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第一章

第26話 マリアヴェルの疑問

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 激しい雨がサロンの窓を叩きつける。雨音に混じって時折雷鳴が轟くほど午後の天候は荒れていた。生憎の空模様でもギャレット伯爵邸で開かれたお茶会は少女たちの笑い声で華やいでいる。友人が集まった三人だけのお茶会はマリアヴェルにとって気安いものだった。

「来週末で婚約からちょうどひと月が経つわけだけど。ロバート様とはどうなの? 上手くやっていけそう?」

 悪戯っぽく瞳を細める伯爵家の令嬢ライラに、マリアヴェルは頬を膨らませる。

「そこは上手く婚約解消できそうかどうかを聞いて欲しいものだわ」
「まぁ。マリアったらまだ諦めていないの? あのこわ~いスタンフィールド公爵に叱られても懲りないだなんて、拗らせたお兄様っ子の精神力って逞しいのね」

 クスクスと笑うのはランヴェリー侯爵家の三女シルヴィーだ。深窓の令嬢らしい淑やかな外見に反して毒舌なシルヴィーを、ライラが嗜める。

「いいじゃない。来年の今ごろは政略結婚に屈しているでしょうけど、結婚に夢見ていられる間は恋に恋するのが乙女のあるべき姿だわ」

 キラキラと瞳を輝かせるライラは現実主義なのか夢見がちなのか、長い付き合いでもよくわからない。

「恋といえば、ロバート様は恋多き男性と聞いたことがあるけれど。そこのところはどうなの? 半年ほど前に歌姫と噂になったことがあるでしょう? その方と今も続いているかもしれなくてよ。きちんと確かめたの?」
「あら? あたしの記憶だとその頃ならお付き合いしていたのは銀行家の娘だったはずよ。シルヴィーのお話が本当なら二股でもかけていたのかしら」
「まぁ。それなら今はマリアも含めて三股もあり得るわ」
「関係を清算していなければ、そうなるわよね。どうなの、マリア。血で血を洗う女の争いがお目にかかれたりする?」
「悪女の毒牙にかかる歌姫の図は面白そうよね。マリアなら計算高いと噂のあの方とも対等に渡り合えそうだわ」

 好き勝手に妄想を膨らませていく二人に、マリアヴェルは嘆息する。

「盛り上がっているところ申し訳ないけど、ロバート様の女性関係なんて知らないわ。婚約後はまともに顔を合わせていないんだもの。ロバート様からのお誘いは徹底して断っているから」

 婚約の話を正式に進めるため、ロバートの両親とアルフレッドを交えてした食事が、最も長く彼と過ごした時間になる。それ以来、婚約者殿と一緒に過ごした時間はほとんどない。三日前に約束もなしに侯爵邸を訪ねて来たけれど、会話が弾まないことに気まずさを感じたのか一時間と経たずに帰ってしまった。マリアヴェルが素っ気ない態度を貫いたせいだ。

「いくら婚約解消が前提でも、そんな態度を取っていてはいざ解消になった時、マリアに非が生じてしまうわよ?」
「ライラの言う通りよ。婚約解消は穏便に、付け込まれる隙は与えない、がマリアのモットーではなかったの?」
「わたしだって、最初はそのつもりだったわ……」

 叔父の痺れが切れた直後だったから、しばらくは従順な婚約者を演じるのがいいかもしれない、と考えていたのだ。だからアルフレッドに新しい縁談の話をされた時も不満はこぼさなかったし、素直に受け入れた。

 ところが、

「でも、お兄様がロバート様とは結婚するまで親しくするなって言うんだもの」

 アルフレッドは新しい婚約者の名前を告げた際、女性関係でだらしない噂が多い男だから結婚するまでは十分に距離を取るんだよ、と言ってきたのだ。

 心配そうな顔と真剣な口調で言われれば、マリアヴェルは従うしかない。ロバートから夜会に誘うカードが送られて来た時も、アルフレッドはエスコートは僕がするから会場で落ち合えばいいんじゃないかな、と口を挟んできたくらいだ。義兄は心底、マリアヴェルとロバートを二人きりにさせたくないみたいだった。

「女性との噂が多い方だから、万が一、を心配していらっしゃるのかしらね」

 ライラが首を捻ると、シルヴィーが訝しげに眉を顰めた。

「侯爵は昔からマリアを可愛がっていらっしゃるもの。結婚相手は誠実な方を選ぶと思っていたのに、ロバート様との婚約を許すだなんて……。あんなに浮き名を流してらした殿方でも、遊び相手じゃ済まない侯爵令嬢との婚約なら心を入れ替えるとお考えなのかしら? 男前ではあるもの。見栄えを重視したのかもしれないわ」
「マリアの悪評が広まり過ぎて選り好みできなくなった、なんて可能性もあるわよ」

 これまでとは毛色の違う婚約者に、二人も疑問を感じているみたいだ。腑に落ちない点があるのはマリアヴェルも同じで。

 だからこそ、アルフレッドの言いつけはしっかり守らなくては、と思うのだ。


◆◆◆◇◆◇◆◆◆


 お茶会の翌日、義兄の出仕を見送ったマリアヴェルは、そのまま書庫に向かった。今日は午後から語学の家庭教師がやってくるので、辞書を用意しておく必要があるのだ。

「ライラたちは冗談のつもりだったのでしょうけど、ロバート様に意中の女性がいらっしゃるなら話が早くて助かるのに……。でも、身分違いなら結婚相手にはならないのかしら」

 噂になった女性との関係が続いていたとしても、マリアヴェルと結婚して浮気するのが現実的だろう。男爵家の立場を思えば、侯爵家との縁談を破談にするのは避けたいはず。男爵家にとっては良縁だからこそ、破談のためにはそれなりの材料が必要になる。ただ、あまりにも早く破談を成功させてしまうと叔父に何を言われるかわからない。

 動くべきか、慎重に機会を窺うべきか、マリアヴェルは決断できずにいた。

 これまでの婚約は、パウエル伯爵との十一ヶ月が最長期間だ。しかし、マリアヴェルはあと一年も経たずに結婚が可能な年となってしまう。婚約関係が円満であれば誕生日を迎えてすぐに結婚、なんてこともあり得るだけに、長期戦は禁物だった。やはり、今の内に目処を立てておく必要はあるだろう。

 紙とインクの独特な匂いが漂う書庫で、背表紙を順に目で追っていたマリアヴェルはあら、と目を瞬かせた。いつもの場所に、目的のイスシエール語の辞書がなかったのだ。

 使用人が移動させてしまったのかしら、と首を捻りながら近くの棚を上から下まで確認しても、目的の本は見つからない。

「お嬢様? 何かお探しですか?」

 声をかけてきたのは初老の執事だった。書庫の扉が開いていることに気づき、右往左往するマリアヴェルを見つけたのだろう。状況を説明すると、

「それでしたら、昨夜アルフレッド様が書斎で利用されてそのままかと」
「お兄様が? 几帳面なお兄様が使ったものをそのままだなんて珍しいわ」

 マリアヴェルの感想に執事は苦笑する。礼を告げてアルフレッドの書斎を訪ねると、目的の辞書は執務机に置かれていた。見つかったことに安堵したマリアヴェルはすぐに目を丸くする。

「お兄様ったら、不用心だわ……」

 机に置かれていたのは辞書だけではなかった。二枚の紙が無造作に放置されていて、それは義兄の仕事に関する調査書だった。いけないと思いつつも好奇心に抗いきれず、マリアヴェルは紙を手に取った。

 このところ義兄は忙しくて早朝から深夜まで王宮に拘束されている。先週起きた公爵令嬢の誘拐事件に関する調査を任されていることはアルフレッド自身から聞いていたので、一目でその事件に関するものだとわかった。

 調査書には事件に関わっているとみられるオズボーン侯爵家の内情が事細かに記されていた。オズボーン侯爵が莫大な借金を抱えていること。返済のため娘のクリスティーナに資産家の男と付き合わせ、貢がせる計画を立てている。などなど。
 二枚目は報告書になっていて、証拠がないため侯爵家はしばらく泳がせるなんてことが書いてあった。

 どう考えてもマリアヴェルの目に触れていい代物ではない。うっかりでは済まないアルフレッドのやらかし――だけれど。

 いつも微笑んでいる義兄はおっとりしているように見えはするが、うっかり、なんてやらかしはあり得ない人だった。

「よく考えたらお兄様はイスシエール語が堪能だもの。辞書なんて使わないわ」

 イスシエール語を公用語とした隣国アストラルはこの国の友好国一番手。将来外交を任される可能性も視野に入れて、アルフレッドは幼少の頃からみっちりイスシエール語を仕込まれている。今更辞書を必要とする場面は想像し難い上に、翌日マリアヴェルが使うとわかっているのだから書庫に戻さないのはアルフレッドらしからぬ行為。わざと書斎に置いておいたと考えるのが自然に思えた。

 ――何のために? 

 この調査書をマリアヴェルの目に触れさせたかった。そうとしか考えられない。

「……もしかして、お兄様はわたしにロバート様との婚約を解消させたいのかしら?」

 マリアヴェルの優秀な頭脳は調査書の内容が利用できるという結論をとっくに導き出している。ただ、思い付いた手段はこれまでと異なってかなり過激だ。そこまでのことをして問題ないかどうか、ロバートという人間のことをしっかりと調べ上げる必要がある。尤も、アルフレッドが望んでいるのであれば問題はなさそうだが。

 でも、ロバートとの婚約解消に助け舟を出してアルフレッドにどんな得があるのだろう。婚約の解消を成功させることを前提としていたから、軽薄なロバートを婚約者にしたのだろうか。

「わたしが、叔父様のことでお兄様に謝ったから……? でも、それだけのためにここまでするかしら……」

 しばらく考え込んでいたマリアヴェルだけれど、結局、答えは出なかった。アルフレッドの意図のすべてを読み解くには至っていなさそうだが、利用できるものを利用しない手はなく――それからひと月と少しで、ロバートとの婚約は問題なく解消できてしまったのだった。
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