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第二部 紅陽(完結)
6 はじまりのとき
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市場の朝は早い。
まだ薄暗いうちから人々は動き出し、明け方の夢の中にまでその物音が聞こえてくる気がした。
東市の北西の一角に、明の店がある。
家族で経営する小さな餅屋で、彼女は小さな頃から宮中や花街などに、箱を背負って売りに出た。この一帯は、彼女の庭も同じだった。
誰が何をした、どこで何が起きた、といった情報も、全て周囲から入ってくる。働き者で気立ても良い明は、市場の商人だけではなく、どこに行っても可愛がられた。特に花街では人気で、女郎たちにせがまれて、花の形をした美しい飴を考案し、こっそりと売っている。贅沢品ではないが、手間をかけて丁寧に仕上げた菓子だ。一度に多くは作れないため、おおやけに店先に並ぶことは無い。なじみの客がそっと耳打ちしたときにだけ、明は嬉しそうにそれを差し出す。
今朝は、ぐっと気温が下がって寒かった。綿の入った着古した着物に外袍を羽織って、明は表に出た。大きく体を伸ばし、冷えた空気をいっぱいに吸い込む。すっきりと目が覚めたが、反して空はどんよりと曇っている。
今日は雪が降るのかな。
明は、ぶるっと身震いした。
早朝から手早く売り物の準備をする。この秋は実りが少なく品物はどれも値が張る。明の店は暖かな饅頭や菓子を扱っているが、それも材料が不足して冬を乗り切るのは厳しそうだ。それは明のところだけではなく、市場全体に言えた。
それでも、東市は南市や西市と比べると活気がある。都の城壁のすぐ外に広大な農地があり、そこに土地を持っている商人が多いためだ。収穫された作物は、南や西に行く前に、この東市に流れてくる。
東市は、東西に長く、南北に少し短い。大通りの両側には、五十軒ほどの常設の店と、その隙間を埋めるように半数ほどの露店が並ぶ。露店は屋台や地面に敷物を広げた形で、その季節ごとの商品が並んでいる。
ほかの市からここに行商に来る者もいる。この季節は、特に干し柿や塩漬けの魚、漬物などが並ぶ。また、古着市が時々立ち、綿入れの上着や毛織物など、掘り出し物もある。薬を扱う店先には、風邪の予防薬や香料が並んでいる。
冬に備えた買い出しも、いよいよ大詰めの時期だ。
今朝は、早くから多くの人が市場を訪れている。走り回る子供や、それを怒鳴りつける男、店先で買い物よりもおしゃべりに興じる女たち。不作だという不安も薄らぐ、そんな朝だった。
明は手際よく、湯気の上がる饅頭を店先に並べていく。その匂いに惹かれるようにして、何人かがすぐに寄ってくる。彼女は笑顔で迎えた。
客が途切れると、明は店先で頬杖をついて、ぼんやりと空を眺めた。こうしていると思い出されるのは、五亨庵の美しい主人のことだ。
どうしているのかな。
小さな頃から宮中に行商に行っていた明は、五亨庵にもよく立ち寄っていた。犀星は買い食いを好まず、売り上げにはつながらなかったが、急な雨に降られた時や、人々の騒ぎに巻き込まれそうになった時など、逃げ込むには格好の場所だった。どんな時も、犀星が彼女を追い出すことはなかった。
明がいる間、犀星はずっと下を向いて、書き物をしたり文を読んだりしていた。その少し伏せた顔が、明にはとても美しく思えた。
それは恋だったのか、それとも美しいものに対する憧れだったのか。けれど、今でも明はこうして、よく犀星のことを思い出す。
大丈夫かな。
犀星は半年ほど前から体調を崩し、最近は故郷へ帰っていたと聞く。しかも、戻ってからも、一切姿を見せない。以前は、市場を歩く姿が日常のように見られた。今は、侍童の東雨が一人で、必要なものを買っていくだけだ。
犀星は特に買い物がなくても、頻繁に市場に顔を出した。店先や並木の下、井戸端、あらゆるところで人々に親しまれ、最近の生活の様子や困り事などの相談を受けていた。
犀星はいつも、穏やかな顔をして静かに話を聞き、うなずき、そして最後に、わかった、と小さく言うのだ。
明は偶然、その姿を見かけると、こっそりと物陰から様子を見ていた。隠れる必要は無いのだが、毎回のように覗いていては怪しまれるかもしれない。彼女は小さな羞恥心を抱きながら、それでも密かに姿を探していた。
このたび、犀星は故郷から、一人の人物を連れてきたという。
人々の話によれば、その人物は、金色の髪に、銀色の瞳を持ち、犀星の側にぴたりとついて、まるで影のようだったという。
金色の髪の人なんて、この世界にいるの?
と、明は、噂を疑った。
歌仙様が、その金色の怪物に取り憑かれたのではないか、そのために屋敷に閉じ込められているのではないか、いや、既に食われたのだ、そんな話が流れてくる。
いくら噂といえども、それはないだろうと明は思った。
店の奥から、母親の呼ぶ声がした。焼餅が仕上がったのだろう。
明は銭箱を閉じ、抱えると、返事をして店の奥へ入っていった。
曇り空の下、ゆっくりと人の波が市場の通りを流れていく。
店先で売られている鶏の鳴き声、犬の遠吠え、子供が何かをねだって泣く声、客を呼ぶ物売りの声、荷車が行き来する車輪の音。何もかもが平和な景色だった。
低い空に、鳥の影がいくつか過ぎてゆく。
明の店から、大通りを東に行ったその先、ちょうど市場の入り口あたりに、美しい装束をまとった一行の姿があった。
半月ぶりに屋敷を出た、犀星たちである。
人々にとっては見慣れた風景。だが、玲陽の目には、すべてが新鮮で、輝いていた。
市場の東の端で、玲陽は周りを見回した。
玲陽の好奇心に満ちた横顔を、犀星は微笑ましく見つめていた。
玲陽が目立たずに市場を歩けるように、と、蓮章は自身の持ち物から使えそうなものを選び出した。金色の髪を自然に隠すため、薄墨色の絹の布が、髪と顔のまわりをふんわりと包んでいる。遠目には、高位の者が外出する時のいでたちに見える。それに合わせて、刺繍入りの袍と、裾の広い袴が選ばれた。どちらも淡い灰青色で、初冬のうすい昼の光には馴染んだ色合いである。足元は暖かく歩きやすい革靴で、足首は袴の裾で覆った。
玲陽の服装に薄めの色を選んだのには、蓮章の的確な意図があった。玲陽の髪の色は薄く、日の光の下では特に目立つ。濃い色の服には一層映えて印象が強くなる。蓮章は、万が一に備えて、色調にも配慮していた。
さすがは花街を唸らせる蓮章である。こういうことにかけては、抜かりがなかった。
玲陽だけが装いを整えると思っていた犀星は、自分に向けて差し出された着物に、思わず眉を寄せた。
公式の場に出る時以外は、一切の装飾を嫌う犀星である。
しかし、蓮章はかたくなだった。
玲陽だけが目立ったのでは元も子もない。犀星が少しでも派手な格好をすれば、それだけ人々の目が犀星に向く。その分、玲陽が助かる。
そんな理屈で犀星に着物を押し付けた。玲陽のため、と言われてしまっては、犀星が断ることはできない。
仕方なく、着慣れない緩やかな着物に腕を通した。白色の、細い彩りのある袍と、裾の広がりを抑えた袴、黒色の帯に、薄手の肩掛け、足元も草履ではなく、灰色の革靴を履く。そして、緩やかに流した髪の髷には、いつもの銀色に揺れるかんざしを一つ。ここのもまた、蓮章の意向がある。犀星の髪色は玲陽ほど強烈な印象にはつながらないものの、深く艶のある蒼色をしている。そこに白色の装束を合わせれば、自然と目に鮮やかにうつる。つまり、玲陽はごく地味に、犀星は目立たせて、という対比だった。
色も落ち着いているし、形も華美ではないが、犀星にとっては、実用性に欠ける装束である。緩んだ袖口が特に気に入らないらしい。動きやすい深い黒染めの服があてがわれた東雨のことが、犀星は少し羨ましかった。
だが、犀星の困惑はこれでは終わらなかった。
支度を整えた三人の前に、着飾った蓮章があらわれた。いや、『蓮章であった人』というべきか。
東雨などはポカンとしたまま、手にしていた湯呑みを落とした。
「そこまでする必要、あったんですか?」
市場の人目を気にしながら、東雨はもじもじし、恨めしげにそばに立つ蓮章を見上げた。
「どうせやるなら徹底的に、だろ」
蓮章の瞼の上に乗せた粉化粧の、うっすらとした赤みがやけに気になった。
「そういう問題じゃないです」
不満を言いながらも、東雨の声はどこか上ずっている。
蓮章はその切れ長の灰色の瞳を、わずかに細めた。東雨は肩をすくめながら、
「みんな見てますよ」
と、言い訳のように言う。
「見せておけば良い」
と、蓮章が笑う。
「おかげで、誰も光理を気にしない」
蓮章は、わずかに得意げだ。
それもそのはず、周囲の人々の目は、突然、市場の端に現れた『美女』に釘付けなのだ。
犀星は苦笑した。噂には聞いたことがあったが、まさかこれほどとは。
色鮮やかな裾の長い女の装束をまとい、美しく化粧を施した蓮章は、まさに別人である。これが暁隊を束ねる副将であるなど、誰も思うまい。今の彼は、まさに妖艶な雰囲気を身にまとった絶世の美女そのものだった。
犀星も玲陽も美しさでは劣らないが、華やかさには欠ける。
蓮章は先頭に立った。
「さあ、行こうか」
見た目が女性でも、その口ぶりは男性そのものである。
「頭がどうにかなりそう」
東雨は天をあおいだ。
玲陽はそんな東雨と蓮章のやり取りに、緊張が解けていくのを感じた。すぐ隣には、そっと犀星が寄り添ってくれている。体は触れないが、手を伸ばせば届く距離だ。
玲陽は、昨夜、犀星と交わした会話を思い出した。
できる限りひとりで頑張りたい、と言ったとき、犀星はわずかに不安そうな顔をした。だが、すぐに納得したように頷いて、励ましてくれた。
ただし、絶対に無理はしないこと、見える場所にいること。それは約束した。
何かあって、玲陽が一時的に固まってしまったとしても、自分で解決したいと思ったなら、犀星を呼ばないことにしている。どうしようもない時は、『兄様』ではなく『名前』を呼ぶ、と決めた。
固まって声も出なかったらどうするんだ、と犀星は心配したが、玲陽は笑った。
『どんな時でも、あなたの名前ならば呼べる』
それが玲陽の想いだった。犀星はそれ以上何も言わず、しっかりと抱きしめてくれた。
「どうした?」
犀星は、ぼんやりと自分を見つめている玲陽を見て、優しく尋ねる。
「いえ、ちょっと安心しました」
玲陽は、少し先で不毛な言い争いをしている蓮章と東雨を見た。
「私、やってみます」
犀星が微笑む。玲陽には、ここにいるから、という、言葉ではない声が、聞こえた気がした。
改めて、市場を見回す。
玲陽は、生まれてから一度も、歌仙を出たことがなかった。
玲家の屋敷の周りには、似たような市場があったが、田畑の中の穏やかな市と、紅蘭とは違う。
歌仙の街並みが、春の柔らかな光の中の花畑なら、紅蘭の市場は、夏の盛りの日差しに照らされる街道の喧騒だ。
活気が満ちている。
今の時期はまだ静かな方だ、と聞いていた。それでも玲陽には、充分すぎるほどの賑わいである。
玲陽は、左腕にかけていた市籠を見た。
その中には、油の代金と、買った油を収めるための小さな壺が入っている。子供の頃に、犀星と一緒に市場まで買い物に行ったときのことが思い出された。小さな自分にもできたのだ。きっとうまくいく。
玲陽は顔を上げた。硬く踏み固められた土の道をゆっくりと歩き始める。埃もたたないほど、その歩みは静かだった。犀星は自分に歩調を合わせている。数歩先を行く蓮章が、わざとらしく周囲に愛想を振り撒いている。
「蓮章様、少し派手ですね」
と玲陽が小さく言った。隣の犀星はうなずいた。
「おかげで、お前が楽になるのなら、かまわない」
犀星の基準は、いつも玲陽が中心である。それが玲陽には、愛おしかった。どんな言葉よりも、犀星が隣にいることが心強い。そして、蓮章や東雨がその外側からやんわりと自分を包んでくれる。たくさんの人に大切にされている。その思いは自分を強くしてくれる。一人ではないのだ。
玲陽は、見るものすべてに興味が湧いた。店先の鶏は、竹籠の中で一生懸命に鳴いている。並べられた魚は、見たことのない形をしていた。軒下に吊るされているあの乾物は、なんだろうか。
甘い匂い、香ばしい匂い。店先で煮ている量り売りの惣菜が、冷えた空気に真っ白な湯気を上げている。ちらりと鮮やかな人参の色が見えた。来年は人参も育てよう、と庭の畑を思い出す。
髪を覆う薄い布が、歩くにつれて優しく風に揺れる。一見しただけでは、髪の色に気づかれることはないだろう。だが、髪は隠せても目は隠せない。店でやりとりをするときには、どうしても見られてしまう。自分の心と体が、どう反応するのか、それはその時にならなければわからない。
行き交う人々の姿が、玲陽には生き生きと鮮やかに見える。
そこには、たくさんの人生があった。
赤ん坊から老人までが同じ場所に集っている。一人ずつの生き方があり、悩みも苦しみも喜びもそれぞれだ。自分もまたその中の一人に過ぎない。
自分を取り巻く世界があまりにも重く、それがすべてのような気がしていたが、彼らから見ると、玲陽の人生もまた、多くの中の一つに過ぎない。
そんなたくさんの生き様が交差する場所を、犀星と並んで歩く。それは玲陽に、共に人生を歩んでいるという実感を与えた。
「私は、今、あなたとここに居られて、この場所を、この時間を一緒に過ごすことができて、それがどれだけ恵まれたことなのか、幸せなことなのか、やっと考えるに至りました」
玲陽は囁くように、そんなことを言った。じっと犀星は聞いている。唇がかすかに震えて何か言おうとしたが、黙ってそっと空に向いた。
涙をこらえている?
玲陽は、とっさにそう思った。
「こんなところで、泣かないでください」
少し意地悪く、玲陽が言った。
「泣いてなどない」
犀星が声を震わせる。玲陽はその顔にうっとりとした。
その瞬間は、ふたりには珍しい、完全な『隙』であった。
女性が一人、小走りに二人に近づいてきた。彼女は抱えていた荷物が崩れることがないよう、注意をそちらに向けていた。すれ違いざまに、玲陽の肩に女性の荷物が軽くぶつかる。
「あ!」
女性も玲陽も、同時に声をあげた。
犀星がハッとして振り返る。
「ごめんなさい」
女性はどうにか転ばずには済み、荷物の陰から玲陽を見た。
咄嗟のことに固まっていた玲陽は、声も出せず、女性を見つめ返した。
「……っ!」
女性の顔が、みるみるうちに引き攣った。
まずい!
犀星がそう思った時には、遅かった。
「……怪物!」
女性が甲高い声を上げた。蓮章は素早く振り返った。若い女性が、目を見開き、明らかな恐怖を浮かべて、玲陽を凝視していた。
玲陽は自分を守るように、固く目を閉じて顔を背けた。
ざわざわと人の声が重なってゆく。皆が女性の視線を追って、他の人々の注目も玲陽に集まり始める。こそこそと耳打ちしたり、値踏みするような目で遠巻きに玲陽をのぞいている。
玲陽はじっと動かない。傍には犀星が立っているが、ふたりの間には人一人分の空間がある。犀星の手は、今にも玲陽に触れたくてたまらないというように震えていた。しかし、玲陽はじっと体を縮め、それでも助けは求めていない。
まだ、耐えるつもりか。
蓮章はしっかりと玲陽に体を向け、様子を見守る。玲陽は目を閉じ、下を向いたままだ。
いいぞ、と蓮章は思った。
目を閉じてしまえば、色はわからない。それは意図したことではなく体の防御反応だったのかもしれないが、とりあえず好都合だ。髪も薄い布で覆い隠している。わずかに耳元に髪が揺れるが、離れていれば、はっきりとは断定できないだろう。
玲陽はじっと、唇を結んでいる。
親王を呼ばないつもりか。
蓮章は黙って周りを見回した。いくら玲陽が沈黙を保ったところで、状況は悪化していく。周囲の人だかりは大きくなり、自分たちを中心に、距離をとって円をつくる。
蓮章はちらっと犀星を見た。犀星は玲陽を見つめ、その表情はこわばっていた。彼自身も決して余裕があるわけではない。
任せろ。
蓮章は何事かを決意すると、東雨を見下ろした。
「東雨」
と、低く呼ぶ。
このままでは大変なことになる、と焦っていた東雨は、びくりとして蓮章を見上げた。そして、蓮章の、その意味ありげな視線に戸惑った。明らかに、何か指示を出している目だ。
「蓮章様……何を?」
かすれた声で、東雨は呼びかけた。蓮章の唇が、不敵に歪んだ。
「俺に合わせろ」
そこにはっきりと、好戦的な光が燃えていた。東雨はおののいた。
……これ、絶対、ダメなやつだ!
東雨は悟った。彼の周りの大胆不敵な大人たちがこういう顔をする時は、決まってろくなことが起こらないのだ。そしていつも自分は無理やりに巻き込まれる。それは経験上、思い知っている。
彼の中で、すぐに逃げろ、と本能が叫んだ。だが、逃げたが最後、後からどんな目に遭わされるかわからない。
万事休すだった。
青ざめる東雨を意に介さず、蓮章は女性のふりをしたまま、人々の視線と玲陽との間に立つ。そしてゆっくりと腕を振り上げ、大きく広げて注意を引いた。
「ばれてしまっては、仕方がないわね」
声そのものが空中で光るような、色めいた女の声音がそう言った。
東雨は全身が、ゾワっと寒気に襲われた。恐怖ではなく、腹から湧き起こる興奮。その声はまるで、東雨の神経を直接撫で上げたようだ。
蓮章は髪を覆う布に指をかけた。布がひらりと舞い落ち……
その下に、金色の髪が現れた。右目は垂らした髪で隠し、左目だけで人々を睨む。
人々が一斉に震え上がる。あちらこちらから、小さな悲鳴が聞こえた。
東雨は目を疑った。
……蓮章様、その髪っ……
玲陽のものとは明らかに色味が違うが、このような状況では金色と思われるに十分な明るい色だ。
いつの間に染めた? いや、どうして? 訳がわからない!
東雨はひたすら混乱する。
だが、東雨の悲劇はそれだけで終わらなかった。
蓮章は芝居がかった仕草で周囲を見渡した。その目はまるで相手を食い殺そうかという妖の目だ。
灰色の左の目がきらりと光る。それはまるで、銀色の瞳のように。
東雨は、蓮章の意図に気づいてしまった。そして、後悔した。
まさか! まさか! 嘘だろ! 俺にやれってのかよっ……!
蓮章が浮かべた意味ありげな笑み、そして、自分に合わせろと言った意味が繋がった。
もう、めちゃくちゃだ!
東雨は、心臓がばくばくと鳴るのを感じた。
どうなっても、俺のせいじゃないからなぁっ!
心で絶叫しながら、東雨は蓮章から逃げるように飛び退く。人々の間に入ると、蓮章を指差して叫ぶ。
「こいつが化け物だ! 金の髪と銀の瞳だ!」
東雨の大声に、民衆たちが一気にどよめいた。
「化け物っ……!」
「……喰われるっ……!
皆が尻込みする。逃げようとして、何人かが足がもつれてひっくり返る。
蓮章は、満足そうにゆっくりと見渡しながら、
「うるさい連中だこと」
と余裕を見せた。
「さぁて、誰からにしようかしら?」
まるで楽しむように言う。その言葉に皆が腰を抜かし、何人かが泣き声を上げた。子供たちが親にすがり、老人たちが拝むように手を合わせる。
「何事だ!」
騒ぎを聞きつけて、三番隊の隊士が二人、人の輪の中に飛び込んできた。蓮章の姿を見て、彼らもまた驚き、動けなくなる。
「おまえっ……!」
若い方の隊士が、蓮章を見て何かを言おうとしたが、言葉に詰まった。噂を知っているのだろう。もう一人も表情を引きつらせ、恐怖で棒立ちになっている。
哀れなほど怯えている隊士たちを、愉快でたまらないという顔で見据え、蓮章は高笑いを上げた。
これはもう演技ではないな、と、東雨は思った。間違いなく、蓮章は楽しんでいる。
蓮章は、完全にすくみ上がっている若い隊士に近づいていった。
「お兄さん、良い男じゃないの」
その声はあまりにも艶めかしく、その場にいた男性たちが、一瞬、腰を引く。女性までが、びくりと体をのけぞらせた。
蓮章は迷うことなく隊士の頬に手を添え、指でそっとなぞる。裳の中でわずかにかがんでいるのか、蓮章の背は少し小さく見える。明らかに女性のふりをすることに慣れている。
……ここまで来ると、もう、何も言えないや……
東雨は感服してしまった。
蓮章はちらりと東雨を見て、見せつけるように唇を舐めた。
まだ何かするつもり……っ?
東雨がそんな不安を覚えた途端、蓮章は隊士の顔を引き寄せ、躊躇いもなく口づけた。された隊士は目を見開き、指一本動かせない。蓮章の仕草には容赦がなかった。深く、吸い付くように深めていく。
何が起きているんだ……
東雨には刺激が強すぎた。頭が真っ白になる。
口づけられた隊士は逃げることもできず、そのまま固まっている。ねっとりとした動きで、蓮章がゆっくりと口を離す。
ぐらりと傾いて、隊士は土の上に転がった。
ちらっと蓮章が東雨を見る。
東雨は、それが自分への合図だと気づいた。ぼんやりしている場合ではない。東雨は必死に息を吸って、
「た、魂を喰われたぞ!」
大声で、嘘を叫んだ。
本当は、紅に仕込んだ毒で、眠らせただけだろう。蓮章自身が毒に耐性があるからこそ、できることだった。
東雨は、用意周到な蓮章に舌を巻く。
噂に惑わされている人々には、隊士が本当に魂を抜かれたように見えていた。人々から一際大きな悲鳴が上がる。
三番隊のもう一人の隊士は、全身を震わせて、蓮章を見つめている。蓮章は、彼を標的に定めた。
「次は、あなたにいたしましょう」
蓮章は言いながら隊士ににじり寄る。
隊士は悲鳴を上げ、這いつくばるように人の群れを掻き分けて、転びながら大通りを逃げ出した。
「あらあら、三番隊は腰抜けだこと」
蓮章の妖艶な高笑いが、再び響き渡った。恐怖に駆られた隊士の耳には、それがどれほど恐ろしく響いただろう。
俺……寿命が十年持っていかれた……
東雨は、その場にぺたっと座り込んだ。じわりと暖かい涙が目に浮かんでいた。
皇帝と話すより、怖かった。
東雨の背後から、苛立ったような足音が近づいてくる。それは東雨の脇でぴたりと止まった。視線を感じて東雨は顔を上げた。
紅色の着流しに、厚手の紅蓮の外袍をゆるやかに着付けた涼景が、じっと自分を見つめて無表情で立っていた。
情けなさ全開の顔で、東雨は涼景と目があってしまった。
……一番見られたくないところを、一番見られたくない奴に見られた……
自尊心が崩壊する。涼景はふっと笑った。哀れみを込めた目だった。それから、切り替えたように蓮章に向く。
「何をやっている?」
「おや」
蓮章はどこか嬉しそうに、体を捻って振り返る。
「素敵。暁隊の隊長さんじゃありませんか」
静かに歩み寄り、そっと涼景の胸に指先を添える。その仕草はまるで、間夫に甘える女郎のようだ。そのまま涼景に顔を寄せ、よもや口づけるかというところで、ぴたりと止まる。二人の、あまりに近い顔と顔。
その光景は、多感な少年である東雨には残酷なまでに突き刺さった。今度こそ、死んだと思った。
「遅かったな」
蓮章がそのままの距離で、囁くように言った。いつもの、男の声だ。
「もう済んだぞ」
言って、色っぽく笑う。涼景は一才動じず、ただ、やれやれと首を振っただけだった。
「暁様っ……!」
人々の中から、助けを求める声が涼景を呼ぶ。
涼景は蓮章の肩を乱暴に掴んで、動揺している人々の前に突き出した。
「よく見ろ、蓮章だ」
涼景は、蓮章の前髪を掻き上げた。黒と灰の異色の目があらわになる。
その瞬間、その場は更なる混乱に陥った。突然の種明かしに、誰もが何が起きたのか理解できず、あれやこれやとわけのわからないことを喚いている。涼景は対応に追われ、蓮章は知らない顔をして、空を眺めた。
騒ぎがおさまっていくのを感じて、玲陽はそっと目を開けた。
彼は、ずっと音を聞いていた。どこか蓮章に似た女性の声、東雨の叫び、兵士らしい者の怒鳴り声、民衆たちの騒ぎ立てる声、ときどき響く悲鳴。
それでも玲陽は動かなかった。ただじっとその場に立ち、目を閉じたまま、状況が落ち着くのを待っていた。
怖くない、怖くない、怖くない……
そう、自分に繰り返し言い聞かせていた。
そして目を開けたとき、そこに広がる光景は、玲陽が思っていたものとは少し違っていた。人々は自分ではなく、涼景とその前に立つ蓮章を見ていた。
てっきり、一斉に人々の目に晒されるものと覚悟していた玲陽は、目を瞬いた。幸いなことに、玲陽は何も見なくて済んだ。
え?……乗り越えた?
隣では、犀星がどこか呆れ果てたような顔を、涼景たちに向けている。
不思議と、犀星が自分を見ていないことに、玲陽は安心した。いつも心配そうに、自分の影ばかりを追っていた犀星が、今は視線を外している。
それはつまり、玲陽は大丈夫だと、犀星が思ってくれた証拠だと感じた。
星、と呼びそうになって、玲陽はそれを飲み込んだ。そして改めて、静かに呼びかける。
「兄様」
反応して、犀星がこちらを向く。その表情には驚きが残されていたが、それもすぐに柔らかくほどけ、目元が緩む。
「……陽、よく頑張ったな」
犀星は、はっきりと言った。玲陽はにっこりと笑った。
その様子を見て、民衆の中から声がかかった。
「歌仙様!」
人々が、揃ってこちらを振り返る。
犀星は、そっと玲陽を自分の後ろにかばい、それから周りを見回した。堂々と、おちついた佇まいは、玲陽が初めて見る『歌仙親王』の姿だった。
「皆、騒がせてしまい、申し訳なかった」
言って、犀星は一歩進み出た。
玲陽ははっとした。奇妙な感覚を覚える。
犀星の横顔が、なぜか見知らぬものに思われた。
目の前にいるのは、幼なじみでも、兄弟として育った犀星でもない。この国の親王だ。
玲陽はわずかに目を伏せた。邪魔をしないように、静かに見守る。
犀星は、人々の顔を一人ひとり見るようにゆっくりと見回した。その眼差しは、慈しむ暖かさが含まれていた。
「少々訳があって、騒ぎ起こしてしまった。もう、終わった」
犀星の声はまるで、美しく響く鐘のようだ。騒然とした市場のなかでも、誰の心にまっすぐに届く響きをもっている。
「皆には、不安な思いをさせて申し訳ない。許してほしい」
そう言って、しっかりと犀星は頭を下げた。
先ほどまでの騒動が嘘のように、人々の顔に安堵が広がる。
親王とは民に頭を下げるものなのだろうか、と玲陽はちらりと思った。
だが、それがいかにも犀星らしい気がした。そして、そんな犀星の様子を皆が受け入れていることが嬉しかった。誰もが、歌仙様が言うのだから心配は無い、という顔をしている。皆、先ほどの騒ぎを思い出し、互いに相手の動揺をからかいあって笑っていた。
東雨は、まだ震える足で、犀星のそばに寄ってきた。少し離れた場所で、涼景と蓮章は見守っていた。
人々の中にあって、犀星の立ち姿は美しかった。圧倒的な存在感がそこにはあった。
決して華やかではない服装で、高い位置に立つわけでもない。声を荒げることも、大仰に振る舞うこともない。
それなのに、自然と人々は、犀星の不思議な雰囲気に飲み込まれてゆく。自ら進んで、その色に染まってゆく。
まるでそこだけがぼんやりと輝いて、光であたりを照らしているかのようだ。
あなたは今、親王なのですね。
そんなことを玲陽は思った。胸が、きゅうと締まった。
「歌仙様がお戻りくださって、安心しました」
そばにいた男性が言った。
犀星は静かにうなずいた。
「心配をかけた。これからは皆のためにまた、力を尽くさせて欲しい。助けてもらえるだろうか?」
人々は顔を見合わせ、にっこりと笑った。それはごく自然に浮かんだ、犀星に対する信頼と感謝の証だった。
犀星は静かに微笑んだまま、そっと玲陽を見た。
人々は、犀星の視線に誘われるように玲陽に顔を向けた。先ほど玲陽とぶつかった女性が、頬をこわばらせた。
そのとき、
「歌仙様」
と呼び声がして、一人の少女が大通りの向こうから、全力で駆けてきた。犀星はそちらを振り返った。
箱を背負って、行商に行く途中の明だった。
「久しいな」
と犀星は声をかけた。
「お元気そうで、安心しました」
と、明は呼吸を弾ませて微笑んだ。それからふと、玲陽の方を見て、問いたげに首を傾げた。玲陽のまぶたが微かに動いた。玲陽は一呼吸を置き、そっと微笑む。
その目の色に気づいた何人かが、身構えるように身を引く。だが、玲陽は動じなかった。しっかりと顔を上げ、明と向き合った。
「犀光理と申します」
玲陽はっきりと名乗った。
東雨の顔がぱっと輝く。犀星もまた、眩しいものを見るように目を細めていた。
玲陽は何を思ったのか、そっと髪を覆う布に手をかけた。そして意を決して、ゆっくりとそれを引き下ろす。
美しく波打つような金色の髪が、市場の白い風にたなびいた。その場にどよめきが起こる。
透き通るような、輝く髪だった。
「私が怖くないですか?」
玲陽は琥珀の瞳で明を見つめたまま、はっきりと尋ねた。
「全然」
笑顔のまま、明は首を振った。その返答に玲陽は少し驚きを見せる。明は重ねて、
「全然怖くないです。だって、歌仙様が笑っていらっしゃるから」
犀星が微笑む相手なのだから、怖いはずがない。
それが、すべての答えだった。
玲陽は思わず手を胸に当てた。犀星はそっと、玲陽の袖を引いた。
「紹介させて欲しい。私の弟だ。都は初めてゆえ、わからぬことも多い。皆、どうか、よろしく頼む」
明が思わず、手を打った。そこから、自然と人々の間に拍手が沸き起こる。その音は低い空を押し上げるように高くなり、玲陽は息を飲んで人々を見回した。
フッと、涼景と蓮章が顔を見合わせて笑う。東雨は目を潤ませて、鼻をすすった。
「陽」
犀星が玲陽の背中に手を当てた。それは励ますようでもあり、同時に促すようでもあった。
玲陽は大きく頷くと、一歩、前にでた。それから、柔らかな笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。
一層高まる拍手を聞きながら、玲陽は確かに心が熱く、強くなるのを感じていた。
その日、玲陽は幸せだった。
時間はかかったが、自分の速さで市場を歩き、油屋で、小壺に一杯の油を買った。店の主人と、短い話もした。少し驚いたような目で玲陽を見ていた主人は、しかし、決して彼を傷つける事はなかった。
帰り際、明は少し照れたように、小さな飴の包みを差し出した。それは、玲陽が初めて見る透き通った優しい赤や黄色で、花の形をしていた。彼女が作った花飴だと、犀星が懐かしむように言った。
屋敷に戻って、東雨と一緒に、念願の白菜の花の揚げ物を作った。そして、大根の葉の塩漬けと一緒に、粥に添えた。
いつもと変わらない慎ましい夕食。そこに込められた思いの大きさは玲陽の腹と胸をいっぱいにした。
幸せな時間だった。寝支度を整えて、床に入ろうとするまでは。
鏡台の前で、玲陽は髪を解いていた。東雨が丁寧に整えてくれた髪。このような複雑な結い方に慣れていない玲陽は、紐が絡んで途方にくれた。犀星がそれに気づいて、笑いながらそっと手を貸した。
自分の髪に犀星の指が触れる。それが嬉しくて、玲陽は鏡を見る。鏡越しに犀星の腕が見える。その時だった。犀星の着物の袖が自然と肘まで滑り落ち、腕があらわになった。
玲陽はドキリとした。犀星の腕の内側の柔らかい場所に、赤い傷があった。
それは、玲陽の中の不安を一気にかき立てた。
どこで怪我をした?
犀星がそのような場所を無防備にさらすことなど、そう多くはない。
例えば……
玲陽は怖い想像をした。
例えば、それは、自分と一緒に体を寄せて眠っている時……
玲陽は今まで、多くの傷を受けてきた。そのため、それが何によってつけられた傷か、自然とわかってしまう。
……あれは、かじられた痕だ。
そのような傷を犀星に付けることができる人間は、自分だけだ。
玲陽は最近、夜中の一時、記憶が抜け落ちるのを自覚していた。それは夢を見ているようでもあったが、なんとなく違う気がしていた。
柔らかな場所についた犀星の傷、自分の夜中の抜け落ちた時間。そして誰より、自分を深く想ってくれる犀星の心。それがつながる。戦慄が走る。
玲陽は想像し、真実を探り当ててしまった。
直接尋ねるべきか。いや、彼は答えないだろう。
犀星は、真実を隠しておくつもりだろう、と思った。だが、疑ってしまった以上、それを黙って見過ごす事は玲陽にはできなかった。
せめて、確かめたい。
玲陽は平生を装って、犀星の隣で横になった。目を閉じ、眠っているような素振りを見せる。
「今日は、本当に頑張った。疲れただろう」
と犀星が優しく話しかけてきた。自分だけに見せる、あまりに無防備な仕草だった。
「はい。でも幸せでした」
玲陽は正直に言った。それは本心だった。だが彼は今、別のことが気になってならない。
言葉は少なく、ただ確かめるように、犀星の胸に顔を寄せ、肌に暖かさを感じる。鼓動も聞こえる。背中を支える犀星の腕。自分に対する献身的な想いを感じずにはいられない。
玲陽はずっと目を閉じたまま、時が過ぎるのを待った。犀星の体の熱を自分の体が受け入れ、そのまま自分の熱として馴染んでしまうまで。
……こんなにも体が溶け合っていくような優しい人に、私は何をしているのだろうか。
玲陽はやましく思う心を隠すように、ぎゅっと犀星の衣を握った。唇を静かに寄せる。
それからまたしばらくじっとする。
犀星の呼吸に合わせると、楽に息ができる気がした。
……星、ごめんなさい。
玲陽は行動を起こした。
犀星の体に沿わせて手を伸ばし、その肩をつかむ。抵抗しないことを確かめながら、ゆっくりとその上半身に体を重ねる。
玲陽は何も言わない。ただ自然を装って呼吸は乱す。その息が犀星の喉元に触れる。喉から肩の曲線に流れ込むように、玲陽は顔を埋めた。
泣きたくなるほど、柔らかい。
犀星は玲陽の頭を後ろから手で包んだ。撫でられているようでもあり、抱かれているようでもある。
少しだけ、犀星の手に力が入る。その動きに任せてみると、犀星は玲陽をそっと胸元へ導いているようだった。
喉ではなく、こちらだ。
そんな仕草だった。
玲陽は逆らわず、体を下ろした。そして、犀星の夜着の襟の合わせに、ぐっと顔を寄せ、鼻を擦り付けるようにそのあわいを広げる。
こんなにも大胆に肌を求めることは、今までになかった。全部忘れて、このまま、ただひたすらに甘えてしまいたかった。けれど、真実を求め始めた玲陽の心は、自由にはなりきれなかった。緊張のために胸が高鳴って、長く息を吐いた。その時わずかに喉が締まり、小さく震えるような声が出た。
「大丈夫」
低く、犀星が優しい声をかけてきた。
すぐに意味がわからなかったが、玲陽はもう一度わざと声を上げた。
「大丈夫だから」
そう言って、犀星は頭から背中にかけて、優しく撫でた。玲陽の背中の傷に触れて痛めないよう、気遣いながら。
ああ、もう、泣きたい。
玲陽は、弱くなりそうな心を振り払う。
思い切って、体をよじり、犀星の腕にすがった。先ほど傷があったあたりだ。
犀星はひたすら、傷つけないように、そっと玲陽を包み込もうとする。だが、玲陽は手首を抑えつけ、そのまま肘の裏に歯を当てた。
しっとりとした犀星の皮膚が、玲陽の舌先に触れる。
嫌だ、傷つけたくなんてない!
とっさに玲陽は強く唇で吸う。
犀星は怒らない。抵抗もしない。
しかしそれは、愛撫として受け入れているのではない、ということが、玲陽には直感でわかる。ただただ、玲陽の行動を見守っているだけだ。
「大丈夫、怖がらなくていい」
犀星は、そうつぶやいている。そして丁寧に髪を撫でる。
……怖がらなくていい? それは、どういう意味?
玲陽はきつく目を閉じ、今度こそ、震えながらその肌を噛んだ。じっと犀星は動かない。
明らかに、皮膚を噛み締めた感触がある。かすかに血の味。痛むはずだ。それなのに犀星は全く反応を示さない。
こんな反応は、おかしい。犀星はあまりに冷静すぎる!
玲陽は焦り、何かに取り憑かれたように、いくつもいくつも犀星の腕と胸に傷を残した。噛みつき、爪を立てる。少しずつ自分の痕を刻んでいく。
それなのに、犀星は自分を押し返さない。逆に、あやすように呼びかけながら、腰の後ろをとんとんと叩き、撫でてくれる。
「誰もおまえを傷つけたりしない。おびえなくていい。俺はここにいる。大丈夫」
そんなことを、繰り返し語りかけてくる。それは明らかに、玲陽をなだめるための言葉だ。まるで、何度も繰り返してきたことであるかのように、静かに。
玲陽は確信し、動きをとめると、すっと体を起こした。
薄暗い月の光が、犀星の顔を照らしていた。
玲陽は、その顔をじっと見つめた。
「やっぱり」
玲陽が言った。その一言に、犀星は明らかな動揺を示した。久しぶりに見る大きな反応だった。
「陽、おまえ……」
「はい」
玲陽はうなずいた。
「……ごめんなさい。あなたを試した」
「…………」
「あなたの腕に傷があるのを見てしまった。あんなところに傷をつけられるのは私だけだと思った。だけど、私には記憶がない。だから」
犀星は、少し悔しそうな顔で目をそらす。肩で大きく息をしているのは、自分の心を整えているからだとわかる。
それからそっと玲陽の肩に手をかけて、自分の上にゆっくりと引き寄せた。玲陽は身をゆだね、包み込むように、上から抱きしめる。
「黙っていて、済まなかった」
犀星は言った。玲陽は、一層顔を寄せて、
「謝らないで。こんなこと、あなたが私に言えるはずがない」
犀星があえて隠していた意味が痛いほどわかる。責める気持ちはなかった。
「ごめんなさい。私が弱いから……あなたに酷いことをしてしまった」
犀星は、黙って玲陽の髪を撫でている。
玲陽は自分の中にある不安を、正直に言葉にした。
「私の中には、私ではない、誰かがいるんです。それは時々、私を不安に駆り立てて、過去に引き戻そうとする。私はそれが、この病の元凶なのだと思っています。この敵と、戦わなきゃいけない。なんとしても……。そして、必ず勝ってみせる。負けたくない。こんなものに、負けたくないんです」
それは、玲陽が自分の心のありようを、しっかりと認識した瞬間でもあった。
「陽……」
犀星は、背中の傷に触れないよう、さらに強く抱きしめた。
「違うよ」
優しく耳元でささやく。
「それは違う」
と、首を振る。
じっとしたまま、玲陽はその声を聞いていた。まるですべてに答えをくれるかのような、優しい声だった。
「おまえの中に、敵なんていない」
犀星は言った。
「それは、お前が辛い時に必死に戦ってくれた、『もう一人のおまえ』なんだよ。おまえの心が全て壊れてしまわないように、耐え続けてくれた『もう一人の陽』だ。傷ついて助けを求めている、おまえ自身なんだよ」
玲陽は、静かに自分の中に深く入り込んでくる犀星の言葉を、ひとつひとつ受け止めていた。
「だから、な。戦う必要なんてないんだ。倒すのではなくて、癒してあげよう。俺も一緒に手を尽くすから」
玲陽は泣きそうな顔で、犀星に擦り寄った。
「私は……昔の自分に戻りたい。心から笑って、怖くてもちゃんと前に進めた。昔の自分に戻りたい。私は……」
「昔の陽は、消えたりなんてしない。ちゃんと、今につながっている」
犀星は言った。
「けれど、俺が見ていたいのは過去じゃない。今の陽なんだよ。痛みも傷も弱さも、全部まるごと受け入れる。俺は、昔のおまえに会いたいなんて思わない。今のおまえと一緒に生きていきたいだけなんだよ」
玲陽は思わず声をあげた。それは喜びだったのか、安堵だったのか。
犀星を抱き返すその手は震えていたが、恐怖ではない。
……いいんだ。私は、このままでいいんだ。
玲陽は全身の力が抜けていくのを感じた。そのかわりに、犀星の腕の強さが自分を支えてくれた。
昼間、毅然として民の前に立った歌仙親王が甦ってきた。
あれは、玲陽が知らなかった『今の』犀星の姿。
自分はずっと過去の犀星にすがってきたように思う。けれど、目の前にいるのは、昔のままの犀星ではない。あの頃より、もっと強く優しくなった犀星を、玲陽は見ていたいと思った。
「私も」
玲陽はそれを声にする。
「あなたを誇らしく思います。昔のままの大切なあなたがちゃんとここにいる。けれど、たくさんの人たちに愛されて、その思いに正面から向き合って、昔より強くなったあなたを見ていたい」
「陽……」
「過去ではなく、今とその先の時間を、一緒に生きていきたい」
そう言って、玲陽は少し体を起こし、犀星と額を合わせた。目を閉じる。
「だから、私は言います。傷ついて、それでも私を生かしてくれた『もう一人の私』に。心から、ありがとうって」
犀星の目に、熱い涙が溢れ、静かに流れ落ちた。
つながった。
それは、二人の間にあった十年の空白が、意味のある時間に変わった瞬間だった。
犀星も玲陽も同じ眼をして、見つめ合った。
口付けられないことが、これほど悔しいと思ったことはなかった。
犀星は自分の唇に触れた。そして玲陽もその指に口づける。小さな戒めを挟んで、二人の唇が重なる。
それ以上、言葉はなかった。共に生きていく時間が、きっと答えを出してくれる。
静かに夜が二人を包む。
中庭の回廊の隅に、ちらりと白い雪が落ちて、小さな雫にかわった。
その冬、初めての雪は、羽のように空を舞い続けた。
まだ薄暗いうちから人々は動き出し、明け方の夢の中にまでその物音が聞こえてくる気がした。
東市の北西の一角に、明の店がある。
家族で経営する小さな餅屋で、彼女は小さな頃から宮中や花街などに、箱を背負って売りに出た。この一帯は、彼女の庭も同じだった。
誰が何をした、どこで何が起きた、といった情報も、全て周囲から入ってくる。働き者で気立ても良い明は、市場の商人だけではなく、どこに行っても可愛がられた。特に花街では人気で、女郎たちにせがまれて、花の形をした美しい飴を考案し、こっそりと売っている。贅沢品ではないが、手間をかけて丁寧に仕上げた菓子だ。一度に多くは作れないため、おおやけに店先に並ぶことは無い。なじみの客がそっと耳打ちしたときにだけ、明は嬉しそうにそれを差し出す。
今朝は、ぐっと気温が下がって寒かった。綿の入った着古した着物に外袍を羽織って、明は表に出た。大きく体を伸ばし、冷えた空気をいっぱいに吸い込む。すっきりと目が覚めたが、反して空はどんよりと曇っている。
今日は雪が降るのかな。
明は、ぶるっと身震いした。
早朝から手早く売り物の準備をする。この秋は実りが少なく品物はどれも値が張る。明の店は暖かな饅頭や菓子を扱っているが、それも材料が不足して冬を乗り切るのは厳しそうだ。それは明のところだけではなく、市場全体に言えた。
それでも、東市は南市や西市と比べると活気がある。都の城壁のすぐ外に広大な農地があり、そこに土地を持っている商人が多いためだ。収穫された作物は、南や西に行く前に、この東市に流れてくる。
東市は、東西に長く、南北に少し短い。大通りの両側には、五十軒ほどの常設の店と、その隙間を埋めるように半数ほどの露店が並ぶ。露店は屋台や地面に敷物を広げた形で、その季節ごとの商品が並んでいる。
ほかの市からここに行商に来る者もいる。この季節は、特に干し柿や塩漬けの魚、漬物などが並ぶ。また、古着市が時々立ち、綿入れの上着や毛織物など、掘り出し物もある。薬を扱う店先には、風邪の予防薬や香料が並んでいる。
冬に備えた買い出しも、いよいよ大詰めの時期だ。
今朝は、早くから多くの人が市場を訪れている。走り回る子供や、それを怒鳴りつける男、店先で買い物よりもおしゃべりに興じる女たち。不作だという不安も薄らぐ、そんな朝だった。
明は手際よく、湯気の上がる饅頭を店先に並べていく。その匂いに惹かれるようにして、何人かがすぐに寄ってくる。彼女は笑顔で迎えた。
客が途切れると、明は店先で頬杖をついて、ぼんやりと空を眺めた。こうしていると思い出されるのは、五亨庵の美しい主人のことだ。
どうしているのかな。
小さな頃から宮中に行商に行っていた明は、五亨庵にもよく立ち寄っていた。犀星は買い食いを好まず、売り上げにはつながらなかったが、急な雨に降られた時や、人々の騒ぎに巻き込まれそうになった時など、逃げ込むには格好の場所だった。どんな時も、犀星が彼女を追い出すことはなかった。
明がいる間、犀星はずっと下を向いて、書き物をしたり文を読んだりしていた。その少し伏せた顔が、明にはとても美しく思えた。
それは恋だったのか、それとも美しいものに対する憧れだったのか。けれど、今でも明はこうして、よく犀星のことを思い出す。
大丈夫かな。
犀星は半年ほど前から体調を崩し、最近は故郷へ帰っていたと聞く。しかも、戻ってからも、一切姿を見せない。以前は、市場を歩く姿が日常のように見られた。今は、侍童の東雨が一人で、必要なものを買っていくだけだ。
犀星は特に買い物がなくても、頻繁に市場に顔を出した。店先や並木の下、井戸端、あらゆるところで人々に親しまれ、最近の生活の様子や困り事などの相談を受けていた。
犀星はいつも、穏やかな顔をして静かに話を聞き、うなずき、そして最後に、わかった、と小さく言うのだ。
明は偶然、その姿を見かけると、こっそりと物陰から様子を見ていた。隠れる必要は無いのだが、毎回のように覗いていては怪しまれるかもしれない。彼女は小さな羞恥心を抱きながら、それでも密かに姿を探していた。
このたび、犀星は故郷から、一人の人物を連れてきたという。
人々の話によれば、その人物は、金色の髪に、銀色の瞳を持ち、犀星の側にぴたりとついて、まるで影のようだったという。
金色の髪の人なんて、この世界にいるの?
と、明は、噂を疑った。
歌仙様が、その金色の怪物に取り憑かれたのではないか、そのために屋敷に閉じ込められているのではないか、いや、既に食われたのだ、そんな話が流れてくる。
いくら噂といえども、それはないだろうと明は思った。
店の奥から、母親の呼ぶ声がした。焼餅が仕上がったのだろう。
明は銭箱を閉じ、抱えると、返事をして店の奥へ入っていった。
曇り空の下、ゆっくりと人の波が市場の通りを流れていく。
店先で売られている鶏の鳴き声、犬の遠吠え、子供が何かをねだって泣く声、客を呼ぶ物売りの声、荷車が行き来する車輪の音。何もかもが平和な景色だった。
低い空に、鳥の影がいくつか過ぎてゆく。
明の店から、大通りを東に行ったその先、ちょうど市場の入り口あたりに、美しい装束をまとった一行の姿があった。
半月ぶりに屋敷を出た、犀星たちである。
人々にとっては見慣れた風景。だが、玲陽の目には、すべてが新鮮で、輝いていた。
市場の東の端で、玲陽は周りを見回した。
玲陽の好奇心に満ちた横顔を、犀星は微笑ましく見つめていた。
玲陽が目立たずに市場を歩けるように、と、蓮章は自身の持ち物から使えそうなものを選び出した。金色の髪を自然に隠すため、薄墨色の絹の布が、髪と顔のまわりをふんわりと包んでいる。遠目には、高位の者が外出する時のいでたちに見える。それに合わせて、刺繍入りの袍と、裾の広い袴が選ばれた。どちらも淡い灰青色で、初冬のうすい昼の光には馴染んだ色合いである。足元は暖かく歩きやすい革靴で、足首は袴の裾で覆った。
玲陽の服装に薄めの色を選んだのには、蓮章の的確な意図があった。玲陽の髪の色は薄く、日の光の下では特に目立つ。濃い色の服には一層映えて印象が強くなる。蓮章は、万が一に備えて、色調にも配慮していた。
さすがは花街を唸らせる蓮章である。こういうことにかけては、抜かりがなかった。
玲陽だけが装いを整えると思っていた犀星は、自分に向けて差し出された着物に、思わず眉を寄せた。
公式の場に出る時以外は、一切の装飾を嫌う犀星である。
しかし、蓮章はかたくなだった。
玲陽だけが目立ったのでは元も子もない。犀星が少しでも派手な格好をすれば、それだけ人々の目が犀星に向く。その分、玲陽が助かる。
そんな理屈で犀星に着物を押し付けた。玲陽のため、と言われてしまっては、犀星が断ることはできない。
仕方なく、着慣れない緩やかな着物に腕を通した。白色の、細い彩りのある袍と、裾の広がりを抑えた袴、黒色の帯に、薄手の肩掛け、足元も草履ではなく、灰色の革靴を履く。そして、緩やかに流した髪の髷には、いつもの銀色に揺れるかんざしを一つ。ここのもまた、蓮章の意向がある。犀星の髪色は玲陽ほど強烈な印象にはつながらないものの、深く艶のある蒼色をしている。そこに白色の装束を合わせれば、自然と目に鮮やかにうつる。つまり、玲陽はごく地味に、犀星は目立たせて、という対比だった。
色も落ち着いているし、形も華美ではないが、犀星にとっては、実用性に欠ける装束である。緩んだ袖口が特に気に入らないらしい。動きやすい深い黒染めの服があてがわれた東雨のことが、犀星は少し羨ましかった。
だが、犀星の困惑はこれでは終わらなかった。
支度を整えた三人の前に、着飾った蓮章があらわれた。いや、『蓮章であった人』というべきか。
東雨などはポカンとしたまま、手にしていた湯呑みを落とした。
「そこまでする必要、あったんですか?」
市場の人目を気にしながら、東雨はもじもじし、恨めしげにそばに立つ蓮章を見上げた。
「どうせやるなら徹底的に、だろ」
蓮章の瞼の上に乗せた粉化粧の、うっすらとした赤みがやけに気になった。
「そういう問題じゃないです」
不満を言いながらも、東雨の声はどこか上ずっている。
蓮章はその切れ長の灰色の瞳を、わずかに細めた。東雨は肩をすくめながら、
「みんな見てますよ」
と、言い訳のように言う。
「見せておけば良い」
と、蓮章が笑う。
「おかげで、誰も光理を気にしない」
蓮章は、わずかに得意げだ。
それもそのはず、周囲の人々の目は、突然、市場の端に現れた『美女』に釘付けなのだ。
犀星は苦笑した。噂には聞いたことがあったが、まさかこれほどとは。
色鮮やかな裾の長い女の装束をまとい、美しく化粧を施した蓮章は、まさに別人である。これが暁隊を束ねる副将であるなど、誰も思うまい。今の彼は、まさに妖艶な雰囲気を身にまとった絶世の美女そのものだった。
犀星も玲陽も美しさでは劣らないが、華やかさには欠ける。
蓮章は先頭に立った。
「さあ、行こうか」
見た目が女性でも、その口ぶりは男性そのものである。
「頭がどうにかなりそう」
東雨は天をあおいだ。
玲陽はそんな東雨と蓮章のやり取りに、緊張が解けていくのを感じた。すぐ隣には、そっと犀星が寄り添ってくれている。体は触れないが、手を伸ばせば届く距離だ。
玲陽は、昨夜、犀星と交わした会話を思い出した。
できる限りひとりで頑張りたい、と言ったとき、犀星はわずかに不安そうな顔をした。だが、すぐに納得したように頷いて、励ましてくれた。
ただし、絶対に無理はしないこと、見える場所にいること。それは約束した。
何かあって、玲陽が一時的に固まってしまったとしても、自分で解決したいと思ったなら、犀星を呼ばないことにしている。どうしようもない時は、『兄様』ではなく『名前』を呼ぶ、と決めた。
固まって声も出なかったらどうするんだ、と犀星は心配したが、玲陽は笑った。
『どんな時でも、あなたの名前ならば呼べる』
それが玲陽の想いだった。犀星はそれ以上何も言わず、しっかりと抱きしめてくれた。
「どうした?」
犀星は、ぼんやりと自分を見つめている玲陽を見て、優しく尋ねる。
「いえ、ちょっと安心しました」
玲陽は、少し先で不毛な言い争いをしている蓮章と東雨を見た。
「私、やってみます」
犀星が微笑む。玲陽には、ここにいるから、という、言葉ではない声が、聞こえた気がした。
改めて、市場を見回す。
玲陽は、生まれてから一度も、歌仙を出たことがなかった。
玲家の屋敷の周りには、似たような市場があったが、田畑の中の穏やかな市と、紅蘭とは違う。
歌仙の街並みが、春の柔らかな光の中の花畑なら、紅蘭の市場は、夏の盛りの日差しに照らされる街道の喧騒だ。
活気が満ちている。
今の時期はまだ静かな方だ、と聞いていた。それでも玲陽には、充分すぎるほどの賑わいである。
玲陽は、左腕にかけていた市籠を見た。
その中には、油の代金と、買った油を収めるための小さな壺が入っている。子供の頃に、犀星と一緒に市場まで買い物に行ったときのことが思い出された。小さな自分にもできたのだ。きっとうまくいく。
玲陽は顔を上げた。硬く踏み固められた土の道をゆっくりと歩き始める。埃もたたないほど、その歩みは静かだった。犀星は自分に歩調を合わせている。数歩先を行く蓮章が、わざとらしく周囲に愛想を振り撒いている。
「蓮章様、少し派手ですね」
と玲陽が小さく言った。隣の犀星はうなずいた。
「おかげで、お前が楽になるのなら、かまわない」
犀星の基準は、いつも玲陽が中心である。それが玲陽には、愛おしかった。どんな言葉よりも、犀星が隣にいることが心強い。そして、蓮章や東雨がその外側からやんわりと自分を包んでくれる。たくさんの人に大切にされている。その思いは自分を強くしてくれる。一人ではないのだ。
玲陽は、見るものすべてに興味が湧いた。店先の鶏は、竹籠の中で一生懸命に鳴いている。並べられた魚は、見たことのない形をしていた。軒下に吊るされているあの乾物は、なんだろうか。
甘い匂い、香ばしい匂い。店先で煮ている量り売りの惣菜が、冷えた空気に真っ白な湯気を上げている。ちらりと鮮やかな人参の色が見えた。来年は人参も育てよう、と庭の畑を思い出す。
髪を覆う薄い布が、歩くにつれて優しく風に揺れる。一見しただけでは、髪の色に気づかれることはないだろう。だが、髪は隠せても目は隠せない。店でやりとりをするときには、どうしても見られてしまう。自分の心と体が、どう反応するのか、それはその時にならなければわからない。
行き交う人々の姿が、玲陽には生き生きと鮮やかに見える。
そこには、たくさんの人生があった。
赤ん坊から老人までが同じ場所に集っている。一人ずつの生き方があり、悩みも苦しみも喜びもそれぞれだ。自分もまたその中の一人に過ぎない。
自分を取り巻く世界があまりにも重く、それがすべてのような気がしていたが、彼らから見ると、玲陽の人生もまた、多くの中の一つに過ぎない。
そんなたくさんの生き様が交差する場所を、犀星と並んで歩く。それは玲陽に、共に人生を歩んでいるという実感を与えた。
「私は、今、あなたとここに居られて、この場所を、この時間を一緒に過ごすことができて、それがどれだけ恵まれたことなのか、幸せなことなのか、やっと考えるに至りました」
玲陽は囁くように、そんなことを言った。じっと犀星は聞いている。唇がかすかに震えて何か言おうとしたが、黙ってそっと空に向いた。
涙をこらえている?
玲陽は、とっさにそう思った。
「こんなところで、泣かないでください」
少し意地悪く、玲陽が言った。
「泣いてなどない」
犀星が声を震わせる。玲陽はその顔にうっとりとした。
その瞬間は、ふたりには珍しい、完全な『隙』であった。
女性が一人、小走りに二人に近づいてきた。彼女は抱えていた荷物が崩れることがないよう、注意をそちらに向けていた。すれ違いざまに、玲陽の肩に女性の荷物が軽くぶつかる。
「あ!」
女性も玲陽も、同時に声をあげた。
犀星がハッとして振り返る。
「ごめんなさい」
女性はどうにか転ばずには済み、荷物の陰から玲陽を見た。
咄嗟のことに固まっていた玲陽は、声も出せず、女性を見つめ返した。
「……っ!」
女性の顔が、みるみるうちに引き攣った。
まずい!
犀星がそう思った時には、遅かった。
「……怪物!」
女性が甲高い声を上げた。蓮章は素早く振り返った。若い女性が、目を見開き、明らかな恐怖を浮かべて、玲陽を凝視していた。
玲陽は自分を守るように、固く目を閉じて顔を背けた。
ざわざわと人の声が重なってゆく。皆が女性の視線を追って、他の人々の注目も玲陽に集まり始める。こそこそと耳打ちしたり、値踏みするような目で遠巻きに玲陽をのぞいている。
玲陽はじっと動かない。傍には犀星が立っているが、ふたりの間には人一人分の空間がある。犀星の手は、今にも玲陽に触れたくてたまらないというように震えていた。しかし、玲陽はじっと体を縮め、それでも助けは求めていない。
まだ、耐えるつもりか。
蓮章はしっかりと玲陽に体を向け、様子を見守る。玲陽は目を閉じ、下を向いたままだ。
いいぞ、と蓮章は思った。
目を閉じてしまえば、色はわからない。それは意図したことではなく体の防御反応だったのかもしれないが、とりあえず好都合だ。髪も薄い布で覆い隠している。わずかに耳元に髪が揺れるが、離れていれば、はっきりとは断定できないだろう。
玲陽はじっと、唇を結んでいる。
親王を呼ばないつもりか。
蓮章は黙って周りを見回した。いくら玲陽が沈黙を保ったところで、状況は悪化していく。周囲の人だかりは大きくなり、自分たちを中心に、距離をとって円をつくる。
蓮章はちらっと犀星を見た。犀星は玲陽を見つめ、その表情はこわばっていた。彼自身も決して余裕があるわけではない。
任せろ。
蓮章は何事かを決意すると、東雨を見下ろした。
「東雨」
と、低く呼ぶ。
このままでは大変なことになる、と焦っていた東雨は、びくりとして蓮章を見上げた。そして、蓮章の、その意味ありげな視線に戸惑った。明らかに、何か指示を出している目だ。
「蓮章様……何を?」
かすれた声で、東雨は呼びかけた。蓮章の唇が、不敵に歪んだ。
「俺に合わせろ」
そこにはっきりと、好戦的な光が燃えていた。東雨はおののいた。
……これ、絶対、ダメなやつだ!
東雨は悟った。彼の周りの大胆不敵な大人たちがこういう顔をする時は、決まってろくなことが起こらないのだ。そしていつも自分は無理やりに巻き込まれる。それは経験上、思い知っている。
彼の中で、すぐに逃げろ、と本能が叫んだ。だが、逃げたが最後、後からどんな目に遭わされるかわからない。
万事休すだった。
青ざめる東雨を意に介さず、蓮章は女性のふりをしたまま、人々の視線と玲陽との間に立つ。そしてゆっくりと腕を振り上げ、大きく広げて注意を引いた。
「ばれてしまっては、仕方がないわね」
声そのものが空中で光るような、色めいた女の声音がそう言った。
東雨は全身が、ゾワっと寒気に襲われた。恐怖ではなく、腹から湧き起こる興奮。その声はまるで、東雨の神経を直接撫で上げたようだ。
蓮章は髪を覆う布に指をかけた。布がひらりと舞い落ち……
その下に、金色の髪が現れた。右目は垂らした髪で隠し、左目だけで人々を睨む。
人々が一斉に震え上がる。あちらこちらから、小さな悲鳴が聞こえた。
東雨は目を疑った。
……蓮章様、その髪っ……
玲陽のものとは明らかに色味が違うが、このような状況では金色と思われるに十分な明るい色だ。
いつの間に染めた? いや、どうして? 訳がわからない!
東雨はひたすら混乱する。
だが、東雨の悲劇はそれだけで終わらなかった。
蓮章は芝居がかった仕草で周囲を見渡した。その目はまるで相手を食い殺そうかという妖の目だ。
灰色の左の目がきらりと光る。それはまるで、銀色の瞳のように。
東雨は、蓮章の意図に気づいてしまった。そして、後悔した。
まさか! まさか! 嘘だろ! 俺にやれってのかよっ……!
蓮章が浮かべた意味ありげな笑み、そして、自分に合わせろと言った意味が繋がった。
もう、めちゃくちゃだ!
東雨は、心臓がばくばくと鳴るのを感じた。
どうなっても、俺のせいじゃないからなぁっ!
心で絶叫しながら、東雨は蓮章から逃げるように飛び退く。人々の間に入ると、蓮章を指差して叫ぶ。
「こいつが化け物だ! 金の髪と銀の瞳だ!」
東雨の大声に、民衆たちが一気にどよめいた。
「化け物っ……!」
「……喰われるっ……!
皆が尻込みする。逃げようとして、何人かが足がもつれてひっくり返る。
蓮章は、満足そうにゆっくりと見渡しながら、
「うるさい連中だこと」
と余裕を見せた。
「さぁて、誰からにしようかしら?」
まるで楽しむように言う。その言葉に皆が腰を抜かし、何人かが泣き声を上げた。子供たちが親にすがり、老人たちが拝むように手を合わせる。
「何事だ!」
騒ぎを聞きつけて、三番隊の隊士が二人、人の輪の中に飛び込んできた。蓮章の姿を見て、彼らもまた驚き、動けなくなる。
「おまえっ……!」
若い方の隊士が、蓮章を見て何かを言おうとしたが、言葉に詰まった。噂を知っているのだろう。もう一人も表情を引きつらせ、恐怖で棒立ちになっている。
哀れなほど怯えている隊士たちを、愉快でたまらないという顔で見据え、蓮章は高笑いを上げた。
これはもう演技ではないな、と、東雨は思った。間違いなく、蓮章は楽しんでいる。
蓮章は、完全にすくみ上がっている若い隊士に近づいていった。
「お兄さん、良い男じゃないの」
その声はあまりにも艶めかしく、その場にいた男性たちが、一瞬、腰を引く。女性までが、びくりと体をのけぞらせた。
蓮章は迷うことなく隊士の頬に手を添え、指でそっとなぞる。裳の中でわずかにかがんでいるのか、蓮章の背は少し小さく見える。明らかに女性のふりをすることに慣れている。
……ここまで来ると、もう、何も言えないや……
東雨は感服してしまった。
蓮章はちらりと東雨を見て、見せつけるように唇を舐めた。
まだ何かするつもり……っ?
東雨がそんな不安を覚えた途端、蓮章は隊士の顔を引き寄せ、躊躇いもなく口づけた。された隊士は目を見開き、指一本動かせない。蓮章の仕草には容赦がなかった。深く、吸い付くように深めていく。
何が起きているんだ……
東雨には刺激が強すぎた。頭が真っ白になる。
口づけられた隊士は逃げることもできず、そのまま固まっている。ねっとりとした動きで、蓮章がゆっくりと口を離す。
ぐらりと傾いて、隊士は土の上に転がった。
ちらっと蓮章が東雨を見る。
東雨は、それが自分への合図だと気づいた。ぼんやりしている場合ではない。東雨は必死に息を吸って、
「た、魂を喰われたぞ!」
大声で、嘘を叫んだ。
本当は、紅に仕込んだ毒で、眠らせただけだろう。蓮章自身が毒に耐性があるからこそ、できることだった。
東雨は、用意周到な蓮章に舌を巻く。
噂に惑わされている人々には、隊士が本当に魂を抜かれたように見えていた。人々から一際大きな悲鳴が上がる。
三番隊のもう一人の隊士は、全身を震わせて、蓮章を見つめている。蓮章は、彼を標的に定めた。
「次は、あなたにいたしましょう」
蓮章は言いながら隊士ににじり寄る。
隊士は悲鳴を上げ、這いつくばるように人の群れを掻き分けて、転びながら大通りを逃げ出した。
「あらあら、三番隊は腰抜けだこと」
蓮章の妖艶な高笑いが、再び響き渡った。恐怖に駆られた隊士の耳には、それがどれほど恐ろしく響いただろう。
俺……寿命が十年持っていかれた……
東雨は、その場にぺたっと座り込んだ。じわりと暖かい涙が目に浮かんでいた。
皇帝と話すより、怖かった。
東雨の背後から、苛立ったような足音が近づいてくる。それは東雨の脇でぴたりと止まった。視線を感じて東雨は顔を上げた。
紅色の着流しに、厚手の紅蓮の外袍をゆるやかに着付けた涼景が、じっと自分を見つめて無表情で立っていた。
情けなさ全開の顔で、東雨は涼景と目があってしまった。
……一番見られたくないところを、一番見られたくない奴に見られた……
自尊心が崩壊する。涼景はふっと笑った。哀れみを込めた目だった。それから、切り替えたように蓮章に向く。
「何をやっている?」
「おや」
蓮章はどこか嬉しそうに、体を捻って振り返る。
「素敵。暁隊の隊長さんじゃありませんか」
静かに歩み寄り、そっと涼景の胸に指先を添える。その仕草はまるで、間夫に甘える女郎のようだ。そのまま涼景に顔を寄せ、よもや口づけるかというところで、ぴたりと止まる。二人の、あまりに近い顔と顔。
その光景は、多感な少年である東雨には残酷なまでに突き刺さった。今度こそ、死んだと思った。
「遅かったな」
蓮章がそのままの距離で、囁くように言った。いつもの、男の声だ。
「もう済んだぞ」
言って、色っぽく笑う。涼景は一才動じず、ただ、やれやれと首を振っただけだった。
「暁様っ……!」
人々の中から、助けを求める声が涼景を呼ぶ。
涼景は蓮章の肩を乱暴に掴んで、動揺している人々の前に突き出した。
「よく見ろ、蓮章だ」
涼景は、蓮章の前髪を掻き上げた。黒と灰の異色の目があらわになる。
その瞬間、その場は更なる混乱に陥った。突然の種明かしに、誰もが何が起きたのか理解できず、あれやこれやとわけのわからないことを喚いている。涼景は対応に追われ、蓮章は知らない顔をして、空を眺めた。
騒ぎがおさまっていくのを感じて、玲陽はそっと目を開けた。
彼は、ずっと音を聞いていた。どこか蓮章に似た女性の声、東雨の叫び、兵士らしい者の怒鳴り声、民衆たちの騒ぎ立てる声、ときどき響く悲鳴。
それでも玲陽は動かなかった。ただじっとその場に立ち、目を閉じたまま、状況が落ち着くのを待っていた。
怖くない、怖くない、怖くない……
そう、自分に繰り返し言い聞かせていた。
そして目を開けたとき、そこに広がる光景は、玲陽が思っていたものとは少し違っていた。人々は自分ではなく、涼景とその前に立つ蓮章を見ていた。
てっきり、一斉に人々の目に晒されるものと覚悟していた玲陽は、目を瞬いた。幸いなことに、玲陽は何も見なくて済んだ。
え?……乗り越えた?
隣では、犀星がどこか呆れ果てたような顔を、涼景たちに向けている。
不思議と、犀星が自分を見ていないことに、玲陽は安心した。いつも心配そうに、自分の影ばかりを追っていた犀星が、今は視線を外している。
それはつまり、玲陽は大丈夫だと、犀星が思ってくれた証拠だと感じた。
星、と呼びそうになって、玲陽はそれを飲み込んだ。そして改めて、静かに呼びかける。
「兄様」
反応して、犀星がこちらを向く。その表情には驚きが残されていたが、それもすぐに柔らかくほどけ、目元が緩む。
「……陽、よく頑張ったな」
犀星は、はっきりと言った。玲陽はにっこりと笑った。
その様子を見て、民衆の中から声がかかった。
「歌仙様!」
人々が、揃ってこちらを振り返る。
犀星は、そっと玲陽を自分の後ろにかばい、それから周りを見回した。堂々と、おちついた佇まいは、玲陽が初めて見る『歌仙親王』の姿だった。
「皆、騒がせてしまい、申し訳なかった」
言って、犀星は一歩進み出た。
玲陽ははっとした。奇妙な感覚を覚える。
犀星の横顔が、なぜか見知らぬものに思われた。
目の前にいるのは、幼なじみでも、兄弟として育った犀星でもない。この国の親王だ。
玲陽はわずかに目を伏せた。邪魔をしないように、静かに見守る。
犀星は、人々の顔を一人ひとり見るようにゆっくりと見回した。その眼差しは、慈しむ暖かさが含まれていた。
「少々訳があって、騒ぎ起こしてしまった。もう、終わった」
犀星の声はまるで、美しく響く鐘のようだ。騒然とした市場のなかでも、誰の心にまっすぐに届く響きをもっている。
「皆には、不安な思いをさせて申し訳ない。許してほしい」
そう言って、しっかりと犀星は頭を下げた。
先ほどまでの騒動が嘘のように、人々の顔に安堵が広がる。
親王とは民に頭を下げるものなのだろうか、と玲陽はちらりと思った。
だが、それがいかにも犀星らしい気がした。そして、そんな犀星の様子を皆が受け入れていることが嬉しかった。誰もが、歌仙様が言うのだから心配は無い、という顔をしている。皆、先ほどの騒ぎを思い出し、互いに相手の動揺をからかいあって笑っていた。
東雨は、まだ震える足で、犀星のそばに寄ってきた。少し離れた場所で、涼景と蓮章は見守っていた。
人々の中にあって、犀星の立ち姿は美しかった。圧倒的な存在感がそこにはあった。
決して華やかではない服装で、高い位置に立つわけでもない。声を荒げることも、大仰に振る舞うこともない。
それなのに、自然と人々は、犀星の不思議な雰囲気に飲み込まれてゆく。自ら進んで、その色に染まってゆく。
まるでそこだけがぼんやりと輝いて、光であたりを照らしているかのようだ。
あなたは今、親王なのですね。
そんなことを玲陽は思った。胸が、きゅうと締まった。
「歌仙様がお戻りくださって、安心しました」
そばにいた男性が言った。
犀星は静かにうなずいた。
「心配をかけた。これからは皆のためにまた、力を尽くさせて欲しい。助けてもらえるだろうか?」
人々は顔を見合わせ、にっこりと笑った。それはごく自然に浮かんだ、犀星に対する信頼と感謝の証だった。
犀星は静かに微笑んだまま、そっと玲陽を見た。
人々は、犀星の視線に誘われるように玲陽に顔を向けた。先ほど玲陽とぶつかった女性が、頬をこわばらせた。
そのとき、
「歌仙様」
と呼び声がして、一人の少女が大通りの向こうから、全力で駆けてきた。犀星はそちらを振り返った。
箱を背負って、行商に行く途中の明だった。
「久しいな」
と犀星は声をかけた。
「お元気そうで、安心しました」
と、明は呼吸を弾ませて微笑んだ。それからふと、玲陽の方を見て、問いたげに首を傾げた。玲陽のまぶたが微かに動いた。玲陽は一呼吸を置き、そっと微笑む。
その目の色に気づいた何人かが、身構えるように身を引く。だが、玲陽は動じなかった。しっかりと顔を上げ、明と向き合った。
「犀光理と申します」
玲陽はっきりと名乗った。
東雨の顔がぱっと輝く。犀星もまた、眩しいものを見るように目を細めていた。
玲陽は何を思ったのか、そっと髪を覆う布に手をかけた。そして意を決して、ゆっくりとそれを引き下ろす。
美しく波打つような金色の髪が、市場の白い風にたなびいた。その場にどよめきが起こる。
透き通るような、輝く髪だった。
「私が怖くないですか?」
玲陽は琥珀の瞳で明を見つめたまま、はっきりと尋ねた。
「全然」
笑顔のまま、明は首を振った。その返答に玲陽は少し驚きを見せる。明は重ねて、
「全然怖くないです。だって、歌仙様が笑っていらっしゃるから」
犀星が微笑む相手なのだから、怖いはずがない。
それが、すべての答えだった。
玲陽は思わず手を胸に当てた。犀星はそっと、玲陽の袖を引いた。
「紹介させて欲しい。私の弟だ。都は初めてゆえ、わからぬことも多い。皆、どうか、よろしく頼む」
明が思わず、手を打った。そこから、自然と人々の間に拍手が沸き起こる。その音は低い空を押し上げるように高くなり、玲陽は息を飲んで人々を見回した。
フッと、涼景と蓮章が顔を見合わせて笑う。東雨は目を潤ませて、鼻をすすった。
「陽」
犀星が玲陽の背中に手を当てた。それは励ますようでもあり、同時に促すようでもあった。
玲陽は大きく頷くと、一歩、前にでた。それから、柔らかな笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。
一層高まる拍手を聞きながら、玲陽は確かに心が熱く、強くなるのを感じていた。
その日、玲陽は幸せだった。
時間はかかったが、自分の速さで市場を歩き、油屋で、小壺に一杯の油を買った。店の主人と、短い話もした。少し驚いたような目で玲陽を見ていた主人は、しかし、決して彼を傷つける事はなかった。
帰り際、明は少し照れたように、小さな飴の包みを差し出した。それは、玲陽が初めて見る透き通った優しい赤や黄色で、花の形をしていた。彼女が作った花飴だと、犀星が懐かしむように言った。
屋敷に戻って、東雨と一緒に、念願の白菜の花の揚げ物を作った。そして、大根の葉の塩漬けと一緒に、粥に添えた。
いつもと変わらない慎ましい夕食。そこに込められた思いの大きさは玲陽の腹と胸をいっぱいにした。
幸せな時間だった。寝支度を整えて、床に入ろうとするまでは。
鏡台の前で、玲陽は髪を解いていた。東雨が丁寧に整えてくれた髪。このような複雑な結い方に慣れていない玲陽は、紐が絡んで途方にくれた。犀星がそれに気づいて、笑いながらそっと手を貸した。
自分の髪に犀星の指が触れる。それが嬉しくて、玲陽は鏡を見る。鏡越しに犀星の腕が見える。その時だった。犀星の着物の袖が自然と肘まで滑り落ち、腕があらわになった。
玲陽はドキリとした。犀星の腕の内側の柔らかい場所に、赤い傷があった。
それは、玲陽の中の不安を一気にかき立てた。
どこで怪我をした?
犀星がそのような場所を無防備にさらすことなど、そう多くはない。
例えば……
玲陽は怖い想像をした。
例えば、それは、自分と一緒に体を寄せて眠っている時……
玲陽は今まで、多くの傷を受けてきた。そのため、それが何によってつけられた傷か、自然とわかってしまう。
……あれは、かじられた痕だ。
そのような傷を犀星に付けることができる人間は、自分だけだ。
玲陽は最近、夜中の一時、記憶が抜け落ちるのを自覚していた。それは夢を見ているようでもあったが、なんとなく違う気がしていた。
柔らかな場所についた犀星の傷、自分の夜中の抜け落ちた時間。そして誰より、自分を深く想ってくれる犀星の心。それがつながる。戦慄が走る。
玲陽は想像し、真実を探り当ててしまった。
直接尋ねるべきか。いや、彼は答えないだろう。
犀星は、真実を隠しておくつもりだろう、と思った。だが、疑ってしまった以上、それを黙って見過ごす事は玲陽にはできなかった。
せめて、確かめたい。
玲陽は平生を装って、犀星の隣で横になった。目を閉じ、眠っているような素振りを見せる。
「今日は、本当に頑張った。疲れただろう」
と犀星が優しく話しかけてきた。自分だけに見せる、あまりに無防備な仕草だった。
「はい。でも幸せでした」
玲陽は正直に言った。それは本心だった。だが彼は今、別のことが気になってならない。
言葉は少なく、ただ確かめるように、犀星の胸に顔を寄せ、肌に暖かさを感じる。鼓動も聞こえる。背中を支える犀星の腕。自分に対する献身的な想いを感じずにはいられない。
玲陽はずっと目を閉じたまま、時が過ぎるのを待った。犀星の体の熱を自分の体が受け入れ、そのまま自分の熱として馴染んでしまうまで。
……こんなにも体が溶け合っていくような優しい人に、私は何をしているのだろうか。
玲陽はやましく思う心を隠すように、ぎゅっと犀星の衣を握った。唇を静かに寄せる。
それからまたしばらくじっとする。
犀星の呼吸に合わせると、楽に息ができる気がした。
……星、ごめんなさい。
玲陽は行動を起こした。
犀星の体に沿わせて手を伸ばし、その肩をつかむ。抵抗しないことを確かめながら、ゆっくりとその上半身に体を重ねる。
玲陽は何も言わない。ただ自然を装って呼吸は乱す。その息が犀星の喉元に触れる。喉から肩の曲線に流れ込むように、玲陽は顔を埋めた。
泣きたくなるほど、柔らかい。
犀星は玲陽の頭を後ろから手で包んだ。撫でられているようでもあり、抱かれているようでもある。
少しだけ、犀星の手に力が入る。その動きに任せてみると、犀星は玲陽をそっと胸元へ導いているようだった。
喉ではなく、こちらだ。
そんな仕草だった。
玲陽は逆らわず、体を下ろした。そして、犀星の夜着の襟の合わせに、ぐっと顔を寄せ、鼻を擦り付けるようにそのあわいを広げる。
こんなにも大胆に肌を求めることは、今までになかった。全部忘れて、このまま、ただひたすらに甘えてしまいたかった。けれど、真実を求め始めた玲陽の心は、自由にはなりきれなかった。緊張のために胸が高鳴って、長く息を吐いた。その時わずかに喉が締まり、小さく震えるような声が出た。
「大丈夫」
低く、犀星が優しい声をかけてきた。
すぐに意味がわからなかったが、玲陽はもう一度わざと声を上げた。
「大丈夫だから」
そう言って、犀星は頭から背中にかけて、優しく撫でた。玲陽の背中の傷に触れて痛めないよう、気遣いながら。
ああ、もう、泣きたい。
玲陽は、弱くなりそうな心を振り払う。
思い切って、体をよじり、犀星の腕にすがった。先ほど傷があったあたりだ。
犀星はひたすら、傷つけないように、そっと玲陽を包み込もうとする。だが、玲陽は手首を抑えつけ、そのまま肘の裏に歯を当てた。
しっとりとした犀星の皮膚が、玲陽の舌先に触れる。
嫌だ、傷つけたくなんてない!
とっさに玲陽は強く唇で吸う。
犀星は怒らない。抵抗もしない。
しかしそれは、愛撫として受け入れているのではない、ということが、玲陽には直感でわかる。ただただ、玲陽の行動を見守っているだけだ。
「大丈夫、怖がらなくていい」
犀星は、そうつぶやいている。そして丁寧に髪を撫でる。
……怖がらなくていい? それは、どういう意味?
玲陽はきつく目を閉じ、今度こそ、震えながらその肌を噛んだ。じっと犀星は動かない。
明らかに、皮膚を噛み締めた感触がある。かすかに血の味。痛むはずだ。それなのに犀星は全く反応を示さない。
こんな反応は、おかしい。犀星はあまりに冷静すぎる!
玲陽は焦り、何かに取り憑かれたように、いくつもいくつも犀星の腕と胸に傷を残した。噛みつき、爪を立てる。少しずつ自分の痕を刻んでいく。
それなのに、犀星は自分を押し返さない。逆に、あやすように呼びかけながら、腰の後ろをとんとんと叩き、撫でてくれる。
「誰もおまえを傷つけたりしない。おびえなくていい。俺はここにいる。大丈夫」
そんなことを、繰り返し語りかけてくる。それは明らかに、玲陽をなだめるための言葉だ。まるで、何度も繰り返してきたことであるかのように、静かに。
玲陽は確信し、動きをとめると、すっと体を起こした。
薄暗い月の光が、犀星の顔を照らしていた。
玲陽は、その顔をじっと見つめた。
「やっぱり」
玲陽が言った。その一言に、犀星は明らかな動揺を示した。久しぶりに見る大きな反応だった。
「陽、おまえ……」
「はい」
玲陽はうなずいた。
「……ごめんなさい。あなたを試した」
「…………」
「あなたの腕に傷があるのを見てしまった。あんなところに傷をつけられるのは私だけだと思った。だけど、私には記憶がない。だから」
犀星は、少し悔しそうな顔で目をそらす。肩で大きく息をしているのは、自分の心を整えているからだとわかる。
それからそっと玲陽の肩に手をかけて、自分の上にゆっくりと引き寄せた。玲陽は身をゆだね、包み込むように、上から抱きしめる。
「黙っていて、済まなかった」
犀星は言った。玲陽は、一層顔を寄せて、
「謝らないで。こんなこと、あなたが私に言えるはずがない」
犀星があえて隠していた意味が痛いほどわかる。責める気持ちはなかった。
「ごめんなさい。私が弱いから……あなたに酷いことをしてしまった」
犀星は、黙って玲陽の髪を撫でている。
玲陽は自分の中にある不安を、正直に言葉にした。
「私の中には、私ではない、誰かがいるんです。それは時々、私を不安に駆り立てて、過去に引き戻そうとする。私はそれが、この病の元凶なのだと思っています。この敵と、戦わなきゃいけない。なんとしても……。そして、必ず勝ってみせる。負けたくない。こんなものに、負けたくないんです」
それは、玲陽が自分の心のありようを、しっかりと認識した瞬間でもあった。
「陽……」
犀星は、背中の傷に触れないよう、さらに強く抱きしめた。
「違うよ」
優しく耳元でささやく。
「それは違う」
と、首を振る。
じっとしたまま、玲陽はその声を聞いていた。まるですべてに答えをくれるかのような、優しい声だった。
「おまえの中に、敵なんていない」
犀星は言った。
「それは、お前が辛い時に必死に戦ってくれた、『もう一人のおまえ』なんだよ。おまえの心が全て壊れてしまわないように、耐え続けてくれた『もう一人の陽』だ。傷ついて助けを求めている、おまえ自身なんだよ」
玲陽は、静かに自分の中に深く入り込んでくる犀星の言葉を、ひとつひとつ受け止めていた。
「だから、な。戦う必要なんてないんだ。倒すのではなくて、癒してあげよう。俺も一緒に手を尽くすから」
玲陽は泣きそうな顔で、犀星に擦り寄った。
「私は……昔の自分に戻りたい。心から笑って、怖くてもちゃんと前に進めた。昔の自分に戻りたい。私は……」
「昔の陽は、消えたりなんてしない。ちゃんと、今につながっている」
犀星は言った。
「けれど、俺が見ていたいのは過去じゃない。今の陽なんだよ。痛みも傷も弱さも、全部まるごと受け入れる。俺は、昔のおまえに会いたいなんて思わない。今のおまえと一緒に生きていきたいだけなんだよ」
玲陽は思わず声をあげた。それは喜びだったのか、安堵だったのか。
犀星を抱き返すその手は震えていたが、恐怖ではない。
……いいんだ。私は、このままでいいんだ。
玲陽は全身の力が抜けていくのを感じた。そのかわりに、犀星の腕の強さが自分を支えてくれた。
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