将軍は愚痴をこぼした。
 玲陽はできる限り足場のしっかりした場所を選び、一歩一歩ゆっくりと歩いてくれた。犀星は涼景がずり落ちないよう、時折背中を支えてくれる。涼景にはどこも同じに見える泥道だが、彼らには足場が良し悪しの判断がつくらしい。
 さらに問題は草木だった。この山には、人が通る道はない。道なき道を行くとはまさにこのことである。
 こんな情けない思いは、いつ以来だろうか。
 涼景は、玲陽が歩いた足跡を追いかけた。犀星は二度踏まれた場所を少し避け、それでも安全な場所を確保しながらついて行く。これは、まさに経験からしか学べない技術だった。
 そうして進むうちに、次第と草木はその深さを増していく。
「兄様」
 玲陽が振り返る。
「荊《いばら》ですね。迂回しますか?」
 犀星は少し考えてから、
「まっすぐに行こう」
 涼景を驚かせる返答が返ってきた。
「おい、ちょっと待て。おまえたちに、かすり傷一つつける訳にはいかないんだ」
 涼景の言い分を、二人は気にした様子はなかった。犀星はわずかに笑って、
「別に、このまま踏み入るわけじゃない」
 玲陽もにっこりした。
「涼景様なら、刀で斬ります? それとも焼き払いますか?」
 涼景は返答に窮して、意地の悪い友人を交互に眺めた。三人でいる時、彼らの間には悪ふざけが混じる。もしかすると、自分はそれを求めて、苦労がわかりきったこの役目を引き受けたのかもしれない。
 涼景が迷っているうちに、荊はいよいよその茂りを濃くし、もうこれ以上一歩も先へ進めない状態になった。
「では、突っ切りましょう」
 玲陽が涼景を振り返った。
「涼景様、木登りはお得意ですか?」
「は?」
 涼景は首をかしげた。玲陽は木を見上げた。
「幸い、この辺はまだ葉が出ていませんので、登るにはうってつけです」
「……本気か?」
「暁将軍は、木に登った経験がなかったか?」
 後ろから犀星がからかう。
「将軍になるためには必要ないですからね」
 玲陽も、犀星の言葉に乗じる。
 涼景は複雑な心境で、高く伸びた楓を見上げた。大木は今、葉を落とし、太い枝が力強く張っている。
 玲陽は近くの何本かを確かめ、その若さを確認していた。老木であれば、思わぬところで折れる可能性がある。見誤れば大怪我をする。子供の頃、何度も危険な思いをしている。
 玲陽が選んだ木を見て、犀星も頷いた。
「なぁ、本当に?」
 最後の救いを求めるように涼景が言った。二人は情け容赦なく、揃って頷いた。
 まずは玲陽が幹に手をかける。体の回復を考えれば、木登りなどまだ難しいように思われたが、あっという間に幹を伝い、手頃な枝まで上がってしまった。
「涼景様は縄を使ったほうがいいと思います」
 玲陽の言葉に、犀星は荷物から荒縄を取り出し、ちょうど腕を広げたほどの長さに刀で切ると、涼景に渡した。
「おい、これをどうするんだ?」
「引っ掛けて登るんだ。おまえ、本当に登り方を知らないのか?」
 犀星はここまでは冗談だったが、さすがにまるで経験がない涼景に呆れ顔である。
「とにかく、陽の登り方を見ておけ。お前は腕の代わりに縄を使え」
 さっぱりわからない、というように、困惑しながら、涼景は玲陽を見た。
 玲陽は小さな幹の凹凸に足先をかけ、幹を抱くような姿勢で構えた。足場を踏み、それをもとに体を伸縮させ、上のほうに手をかけ、また足を上に上げ、さらにそこから上に向かって伸び上がり、幹に回した腕に体重をかけながら、まるで尺取り虫のように上がってゆく。
「神業だな」
 涼景が思わずつぶやいた。
「これぐらいのこと、五歳の子供でもできる」
 犀星は軽く言った。
「陽は腕を使えるが、おまえは代わりに縄を使ってみろ。慣れていないと、素手は危ない」
「あ、ああ……」
「心配するな。落ちたら俺が支える。それとも一番後ろで置いて行かれたいか?」
 仕方なく、涼景はため息をついた。これはある意味、一種の試練だ。剣術の稽古や作戦を立てるより、どんな強者と一騎討ちを交えるより、あの宝順と一夜を過ごすより、違った意味で命がけである。
 そういえばしばらく、こんな胸躍ることをしていなかったな
 涼景の好奇心が湧き上がってくる。
「よし、やってみるか」
 涼景はやり方だけ教わると、自分から木に取り付いた。友人の前で恥ずかしい格好は見せられない。仮にも暁将軍と言われる涼景である。腕力には自信があった。体力も二人に負けはしない。体の使い方も決して鈍い方ではない。
 はじめこそ、危なっかしい動きであったが、やがて容量を得ると、するすると登って行く。
「さすがは涼景様です!」
 上の枝に腰掛けて玲陽が言う。
「慣れてしまえば難しい事はありません。猫だって気に登れるんです」
「猫と比べるな」
 涼景は汗のにじんだ額で玲陽を見上げ、ニヤリと笑った。
「気を付けろ、表面に苔があると滑りやすい」
 犀星が注意を促す。
「この時期の苔は凍結しています。氷と同じだと思ってください」
 二人から学びながら、涼景はどうにか一番下の太い枝までたどり着いた。その頃には、玲陽はもう一つ上の枝に移動している。
 あれだけ道をふさいでいた荊が、今ははるか下である。
 目の前には、力強く枝を広げた高木が、空の向こうまで続いている。
 方向から見て、何本か先が目的の露頭だ。
 真っ直ぐ行く、とはこういうことだったらしい。納得はしつつ、涼景はその発想の突飛さに、面白い友を持ったと嬉しくなる。
「で、ここからどうするんだ?」
 涼景はとりあえず枝で一息つきながら、まだ幹に取り付いている犀星に言葉をかけた。
「まさか、枝を渡っていくとか言わないよな」
 涼景の冗談に、玲陽は真剣な顔で頷いた。
「大丈夫です。任せてください」
「え?」
 呆気に取られている涼景には構わず、玲陽は自分の荷物の中から、細めの縄を取り出した。その先には分銅がついている。まるで恐ろしいものでも見るように、涼景は息を呑んだ。
「なんだよ、それ……」
「どこかで見た事はありませんか?」
「……攻城戦の時に使う、鉤縄に似ているが?」
「そうです。鉤だと、木を痛めるので、分銅に変えてあります」
 玲陽は、見極めた枝に向かって縄を放り投げた。見事に縄が枝に引っかかり、分銅が遠心力でくるくると回転し、固定される。
「縄と枝の摩擦で、私たちの体重くらいは支えてくれますから」
「それで、どうやって向こうまで……」
 涼景は嫌な予感しかしなかった。
「こうやって」
 玲陽は足場にしていた枝に立ち上がると、軽々とそれを蹴って、分銅が巻き付いた枝の一本下に飛び移った。
「…………」
 今見た光景が信じられず、数瞬、涼景は瞬きを忘れた。玲陽は縄を外すと、
「こんな感じで、渡っていきます」
「いや、こんな感じって……いきなりは無理だろ!」
「無理じゃありません。今、私がやりました」
「だから、おまえにできても、俺には……」
「涼景、おまえの分の渡り綱」
 気づけば、すぐ横まで来ていた犀星が、分銅付きの縄を涼景に差し出している。
「ほ、本気かよ……」
「陽、一本先へ。涼景は俺が一緒に飛ぶ」
「わかりました」
 玲陽は自分の綱を外して、さらにその先の枝に巻きつけ、軽々と渡る。
「自分が飛び移りたい枝の、少し手前の上を狙え。木の枝は、少しずつずれて伸びている。体が勢いで振られて、ちょうど速度が弱まったあたりで足を着けるように決める」
「理屈はわかるが、そんなに簡単には……」
「陽はこういう時に道筋を読むのが得意なんだ。あいつが使った枝を使えば、うまくいくから」
 犀星は、何でもない、という調子で涼景を力づけるが、涼景はそれどころではない。
「とにかく、やってみろ。無理そうだったら、ここで待っていてくれていいから」
「そんな訳に行くか!」
 すでに、護衛の域を超え、意地になって涼景は縄を構えた。
 攻城戦で鉤縄を使う訓練は積んでいる。それと同じ……
 自分に言い聞かせ、玲陽が選んだ枝を目掛けて縄を放る。だが、攻城戦と違うのは、足場が頼りない枝の上、ということだ。思わず癖で片足を後ろに引いたが、そこには踏むべき大地がない。一瞬で全身に汗が噴き出した。
 犀星が、体勢を崩した涼景を、器用に支えた。
 涼景は観念した。
「すまん、星。俺は足でまといだ。ここからは二人で行ってくれ」
「いいのか? 護衛なしで勝手に動いて」
「この状況で、おまえたちに護衛は必要ない」
「そうか。じゃあ、ここに座って、幹にもたれて休んでいろ。帰りもこの枝を通るから、迎えにくる。心配するな」
「残念だが、そうさせてもらう」
 残念、というより、心底、悔しそうな涼景を見て、犀星は目を細めた。
「気にするな。無茶を言ってると承知している」
「おまえたち、生まれる場所を間違えたな」
「うん?」
「俺なんかより、よほど優秀な将軍になっていた」
「俺はともかく……」
 犀星は声を低めた。
「陽は、戦いは好かない」
「……そうだな」
 涼景は犀星の手を借りて、楽な姿勢に座りこんだ。
「星、気をつけろ」
「ああ。視察を済ませたら、すぐに戻るから」
「俺のことは気にするな」
 涼景はすっかり自分の敗北を認めていた。
「本当は、陽に、自信をつけさせたかったんだろ? 自分はもう、思うように動ける、と」
 犀星は真顔で涼景を見た。
「おまえが、陽のためにしか行動しないことは知っているさ」
「見くびるな。俺はおまえのことも考えている」
「そうか?」
「そうだ」
「その結果がこれだぞ」
「いい気晴らしになっただろ?」
「……負けたよ、おまえには」
 涼景は柔らかく笑った。
「兄様? 大丈夫ですか?」
 先をゆく玲陽が振り返って叫んだ。涼景は優しく笑った。
「行けよ。ここから先は、おまえたちだけの世界だ」
「……わかった」
 犀星は顔を上げた。
 玲陽の後を追って、犀星は枝を飛び移っていく。二人が器用だということは知っていたが、まさかここまで差があるとは……
 涼景は悔しさを通り越して、素直にその特技を認めざるを得なかった。

 犀星と玲陽は、軽快に枝を渡り、あっという間に目指す露頭へたどり着いた。
 玲陽が近くで居心地の良い枝を選び、よじ登る。息を吐き、景色を楽しむように幹にもたれてゆったりと座る。犀星はそのすぐ下の枝に陣取り、近くの枝に荷物を引っ掛けて身軽になってから、竹簡と小筆を取り出した。
 景色を目の奥に記憶し、思い出すために必要な走り書きを残す。
 一面に広がる雪解けの大地は、様々な色が入り混じっていた。地平のあたりはまだ白や灰色で、近くなるほど茶と黒、まばらに緑もある気がしたが、ほとんどは濡れた枯れ草に覆われていた。
 細く走る際立った線は、農地を区切る道である。土を積み上げただけで、ところどころが途切れている。それに沿って並ぶ木造の家は、半分以上が空き家だった。
 本来、畑として耕作されるべき土地は荒れて、何年も放置されている区画も多い。
 北西の山脈から一本の川が足元まで続いている。太久江から別れた、西の支流・京河けいがである。犀星が花街の治水に利用したのも、この豊かな水源であった。
 京河は川幅が伍江より広く、流れも穏やかで氾濫の少ない大河である。農地の中央を横切っており、農業用水として便宜が良い。
 玲陽は初春の透き通る風の中、川面のきらめきを眩しそうに眺めながら、足元の犀星に問いかけた。
「広大な平野と豊かな水源があるのに、どうしてこれほど区画が不統一で、人がいないのです?」
 犀星は遠くに目を向けた。
「このあたりは、もともと国有地だったが、長い間に貴人への褒賞として分配されたんだ。都に隣接するから、権力の集中を避けて、わざと不自由な形に切り分け、反目し合う家々に」
「意図的に地域の統一を妨げた、ということ?」
「そうなる」
 玲陽は、宮中の仕組みを思い出した。身近なところでも、左右の近衛隊の例がある。二人の親王の警護を左右に分ける、という業務上の細分化だけではなく、性格を異にする人材に任せることで結託を防ぎ、皇帝の権力を唯一のものとする計らいがあった。犀星が続けた。
「耕作しにくい上、他領に対する嫌がらせもある。災害時の責任の所在もあいまいで、農民にとっては不自由しかない。耕作権を放棄する者が増え、さらに管理者が不明瞭になり、農地として本来の能力を発揮できていない」
「悪循環ですね」
 玲陽は髪を耳に搔き上げた。風が裾を揺らし、動いて火照った体を静かに冷ましてくれた。
「せっかくの土地が、勿体無いです」
「ああ。ここが機能すれば、この冬のような食糧不足も緩和される。どうしても、手をつけたい」
 玲陽は頷いた。
「どうするつもりですか?」
「そうだな」
 犀星は事前に書き留めていた竹簡を探った。
「まずは、散乱している耕作権の確認からだ。書類上の所有者と合わせて、責任を明確にする。それから、五亨庵の名で区画整備を立案する。水路と地形に沿って耕作単位を再統合し、境界を明確かつ、複雑にならないよう整える」
「所有している貴人たちからの反発は?」
「あるだろうな」
 犀星は頷いた。
「しかし、彼らとて、ここを金と食糧を産む土地に変えたいのも本音。隣接する他家への見栄から協力を申し出られないだけのこと。俺はあくまで、その仲介に徹する。彼らは実より名を重んじる。そこを尊重してやれば、ことは運びやすい」
「確かに。そして、星が求めるのは、結果として付いてくる実のみ」
「そういうことだ」
 玲陽は表情を緩め、目を細めて景色を眺めた。その目の奥には、犀星の理想が現実となり、水路と土手で美しく綾取られた大地が見えるようだった。
「今まで、ここは粟の栽培が多かったが」
 犀星は静かに、
「最近は気温が下がりやすく、収穫が極端に落ちるようになった」
 玲陽は幾つかの植物を想像しながら、
「黍や高粱はこの辺りの気候には合わない。小麦もいいですけど、大麦の方がさらに寒さに強い。早春から蒔くことができますし、短い夏でも収穫が望めます。食用として調理もしやすく、様々な用途があり、主食として優れています」
「保存もしやすいから、冬季間も重宝するだろう」
 二人は視線を交わして微笑んだ。
 犀星の目が、青空より蒼くきらめく。
「やはり、おまえと一緒がいい」
 溢れた犀星の本音に、玲陽の胸が強く鳴った。嬉しさで自然と頬が赤らむ。
「自信を持って、進めることができる」
 玲陽は恥ずかしさを隠すように、声を抑えた。
「玲家がおさめていた土地は平野部がほとんどで、田畑の管理が主な仕事でした。叔父上は、犀家の領地だけではなく、私の家族が放り出していた平野部の管理にも、力を貸してくださいました」
 懐かしそうに、玲陽はゆっくりと語った。
「あの時はよくわからなかったですが、本当に良い勉強をさせてもらっていたのだと、今になって思います」
「そうだな。机上の空論ではなく、実際にその難しさを体験し、そしてやりがいを感じた」
「星なら、必ず、この仕事を成し遂げてくれます」
 玲陽は、楽しい遊びを前にした子どものように、声を弾ませた。犀星は少し空を見上げた。
「今年はこの一帯。来年は東、その次の年は……」
 犀星の視線がより遠くへ、やがて地平線へと伸びていく。
 玲陽は胸が熱くなるのを感じた。未来を語る犀星が、あまりに眩しい。
「すべての人々を幸せにはできない。けれど、せめて一人でも多くの人々を助けたい」
 犀星は玲陽を見上げた。
「俺は、おまえと再会して、思い知った。大切な人と共にいられること、ただそれだけが、どれほど意味があるかを知った。これはきっと、誰の身にも必要な生きる意味になる。その基盤を作りたい」
「あなたの力になれるなら、私は全力を注ぎたいです」
「陽」
「星。私はあなたの手足です。どうか、存分にお使いください」
 犀星はふと、唇を結んだ。
 自分が思っている以上に、玲陽は自分の近くにいる。自分が望む以上に、自分に尽くそうとしてくれている。
 その思いが何よりも犀星を力づけ、勇気を与えてくれる。
「頼りにしている」
「お任せください、歌仙様」
 玲陽が笑う。
 不意に、犀星は横を向いた。
「だが、一つだけ、訂正する」
「え?」
「おまえは俺の手足じゃない。心臓だ」
 思わず、玲陽は体がぐらついてヒヤリとした。
「それじゃ、一瞬たりとも休めませんね」
 冗談のつもりが、声は上ずっていた。
 二人は時を忘れ、眼下の景色を眺めながら、少年の日のように互いに夢を語りあった。
 この国の未来。まだ冷たい風が吹く中、二人の胸には暖かな希望が満ちる。膨らむ。
 枯れ果てた大地も、緑に色づき、やがて黄金色に輝き、人々の笑い声が溢れる。そんな世界が目に見えるようだった。
 玲陽は枝に立つと、大きく身体を伸ばした。
 久しぶりに存分に動き、心から世界を楽しんでいた。ちらりと犀星を見ると、真剣に筆を動かしながら、どこか幸せそうな笑顔である。
 名も知らぬ誰かのために。
 犀星の覚悟は、玲陽にとって何よりも、誇らしく、力強い。
 玲陽は周りを見渡した。木々の枝にはまだわずかに雪が積もり冬が残っている。残念ながら梅の木は見当たらない。
 だが、自分のすぐそばで、春を夢見て花を咲かせようとしている犀星の姿そのものが、厳しい冬の寒さにも雪にも負けない、美しい一輪の白い花に思われた。
 世界で一番、美しい伯華ひとを見つけました。
 その人の隣で過ごせる日々は、目がくらむほどの、輝きに満ち溢れている。



細枝開雪朶
一點似君情
願化融陽照
寒氷盡自輕
(光理)

細枝さいし雪朶せつだ開く。
一點いってん君情きみじょうに似たり。
願わくは融陽ゆうようと化して照らし、
寒氷かんぴょう尽く自ずから軽からん。



 友人たちが、先の露頭であれこれと考えを巡らせている間、涼景もまた試行錯誤を重ねた挙句、どうにか自力で木を降りることに成功した。
 枝の上でくつろぐなど、慣れていない彼には心地の良いものではない。自分の身の安全を考えて、とりあえず地面の上にいた方がいい。
 やっとの思いで降りてきた木を見上げ、涼景はため息をついた。あの二人には決して見せられない、情けない顔になる。
「確かに、猫でも登れるのにな……」
 玲陽が言っていたことを思い出す。
 慣れないことをしたために、普段は使わない体の節々がこわばっている。
 日にあたって乾いた場所を探すと、涼景は四肢を投げ出し、腕を枕に寝転んだ。
​「猫なら、陽だまりで居眠りしていても叱られまい……」
 穏やかな日差しと、心地よい風、誰からも見つからない山の中。近くには、信頼する友人がいて、必ず迎えに来てくれる。
 久しぶりに深い安堵と重たい疲れが、涼景の意識を瞬く間に眠りの中へ引き込んでゆく。
 夢の中で、自分はじっと、山に暖かな季節が来るのを待っていた。
 枝の上にいるのだろうか。
 地面がはるか下に見える。
 紅色の梅の花が、静かにすぐそばで自分を見つめていた。
 不思議に思って、さらに周囲を見れば、自分が梅の木になり、その花は自分が咲かせたものだとわかる。
 そうか、俺は……
 わざわざ探して歩くより、自分が梅になった方が早いな。
 夢ゆえの不思議さで、疑問もなく、彼は思った。
 ふと、視界に動くものが入る。
 一人の少女が、白い息を吐きはがら、あたりをきょろきょろと見回し、何かを探しながらこちらへくる。
 ほら、花が咲いたぞ。
 涼景は呼びかけようとして、声が出ないことに気づいた。
 少女は自分には気づかない。
 ただ、一生懸命に枝から枝へ、せわしなく目を向けている。
 近づくにつれ、涼景には少女が誰か、はっきりわかった。
 燕春だ。
 自分が愛してやまない、たった一人の実の妹。
「兄様! 涼景!」
 精一杯の声で、彼女は自分を呼んでいる。
「どちらです?」
 俺はここにいる!
 答えたくても、答えられない。
 なぜ、見上げてくれない? おまえの、すぐそばにいる。
 春! 俺はここだ!
 涼景は胸いっぱいに叫んだが、声は出ない。
「兄様!」
 苦しそうに呼びながら、燕春が自分の下を通りすぎ、遠ざかっていく。
 春!
 涼景は振り返ろうとした。後を追おうとした。
 だが、今の自分は梅の木だ。動くことはできない。
 小さくなっていく燕春の声が、彼の心を締め付けた。
「ああっ!」
 自分の声に、涼景は目を覚ました。
 体を確かめると、元通り、人である。
 ただの夢。
 涼景はぼんやりと、空を見上げた。
 都はまだ冷えるが、歌仙はもう、至るところで梅が咲いているだろう。
 探すまでもなく、屋敷の庭から、山々を彩る紅白の梅が眺められる季節だ。
 身体の弱い妹は、間近で梅の花を見たことはない。



深院君難出
山寒獨探梅
願持芳一朶
為綰黒雲來​
(仙水)

深院しんいん、君 出づるに難し。
山寒くして、ひとり梅をもとむ。
願わくはかんばしき一朶いちだを持ち、
黒雲のきたるを為《ため》にかん。



 一枝、取ってきてやろう、と言ったことがある。自然に咲くものをむやみに傷つけるな、と妹に叱られたことを思い出した。
『私は、兄様と一緒にいたいのです。梅の花はただの口実』
 そう言って、燕春は涼景の頬に口付けた。
 あの頃は、穢れとは縁遠く、そして、自らの感情に素直であった。そして、怖さを知らなかった。
 だが、今は違う。
 燕春は年齢を重ね、物事を理解し、女になった。
 ただの兄妹の触れ合いの域を越えてしまった二人に、引き返す道はない。せめて、できる限り、遠ざかること。
 はるかな距離だけが、救いだ。
 玲陽を迎えに歌仙に戻った時も、自宅には最初の夜しか立ち寄らなかった。
 そばに燕春を感じれば、自制心を保つ自信はない。
 我知らず、涼景は片手で目頭を押さえた。
 時がたてば、燕春とて、自分から離れていくだろう。
 そんな願いのような祈りは虚しく、彼女が自分を恋慕う心は、時折届く文から、苦しいほどに伝わってくる。いつも、最後まで読むことができず、かといって手放すこともできず、涼景の文箱には、細い線で書かれた熱い想いだけが溜まっていく。
 涼景の胸中を知っているのは、犀星と蓮章だけである。おそらく、今では宝順も勘づいているに違いない。一族を守るという理由だけで、ここまでの屈辱に耐えられるほど、手ぬるい扱いは受けてはいない。
『お前は、年の離れた若い娘が好みか?』
 一度、宝順にそう、問われたことがある。
 その時は適当にはぐらかしたが、燕春のことを言っていたのは間違いなかった。
 犀星たちの気配は、遠のいたままだ。
 まだしばらくはかかりそうだ。
 涼景は、手頃な枝を拾うと、木の根本に突き立てた。ここで待っていろ、という記しである。
 そうしてから、ぶらりと、足場の良さそうなところを探しつつ、南へと向かう。
「そもそも、梅の開花を調べに来たんじゃなかったのか」
 草を分けて進みながら、涼景は、忘れたい思いを振り切るように、一歩一歩を踏み締めた。
 宮中では滅多に嗅ぐことのない、泥の匂い。そして、冷たく心地よい湿気を含んだ風。葉を落とした木にも、しっかりと宿る命。
 燕春からの手紙とは別に、自分が家のことを任せている女官長からも、定期的に妹の体調についての正確な報告が届いている。それによれば、毎年冬場は床につききりで、起き上がる力もないほど、食も細くなるらしい。
 燕家はかつての名家ではあるが、今は没落の一途を辿っている。だからこそ、涼景の出世が家の頼みであり、それを願って両親は息子を都へ送り出した。今では、涼景一人の肩に、遠縁も含め、全ての血族の命運がかかっている。十分過ぎる俸禄も、彼の手元にはほとんど残らない。
 それでも、燕春にだけは辛い思いをさせないよう、どうにか工面して送っている。
 一人で歩いていると、いろいろなことが思い出される。
 自分が初めて私情で人を殴ったのは、数年前、ちょうどこの時期に本家に戻った時だった。
 あれは先代・父の八回忌、親族が集まっての宴席の後、酔いを覚ましに庭に出た時、遠縁の男たちが話している会話が、偶然聞こえてきた。
『どうせ、永くないのだから、妹に金を使うのは無駄じゃないか。そのぶん、こちらに回して欲しいものだ』
 酒が入ってのこと。
 その場限りで収められたが、涼景ははっきりと拳の感触を覚えている。
 どれだけ、戦場で敵を手にかけても、そこには感情などなかった。
 戦いは責務であり、人を殺めることへの罪悪感は、何千人殺そうとも消えるものではない。
 だが、あの時、親族を殴ったのは、明らかに自分の感情だった。悔しさと、悲しさ、憎しみか恨みか、やり場のない怒り。
 相手が一撃で気を失った上、周囲も止めに入ってくれたが、そうではなければ、本当に殺していたかもしれない。あの時ほど、自分で自分が恐ろしいと思ったことはない。
 親族のほとんどが燕春に同情的だ。
 しかし、人の数ほど考え方は違う。正誤を決めつけるほど涼景も世間知らずではない。それでも、自分なりの正義は持っている。完全に相反したとき、やはり、感情に流されるのは、人間として避けられないことなのかもしれない。
「春……」
 無意識に、涼景は呟いた。
 その名を、人前で口にすることはない。
 名を呼んだだけで、心を見抜かれてしまいそうで、涼景は常に何かに怯えていた。
 また、取り止めのない記憶がよぎる。
『なぁ、一人でする、って、普通なのか?』
 あれは、犀星が二十歳になる前、二人で酒を飲んでいた時だった。突然の問いかけに、涼景は一瞬、何のことかわからなかった。
『東雨が言うんだ。自分ともしない、一人でもしない、大丈夫なのか、って』
 思わず酒を吹き出しかけたのを覚えている。
 犀星は帝の血を引いている。
 不用意に落胤を残さないよう、女と交わることは禁じられていた。そのため、性処理については男性相手か、自分で始末するしかない。そのために東雨も性技を仕込まれていた。
 あの時は、さすがに参ったな。
 涼景は記憶をたどり、苦笑いした。
 実のところ、涼景とて人並みに処理する程度のことは自然とあった。
 だが、その度に深い自己嫌悪に苛まれた。
 思わず、口から出るのは、妹の名。目を閉じて想像するのは、その体。あられも無い姿で自分にすがる燕春を想像して、涼景は達した。自らが汚した手を見たとき、彼は泣くより他に、何もできなかった。
 この手で、再び妹に触れることなどできない。
 潔癖なまでに、涼景は数日、自分を責め続け、激しい後悔で狂いかけた。
 涼景のそばにいた犀星と蓮章が、彼の様子がおかしいことに気づいた。二人に問い詰められ、涼景は観念して妹への想いを明かしたのだ。あの時の光景を、今でもはっきりと覚えている。
 犀星は清めるように、そっと手を握ってくれた。
 蓮章は背後から暖かく、抱きしめてくれた。
 胸のつかえが消え、呼吸が楽になり、ようやくまとわりついていた霧が晴れた。
 妹を思ったのは、あの時、一度きりだ。それに懲りて、たまらなくなる時は花街に逃げる。
 もう二度と、考えたくない。
 そういう意味では、燕春を想像する余裕もない宝順との閨は、涼景にとってはまだ気が楽なのかもしれない。
 犀星も蓮章も、あれ以来、燕春のことを口に出すことはなかった。今までと変わらずに、自分を信じ、支え、苦楽を共にしてくれている。
 犀星の母は、犀遠との仲を引き裂かれ、先帝に手篭めにされて犀星を身ごもった。犀星は、女であることを望まれていながら、男として生まれてきた。そして、自分が生まれることで、母を苦しめ、死に追いやった。
 蓮章の出生は、本人も語らないが、複雑な事情があるらしい。ここまで腹を割って話せる仲でありながら、その一点だけは、彼から聞かされたことはない。涼景もまた、無理に問い詰めるつもりもない。
「人の心とは、ままならない」
 誰が聞くわけでもない。足を止め、涼景は行手の木の枝を見上げた。その視線がひとところに止まる。
 じっと立ったまま、静かに呟いた。
「望む人と結ばれることは、冬山に梅を見つけるより難しい」
 彼の視線の先には、薄紅色をした、小さな梅の花がひとつ、誇らしげに開いていた。
 病弱ゆえ、外出もままならない燕春は、こんな景色を見ることはない。
 それどころか、いつまで、命があるか、それさえわからない。
 生まれ変わるなら、梅の木になれ。紅でも白でも構わない。おまえの花を、誰よりも早く、俺が見つけてやる。
 熱い涙が、涼景の頬を伝って、残雪の上に落ちた。
 燕春がこの世を去ったのは、この年の暮れであった。
 だがそれを、涼景が知ることは永遠になかった。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

腹に彼の子が宿っている? そうですか、ではお幸せに。

四季
恋愛
「わたくしの腹には彼の子が宿っていますの! 貴女はさっさと消えてくださる?」 突然やって来た金髪ロングヘアの女性は私にそんなことを告げた。

王様の恥かきっ娘

青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。 本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。 孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます 物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります これもショートショートで書く予定です。

妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?

木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。 彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。 公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。 しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。 だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。 二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。 彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。 ※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。

教養が足りない、ですって

たくわん
恋愛
侯爵令嬢エリーゼは、公爵家の長男アレクシスとの婚約披露宴で突然婚約破棄される。理由は「教養が足りず、公爵夫人として恥ずかしい」。社交界の人々の嘲笑の中、エリーゼは静かに会場を去る。

婚約破棄されないまま正妃になってしまった令嬢

alunam
恋愛
 婚約破棄はされなかった……そんな必要は無かったから。 既に愛情の無くなった結婚をしても相手は王太子。困る事は無かったから……  愛されない正妃なぞ珍しくもない、愛される側妃がいるから……  そして寵愛を受けた側妃が世継ぎを産み、正妃の座に成り代わろうとするのも珍しい事ではない……それが今、この時に訪れただけ……    これは婚約破棄される事のなかった愛されない正妃。元・辺境伯爵シェリオン家令嬢『フィアル・シェリオン』の知らない所で、周りの奴等が勝手に王家の連中に「ざまぁ!」する話。 ※あらすじですらシリアスが保たない程度の内容、プロット消失からの練り直し試作品、荒唐無稽でもハッピーエンドならいいんじゃい!的なガバガバ設定 それでもよろしければご一読お願い致します。更によろしければ感想・アドバイスなんかも是非是非。全十三話+オマケ一話、一日二回更新でっす!

後の祭り 

ねこまんまときみどりのことり
ライト文芸
 母親を馬車の事故で亡くしたナズナは、馬車に乗っていた貴族の男性に、義理の娘として引き取られた。引き取られた先の子爵邸では、義母や義妹に傷付けられて泣いて過ごすこともあったが、懸命に生きていく。引き取られた裏には、別の理由もあったようで。  小説家になろうさん、カクヨムさんにも載せています。

「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」

歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。 「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは 泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析 能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り 続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。 婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」

多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】 23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも! そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。 お願いですから、私に構わないで下さい! ※ 他サイトでも投稿中

処理中です...