新月の光

恵あかり

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外伝 玲(不定期連載)

つばくらめの夢

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 戴冠式からこちら、犀星と涼景が顔を合わせる頻度は格段に増えた。
 犀星が正式に親王として周囲に認知され、警護されるべき対象となったことが、大きな理由だった。
 しかし、それだけではないと、東雨は思っている。
 職務上の問題で済むのなら、涼景自らが来る必要は無い。右近衛隊の筆頭指揮官であるのだから、頻繁に顔を出してもおかしくはないが、少なくとも毎晩のように、酒を飲みに来る必要は無いはずだ。
 近衛隊というのは、そこまで暇なのだろうか。
 東雨は怪しんだ。
 東雨の疑問に、涼景は言い訳のように説明した。
 近衛隊は、右と左のふたつの部隊がある。
 このふたつが、月ごとに交代で、天輝殿の警備につく。
 天輝殿には常駐の禁軍もいるが、より多くの人員が関わることで、異変に気づきやすくなるという。また、権力の一極集中を防ぐ意味もある。
 涼景が、ここ最近、毎晩犀星の屋敷に現れるのは、現在、この当番から外れているためである。
 来月は来られなくなるから今のうちに会っておく、と言う理由で、涼景は遠慮なく上がり込んだ。
 本来であれば、犀星は宮中に屋敷を構えねばならない。しかし、様々な事情、特に犀星のその性格上の問題から、宮中は合わないと判断し、皇帝からの許可を得て、こうして市街の一角に住まいを設けていた。
 もともと、ここは涼景の屋敷である。
 家賃代わりだ、と言いながら、涼景は夕食を求めた。
 犀星にはもともと人見知りの気質があり、馴染みが早い性格ではない。
 だが、戴冠式を巡るあれこれ、毎日顔を合わせるという環境も重なって、さすがの犀星も、涼景の事は信用しつつあった。
 関係の変化とは、必然的な要素によって起きるものである。
 東雨は、料理や酒の支度に奔走しなければならなくなった。
 幸いなことに、家のことには犀星も東雨同様に働いてくれた。歌仙にいた頃は、家事全般は皆が手分けをして行っていたという。
 犀星の手際は慣れたものだが、料理に関しては少々雑である。不自由なく食べられれば良い、体に良ければ良い、味は飲み込める程度ならば良い、といった大雑把さが目立つ。
 神経質な犀星が、食事に関してだけは非常におおらかだった。いや、むしろおおらかすぎた。庭の胡瓜を井戸水で洗い、その場で丸かじりをしている姿を見たときには、東雨は思わず頭を抑えて呻いたものだ。
 涼景はたまに料理を持ち込んでくれるが、それは本当に気が向いた時だけで、たいていは犀星と東雨がもてなす形になる。ただし、酒だけは毎日欠かさず持参した。東雨が飲めないのはもちろんだが、犀星も戴冠式以来、匂いを嗅ぐだけでも胸がつかえるようになっていた。
 当分、いらない。
 酒瓶を眼にするだけで、犀星の顔色は悪くなった。
 一時期、歌仙親王は、暁将軍の囲い者だという噂が飛び交った。幸いにも、二人の人柄が理解されるに従って、自然と悪意は消えていった。犀星の毅然とした佇まいと優秀な働きぶり、そして民に対する心遣いある態度は、確実に都に浸透していった。
 みなが少しずつ、それぞれの立場から、犀星への期待を抱き始めていた。
 夕食の後、犀星と涼景は決まって、犀星の部屋から、庭を眺める。涼景は酒、犀星は白茶を手に、とりとめのない話を重ねるのがならいになっていた。
 二人は同郷の出身である。とはいえ、二人の話題に、故郷の事は、まず出なかった。東雨は聞き耳を立てていたが、互いの家族の話はしない。
 彼らのもっぱらの話題は兵法であったり、軍の鍛え方、馬の育て方、君主論、農地の開拓計画から水害対策、税の配分や徴収方法、飢饉に備えた備蓄、戦時中のあれこれ、あらゆる武術、ときには医学など、東雨にはあまり興味のないことがらばかりだった。
 遊びに来ているというよりも、政治目的の会談のような気さえしてくる。東雨には理解できない難しい言葉が飛び交った。犀星は確実に知識を蓄え、読んだ書物はすぐに覚え、あっという間に東雨の知識を抜いてしまった。悔しいような誇らしいような気持ちで、東雨はそんな若い主人を見守っていた。
 二人とも一度語り始めると、冗談を言うこともなく、どこまでが本気かも知れない、きわどい会話を避けなかった。
 犀星を警護するため、屋敷の外塀の向こうには、近衛兵が並んでいる。
 気づかれはしまいかと、東雨はハラハラした。
「宝順ではダメだ」
 涼景が剣呑なことを言い放ったときには、東雨は思わず飛び上がった。
「そうか」
 恐ろしいことに、彼の主人も否定しない。これは本音なのかと、東雨はドキドキした。ちらりと犀星が振り返った。
「東雨、お前はどう思う?」
「どうって、何がですか?」
 あからさまに東雨はたじろいだ。
「宝順が皇帝の器かどうか」
「そんな恐れ多いこと! 俺は何も言えません」
 逃げるようにして部屋を飛び出していく東雨を、犀星は呼び止めることなく見送った。
「おまえも、わかってきたようだな」
 涼景は手酌しながら、
「疑ってるのか?」
「あいつには悪いが、信用はしていない」
 犀星は少し寂しそうに言った。東雨は素直で可愛らしい少年だと思う。決して悪気がないのもよくわかる。
 だが、彼は宝順が用意した侍童の一人なのだ。高頼のこともある。東雨が、本人の意思とは関係なく、誰かに利用されている可能性は高い。涼景はじっと犀星を見た。
「まぁいい。おまえに任せておく。もしもの時は、俺が斬る」
 その覚悟が涼景にはある。
「なあ」
 東雨がいなくなったためか、犀星はわずかに緩んだ声で呟いた。
 涼景には、犀星の警戒心を弱めてしまう魅力がある。
「皇帝をよく思わないお前が、どうして近衛などをしている?」
「そうだな」
 涼景は、さらに杯を重ねた。
「俺の首には鎖がかけられている」
「その端を、宝順に握られているということか」
「まぁ、よくある話だ」
「他者の命を質に取られては、お前が動けるはずもないか」
 犀星は涼景の性根の優しさを、理解しつつあった。よく今まで、あらゆる悪意が飛び交う宮中で生きてこられたものだと思うほど、涼景の心は暖かかった。
 いや、そんな涼景だからこそ、気づいた者たちが、彼を助けてくれたのかもしれない。
 徐々に闇に沈む庭に、高く細い月がかかっている。
 遠く故郷の地で、あの人も同じ月を見ているだろうか。
 犀星はふと、心を遠くへ飛ばした。
 しっかりとした別れも交わせずに、心の半分を置き去りにしてきてしまった。少しでも近づきたくて、毎日筆をとる。それは、大切な人に向けての文であり、己の心を保つための手段でもあった。
 寂しさが、幼さの残る横顔に宿る。
 涼景はちら、とそれを見ると、盃を置いた。
 庭に背を向け、犀星の足元にうやうやしく膝まずく。
「涼景?」
 予想外のことに、犀星は首をかしげた。
 涼景は、歌仙親王付きの近衛である。彼の行動はおかしなものではないが、改めてそのようなことをする性分とも思えなかった。また、酔ってふざけているようでもない。
 涼景は黙って、眠るときにも手放さない刀を、鞘ごと腰から外した。犀星の前に差し出し、床に置く。そして、じっと、真剣な顔で犀星の目を見つめた。
 二人の視線がしっかりと噛み合う。心が透けて見える。
 涼景の表情には、若さと、何かに対する強い憧れがありありと浮かんでいた。普段の飄々とした態度とは打って変わり、涼景の心が、すべての鎧を脱ぎ捨て、そこに差し出されていた。
「もし、おまえが立つと言うなら、俺はどこまでもついていくぞ」
 犀星は息を飲んだ。
 自分に対する圧倒的なまでの信頼に、どれほど応えられるのか。恐れにも似た高揚感が込み上げた。生まれて初めて託された、大きな期待。この声に応えるため、自分は今よりもなお、強くあらねばならない。
 犀星は、黙って涼景の眼差しを受け止め続けた。それは、清濁合わせ呑んできた将軍のものではない。熱っぽく、夢を語る若者の目だった。
「宝順を倒して、後に何が残る? 空いた皇座につく者が愚かならば、すべてが無益な流血だ」
 涼景の声は、静かに犀星の魂を揺さぶった。正義感溢れる、薄い茶色の瞳はしっかりと犀星の顔を映していた。
 幾千幾万の思いが互いの間を行き来する。二人の関係を根底から塗り替えるほどに、濃い沈黙。
 犀星の中で、涼景を信じるか否か、最後の最後まで揺れていた迷いが、手のひらに落ちたひとひらの雪のように、音もなく溶けた。
 風が、二人を同時に撫で、犀星の頬に垂れた柔らかい髪が揺れた。
 涼景の口元が緩む。止まっていた時間が、動き出す。
「冗談だ」
 涼景は、大きく体を伸ばした。
「酔った。寝る」
 部屋の隅の牀に無遠慮に倒れ込む涼景を、犀星は何も言わずに見送った。
 こちらに背中を向けている涼景は、無防備そのものだ。
 犀星の足元には、涼景が腰から解いた刀が残されている。
 今ならば、犀星の腕でもたやすく命を取れるだろう。
 謀反を企てる将軍を斬るか、それとも彼を縛る鎖を斬るか。
 その選択を、涼景は自分に託した。
 それが、お前の心か。
 都で唯一の理解者であり、これからの人生において親友と呼びたいと願った男の思いが、痛いほど伝わってくる。
 涼景の刀を拾い上げ、その重みにうろたえる。
 この俺を信じ、賭けてくれると……
 涼景の静かな息を聞きながら、犀星は自分に向けられた想いの大きさに、体が震えた。

  ・

 燕涼景。字を仙水。南陵郡歌仙の出身である。
 燕家はもともと賢者を輩出し、文官という立場で、宮中に仕える者が多かった。
 涼景の父・燕広範も、また、儒学者として名を馳せた人物である。
 しかし、時代は、内政よりも軍事が重んじられる時期を迎える。国境沿いの争いが絶えず、各地の諸侯も私兵を訓練して、戦に備えた。
 そんな中、広範は家族と共に歌仙の領地に戻り、静かな暮らしを選んだ。世を憂いつつ、病弱であった妻の身を思い、多忙な一線から身を引いた。
 広範は、自分には果たせなかった大義を、幼い息子に望んだ。そして、わずか六歳の時、都の縁者を頼って、涼景を宮中に上がらせた。
 涼景には、何が起きているのかわからなかった。
 両親から引き離され、遠く都まで、籠に閉じ込められた。籠の中で、涼景はずっと泣いていた。何か、自分は悪いことをしたのだろうか。どうして、家を追い出されたのだろう。
 何も理解出来ないまま、彼は都の雑踏の中に放り込まれた。
 静かな歌仙とは違い、そこは別世界だった。人で溢れかえる道の隅を、隠れるようにしてうつむいて歩いた。
 燕家の縁者の家とは名ばかり、都に居を構えているとはいえ、実際には借金と無職にあえいでいた。涼景を引き取れば、本家からの仕送りを期待できるから、と、泣きついた有様だった。
 涼景は、家の将来を担うべく、都入りの翌日から、宮中の学問所へ連れて行かれた。
 貴人たちの子どもが多く通うそこは、すでに、一つの社会が形成されていた。
 子どもの立場は、親の官位によって決まる。
 涼景が座らされたのは、末席だった。
 師範がいる時は、みな大人しくしていたが、ひとたび子どもだけになれば、すぐに真実が明らかになる。子供の世界は、大人たちの模倣であり、更に、容赦がない。
「田舎から来たつばめってのは、お前だろ?」
 左相の甥にあたる少年が、真っ先に声をかけてきた。子どもたちの中でも、立場が強く、誰も逆らえない男子だった。
「知らないのか? ツバメは春に巣を作るために渡ってくるんだ。今は秋だ。季節もわからない、出来損ないのツバメだな!」
 同じ年頃の知り合いなどいなかった涼景にとって、初めての子ども同士の会話が、この言葉だった。
「……ツバメじゃない」
 涼景は立場の上下もわかっていなかったため、普通に言い返した。
「涼景だ」
「何言ってんだ? 燕家の生き恥だろ、おまえ。ツバメじゃないか」
 一斉に、子どもたちが笑う。
 可愛らしい少女までが、くすくすとこちらを見て笑っている。
 涼景は座ったまま、背筋を伸ばして顔を上げ、両手の拳を膝の上で握った。
 今まで、名前でしか、呼ばれたことがなかった。
 『燕』という家を背負って生きていくのだということを、この時、彼は初めて意識した。
 腹を決めると、涼景の態度は瞬時に変わった。
 決して引かぬ胆力は、生まれながらにして備わっていた。
「確かに、燕は春に北上する渡鳥だ」
 涼景の堂々とした話しぶりは、周囲の耳目を集めた。
「燕は、田畑の害虫を食糧とするため、農家からは益鳥として大切にされている。今は秋だが、このあたりには害虫が多すぎる。俺は、それを駆除しにきた」
 生まれてこの方、大人の会話しか聞いたことがなく、また、農村の出身だったために自然と出た返答だった。
 涼景の皮肉は難しく、同年代の子どもにはよくわからなかった。
 仕掛けた張本人は意味もわからず、害虫扱いされたことにさえ気づかなかった。こいつは田舎訛りで、都の言葉も話せないのか、と重ねて笑った。
 だが、中にはその真意に気づく者、そして、涼景の切り返しに感嘆する者がいたのも事実である。のちに、この燕問答が師範の耳に入り、涼景は都での上下関係や非礼を叱責されることになるのだが、同時に、涼景の利発さを示す出来事でもあった。
 涼景への嫌がらせは、毎日のように続いた。
 几案がひっくり返されていたり、毛氈の代わりに鳥の巣が置かれていたこともあった。道を歩けば、ツバメは南へ帰れ、としきりにはやし立てられた。
 それでも、涼景は一向にめげず、泣き言ひとつ言わず、学問所へ通い続けた。
 師範の話は一度で理解した。彼らは子どもたちにわかりやすく教えることはせず、常に小難しい言葉を用いた。わざと、簡単なことを、周りくどく話して聞かせた。
 多くの子供達はそんな師範を、難しいことを知っている大人、として尊敬したが、涼景は逆だった。どんなに時間をかけて話をしたところで、相手に通じなければ、何の意味もないのではないか。自分なら、もっとわかりやすく、端的に説明できるのに。
 そんなことを思いながら、師範の話を聞き流しつつ、黙々と書を読み、わからないことがあると、秘府へ行っては、自分で調べるようになった。幼い子どもが秘府に出入りしていれば、自然と目立ってしまう。あれはどこの子だ、と話題にのぼり、燕家の跡取りであることがわかると、官吏たちは笑い飛ばした。
 衰退の一途を辿る燕家が本家の後継を預かった話は聞いていたが、所詮は悪あがきだろう、とたかを括っていたのである。
 その中で、当時秘府の官吏長であった慈圓じえんが、涼景に目をつけた。
 子どもが手に取るには、あまりに筋違いの書を読み耽っていたからだ。最初は、意味もわからず、ただ学問の真似事をしているのか、とも思ったが、慈圓は興味をそそられ、食いつくように木簡を読む涼景に近づいた。
「学問中に失礼をする。ここの長を務める、慈玄草という」
 涼景は、ハッと顔を上げ、書物を閉じると、慣れない仕草で拝した。瞬時に、慈圓の人となりを見抜いた目だった。
「歌仙より参りました、燕涼景と申します」
「年齢は?」
「数え八歳になります」
 慈圓は少々驚いた。確かに、事前の情報では、それくらいの年頃と聞いてはいたが、立ち居振る舞い、目の輝きに、常人とは違うものがある。幼くとも、君子の器であることを、慈圓は察した。
「字を持たぬゆえ、涼景と呼ばせていただこう」
 慈圓はまるで、大人に接するように丁寧に話した。
「学問所の具合はどうだ? 師範は皆、優秀か?」
「いいえ」
 涼景は、はっきりと否定した。
「優秀な師範はいらっしゃいます。しかし、そうではない方の方が多いです」
「面白いことを言う。それは、どこで見分けるのだ?」
 慈圓は期待しつつ、涼景の返答を待った。
 常日頃から考えていたようで、涼景はよどみなく答えた。
「まことに道理を理解していらっしゃる方は、子どもの私にもわかるように、ご説明くださいます。そうではない方は、ただ、書物を読み上げ、的外れな質問をし、家柄によって正誤をお決めになります」
 慈圓は、腹の中でほくそ笑んだ。
 こいつだ。俺が待っていたのは、こういう人材だ。
「学問所へは、もう、行かなくてよい」
 慈圓は唇を緩めた。
 涼景は、不安を浮かべた。自分が失礼なことを言ったために、出入りを禁止されるのか。
 それを察して、慈圓は笑った。
「おまえのような、優秀なやつが行く所ではない。明日からは、ここへきて、好きなように学ぶといい」
「ですが、燕家は官位が低く、勝手なことは……」
「おまえの里親には、わしが直接、文を出そう。案ずるな」
 慈圓は涼景を覗き込んで、片目をつむってみせた。
 涼景は、都に来て初めて、人と話したような気がした。
 自分を理解し、自分が理解できる人間と出会った。だが、手放しに喜べない心のわだかまりが、涼景の顔を曇らせた。
「どうした? わしが直接、見てやる。お前には才能がある。それとも、わしでは不満か?」
「いいえ、そうではありません」
「では、なんだ?」
「一つ、気になっていることがあるのです」
「言ってみよ」
 慈圓は、まるですでに打ち解けた旧知であるかのように、涼景に問いかけた。
 涼景はどう説明しようか、と一瞬考えてから、
「学問所で、私の隣の席が空席だったことです」
 どういう意味か、と慈圓は考えたが、すぐに思い当たらなかった。
 涼景は声を低めた。
「学問所の座席は、親の官位によって決められていました。しかし、私の左隣、一つ上の子供の席が、ずっと空いたままだったのです」
「その席の者が気になるのか?」
「はい……まだ会えぬその席の人は、私の生涯の友人になれたかもしれません。人との出会いは数奇なもの、と聞きます。私は、どうしても、その席の子に会いたいのです……なぜか、とても、気になっているのです……」
「それは、俺のことかな?」
 滔々とした涼景の説明が終わるころ、ふっと書架の陰から、声がした。
 振り返ると、黒っぽい装束をまとった、同じ年頃の少年が一人、自分を見ていた。
 少年は、左右の目の色が違っていた。左の目が、銀狐の毛並みのように煌めいていた。
 ああ、この人だ。
 涼景は直感した。
 左右異色の瞳と透けるように白い肌が印象的な、美少年だった。眉目秀麗とは、彼のためにある言葉かもしれない、と、涼景は思わず見惚れた。
 それは、相手も同じだった。
 涼景の顔を、驚いたように見つめながら、少年は涼景の強い眼差しに射抜かれた。薄い茶色の瞳は限りなく澄んで、人を魅了する力と、その秘めた可能性を存分に感じさせた。裏付けるように、彼の語った声と言葉には、強い意志と、自己を隠すところなく主張する精神力が溢れていた。
「お師匠」
 美少年・遜蓮章は慈圓に向いた。
「共に競い合える相手は、生涯の友。俺にも、好機が巡ってきたようです」
「言いよるわ」
 静かな秘府に、慈圓の豪快な笑い声が響いた。

 涼景と、蓮章は、昼は共に慈圓の元で学んだ。
 夜になると、涼景は都の里親のもとへ戻り、蓮章は慈圓の邸宅の離れに帰った。
 ふたりはあっという間に打ち解け、互いに遠慮ない物言いで競い合った。時には、手が出る喧嘩もよくあった。それは境遇の違う二人が、互いを知るために必要な噛み合いのようで、慈圓はどこで止めるべきかと苦笑しながら、暖かくふたりを導いた。
 蓮章は複雑な家庭事情を抱え、慈圓のもとに預けられていた。正しくは、慈圓が匿っていた、というほうが適切だろう。涼景とはまた違う形で、蓮章が家族から背負わされたものは重たかった。
 涼景の方が一歳年下であったが、物おじせずに前に出ていく性格が強く、何をするにも涼景が先に立った。特に武芸については顕著で、歳の割に体躯に恵まれ、本人の努力も重なって、実力はどんどん伸びた。同年代では相手にならず、慈圓の勧めで近衛隊の予備隊訓練に参加し、急速に実力を高めていった。
 当時の右近衛副隊長・英仁えいじんの推挙もあり、十一の時には正規軍予備部隊の席を与えられた。
 剣術の型や儀礼を近衛で学んだ涼景は、正規軍においては戦術と実戦での荒事、戦場での死戦の越え方を身につけ、内にも外にも通用する武人としての頭角を表していった。
 周囲は、涼景を神童としてもてはやし、ことあるごとに褒め称えた。だが、すぐそばで見ていた慈圓や蓮章は、涼景が凡人であり、ただ、人並外れた努力家であることを知っていた。自分の弱みを知られることを嫌い、どれほど辛くとも、人前では平然として見せる涼景を、蓮章は胸の騒ぎを感じながら見守っていた。
 いつか、壊れる。
 蓮章の不安が現実のものとなるのは、はるか先のことであったが、この時すでに、涼景は逃れられない宿命の中を歩み始めていた。
 優秀であればあるほど、人の目を集め、嫉妬も募るのが世の習いである。燕家の再興を望まないものたちの策略により、涼景は十二になるころ、一個小隊を任され、地方の農村の討伐を命じられた。
『十二歳の将軍』の誕生は、大きな波紋を呼んだ。
 いかに実力をつけてきたとはいえ、それは訓練場の話である。実戦経験のない涼景が、百騎を指揮することは事実上不可能に近かった。
「浅はかな……」
 慈圓は、人選にあたった者の謀略を察した。
 涼景は、大切に磨き上げれば国の宝となる逸材である。それをこのような姑息な手段で潰そうなど、愚かという他にない。
 涼景の副将についた男は、左相の縁者だった。慈圓は、名高い燕問答を思い出した。
「つくづく、左に嫌われたものよ」
 左右の政治派閥の足の引っ張り合いは、宮中では日常である。涼景の後ろ盾となっている慈圓は、右派寄りの立場をとっている。そこに目をつけられた。
 避けては通れぬ道。
 慈圓は深く案じたが、涼景は堂々と任務についた。
 都から、南へ馬で十日ほど、穏やかな農村が戦場だった。
 その村では、宮中でも重宝される薬草を育てていた。年単位での収穫であり、澄んだ水や日照時間の管理など、栽培方法も特殊で手がかかる。効能に優れていたため、税の一部が投入され、国家事業のひとつとして位置付けられていた。村にとっても、専売が認められた貴重なものだった。
 しかし、高価な品と金が動く時、その裏側では、欲の種が芽吹くものである。長年にわたる専売体制は、村の内部の腐敗をすすめ、闇の流通路が確立されつつあった。
 右相に関わる者が私服を肥やしていることを嗅ぎつけた左相は、あえて涼景をそこに投じた。副将軍にはあらかじめ、戦闘に乗じて涼景を三冊するよう、指示していた。
 幼すぎる将軍が、その未熟さゆえに戦乱で命を落とす。そして、その後ろにいる右派にも損害を与える。
 左相はほくそ笑んだ。
 すべては、計画通りに運んだ。
 どんなに優秀とは言え、子どもを将軍にするなど、狂気の沙汰である。従わねばならない部下は、たまったものではない。
 案の定、涼景は、副将の暗躍により、部下に見捨てられ、たった一人、村に取り残された。
 山の斜面に作られた、段々畑の水路脇で、涼景は目を覚ました。殴られた頭が重たかった。手足は縄で縛られ、近くの低木に固定されていた。声を上げようにも、轡が硬く、呻きしか出なかった。
 周囲には、件の薬草が茂っている。
 作戦では、畑ごと焼き払うことになっていた。
 作戦の中で逃げ遅れ、焼け死んだことにするつもりか。
 涼景は察し、心を落ち着けた。
 今するべきことは、自分の存在を知らせることだ。
 そのためにできることは、限られていた。
 涼景は周囲を見回し、水路に目をつけた。
 段々畑を流れる水は、畑の下で民家の前まで繋がっている。そこに、人影が動いていた。
 涼景は水路の底を、縛られた両足で蹴り立てた。泥が巻き上がり、水が一気に濁った。やがて、泥水は畑の間を流れくだり、ふもとで作業をしていた村人の目に止まった。上流に異変を感じた村人が畑を上がってきて、ようやく、涼景は発見された。
 村人たちに取り囲まれ、作戦の詳細を問いただされた涼景は、あろうことか、自分の身の上も、帝の命令も、そしてこのままでは村を焼き討ちにするという極秘事項まで、すべて話してしまった。
 だが、それは、村人の脅しに屈したわけではなかった。すべてを、計算のうちに入れていた。
 子供の言うことである。自分たちを騙すための作戦なのではないかと疑う村民も多かった。
 原因となった薬草は、ちょうど間も無く、収穫時期である。
 その畑に火をかけるなど、あるはずがないという意見が大半だった。
 だが、彼らは宝順という人間の本質を見誤っていた。
 皇帝の怒りは、自分以外の者が金銭を設けるなどという些細なことではない。
 自分への虚偽の報告、裏切り行為そのものに対してだ。
 その年、作物が壊滅することなど、どうでもよいことだった。
 涼景は逃げるように訴えたが、村人たちは、疑いを捨てきれなかった。仕方なく涼景を蔵に閉じ込め、一晩、様子を見ることとした。
 夜半に、副将軍の指揮のもと、畑には油がまかれ、火が放たれた。
 半数の村人は攻撃を恐れてあらかじめ村を離れ、山中へと隠れて難を逃れた。そして村に残った者たちは、涼景の言葉通り、火に巻かれて命を落とした。
 畑が焼け落ち、村の中が静まると、涼景は蔵を抜け出し、副将の元へ走った。
 蔵の中で、煙と炎の熱にいぶされ、体中すすだらけで汚れきった姿で、涼景は兵たちをかき分け、副将の前に出た。
 死人が生き返ったのではないか、という顔で、涼景を見つめ、副将は震えあがった。自分の裏切りが明るみに出ることへの、恐怖。すぐに、子飼いの部下の姿を探したが、彼らはとっくに隊を逃げ去っていた。
 怯える副将軍を前に、涼景は、叱るどころか、笑ってみせた。
 そして、他の兵がいる前で、自分が不在の中でもやり遂げた功労を褒め讃えた。てっきり涼景が泣きわめくか、怒りに任せて怒鳴り散らすかと思っていた副将は、完全にあてが外れてしまった。
 涼景は火事で死んだ者たちを弔うように命じ、隠れていた村人たちには、帝との間を取り成す約束を取り付けた。

 こうして、わずか十二歳の少年将軍は、一夜にして兵からも、民からも羨望を浴びることとなったのである。
 それでも、慈圓は、涼景の将来を不安視していた。
 幼くして、目立ちすぎる涼景は、自ら、その行手に災厄を引き寄せているかのようだ。慈圓の予感は的中し、ついに、皇帝が動いた。
 宝順は才能あふれる涼景に目をつけ、ことあるごとに呼び出すようになった。
 はじめは、その能力を試すように、強敵を当てがい、難問をぶつけた。
 涼景はどんな相手にも冷静に対応し、宝順が満足する答えにたどり着いた。ときには、その期待を超えていることさえあった。
 こうなると、独占欲の強い宝順のことである。決して、自分以外の者に涼景を預けることは許さなくなる。
 正式に近衛兵として、自分のそばを守らせるようになったのは、涼景が十三歳になった頃だった。
 この年齢の男子は、性の対象として周囲から声がかかることも多い。しかし、涼景は違っていた。好色の者は、日増しに美しく育っていく涼景を欲してはいたが、その後ろには皇帝がいる。
 手出しをしようものなら、自分の命がない。
 文字通り、誰も涼景の肌に触れることができなかった。
 自分を取り巻くすべての状況を、涼景は理解していた。
 自分は帝がいるからこそ、人として無事でいられるのだと。
 皇帝以外が涼景に触れる唯一の機会は、彼が戦のために遠征する時であった。だが、そのようなときは、涼景直属の部下が彼のそばを固めていた。涼景の人柄、数々の戦場や日頃の働きに賛同し、官位や金によらず、惚れ込んだ者たちだった。涼景を搾取の対象と見ることをせず、誠に慕う部下であった。
 後に、涼景は彼らをまとめ、私兵として暁隊を組織することになる。
 その中心には、戦友・蓮章の姿もあった。
 蓮章はそのころ、武術よりも戦略に長けた軍師としての気質を強めており、涼景と合わせて隊の片翼を担った。
 精悍で美しく、人を惹きつける情熱的な涼景と、妖艶な魅力をまとってするどい知略を巡らせる蓮章のふたりは、その見た目の華やかさも相まって人気を高めていった。
 近衛として、暁隊の若き隊長として、涼景はまさに押しも押されもせぬ時代の寵児だった。
 柔らかく茶色味を帯びた髪を髷には結わず、肩ほどで切った。鎧を好まず、緋色やえんじの着物をゆったりと着付け、どこか旅人のような奔放さをまとっていた。腰の太刀だけが、武人としての品格を示していた。大概のことに動じず、飄々とした身のこなしで王者の風格を帯びる涼景は、次第と宮中の者たちにも頼られる存在となっていった。
 宝順は一度も、涼景の体を求めたことはなかった。一方的に奉仕させるすらしなかった。それは、好色家の宝順には異例のことだった。
 涼景にとっては、幸いであると同時に、不気味にも思われた。
 しかしその裏で、宝順の涼景に対する性的な支配は、もっと根深いところから、ひそやかに始まっていた。
 宝順は、男女の区別なく、人と人とを絡ませ、酒を手にそれを眺めることを好んだ。自ら手を触れることはむしろ稀で、目の前で行われれる陵辱を視姦することを習慣としていた。
 そのような時、涼景は宝順の隣に立ち、一部始終を見せつけられた。
 快楽に堕ちるひとの性根、加虐欲を隠さない残酷な高揚、狂気と紙一重の狂喜。
 その鮮烈な光景は、涼景の繊細な感性を、徐々にむしばんでいった。そしてそれこそ、宝順が涼景に感じた悦楽の一つであった。
 宝順はよく、嬌声と悲鳴の中で、涼景に話しかけた。
 それは兵士の訓練のことであったり、遠方の地域の情勢であったりと、目の前の濡れ場とは全く関係のない話だ。
 涼景は静かに、その問いかけに答えた。
 年齢を重ねるにつれ、涼景も無心ではいられない。
 あからさまな声と情景に、体の反応を抑えられなくなっていく。
 それでもなお、動くことはできなかった。それどころか、いついかなる問いを宝順が発するかわからない。答えられるだけの冷静さが、涼景には求められた。
 繰り返されるその時間は、緩やかな調教であった。
 涼景の若い体に、嫌が応にも生理的に湧き起こるもの。その欲望をねじ伏せる冷たい意志。
 心と体が分離する異常な状態に、涼景は慣らされていった。
 次第と、艶姿を前にしても涼景の表情は凍りついた。体はたぎり、かたちを変えたが、眉ひとつ動かすことはなかった。宝順はそれを、満足そうに眺めた。
 宝順帝は、支配欲においては、明らかに狂っていた。あらゆる手段を用い、人の尊厳を粉砕して、自分の手の中に置く。
 そうして、そこから逃れようとする者がいれば、容赦なく斬る。
 執着があるようで、意にそぐわぬとなれば、どこまでも冷酷だった。
 優れたものであればあるほど、宝順から逃れることはできなかった。
 宝順は、涼景の妹を人質にとった。
 逆らえば、歌仙の屋敷で静かに暮らす、病弱な妹は、身に耐えられぬ責苦を受けることになる。
 妹を守るため、また、慈圓や蓮章、自分を慕ってくれる暁隊の者たちを守るために、涼景は理不尽を感じながらも、宝順に仕える以外にはなかった。
 やがて自分もまた、いつか、彼の前で嬌声をあげることになるのかもしれない。
 その日を恐れながら、しかし、心の奥底には奇妙な期待と好奇心が、蠢くのを感じた。
 涼景は、目を背けたい肉欲のうずきを振り払うように、剣術に没頭し、正気を保つように自分から目を背けた。
 かたわらの蓮章には、日々、命を削るように生きる涼景の姿が痛々しく、狂おしかった。誰かのために、全てを投げ打つ涼景は、死にたがっているようにさえ見えた。
 蓮章は何度も涼景と衝突し、一歩も引かずに救い上げようと手を伸ばしたが、涼景がその手を掴むことはなかった。

 自分につながる人々を守りたいという涼景の純情とは裏腹に、涼景の周りには、彼を使って欲を満たそうとする者も多くいた。
 中でも、里親となっていた燕孟念もうねんの暗躍は、涼景の運命を狂わせた。
 涼景が十六歳を迎えた頃。
 すでに、剣術の腕も周囲に敵う者なく、将来は近衛隊長に、との話が持ち上がりはじめた時期。
 孟念は、あわよくば涼景をきっかけに、自らもその後見として権力を握ろうと企てた。
 この企みは、涼景本人の知らないところで密かに進められ、宮中には不穏な動きが見え始めていた。
 まず、涼景と並ぶ可能性のある者、出自の高い者、左相の縁者たちの不祥事が、次々と捏造されては、処分の対象となった。孟念に協力し、自分もその一派に加わろうとした者たちは、裏工作に明け暮れた。
 没落し、消えてゆく運命であった燕家が手に入れた、千載一遇の好機である。逃すわけにはいかなかった。
 何も知らない涼景は、ただ、最近頻発する帝への不義に閉口し、宮中で何かが起きている気配を察しながら、まさか、その黒幕が自分の育ての親とは、露とも思ってはいなかった。
 ある夜。
 いつもと変わらず、帝の命令で天輝殿を訪れた涼景は、普段より警備の目が多いことに気づいた。
 今日の『客』が特別なのか、それとも、宝順をおびやかす情報でもあるのか。考えを巡らせながら、涼景は天輝殿の広い階段を上がった。
 警備に立っている近衛兵が、ちらっと涼景を見ては、かすかに笑う。その雰囲気に、涼景は胸騒ぎを覚えた。
 何かある。
 三〇〇年の間、改築と増築、修繕を重ねて維持されてきた、広大な皇帝の御所、天輝殿。
 その歴史は、多くの血と欲望に支えられた暗さも内包している。
 静かなはずの廊下の奥から、ささやくように声が聞こえる気がした。
 涼景は違和感を抱きつつ、謁見室のさらに奥へ向かった。
 静かに佇む、石の間。
 宝順が、嗜好を目的として拷問するとき、この、閉ざされた空間が舞台となった。名を聞くだけで、誰もが眉をひそめる場所だ。容易に開かない、分銅の下がった重たい木の扉の他は、全てが四角く切り出した巨石で組み上げられていた。
 壁には篝火を設置する窪みがいくつもあり、天井付近の換気の窓は最小限にくり抜かれていた。油灯の皿と、香炉台が石の隙間から等間隔に突き出ている。壁沿いに大きな瓶がいくつも置かれ、部屋を使用する際には新しい水が満たされた。
 床は、あえて磨かず、ざらついた岩肌がそのままにされていた。床全体が、入り口に向けてゆるやかなみ傾いている。いく筋かの溝が掘られ、扉の下から、室外に水が流れ出す仕掛けである。
 涼景は今まで、幾度となく、この床に水を撒き、穢れを洗い流した。
 今夜もまた、惨劇が繰り返されるのか。
 醒めた心と、引き締まった表情のまま、涼景は石の間の前に立った。
 細く開いた扉の向こうに、多くの人間の息遣いが感じられた。
 石の間に招かれるのは、大抵、十名に満たない。だが、今夜は様子がおかしい。
 涼景の表情がピクリと動いた。
 目を伏せ、涼景は一歩、踏み込んだ。
 いつもの上座に、すでに宝順が座っていた。その左右には、武装した禁軍の兵士数名が、じっと涼景を見据えていた。
 だが、涼景を驚かせたのは、彼らではなかった。
 部屋の中には、手足を縛り上げられた男たちが二十余名、うなだれたり、気を失った状態で放置されていた。端にいた一人が、涼景を振り返った。
「涼、逃げろ!」
 蓮章だった。集められていたのは涼景の私兵、暁隊の者たちだ。
「構うな、逃げろ!」
 蓮章の声に涼景が狼狽えたとき、背中を誰かに蹴り飛ばされた。勢いで前に転がる。扉が無情な轟きを立てて閉ざされた。
「陛下、これは!」
 涼景は足早に宝順に歩み寄った。
 上座にゆったりと座った宝順は、微笑を浮かべた。
「そう、急ぐな」
 宝順の声には、すでに勝者の余裕と、これから繰り広げられる惨劇への期待がありありと滲んでいた。
 涼景は状況が理解できないまま、蓮章を見た。殴られたのだろうか、目元に真新しいアザがあった。ゾクっと、涼景の体に力が入った。
「これは、何事ですか」
 感情を殺しつつ、涼景は宝順に背を向けたまま、声を発した。
「この者たちが、何をしたというのです。縄をお解き下さい」
「そう、声をあげずとも良い」
 宝順はいつものゆっくりとした口調で、涼景の背中を丁寧に見た。
「彼らは、何もしてはおらぬ。罪人ではないゆえ、すぐに自由にしてやる」
「一体、どういうことです?」
 ​涼景は冷静になろうと努めた。ここで自分が騒いだところで、状況は改善されまい。
 呼吸をととのえ、宝順に向き直る。
「その様子では、本当にそなたは何も知らぬようだな」
 宝順が手を上げて合図すると、部屋の奥の小部屋から、禁軍の兵が一人、姿を見せた。その手には、ひとつの首が下げられていた。
 恐怖に目を見開いた、孟念の首だった。
 兵士はそれを無造作に、動けずにいる涼景の前に置いた。
「刀をお預かり致します」
 兵士は、呆然と立ち尽くす涼景の腰から、刀を鞘ごと取り去ると、部屋の奥へ下がった。
 宝順のそばに並ぶ禁軍の兵たちが、一歩近づき、涼景を包囲する。
「お前の里親に、間違いないな」
 変わり果てた孟念の姿を見つめたまま、涼景は乾いた宝順の声を聞いた。
「はい……たし……かに……」
 世話になった男の首を前に、涼景は悪夢の中を彷徨っていた。逃げ場はどこにもない。
「そやつが、そなたを使って、私腹を肥やそうとしていたのでな」
「そんな……」
「朕が目をかけていた者たちも、何かと煩わされた。それゆえ、こうして首だけになってもらった」
 呆然と膝をついた涼景に、宝順は、微笑みかけた。
「そなたに罪はない。むしろ、そなたを利用しようとしたそやつに、そなた自身が罰を与えるべきところ」
 涼景の思考が、スッと冷える。
 動揺し、冷静さを欠くことは命取りだ。
 孟念を殺した宝順が、自分や、蓮章たちに何をするか、想像もつかなかった。
 あくまで、逆らわず。
 涼景は頷いた。
「……縁ある者が、陛下のご意志に背いたこと、嘆かわしく存じます。しかし、かような者なれども、恩を受けたこともまた事実でございます。この手で罰することなど、人の道にはずれるというもの」
 涼景は、儒学者の息子である。人と人の礼節には、ことに敏感だった。当然、宝順はそれを知った上で、涼景の心に最も刺さる策を用意していた。
「いや、罰せねばならぬ。これは儒の道にあらず。朕の命令である」
 逆らうことのできない、その一言が、涼景の首を絞めた。
 緩やかに、宝順の唇が弧を描いた。
「その首の、口を使え」
 瞬間、その場にいた全員が息を飲んだ。
「なんと……おっしゃられたのか……」
 涼景が声を震わせた。宝順はあくまで穏やかだった。
「その首を犯せ」
「!」
「さすれば、ここにいる全員、すぐにでも解放しようぞ」
「なっ……」
 涼景の顔から血の気が引いた。
 宝順が、やれと言ったからには、それはいかなることでもすべて、現実になった。
 この石の間は、悪夢が形を持つ異界だ。
 逆らうことはできる。ただし、それは命と引き換えの一度きりに抵抗だ。
「できぬ、か、涼景?」
 名を呼ばれて、涼景の身体が硬直する。宝順は本気だ。冗談や脅しで言っているわけではない。
「そなたも男であろう? それとも、朕が知らぬうちに宦官になったか?」
「…………」
 これほど、哀れに震える涼景を、部下たちは初めて見た。
 どのような戦況下でも勇猛果敢に戦う彼が、敵を恐れたことは一度もない。暁隊の隊士たちにとって、涼景は命を預けられる信頼に足る人物だった。
 だからこそ、彼がよからぬことに巻き込まれることが無いよう、心からの敬意を持って仕えてきたのだ。
 自分達が守り、自分達を守ってくれた涼景への、あまりに非道な仕打ちに、部下の何人かは堪えきれず、泣きながら頭を垂れた。
 すすり泣きや、悔しげなうめきを上げる同胞の中で、蓮章は静かに成り行きを見守っていた。
 体の奥で震える魂は、涼景の身体の震えと共鳴する。必死に殺した感情が、一筋、涙となって、灰色の左の目から溢れた。ぽたり、ぽたり、と石の床に落ちる。それはとめどなく、時を数えるように続く。
 声も立てず、表情も変えず、ただ、涙を流すだけの蓮章を、涼景が振り返ることはなかった。
 涼景自身、生まれて初めて、どうして良いかわからない状況に立たされ、困惑したまま、見開かれた孟念の首を見つめた。
 孟念の罪が真実なら、宝順が斬首としたことも納得がいく。だが、それ以上の仕打ちは、必要ない。
 ……これは、俺に対する圧だ。
​ 帝をないがしろにするとどうなるか、将来、自分が自分の意思で、孟念と同じことをせぬよう、思い知らせるための……
 ここまでするのか!
 涼景の胸に、宝順への怒りと憎悪が湧き上がる。
 だが、それは同時に、自分自身にも向いた。
 今まで、涼景は宝順の隣で、泣いて命乞いし、助けを求めながら傷ついていった者たちを、どれほど、見殺してきただろう。
 彼らの嘆きを聞き、体の躍動を眺め、己を慰めてきただろう。
 俺はっ……!
 自分には、善人の顔をして宝順を責める資格などない。
 せめて、できることがあるならば……
 涼景は、背後の気配を伺った。
 文字通り、自分の背には、大切な者たちの命がかかっている。
 背中越しに聞こえる押し殺した声が、涼景の覚悟を促した。
 これは、償いだ。
 涼景は自分に言い聞かせた。
 宝順を止めようとしなかった、弱い自分が果たすべき償い。
 そして、自分のためにここに集められた友たちへの、せめてもの……
 震えながら、帯に指をかける。思うように動かず、何度も手間取りながら、直裾を緩めると、襦袢の下に手を差し入れる。
 どうにか、自分のものに触れたが、とても、帝が望むようなことができる状態ではない。むしろ、全身が萎縮してしまっている。恩人の生首で自慰に及ぶなど、正気の沙汰ではなかった。
 どうしたらいい?
 許しを乞うか?
 いや、そんなことで、宝順帝がみなを放免することはない。それは、近くで見てきた自分が、一番よく知っているではないか。宝順は人命に関して恐ろしく冷徹であり、言ったことは決して曲げはしない。
「どうした?」
 微笑のままに、宝順は涼景を見つめている。
 できない……
 それが、涼景の答えだった。
 羞恥心のためではない。孟念への恩義のためでもない。
 もっと根本的な拒絶。
 人として、してはならない。
「手伝ってやれ」
 完全に動けなくなってしまった涼景の前に、禁軍の兵が一人、進み出た。兵は、孟念の首を手に取ると、硬直していた口を無理やりに開かせた。
 半分裏返った孟念の目は、何も語らず、ただ、そこにある。
 小刻みに震えるだけで、涼景は動けないままだった。
「やれぬというなら」
 宝順が、わずかに手を上げて指示を出す。別の兵が、蓮章に目をつけた。引き立たせ、涼景の前に連れ出す。
 涼景は反射的に蓮章を見た。一瞬、黒と灰色の目が、涼景と繋がった。
 俺に構うな!
 蓮章の目は、どこまでも、涼景を案じていた。
 目が合えば、心が動く。心が動けば、苦しみが増す。
 床に投げ出され、蓮章はうめきひとつ上げずに、涼景から顔をそむけた。
「:犯(や)れ」
 禁軍兵が剣を抜く音が、耳の底に響く。
 躊躇なく、剣先が蓮章の着物を裂き、色の薄い肌を曝け出した。
 宝順は、愉悦に笑った。
「やめっ……」
 涼景は胸がつかえた。そして、目を見開いた。
 体の震えが、その質を変えた。
 あられもなく、柔肌を石の床に横たえている、蓮章の姿。
 息づき、上下する肩。すらりと伸びた脚と、斜めに捩れた背中。
 ただそれを見ただけで、涼景のものが熱を帯び、芯を持った。自分自身の体の変化に、涼景は愕然として声を失った。
 長く、宝順に仕込まれてきた無意識が、恥辱と性的興奮とを、いとも簡単に結びつけ、焚き付けた。
 体は舞い上がり、理性は奈落に落ちた。
 傷つけられる親友の姿に興奮を覚える。それは絶望だった。
 涼景は、心の砕け散る音を聞いた。
「……もう、いい」
 聞き取れないほど、かすかに、涼景はつぶやいた。
 自分に突きつけられた現実を、ただ、すべてを手放して受け入れた。
 血を抜かれ、青黒く変色し、冷え切った首。
 無機質なそれに、涼景は一片の感情もないまま、手を添えた。
 その先端が、暗い口腔の奥へと差し入れられる。
 皮膚の渇き、欠けた歯の硬質な感触。
 やがて、彼は静かに腰を動かした。
 残酷な肉体の高まり。心からは、あらゆる感情が失せていた。
 力を込めると、顎の関節がかすかに鳴った。短く途切れる涼景の息が、そこに重なる。狂った行為の音が、静かすぎる石の間に、ささやきのように広がっていく。うっすらと焚かれた香炉の煙が、空中を漂う。
「恩人の具合はどうだ?」
 満足そうに、宝順は問うた。
「冷とうございます」
 それだけ言うのが精一杯で、涼景はその場に崩れた。先端から残滓が垂れ、体が無慈悲に喘いだ。
 目を開いたまま、涼景は気を失っていた。
 宝順は、ゆっくりと立ち上がった。その手には、いつしか:匕首(あいくち)が握られている。
「忘れるな」
 宝順は涼景の頭を膝の上に抱え上げた。
 これ以上、何をする気だ?
 蓮章の視線が床を這って、涼景に注がれる。刹那、蓮章は絶叫した。
 ためらいもなく、宝順は匕首の切っ先を涼景の右頬に深々と突き刺した。突然の激痛に、涼景の体が激しく跳ねた。
「お前は、朕のものだ」
 吹き出した返り血が、宝順の衣を染めていく。
「涼ッ!」
 喉を破る蓮章の声が、石の間に響き渡り、暁隊の皆が呼応するように叫び声を上げる。兵士が、蓮章を押さえつけた。狂ったようにもがいて、蓮章は叫び続けた。それはいつしか慟哭へと変わり果て、絶望の淵に沈む。それでも、蓮章の目は、涼景を求め続けた。
 一瞬で修羅場と化した中、宝順だけは静かに、穏やかであった。
 宝順が動くたびに、血飛沫が辺りに飛び散った。
 涼景の部下たちの幾人かが、耐えきれずに気を失い、また、幾人かは半狂乱に陥った。禁軍兵士は、暴れる者を次々に殴りつけ、黙らせた。
 ただ一人、涼景だけが、魂が抜けたように声も上げず、されるがままに任せていた。半分閉じた目から、冷たい涙がとめどなく流れ、頬の血を流していった。

  ・
 ​
「あれ、寝ちゃったんですか?」
 東雨が、新しく酒を持ってきた時、既に涼景は犀星の寝台で悠々と眠っていた。犀星はそれを見ながら、部屋の真ん中に突っ立ったままだ。
「それ、涼景様の?」
 東雨は、犀星が手にしていた剣を見て、少しどきりとした。
 眠る涼景と、剣を手に立つ犀星。
 まさか、殺したりしないよね……?
 東雨の怯えた目に気づいた犀星は、安心させるように首をふった。そっと、眠る涼景の手元に剣を預ける。
 東雨は、詰めていた息を吐き出した。
「まったく、毎日毎日、呑気なものですね」
 いつものこと、と、涼景に褥をかけてやる。ふと、穏やかな寝顔の中に浮き立つ、頬の傷が目に止まる。それは、あまりに生々しい。
 東雨は声をひそめて、犀星を振り返った。
「……涼景様の頬の傷、どうしたんでしょうか? 少し、普通じゃない、っていうか……」
 犀星はそっと、涼景のそばに腰掛けた。
 ただの刀傷にしては、確かに不自然だった。鋭利な傷の両端は、力任せに引き裂かれている。
 涼景が、それについて話したことはなかった。本人が言わないなら、こちらが聞くことではないだろう、と、犀星は黙っている。
 唐突に、犀星は顔を上げた。
「東雨、涼景が嫌うものを、知っているか?」
「え? 何でもよく召し上がりますけど」
「そうじゃない……鏡だ」
「あ、そういえば……」
 ​東雨は思い出したように、布の掛けられた鏡台を見た。
 初めてこの部屋に来た時、涼景は何も言わずに、鏡を隠したのだ。
「思い出したくないのだろう。だから、何も言うな」
 涼景の横に寝転んで、犀星は親友に顔を近づけた。
 その様子に、東雨はわずかに焦った。
「どうして一緒に寝るんですか?」
 顔を赤らめ、文句のように言う。
 犀星は目を閉じた。
「ここは俺の部屋だ。問題ない」
 そのまま、あっさりと眠り込んでしまった主人に、東雨はもう、何も言えなかった。
 天下の暁将軍と、民衆の信頼を集める歌仙親王が、一つの牀で酔い潰れて寝ている。
 人に話せば面白がるだろうが、これは、自分の胸だけにしまっておこう。
 ​まるで、子供のように無防備な寝顔の二人をみて、東雨はどこか羨ましく思うのだった。
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