宰相補佐官令嬢、ユーミリアの訳あり婚約

雪菜

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2. 気が置けない仲

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 宰相の執務室に辿り着くと、ユーミリアはようやく解放された。
 漂う冷然とした雰囲気とは裏腹に、二人掛けのソファにユーミリアを下ろすルディウスの所作は丁重だ。

 広い執務室に居るのは、いつものように二人だけ。

 執務机に寄り掛かり、ルディウスが嘆息混じりに口を開く。

「要するに。君は怒っている、と」
「ええ、ものすっっごく」

 ユーミリアは、にっこりと微笑んで答える。

 この場合の怒っているというのは、強引に執務室まで連れてこられたことに対してではなく。内務省で刺繍に勤しむという奇行に走った動機の話。

「婚約者の朝帰りを何事もなく流せるほど、寛容じゃありませんから」

 嫌味をたっぷりと含んだ物言いに、ルディウスがため息を吐く。
  
「……常識的な時間に帰るつもりではいたんだけどね」
「えぇ、そうでしょうね。昨日ディーは私にこう言っていたもの。『残って調べ物をするから君は先に帰っていてくれ。遅くはならない。夕食の時間までには帰宅する』って」

 ユーミリアの生家は貴族の端っこにぶら下がっているような、しがない男爵家である。
 国家機密を扱う立場にありながら、自宅の警備はザル。なので、彼の補佐官となって以降、警護の観点と職務の連携のしやすさから公爵邸に居候している。

 昨晩、ユーミリアは彼の言葉を信じて夕食に手をつけることなく、辛抱強く帰宅を待っていた。結局、彼の帰宅より先に就寝時間が訪れたのだが。

 笑みを深め、昨日ぶりに顔を合わせる婚約者に、冷ややかな声で尋ねる。

「それで、ディーがお屋敷に帰ってきたのは何時のこと?」
「……三時。まぁ、だいたい」

 この場合の三時とは無論、午前――明朝を指す。

「悪いのは私とディー、どちら?」
「俺、だね」

 潔い回答に、ユーミリアはすぅと息を吸い込み。ソファの座面をぺしぺしと叩いた。

「それなら、どうしてあんな恥ずかしいことをするの……っ! ディーは私の意図を察していたじゃない! 執務室に帰るよって言ってくれれば素直に自分の足で歩いたわっ」
「会話を続けるのが面倒だったし、あれが一番手っ取り早かったから?」

 この幼馴染兼上司兼婚約者殿は、ユーミリアの神経を逆撫でする天才だ。こちらをわざと怒らせて楽しんでいる悪趣味な彼をきっ、と睨み上げる。

「テキトーなことを言わないで。ディーの性格はよく知っているもの。私を困らせたかっただけなのはわかっているんだから……っ!」

 すると、涼しげな美貌にたちまち甘やかな笑みが浮かんだ。
 
「心外だな。例え職務中であっても愛しい婚約者に触れていたいっていう、切実な想いからの行動だけど?」

 銀灰色の双眸が、愛おしげに細まる。じっと注がれる視線に、じわじわと頬が熱くなってくる。反応に困ったユーミリアは、精いっぱいの怖い顔を作って、抗議する。

「そうやって、それっぽーく甘い言葉を掛ければ私が動揺してうやむやにできると思ってるんでしょ? 大間違いだわ……っ」
「その割には、真っ赤だ」

 彼の指摘通り、ユーミリアは今、耳まで真っ赤だと思う。目線を合わせるのも限界で、そっぽを向く。
 
「……だって、犯罪なんだもの」

 こちらの反応を楽しみたいがための言葉だとわかっていても。動揺するなというのは、無理な話なのである。
 
「慣れないね、いまだに。婚約が決まってから四年近くになるけど」

 そう囁いて、ルディウスは微笑ましげに口許を緩めた。

 二人は昔から仲の良い幼馴染だった。といっても、仲睦まじい、ではなく。喧嘩するほど仲がいい、の方が近しい表現である。
 軽口の応酬が平常運転。気心が知れているからこそ許される遠慮のないやり取りを、互いに楽しんでいた。
 
 ところが、婚約が決まってからのルディウスは幼馴染と婚約者の顔を器用に切り替え。時折、こうやってまともに取り合ったら赤面してしまう口説き文句を用いてからかってくるので、それはもう、たじたじなのである。

 余裕顔で受け流せるようになりたいのに。いつまで経っても慣れず、ユーミリアはあたふたしてしまう。

 ひとしきりからかって満足したのか、ルディウスはしれっと白状した。

「……まあ、君をここまで運んできたのは遊び心ではあったよね。そんな必要、あるはずもない」

 ユーミリアはゆっくりと手を振り上げた。
 
「一発、引っ叩かせてもらえる?」
「やれるものならお好きに。どうぞ?」

 こちらの怒気を涼しい顔で受け流して、ルディウスが微笑する。内務省で見せていた、冷たく刺々しい雰囲気が嘘のように楽しげだ。

 振り上げた手のひらの行き場など、初めからない。

 彼の言動にどれだけ腹を立てていようとも。楽しそうに笑っている彼を前にすると、怒りはたちまち霧散して、ユーミリアは安堵してしまうのだ。

 はぁ、と。ため息と共に腕を下ろす。
 
「……もういいわ。そんなことよりも。前々から咎めてはいたけれど、今回でユミィさんの我慢は限界を迎えました。なので、寝食を忘れてお仕事に没頭するのは金輪際、控えてもらいます」

 こんなふざけた人間だが、ルディウスは超をいくつ付けても足りない仕事人間である。彼が無茶な働き方をしないように補佐官として目を光らせているのだが、ちょっと油断するとすぐ身体に鞭を打つ。

 身体を壊されては堪らないので、一計を講じることにした。それが、内務省で刺繍をするという一見すると訳の分からない行動である。

 一転して、ルディウスが真面目な顔つきになった。

「……まさか、君の評判を楯に釘を刺してくるとはね。面白い発想だったよ」

 聡明なルディウスは、ユーミリアの目論見などお見通し。
 
「部下想いなディーには効いたでしょ? 想像以上に奇行で、意味がわからなくて、すっごく恥ずかしい諸刃の剣だったけど!」

 硬質な美貌に、はっきりと苦笑が滲んだ。
 
「……二度と無茶はしないと、決めるくらいには。ようやく定着した俺の補佐官に妙な噂が立つのは忍びない」
「サボり魔で、王宮で刺繍を刺すような、非常識な令嬢、ね」

 ルディウスは厳格な人だ。自身の働き方に問題がある自覚を持ちながら、改善することなく部下の体を張った忠言を無視することなど、できはしない。

 無茶をするならユーミリアは故意に評判を落とす行為に走りますよ、という牽制は効果覿面である。

 彼が退室間際に見たものを忘れろと命じたのは、ユーミリアに余計な悪評が付き纏わないように釘を刺してくれたのだ。

「今後は控えるよ。ユミィの勝ちだ」
「あのルディウス・レオンハルトが白旗を挙げてくれるだなんて。とてつもない羞恥心と格闘した甲斐があるわ」

 前言を撤回するような人ではないから、今後は身体を壊しかねない労働は控えてくれるはず。

 ユーミリアがホッと安堵の息を吐くと、先ほどまでのふざけた態度はどこへやら。ルディウスは申し訳なさそうに目を伏せた。

「……君の侍女から聞いた。昨夜は遅くまで待ってくれていたらしいね。すまなかった」
「悪いと思っているなら、相応の誠意を示してもらわないと」
「お望みは?」

 ユーミリアは立ち上がり、絹のような髪を踊らせ、端正な顔を覗き込んだ。

「そこはディーが自分で考えるべきじゃない? 女の子の機嫌を取るのは一筋縄じゃいかないわよ? その優秀な頭脳を持ってしても、難題かもしれないわね?」
「女の子の機嫌の取り方なんか知らないし、興味もないが。ユミィの機嫌の直し方なら、至って簡単」

 ルディウスの顔に浮かぶのは、悠然とした笑み。
 
「……と、言うと?」
「昨日無茶した分、週末は時間が取れそうなんだ。ユミィが前から行きたがっていたカフェに行くのはどう? ミルフィーユが絶品なんだろ?」

 予想していなかった誘いに『えっ』と。ユーミリアは弾んだ声を上げる。
 
「本当っ? あのね、パイ生地がすっごくサクサクで美味しいと評判のお店なの。カスタードクリームも甘さ控えめらしいから、ディーの口にも合いそうだと思って……って、何よう。その物言いたげな目は」

 そんな、可哀想なものを見る目で見なくたっていいじゃないか。

 呆れを多分に含んだ声音で、ルディウスが言う。

「あまりに単純で心配になるな、って。見ず知らずの人間に甘い物をちらつかされたとして、ほいほいついて行くのはおすすめしない。危ないよ」
「行くわけないでしょっ! 私を何歳《いくつ》だと思っているのっ」

 というか、ユーミリアが食いついたのはそこではないし。

(鈍いんだか鋭いんだか、ほんっとうにわからないんだからっ)

 甘い物に目がないのは事実だけれど。ユーミリアがご機嫌になったのは、ルディウスとお出掛けできるからである。多忙極まりない彼が時間を作れるのは稀で、大変貴重なのだ。

 まぁ、見透かされていたらそれはそれで気恥ずかしいので、勘違いされるのは大いに助かる。

「今年で十八歳になるユミィさんは、俺の朝帰りを許せそう?」
「まぁ、許してあげなくもないわ」
「……やっぱり単純だ」

 ぼそりとこぼされた大変失礼な感想に、にっこりと微笑む。
 
「何か言ったかしら?」
「心が広いなって」
「一音も掠めてなさそうよ?」
「違いない」

 ユーミリアの指摘にくすりと笑んだルディウスが、ちらりと時計を横目で見る。始業時刻を三十分は超過していた。

「そろそろ、給料泥棒になりそうね」
「……だな。それじゃあ週末の楽しみを励みに、モリンズ伯領の問題と向き合ってくれ」

 ルディウスがユーミリアの執務机から書簡を取り上げた。

「もちろん。ディーの代わりに私が頭を悩ませましょう」

 ひらり、と目の前に掲げられた書簡を受け取る。細かい文字がびっしりと並んでいて、読むだけで頭が痛くなりそうだ。

 よし、と気合を入れて、ユーミリアは自らの執務机に向かうのだった。
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