新月の光

恵あかり

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第二部 紅陽(完結)

2 ふたりとふたり

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 歌仙親王が都に戻ったという話は、明け方の東雨による市場訪問によって、あっという間に広範囲に知れ渡った。
 市場の人々の犀星に対する人気は非常に高い。彼らの興味関心は、常にこの美しい親王に向けられていた。
 それは、犀星が都に来た当時からのことだった。
 宮中や、朱雀門前の地区ではなく、市場の裏に親王が住んでいる、という衝撃的な現実が、彼らの好奇心に火をつけた。
 その親王は若干十五歳、蒼い髪と蒼い瞳を持ち、肌は玉のように白く滑らかに輝き、その容貌は仙女のそれとまごうほど。
 仙女なんて、見たこともないくせに……
 噂を聞いて、幼い東雨さえ呆れ返ったものだった。
 噂には尾ひれがつくのが必定である。
 此度、歌仙親王が半年以上前から体調を崩し、心がすぐれないようだ、ということは、皆が心配していたところだ。そんな中、燕涼景と共に故郷である南陵郡へ旅立った、との話は、街の人々の話題の中心だった。
 街頭でも、客同士の会話でも、暇な店の屋台でも、誰もが二人の噂をした。
 歌仙親王と暁将軍。そもそも、犀星が都に来た当初から、この二人にはつながりがあった。同郷の出であり、年も近く、そして二人とも男前だ。
 しかも、涼景は犀星を重んじ、自らの屋敷を提供して住まわせた。これは、民衆の格好の肴になった。
 暁将軍が、歌仙親王を囲った。しかも、浅からぬ仲らしい。
 誰もが二人の間を詮索し、そのほとんどは、東雨がぎょっとする内容だった。しまいには、犀星は実は女性なのだ、ということまでが、まことしやかに囁かれた。人の想像力とは、限りを知らぬものである。
 歌仙からの帰り道、犀星の一行は、夕暮れの暗がりに紛れて都に戻った。できるだけ目立たず、静かに行動したつもりだったが、その途中、玲陽の姿を見覚えていた者がいた。
 歌仙親王が、故郷から、人を連れてきたらしい。
 その話は、暁将軍との三角的な関係にも発展し、あっという間に『歌仙の麗人』という新しい話の種へと成長していた。人の口に戸は立てられないのは常である。
 そんな状況であったから、町医者として病人を診て歩いていた安珠の耳に、歌仙親王の帰還の情報が入るのも早かった。
 本当の名前は別にあるようだが、彼は街の中で、安珠の名でよく知られ、皆に重宝される医者として、日々忙しく走り回っていた。
 安珠は、宮中で典医を務めていたことがある。今からもう四、五年ほど前の話だ。犀星と知り合ったのは、その頃だった。
 年若く、体も心も発達途上であった犀星は、安珠によく様々な相談を持ちかけた。
 体の事だけではなく、生活の中での健康管理、薬の話、食文化の話、気温の変化に対する対応の仕方、刀の稽古の際の関節の痛み、東雨が腹を壊した話。
 安珠は人づてに、歌仙親王は口数が少ないと聞いていた。しかし、実際に話してみると思ったほどでもない。大人数は苦手な様子だったが、一対一で話せば会話がきちんと成立する。
 しかも犀星が非常に賢く、一度話したことをしっかりと覚えていることに、安珠は感心していた。
 多くの貴人は周囲に任せるばかりで、自分で何かを覚えたり、記録を取ろうとはしない。犀星も筆を取る事は稀だった。そうしなくても、彼の頭の中には安珠の語った事は一文字残らず入っているようだった。
 当時から、安珠は犀星をたいそう気に入っていた。
 そんな事情で、宮中を下がって、都で町医者の生活に切り替えた際にも、犀星の屋敷にはよく通った。機嫌伺いと称して尋ねては、それとなく相談事に乗った。
 犀星も典医の頃と変わらず、安珠を信頼し、丁重にもてなした。
 犀星が気鬱に倒れた際にも、安珠が手当てに当たった。むしろそういう時の方が、馴染みの医者が重宝されるものである。宮中から派遣されてきた医者に、犀星は一言も話をしなかった。帝の勅命を受け、安珠は犀星の治療に当たった。
 そして、犀星の心から、『玲陽』という名を引き出した。
 午前中の診察を一通り終えて、昼時に時間が空いた安珠は、自分の食事も後回しに、犀星の邸宅を訪ねた。
 犀星のことだから、何も言わなくても、いずれ挨拶に来るだろうと思ったが、その容体が気に掛かる。こちらから訪問しても悪いということはあるまい。
「疲れているところに押し掛けて、申し訳ない」
 安珠は門の外で呼びかけた。中から軽い足音がして、手拭いで手を拭きながら東雨が出てきた。
 三ヶ月ぶりに会う少年は、どことなく大人びて見えた。
「東雨、長旅ご苦労だったなあ」
 安珠は好々爺の顔で、東雨の頭を撫でた。
 とは言え、とっくに東雨の方が安珠の背を抜いている。しかしいくつになっても、安珠にとって東雨は可愛い孫のようなものだ。
「安珠様」
 東雨は礼儀正しく礼をした。犀星が大切にしている相手には自分も尽くすべきである、とまっすぐな東雨は黙って従う。本当は腹の中で、少しは薬に糖蜜を混ぜてくれたらいいのに、と思っている。
「歌仙様が戻られたと聞いてな。お顔を見たかったのだが?」
 無理にとは言わないが、と、安珠は少し遠慮した。その優しい物言いに東雨は安心した。
「安珠様がいらっしゃったこと、伝えてきます。少々お待ちください」
 東雨は客間に安珠を通して、素早く茶を用意すると、犀星を呼びに向かう。
 その頃、犀星は自分の部屋で、これから用意しなければならない玲陽の私物や、歌仙との連絡の取り方、そして、長く都を空けていたために、溜まりに溜まった自分の仕事の整理などに追われていた。
 午後には、この屋敷の警備に関わる相談で、涼景が訪ねてくるはずである。
 休む間もなく、慌ただしい。
 それでも、と、犀星は木簡を整理する途中で、目を上げる。
 向かいに座って、玲陽が、これからの予定に目を通していた。
 その静かな顔が、自分の目の前にある。
 住み慣れたこの屋敷の部屋に、夢にまで見た人の姿がある。
 この部屋に、玲陽は暖かい体で息づき、柔らかく所作を整え、そして、その優しい目で自分を見てくれる。この部屋に玲陽の声が響く。
 これが現実だと、しばらくは信じられそうもない。
 犀星は思わず顔が緩み、とてもではないが、この顔で仕事には行けないと思う。
 そんなよそ行きの体裁をすっかり忘れてしまった犀星のもとに、東雨が安珠の来訪を告げに来た。
 正直、犀星は一瞬迷った。
 よりによって安珠である。間違いなく、自分の心情を見透かされてしまう。
 安珠には、気鬱で辛いさなか、玲陽に会いたくてたまらないと告白してしまった。今さら取り繕う気はないが、それでも気恥ずかしさはある。
「わかった。すぐに行くから、失礼のないようにな」
 自分の顔をどうにかしてから行く、という具体的なことを避けて、犀星は余裕のある素振りを見せた。全てを承知している東雨は、ニヤニヤしながら、はい、と一言だけ言って部屋を出る。
 玲陽が顔を上げた。
「安珠様というのは?」
「昔から世話になっている医者だ。ちょうどいい、お前のことも聞いておこう」
「はあ……」
 玲陽はわずかに目をそらせた。
「どうした、怖いのか?」
 からかうように犀星が言う。
「怖いわけでは……」
 玲陽は言いよどんでから、
「ただ、新しく人に会うことが……どう接していいか、少し不安なのです」
 玲陽の素直な言葉を、犀星は心底ありがたいと思う。
 玲陽は他人に対して遠慮し、常に笑顔を向け、自分を押し殺してでも、その相手の心に添おうとする。
 それは優しい心根ではあるのだが、それが自分に向くことを犀星は嫌う。
 自分に対してだけは、正直であってほしい。辛いことも嫌なことも全てぶつけてほしい。
 玲陽の本心を受け取ることができるのは犀星だけだ。
 それがひとつ、犀星の喜びにもつながっている。
 この人の救いでありたい。
 その一途な気持ちは、長い年月を超えても、犀星の胸に消えない光となって灯り続けている。
 犀星の行動は、全て玲陽のためだ。
 すべては知り尽くすことはできないが、それでも考え得る限りのことを、玲陽のためにしてやりたかった。
 恩を売るわけではなく、自らの心がそれを喜びとして感じる以上、犀星の行動が変わることはない。
「心配ない」
 犀星はそっと玲陽の指を撫でた。
 玲陽の左手は、中指と薬指をうまく曲げることができない。
 玲陽の話では、ずいぶん前に負傷し、自分で手当てをしたが、治りきらずに不自由になったと言う。
 外からはわからないが、触ってみると、指の骨が中で不自然につながっている様子が感じられる。
 無理に動かさなければ痛みはないと言っているが、それでもどうにかしてやりたいと思ってしまう。。
「俺のそばにいればいい。答えたくないことは答えなくていいし、不安になったら手を握って。目を合わせてくれたら、俺が助けるから」
 玲陽は、その透き通る、どこまでも深い青い瞳をじっと見た。
 その目は、あまりにもまっすぐに自分に向けられる。これは何かの間違いなのではと思うほどに、ひたむきだった。
 安堵とともに、玲陽は犀星の手に右手を重ねた。
 しっかりとうなずき返す犀星に、玲陽は口元を緩めた。一瞬目を彷徨わせ、それから、そっと犀星の唇に指を一本押し当てた。
 これは合図だった。
 口づけを交わすことができない二人の、暗黙の合図。
『今、私はあなたに口づけます』
 その心を伝えるための、ささやかな儀式だ。
 心地良さそうに目を細めて、犀星は応えた。
 応接室の毛氈の上にあぐらを書いて、東雨が出した茶を飲みながら、安珠は庭の景色を眺めていた。
 中庭に面したこの部屋は、この屋敷で唯一、まともな内装をしている。犀星は度がすぎるほどに、質と倹約を旨としている。だが、この部屋だけは、貴人の屋敷にふさわしく、客人を迎えるために礼を欠かないよう、整えていた。
 犀星は、決して、物事を知らないわけではない。ただ、人よりも少し、効率を重んじる。なかなかに味わい深い男である。
 安珠は東雨を相手に、歌仙での出来事をあれこれと聞いていた。特に興味を持ったのが、犀星が連れてきたという玲陽である。
 そもそも、安珠が犀星から、従兄弟の名前を聞き出したのがことの発端だった。
 犀星にとって、弱った心の唯一の支えが玲陽であった。医者という安珠の立場から、玲陽は、犀星の回復には必要不可欠な存在ということになる。
「それで、その玲光理という方は……」
 安珠は少し思案してから、
「色々と苦労したようだな」
 と簡単につなげた。
 東雨は難しい顔をして、
「俺には想像もつかないような大変な目に遭ったみたいです」
 東雨は、いかにも心配しています、という顔を作って見せながら、
「若様と涼景様で、つききりで手当てをしてましたけど、普通に歩けるようになるのに、一ヶ月はかかりました。それでも、回復が早いくらいだと……」
 安珠はうなずいた。
 涼景は医者ではないが、自分ともよく話をし、医療の心得も充分にある。その涼景がそばにいたという事は、犀星と玲陽にとって、幸運であっただろう。
 本当は自分も歌仙に同行したかったが、長旅は安珠の老体には応える。余計な迷惑をかけるかもしれないと思い直し、涼景に託していた。
 東雨は、安珠の心配顔を見ながら、次は何を話そうかと考え込んだ。言いたい事は山ほどある。
 しかし、余計なことを告げ口して、後から犀星に叱られるのも面白くない。気難しい主人を持つと、話題選びも大変である。
「若様、遅いですね」
 東雨は、回廊を振り返った。
 玲陽と、何をしているのだろう?
 ふと、よからぬ想像をしてしまい、東雨は勝手に嫌な気持ちになった。
 ちょうどその時、音もなく犀星が姿を見せた。その後ろにぴたりと玲陽が立っている。
 安珠は立ち上がると、形ばかり、丁寧な礼をする。犀星も同じように返して、礼を示す。
 犀星の後ろで、玲陽は一瞬こわばった顔をしてから、静かに頭を下げた。
 東雨はちらりと玲陽の顔を見た。少々緊張しているようだ。
 四人は毛氈の上に腰を下ろし、向き合った。玲陽の手は、犀星の膝の上で、しっかりと握られていた。時折、犀星の指が優しく励ますように玲陽を撫でる。
 その手の重なりを見て、安珠はわずかに眉を寄せた。非難するのではない。案じているのだ。
 東雨の話を聞く限り、玲陽もまた、心に深い傷を負っている可能性が高い。
「ご気分は、いかがですか」
 安珠は表情を和らげ、犀星を見た。
 視界の端に玲陽を捉えるが、あえて目を合わせることはしない。
 犀星は肩の力を緩めた。
「ここ数ヶ月は、故郷の空気も肌に合って、気持ちが落ち着いています」
 少しばかり嘘も含むな、と思いながら、犀星は答えた。
 実際には、父・犀遠の死があり、玲陽の身に起きた悲劇があり、心穏やかではない時間の方が長かった。
 だが、こうして都に戻ってきた今、それらは遠い夢のようでさえある。
 何より、この瞬間に、自分の側に玲陽がいるということは、何にも勝る幸福であると犀星は感じる。
 自然と肩の力が抜け、頬が緩んで優しい表情が浮かぶ。
 安珠は犀星の様子を伺い、何度もうなずいた。
「歌仙様のお顔を拝見して、安心いたしました」
 安珠はあくまでも穏やかに続けた。
「お渡ししていた薬は飲まれましたか?」
「旅の途中で、何度か……」
 犀星が素直に答える。
「夜は、お休みになれていますか?」
「疲れもあって、昨夜はよく眠れました」
 疲れだけではなく、玲陽が向いの部屋にいるという安心感だろう、と、東雨は思った。
 玲陽は、ずっとそのやりとりを伏目がちに伺いながら、時折思い出したように、ちらちらと周りを見る。
 特に何かがあるわけではない。だが、玲陽は、わずかな鳥のさえずり、風の音、空気のゆらめきにまで、敏感に反応する。
 その様子を、安珠はしっかりと捉えていた。
 犀星は、そっと首を傾けて、問いかけるように玲陽の横顔を覗いた。わずかに目を上げた玲陽と、視線が交わる。
 かすかに、玲陽は頷いた。
「安珠様」
 思い切ったように、犀星は切り出した。
「少し、相談したいことがあるのですが」
 来た、と、東雨は思った。
 絶対に光理様のことだぞ……
 東雨のその予感は当たっていた。
 犀星はそっと玲陽の左手を撫でた。自分の手の下で、その指はかすかに震えている。
「古い傷が痛むようです。うまく動かすこともできず、難儀しております」
 玲陽はそっと犀星の頬を見た。目を合わせることはなかったが、その視線には、支えを求めているような気配がある。
「わかりました。いつ頃、怪我をなさいましたか?」
 安珠が努めて穏やかに犀星に問いかける。
「九年ほど前と聞いています」
 犀星が答える。玲陽は何も言わない。目もあげない。
 東雨はふと、玲陽がこの部屋に入ってきてから、一言も発していないことに気がついた。
 様子がおかしい気がする……
 東雨は犀星よりも、玲陽の方ばかり見ていた。
 玲陽と距離を縮めるように、という皇帝の命令が脳裏をかすめたが、それがなくても、東雨は目が離せなかった。
 犀星はそっと自分の手のひらに玲陽の手を乗せ、両手でかざすようにして持ち上げた。玲陽は黙って手を預けたままだ。
「ここの指が……」
 言いながら、犀星が、そっと細い指を自分の指先でなぞる。
「拝見しても?」
 安珠の言葉に、玲陽が一瞬、身を硬くし、わずかに手を引いた。
 それを感じ取って、犀星はそのまま膝の上に手を戻した。
「すみません。今は」
 犀星は首を振った。
「動かすと痛みがあるそうです。何か楽になる方法はありませんか」
 安珠はそれ以上、追求しなかった。
「わかりました。一番は温めることです。もし可能でしたら、何か柔らかいものを握る練習をしてみてください。こわばりが緩んでいく効果があります。あとは……もし痛みがひどいようでしたらこちらを」
 言いながら、いつも持ち歩いている箱から、薬の包みをいくつか取り出す。
「痛み止めです。強い薬なので、あまり服用は頻繁でない方が良い。日に一度にしてください」
 そう言って犀星の前に並べる。
 続いて薄い黄色の油紙の包みを取り出し、それも同数並べていく。
「こちらは、滋養薬です。お二人ともお疲れの様子ですから、お休みになる前などに服用いただければ」
 犀星はしっかりと頭を下げる。
「ありがとうございます。お代はいつものように……」
 安珠は首を横に振った。
「いや、これは私からの贈り物とさせてください。お二人が再会したお祝いだ」
 犀星は、はにかんだ。それから一瞬、無表情の仮面を崩して、ほっと息をつく。
 安珠は、このような犀星を見たのは初めてであった。
 感受性の強い犀星の気質を安珠はわかっているつもりではあったが、それを実際に確かめた事はなかった。
 気持ちを隠すのが得意な方だ。
 と、安珠は思っている。その犀星がここまで抑えきれない思いを抱く。それは、玲陽が犀星に与える癒しなのだろう。
 他人事とはいえ、安珠は自分までが心穏やかになる気がした。
 だが、同時に、犀星の安らぎが深ければ深いほど、玲陽の様子が気になってならない。
 帰り際、犀星は応接室の出口で安珠を見送った。
 犀星は、しっかりと玲陽の肩に手を添え、安心させるように抱き寄せていた。そして、玲陽はただ、それを無くしては立っていられないという儚さで、犀星に身を添わせていた。
 思わず安珠は、心で唸った。
 長年の経験から、玲陽が抱える心の状態がよくわかっていた。
 これは重症だな。
 安珠はそう自分の中で診断を下した。
 丁寧に見送られ、安珠は屋敷を出て表通りに出た。
 彼はそのまま暁隊の詰所に向かった。
 とにかく急ぎ、涼景と話がしたい。
 その表情には、先程までの穏やかな雰囲気ではなく、医者としての厳しさがにじんでいた。

 応接室から、私室に戻る帰り道、わずかなその距離を、玲陽はゆっくりと歩んだ。
 犀星は肩に手を添え、もう一方の手で玲陽の手を握りながら、彼の歩みに合わせて静かに隣を進んだ。
 昼を過ぎた中庭は、ほんの少し緩んだ空気が漂っている。
 初冬の風は冷たく、玲陽の体にはこたえそうだった。
 犀星も都へ来た頃、最初の冬にひどく苦しんだのを覚えている。
 暖かな着物を揃え、暖の取り方を伝えなければならない。厚手の寝具で整えた牀も必要だ。
 できる限りの事は全てやる。犀星の決意はゆるぎない。



 だが……
 と、彼は透き通るような玲陽の横顔を見た。
 安珠との対面は、思っていた以上に、玲陽の心には重荷となったようだ。
 気軽に受けるべきではなかった。犀星は後悔を胸に抱いた。
 玲陽が見せた反応は、今の彼の精神的な不安定さを如実に物語っていた。
 玲陽に生じた心の変化は、歌仙を旅立つ頃から少しずつ感じていた。
 それまで、優しく微笑み、回復の兆しを見せていた玲陽が、いざ都への旅路につくと、途端に口数が減り、表情が曇るようになってきた。
 旅の最中、慣れない場所で寝起きし、体力的に厳しい中で馬に揺られた。単なる疲労では済まず、大きな環境の変化は、玲陽の心の傷を刺激して、長く封じ込めていた痛みを呼び覚ました。
 肉体の傷は回復の傾向にある。心はそれに逆行する。
 犀星の心配していたことが、安珠とのやりとりではっきりと証明された。
 危ない。
 犀星の胸が騒ぐ。
 玲陽が今まで十年の間、ひたすらに耐え続けてきた、死への恐怖。
 心は、その苦しみに疲弊し、既に限界を超えていた。
 再び、犀星と会いたい。
 たったひとつの希望にすがり、生き残りたいという緊張感だけで持ち堪えてきた。それが、犀星との再会で、ついに切れた。
 生きるために、傷つき、疲れた心が、バラバラと崩れていく。
 心の形をとどめたように思えた歌仙での日々は、既に過去のことである。
 今、この傷ついた人を癒すのは自分の役目だ。
 犀星は、改めて、自分に誓った。
 涼景のように医療的な知識があるわけではない。
 だが、犀星には、自分自身が心の病に苦しんだ経験と、玲陽を守りたいという強い意志がある。
 ふたりで、生きていく。
 その気持ちは、誰にも劣るつもりはない。
 それは傲慢かもしれない。
 それでもかまわない。
 この人を守りたい。
 玲陽がこれほどまでに傷ついたのは、自分を待ち続けたからだ。
 歌仙で浴びせられた、いくつもの言葉。
 玲凛や玲博の、犀星を責める、痛々しい思いと叫び。
 それらは犀星に、自覚と覚悟を促した。
 それに、何より、自分の心が、玲陽を笑顔にしたい。彼にそばで、ただ、笑っていて欲しい。
 玲陽が自分を生かしてくれる。犀星は誰よりも、そのことを知っている。
 涼景には過保護だと笑われ、東雨には、またかと呆れられる。
 それでもいいではないか。
 ふたりで、並んで歩きたい。
 十年間、隣にいることさえできなかったのだ。
 その悔しさも寂しさも、これから埋めていけば良い。
 犀星は、白く色の抜けた空を見た。
 冬が近い。
 それでも、その先にある春を信じて、ふたりで歩みたい。
 もう、一人ではない。玲陽も、そして、自分も。
 それが、犀星の頬に、自然と優しい朱を差し込む。
 何かを察し、玲陽は立ち止まって、そっと犀星の顔を見る。
 潤んだような琥珀の瞳に、しっかりと想いを宿して。
 犀星はしっかりと結んでいた手を離すと、指で、薄紅の玲陽の唇に触れた。
 ここにいる。あなたは一人ではない。
 そんな気持ちを、指先にありったけに込めて。
 かすかに浮かぶ、玲陽の微笑み。
 それが何よりも愛しい。
 そっと玲陽の体を抱き寄せ、包み込む。
 玲陽は黙って受け入れた。
 犀星の頬に、わずかに冷えた、玲陽の肌の感触が触れた。
「がんばったな」
 犀星は囁いて、目を閉じた。
 玲陽は何も言わない。
 ただゆっくりと、犀星の背中に腕を回して身を預けるように寄り添う。
 今日の午後は、少し暖かくなりそうな気がした。

 涼景は、昨日、無事に犀星たちを都の邸宅に送り届けると、その足で、都の警備に当たっている暁隊の詰所、暁番屋へと向かった。
 あいつら、ちゃんとやっていただろうなぁ?
 涼景は疲れた顔を、心配そうに歪めた。
 自分が留守にしていた三ヶ月の間、暁隊が、平和であったはずはなかった。
 街の中のあらゆる問題に関わったであろうことは、言うまでもない。だが、日常業務の範囲内でおさまらない事件が多発するのが、暁隊の宿命である。涼景がまとめるこの隊は、もともと、荒くれ者の集まりだ。内輪の火種も尽きない。
 戦場を巡る間に、涼景は不思議と、様々な人種に好かれてしまった。涼景を我が子のように可愛がってくれる老兵にも出会った。兄のように慕う若者にも、喧嘩をしつつも、時折本音で弱気を見せられる友にも出会った。一人ひとりに様々な人生があり、その激しい感情の波を鮮やかに見せられるたびに、涼景は自分が生きているという実感を味わう。暁隊は言わば、涼景にとって、人生になくてはならない刺激そのものである。
 そのような隊であるから、涼景の留守中、間違いなく隊士同士でのいざこざや、喧嘩、処罰の案件が山積しているはずだ。
 涼景は宵闇の中を、市中の治安を確認しながら、犀星の邸宅から暁番屋まで歩いた。
 犀星が住んでいるのは、庶民街の一画である。
 この地域は比較的落ち着いているが、人口が多く、火災や暴動の際には被害が拡大しやすい。衛士が巡回する頻度も高く、常に人の行き来がある。特に犀星の邸宅は、敷地内には入らないにせよ、その周囲を誰かしらが見守るように配置されていた。
 そこからさらに西へ向かうと、商業区へとつながっている。
 こちらは、文字通り、市場を中心とした商人の街だ。人の出入りが頻繁で、外部から交易に来る者や旅人も、ここに立ち寄る。暁隊が本領発揮するのは、まさにここである。窃盗、賭博、喧嘩に傷害。荒事が絶えない。
 涼景が目指す暁番屋は、さらにその向こうだ。行政機関の都の出張所が立ち並び、下級役人の家もある、半ば公的な空間である。他の区域と比べれば規律が保たれているが、それゆえの秘密主義や、役人が多いことによる政治的な噂、陰謀など、頭を使う事件が多いのが特徴だ。
 最も西側には、寺院や学問所が集中している。住んでいる者たちは、どこより真面目で規律正しい。ここは形式だけの見回りにしておこう、と涼景は思っている。夜間は静寂を好むため、隊士たちの立ち入りは逆に嫌われるのだ。
 これらの四つの区画は、暁隊と三番隊によって、輪番制で管轄を分散している。
 日によって管轄が変わるが、暁隊は荒事を得意とする性質から、問題が起こるとどこにでも呼び出されることが多い。暴力沙汰は暁隊、政治案件三番隊、と、人々は自分たちで使い分けていた。
 暁隊による都の警備は、涼景の仕事の一端に過ぎない。
 彼には、宮中で右近衛隊の指揮官という重責もある。さらに戦時中は、直接、正規軍を指揮するという激務を負う。
 そのような彼が三ヶ月もの間、辺境に身を隠していたのだから、都が多少混乱していてもおかしくはなかった。
 詰所に戻ると、夜間の当直に当たっていた兵たちが笑顔で出迎えた。いや、笑顔に見えたのは最初だけで、すぐに、留守中に起きた出来事をまくしたてた。
 誰と誰が喧嘩をした、三番隊が自分たちの管轄に口を挟むのが気に入らない、酒に酔った隊士が飲み屋で面倒事を起こした、という内輪の話題から、最近起きた強盗事件、旅人を装った詐欺事件、偽通貨の流通、一部の食品の買い占めによる値段の高騰、引いては、官吏同士の色恋沙汰までが、涼景の目の前に並べられた。普通の者なら閉口して目を背けただろう。だが、涼景は、やっぱりな、というため息をついただけで、黙って話を聞いていた。
 暁隊のこの雰囲気が、涼景は好きだった。長年にわたり、中核を担っている気苦労を共にしてきた者たち、涼景を慕い、その自由な気風に憧れて入隊した志願兵。隊士のほとんどが、他の隊ではやっていけそうもない、個性的で力を持て余している連中だ。
 その場で裁断ができるものにだけに答え、涼景は奥の仮眠室へと逃げ込んだ。
 夜が明ければ、多忙な日常が戻ってくる。
 歌仙での日々も決して楽ではなかったが、ここの毎日はまた質の違うものだ。
 涼景はひとつ息をつき、硬い牀の上で久々に体を伸ばした。暗闇の中、目を閉じると、つい先ほどまで旅路にいたことすら忘れてしまう。何もかも、遠い日の出来事のようだった。
 全てが終わったのか、それとも、これが始まりなのか。
 大きな変化は、涼景に未知なるものへの期待と、わずかな不安をもたらした。
 とりあえずは、日常を取り戻すことが先決か。
 それが、どれほど慌ただしいものであっても、だ。
 眠りに沈む中、涼景の瞼の裏に、留守を任せた親友の顔がぼんやりと浮かんだ。
 ……文句を言われるのだろうな。
 そんなことを思いながら、涼景は長く、息を吐いた。
 よほど疲れていたらしい。夢を見ることもなく、彼はすっかり眠りこんで、明け方過ぎの点呼の声で目を覚ました。重たい体のまま、涼景は起き上がった。軽い頭痛がするが、これ以上休むことは許されなかった。やるべきことが山ほどある。
 今日の午後には犀星と、今後の警備体制について話をせねばならない。玲家の血を引く玲陽が、これから宝順の興味を引くことは明らかだった。
 玲陽だけではなく、犀星もまた、身の安全を確保するため、手を打つ必要がある。犀星を試すように難題をもちかけてくる宝順への警戒は、怠ってはならない。歌仙からの帰り道は、もっぱら、そんな話ばかりしていた。
 東雨のやつ、夜のうちに動いただろうな。
 涼景はあの少年間者のことを思った。
 玲陽を連れ帰った犀星の動きは、既に宝順の知るところとなっているはずだ。
 どのみち宝順には、今日中に、帰着と現状の報告しなければならない。結果は同じだ。
 歌仙での出来事は、空いた時間に文書にまとめてあった。
 先に、天輝殿へ届けておこう。
 目を閉じて時を稼ぎながら、頭の中で予定を組み立てる。
 暁隊の朝の点呼に顔を出し、緩んでいるであろう隊士に喝を入れる。それから一度自宅に戻り、身支度を済ませ、慣れた都の食事でも口にして、気持ちを切り替えてから天輝殿へ参上する。自分が面会を求めている事は昨日のうちに伝えてあるから、すぐに会えるはずだ。手早く済ませて、右近衛隊の詰所にも顔を出したい。それから、訓練を視察し、都外苑にある暁隊の演武場にも立ち寄らねばならない。
 それから……
 と、涼景はさらに考えをつなげた。
 それまでに暁隊の犀星邸警護の素案を頭の中でまとめ、蓮章を連れて直接訪問しよう。となれば、蓮章と落ち合うのはこの番屋がいいだろう。
 涼景は、蓮章を見かけたらここに足止めしておくように、と隊士たちに伝えると、立てたばかりの計画を実行に移した。
 番屋から少し北に、涼景の私邸がある。まずはそこで身支度を整え、朝食を済ませる。家人たちからは、労いの言葉よりも先に、今年の秋は実りが少なく、厳しい冬になるだろうという話を聞かされた。
 そういうことならば、と宮中に向かう馬上で、涼景は考え続けた。官僚たちが、薪や食糧についての緊急合議を行う可能性がある。当然、宝順や犀星も参加する。急ぎ、予定外の警備配置を準備せなばならない。気の利く部下が、草案を作成していると助かるのだが。
 また、近衛でも暁隊でも、薪の備蓄量を確認をしておくべきだろう。使用計画についても、節約する旨、すぐに再考せねばならない。近衛は心得ているが、暁隊には、不平不満を抑える対策も欠かせない。代用に酒を多めに用意してやれば、彼らも少しはおとなしくなるはずである。
 厳しい冬となれば、当然、都の治安も悪くなる。物価高騰、盗みの横行、餓死や凍死への対応、など、警備責任者としての気配りにも心を向けねばならない。
 考えを巡らせながら、涼景は天輝殿の階を上がった。
 やはり夜のうちに東雨が知らせたものと見えて、宝順は終始驚いた様子もなく報告を受けた。呼び止められないうちに天輝殿を出て、その足で右衛房に立ち寄る。留守を任せている遜蓮章の居場所を尋ねれば、行き違いで暁番屋へ行ったと聞いた。
 蓮章を引き留めるように言いつけて正解だったな。
 涼景はほんの少し、仕事が減った気がした。
 そのまま近衛武場に顔を出すと、整然とした衛士たちが彼を迎えてくれた。暁隊とは違って、近衛は出自もよく、素行の良い者たちばかりである。だが、人が集まれば何らかのいさかいが生じるのは、近衛も都番も同じことだった。見栄の張り合い、功績の奪い合いなど、暁隊とはまた違った揉め事もある。
 火急の要件はない、と判断して涼景は都へとって返すと、中心を突っ切り、城壁近くの暁隊の訓練施設、暁武場に急いだ。
 涼景の経験上、ここが一番、手がかかるのだ。
 良い返事を期待することもなく、喧嘩がなかったか、と確認をする。
 ないはずがないでしょう、と、古参の責任者が苦笑した。
 隊士同士の殴り合いから始まり、訓練中の乱闘が原因の柵の破壊、野営訓練でのボヤ騒ぎ、湯の温度をめぐっての喧嘩、物干場を巡る陣地争い、果ては、どちらがより涼景の役に立っているか、という意地の張り合いまで、枚挙にいとまない。涼景も最後には笑って首を振った。
「まったく、おまえたちは……」
 可愛いな。
 と、思わず出かけた言葉を、そっと飲み込む。
 怪我人の容体を確認し、適宜処分を下し、注意喚起を残して、暁番屋に戻った頃には、とうに昼を過ぎていた。
 ようやく、三ヶ月ぶりのご対面だ。
 と、涼景は気合を入れるかわりに一息をついた。
 暁隊と右近衛隊で、自分の参謀をつとめている遜蓮章は、涼景の幼馴染である。
 五歳で都に上がってすぐ、ふたりはふとしたきっかけで知り合い、中書侍郎をつとめていた文官のもとで、共に学問を修めた。
 武芸にも興味があった涼景に比べ、蓮章は知略に秀でた軍師のような気風で、二人はよい取り合わせとして師匠からも可愛がられていた。
 幼いころから、蓮章はその容貌が秀でて美しかったが、成長とともに、それはより顕著となった。
 女性的な線の細さと、どこか憂いのある表情と仕草。彼は何をするにも、人目を引いた。
 中でも印象的なのは、左右異彩の瞳だった。蓮章は右が黒、左が薄い灰色の瞳を持っていた。これは生まれついてのもので、髪や肌も体の左側が若干色素が薄い。片側にだけ白髪が混じるのを嫌い、蓮章は頻繁に髪を染めている。そこまでしなくても良いと涼景は思うが、蓮章にとっては、重要な身支度の一つである。
 花街で蓮章を知らぬ者はいない。男女共に堪能で、その自由な気質は、さすがの涼景も黙り込むほどだ。
 そんな、女と見まごう蓮章だが、その気性は誰より激しい。涼景は早いうちからそれを見抜き、何かにつけては自分のそばに置いた。
 涼景の見立ては的確だった。
 荒くれ者ぞろいの暁隊を相手にしても、蓮章は一歩も引かなかった。自分より体格も良く、腕力も武力も勝る隊士たちに、正面から相対して譲らない。それどころか、ことあるごとに衝突し、それを楽しむほどである。
 ここまで喧嘩っ早いとは思わなかった、と、酒を飲むといつも涼景は愚痴をこぼす。そんなとき蓮章は決まって、嬉しそうに笑っていた。
 性格に多少の難はあっても、蓮章は涼景の信用を勝ち得ていた。それは確固として揺るがない。
 蓮章は誰より涼景の気性を理解して、どのような無理難題にも、辛辣な不満を口にしつつ、的確に応えてくれる頼もしさがあった。
 そのため、今回も涼景は蓮章に留守を任せていた。
 しかし、三ヶ月という時間は長すぎた。涼景は暁番屋の自分の部屋に入るなり、鋭い視線に容赦なく射抜かれた。
「遅すぎる」
 蓮章はその妖艶な容姿に合う、軍人とは思えない艶やかな出立ちで涼景の席に座っていた。どう見ても、花街の男娼が休日にくつろぐ風体である。
 涼景は苦笑しつつ、蓮章の隣に腰を下ろした。
「遅すぎる」
 蓮章は繰り返した。久方ぶりに会う親友が心底不機嫌であることを、その形よく歪められた目元が雄弁に語っていた。
「悪い」
 涼景は少しだけ、肩をすくめた。
「この埋め合わせはちゃんと考えるから」
「そういうのはいらない」
 蓮章は乱暴に息を吐き、
「まったく、こんなに長いこと……俺を過労死させる気か」
「すまない」
 涼景は繰り返した。それからふと真顔になって、
「もう一ヶ月、遅く帰るべきだったな」
「はん?」
「そうすれば、お前の不機嫌な顔も見なくて済んだかもしれん」
 暗に、お前はとっくにこの世にいなかっただろうから、という含みである。
 蓮章は無言で涼景を睨みつけた。にやにやしながら見ている涼景は、今朝からの忙しさを忘れているようだった。
 蓮章はしぶしぶと嫌味を引っ込めて、代わりに木簡を丸めた太い束をふたつ、涼景の前に差し出した。
「涼、おまえがさぼっていた間の記録だ。見ておけ」
「おう」
 涼景は閉じ紐を解いた。じゃらじゃらと、紐で綴られた木の札が床にまで落ちて広がった。木札には、蓮章の細く震えるような繊細な文字が、びっしりと並んでいる。最初の数行は、涼景が歌仙に発った日の、暁隊の動きについてだった。
「それから、こっちは近衛の分」
 蓮章は脇にあった竹籠から、同等量の記録を出すと、涼景の膝に乗せた。
「え?」
 涼景が目元を引き攣らせた。
「それからこれが、番屋に直接持ち込まれた民の要望一覧」
「…………」
「それから、宝順が言いつけてきた、今後の警備依頼をまとめておいた」
 と、次から次へと、木簡を重ねていく。
「……手の込んだ嫌がらせを……」
 合計九巻を積み上げると、蓮章は気が晴れた、というように険しかった顔をすっかり緩めた。
「読んどけ」
「俺が悪かった!」
 涼景は思わず、匙を投げた。
 ちょうどそこへ、衛士の一人が顔を出した。
「お楽しみのところ、すみません」
 一部始終を見ていたらしいその衛士は、にやにやしながら、
「梨花様、頼まれていた資料、お持ちしました」
「まだ何かあるのか……」
 涼景の顔が蒼白になる。
「最新の情報が必要だと思ってな」
 蓮章は立ち上がって衛士から一枚の木簡を受け取ると、ひらひらと手を振って見送る。
「蓮、それは?」
「ああ」
 振り返った蓮章は、もう、笑ってはいなかった。今度は涼景の前に座り、整った指先で資料を差し出す。
「まず、目を通してくれ」
 涼景は言われるままに書面を確認した。目で追うにつれて、次第と表情が険しくなる。
「花街でこんな……」
 涼景は声を低めた。
「今朝の事件だ。時間の猶予はなかったが、仔細を報告するように頼んでいたんだ」
 蓮章は目を半分閉じて、床の板目を睨むように見つめた。
 涼景はもう一度、丁寧に報告を読んだ。
 都の北西にある花街で、今日の未明に発生した傷害事件のあらましが書かれていた。被害者は一人の女郎だった。昨夜から客をとり、今朝、店の主人が見回りをしている際に、寝間で気を失っている女郎を見つけた。その背中には、焼印のようなものでつけられたと見られる火傷のあとが残されていた。遊廓には他に何人もの人間がいたが、誰も悲鳴は聞いておらず、また、その部屋にいたはずの客も行方知れず、とのことだった。
「場所が場所だからな」
 蓮章は声を抑えた。
「このことが歌仙親王の耳に入れば、どうせおまえが出ることになる。ならば、他の隊が介入する前に、暁が動いた方が早い」
「そうだな」
 涼景は頷いた。
 花街と犀星には深いつながりがある。
 都に来た当初から、犀星は自分の力をどこかで試したいと考えていた。
 そこで取り組んだのが、治水工事を通して成果を上げるという道である。もともと歌仙は水の扱いに慣れた土地で、犀星にもそれなりの心得があった。しかし、実際に都で試すとなると、場所が問題だった。
 貴人たちの縄張りである宮中は、紅蘭で最も設備が整っていた。しかし、犀星の目には充分とは思われなかった。早速、手をつけようとしたのだが、わずか十五歳の少年に任せてもらえるはずもなく、官僚たちから許可は下りなかった。また、市街地も、あまりに広大で、犀星が手出しできる状況にはなかった。
 検討を重ねた結果に浮上したのが、花街だった。当時の花街は、宮中の誰もが見向きのしない、放任された場所であった。そこをどうしようが、誰からも文句は出ない。その無関心をよいことに、犀星は迷わず花街を選んだ。
 都の北西に位置し、面積も広すぎず、さらに、都の外を流れる川との位置関係も都合がよかった。
 犀星の治水工事に関わる計画は年月を経て、花街の人々にも受け入れられ、大きな成果をあげた。犀星もそれに感謝し、大切に思っていた。
 こうして築かれた歌仙親王と花街とのつながりは、今なお、続いているのである。
 蓮章が心配したように、花街で事件が起きれば、犀星が放っておくわけがない。犀星が関わるということは、すなわち、涼景も道連れだった。
 花街は三番隊と暁隊の管轄ではあったが、もともと自警団を組織しており、排他的である。そのため、涼景たちが巡回することはない。しかし、歌仙親王の王旨があれば、介入も容易い。
「このあと、ちょうど、星のところにいく。俺から話そう」
「ああ。どうせならさっさと動きたい」
 蓮章は気だるそうにため息をついた。報告書を懐に入れながら、涼景の頭に、唐突に疑問が浮かんだ。
 ……待てよ?
 すかさず、蓮章を見る。
「蓮、おまえ、今朝、未明に起きた事件のことを、どうしてこんなに早く嗅ぎつけた?」
 蓮章は、眉ひとつ動かさなかったが、静かに目をそらし、そっぽを向いた。
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