あにおと

ふゆ

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レイジーディッシュ

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(兄23・弟17)


 鍵をあけ、ただいま、と声を掛けた。
 返事はない。知っている。水曜の今日、父は遅番、母はパートで、夕方の六時を過ぎるまで帰って来るのはコウスケ一人だ。
 手洗いうがいを済ませ、二階の自室で着替えてからもう一度下に降りた。
 母がパートに出るようになり、母が居ない日の夕飯はコウスケの担当になった。別に頼まれたわけではない。いうなら、やることがない。
 兄が家を出てから、拗れたコウスケの暇潰しはもっぱら『参考書』だった。コウスケが言えば読書、兄に言わせるなら『悪癖』らしい習慣を三年も続ければ、定期考査で一位をとることも難しくなくなる。元々、頭と顔の出来は兄に似て良いほうだ。そうやって続けていた悪癖な暇潰しも、家を出たきり音信不通だった兄と二年前に和解して、兄のマンションでだらだら過ごす味を覚えてしまうと、なんとも味気ないものになった。
 中毒のように捲っていた参考書に触る気もなく、丁度飽き始めた頃、とってかわるように料理に打ち込み始めた。
 料理は好きだ。楽しい。美味しい。だが料理が趣味になった理由は、兄が────キョウスケが、頭も顔も処世術も弟への甘やかしもてっぺんレベルなのに、不思議なことに放っておくと冷蔵庫は空かカロリーゼリーかの二択になる生き物だというのが最大だ。
 そんな不摂生、見過ごすと思ったか。週末通い妻生活二年目にして、兄の食生活の責任者権管理者はコウスケだ。兄に食べさせる料理の練習を家でしていると、自宅で朝食や夕食を調理する機会も増えた。
 午後四過ぎを指す時計。今日はビーフシチューにしよう。冷蔵庫を見て決める。ただし肉は豚だ。

 煮込む料理は楽でいい。コウスケは切った具材を鍋に放り込みながら思う。量を作れるし油っぽくない。この季節にガス台の傍は暑いばかりで辛いし、煮込んでいる間暇になるから、結局参考書に手を伸ばすけど。


 見飽きたページが二週目に突入する頃、ガチャンと玄関から音がした。
 もうそんな時間か。もしかして煮すぎた? 腰掛けていた脚立から降り、具合を見ようと鍋の蓋を開けて、ん? とコウスケは止まる。時計が午後五時だった。
 母さんは今日六時までのはず。
 呆けていると、横────洗面所に近い引き戸が開く。
「どうした?」
 キョウスケが居た。
 ラフな格好で、買いもの袋を提げて。
「えっ」
 なんで兄さんが家に。
 クッとキョウスケが喉を鳴らした。「母さんから買い物頼まれたんだ。コウが夕飯作ってるだろうから食べてけって、お誘いもいただいた」
「ビーフシチューか」
 鍋を覗きこんだ綺麗な顔が綻ぶ。コウスケは嬉しくない。
「兄さんが来るって知ってたら、トマト煮込みハンバーグにしたのに」
 ビーフシチューだってもっとちゃんと手の込んだものにしたのに。
「これ、デミグラスソースのやつだろ。母さんがよく作ってたやつ」
「うん」
「あれ、好きだぞ」
「でも牛じゃない」
「牛じゃないのか」
「豚にした」
「でもお肉だぞ」
「お肉だけどさ」
 よしよしと満足げにキョウスケは弟の頭を撫でる。
「コウが作ったものならなんでもごちそうだよ」
 そういうことじゃない。そういうことじゃないのに、結局コウスケはほだされる。

 冷蔵庫を開け、つい一時間前にしまった材料を探す。少しずつ余したから、明日使うつもりで放り込んだはずだ。ジャガイモ、人参、玉葱。ついでにベーコンも。
「まだ作るのか?」
 缶詰のラックからトマト缶を引っ張り出す。
「スープ作ってなかったから、ミネストローネにする」
 母が帰って来るまで一時間。時間は十分だ。大豆とマカロニも欲しかったが、切らしているから仕方がない。
 肩を落としながら立ち上がると、キョウスケが包丁を握っていた。
「手伝うよ」
「じゃあ、皮剥きお願い」
「あぁ」
 シャリシャリと慣れた様子で長い指がジャガイモの皮を剥く。自炊をまったくしないキョウスケは、料理下手でもなんでもない。むしろ、コウスケが五駅先のマンションに通い始めた頃は、調理場に立つ頻度はキョウスケの方が多かった。
 今や兄のマンションの冷蔵庫は、コウスケが行かなければ空っぽになる。
 幼い頃から万能だった兄のそういうズボラさを知ったのは、去年の梅雨頃だ。キョウスケが大学の合同研究で忙しくなり、押し掛けたコウスケは手持ち無沙汰で、ただ座っているよりはと料理ばかりしていた、じめじめした空気が気分も体調も悪化させていた頃。カロリーゼリーとトマトしかない冷蔵庫に、なんど膝をつかされたことか。
「兄さん、料理上手なんだから家でもちゃんとやりなよ。兄さんただでさえ細いのに、骨になっちゃう」
 完璧に処理されたジャガイモを受け取ったコウスケが小言を漏らすと、
「コウが作ったほうが美味しいぞ」
「それは、兄さんの欲目もあるじゃん。それに、それだとおれが行かなくなったら、兄さん食べなくなるの?」
「来なくなる予定があるのか?」
「ないけど」
「なら問題ない」
 薄く剥かれた皮をつまみ上げてむくれる。そういうことじゃない。そういうことじゃないけど、言っても無駄だ。どうせ兄は全部わかっている。つまんだ皮を生ゴミの袋に放った。
「というより、コウに会えないなんて耐えられないから、そうなれば今度は俺が帰って来るだろうな」
 ふふふと人参を手に持ちながらキョウスケは笑う。ゴポリとビーフシチューが煮立った。そうなったら。「……そうなったら、毎日できたてのご飯食べてもらえるのに」
 コウスケを見る目がパチリと瞬いた。そんな間抜けな顔も兄はかっこいい。
「……それは、とても魅力的だな」
 そんな顔したって、絶対に帰って来ないくせに。
 怨み言ではなく、事実としてそうだと知っている。別に諦めでもなんでもない。それを責めるつもりもない。それに、兄が実家に住み着いてしまっては困る理由が、コウスケにはある。
「兄さんがちゃんとご飯食べるのはいいけど、兄さんとだらだらできなくなるのは、ヤだなぁ」
 パチパチとキョウスケがさっきより大袈裟に瞬く。呆けていた顔は「そうだな」と破顔した。
「ここじゃダラダラはできないか」
 皮を剥き終えたキョウスケは人参の賽の目切りを始めていて、やっぱり器用で、自炊なんて朝飯前のくせに、週末は必ず冷蔵庫が空になる。そして週明けの冷蔵庫には、コウスケが作ったものがぎっしり詰まっている。ビーフシチューも、今から作るミネストローネも、きっと明日から仲間入りする。


 ただいまー。声がする。火を止め、それぞれ椀と皿に盛ったものをキョウスケに渡したところで、絨毯の方から黒髪の美女がひょっこり出てきた。
「いらっしゃい、お疲れさまね、キョウスケ」
「うん。母さんも」
「母さん、おかえりなさい」
「ただいま。今日はビーフシチューなのね。いつもありがとう、コウスケ」
「ううん」
「あら、そっちのお鍋は?」
「ミネストローネだよ」
 まあ! と母は長男そっくりに目をしばたかせた。
「うふふ、兄さんの好きなものばっかりね!」
 知っていたくせに。


+++++
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