夫のために戦場で死んだ私の願い事

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34. 思い出を辿って

​ケインが登城している昼下がり、離れの裏口から音もなくジルが姿を現した。

彼の表情には、主君を欺き続けていることへの深い疲労と、カーミラへの消えない贖罪の念が刻まれている。

​「ミラ様、お呼びでしょうか。……ケイン様に知られれば、私は今度こそ……」

​「わかっているわ、ジル。でも、このままではケインは本当に壊れてしまう。彼を元の、光の中にいた頃の彼に戻したいの。……そのためには、貴方の協力が必要なの」

​カーミラはジルの目を見つめ、静かに、けれど固い決意を込めて告げた。

​「私を、ここから連れ出して。……いえ、ケインと一緒に、街へ出かける手助けをしてほしいの」

​ジルは息を呑んだ。「それはあまりに危険です。もし貴女が再び姿を消そうとしていると思えば、ケイン様は……」
​「逃げたりしないわ。……ただ、彼と思い出を辿りたいの。まだ私たちが、ただの『最高の友達』だった頃の記憶を」

​カーミラの計画は、かつて二人で変装してはじめて街へ忍び込み、庶民に混じって食べたあの「串焼き」をもう一度食べに行くことだった。立場も、執着も、偽りの死もなかったあの日の空気。それを彼に思い出させることが、歪んだ歯車を正す第一歩だと彼女は信じていた。


​数日後。

ジルの根回しにより、ケインは「視察の予行」という名目で、極秘に離れからカーミラを連れ出すことに同意した。

​「本当に行くの?そんなに欲しいものがあるなら買いに行かせるし、カーミラはここで…」

​ケインは不安げに、変装用の粗末なフードを被ったカーミラの肩を抱いた。

その指先は、今にも彼女が消えてしまうのではないかと恐れるように震えている。

​「大丈夫よ、ケイン。今日は『公爵令嬢』でも『亡霊』でもない、ただの私として、貴方の隣を歩きたいの。……行きましょう?」

​カーミラが優しく彼の手を握ると、ケインは魔法にかけられたように頷いた。

​活気に満ちた市場の喧騒。

漂ってくる香ばしい肉の焼ける匂い。

二人は記憶を頼りに、あの時と同じ小さな露店の前に立った。

​「これよ、ケイン。覚えてる? 貴方、はじめて食べた時に『意外と悪くない』って、貴族らしい顔で言ったのよ」

​カーミラは笑いながら、焼きたての串焼きを二本買った。
一本をケインに差し出すと、彼は戸惑いながらもそれを受け取り、一口かじった。

​「……ああ。そうだ。あの時、君は令嬢なのに躊躇なくかじりついて驚いたんだよ」

​ケインの瞳に、ほんの一瞬懐かしむような温かな光が宿った。

​「ケイン。あの頃の私たちは、お互いが幸せであることだけを願っていたわ。……今の貴方は、私を閉じ込めることで自分を守ろうとしている。でも、そんなのケインじゃない。私の愛したケインは、もっとずっと、自由で誇り高い人だったはずよ」

​人混みの片隅で、カーミラはまっすぐに彼を見つめた。

​「私を檻に入れることでしか繋ぎ止められないと思わないで。私は、ここにいるわ。逃げない。……だから、もう一度私と対等な関係に戻ってくれないかしら? 貴方が自分自身を取り戻してくれるなら、私はどこへも行かないと約束するわ」

​ケインは串焼きを持ったまま、立ち尽くした。

周囲の騒がしさが遠のき、二人の間に、かつての眩しい日々が、幻のように、けれど確かに蘇り始めていた。

「……ケイン。私の愛したケインは、そんなふうに誰かを縛り付けて、自分を追い込むような人じゃないわ」

​賑わう市場の喧騒の中、私の言葉にケインがぴたりと動きを止めた。

手に持った串焼きから立ち昇る湯気が、二人の間に壁を作る。ケインは自嘲気味に口角を歪め、視線を地面に落とした。

​「……『愛した』? 皮肉だね。君が俺を愛してくれたことなんて、一度もなかったじゃないか」

​その声は震えていた。怒りよりも、もっと深い絶望に根ざした響き。

​「君にとって、俺は『最高の友達』でしかなかった。だからあの日、あんな手紙一つで俺を捨てて、死を偽装してまで逃げたんだろう? ……愛しているなら、隣にいて欲しかった。俺を頼って欲しかった。君の愛なんて、俺には一度も届かなかったんだよ」
​「……違う。そうじゃないの」

​私は、彼の旅装束の袖を強く掴んだ。
胸の奥に閉じ込めていた、前世から続くあまりにも重い感情が溢れ出す。

​(言えない。貴方を守るために一度死んで、別の人生を選ぼうとしたなんて。貴方が幸せになる未来を願って、貴方を捨てたなんて……)

​でも、今伝えなければ、私たちは一生この暗い檻の中で、お互いを削り合いながら生きていくことになる。

​「ケイン……。貴方が私を好きになるより、ずっと、ずっと前から、私は貴方のことが好きだったのよ」

​ケインが弾かれたように顔を上げた。瞳が、驚愕に揺れる。

​「……え?」
​「貴方を失うのが、怖くてたまらなかった。貴方の隣にいることで、貴方を不幸にしてしまうんじゃないか。貴方の未来を奪ってしまうんじゃないか。……そう思うと、足がすくんで、息ができなくなった。だから、逃げたの。貴方を心から愛していたからこそ、壊してしまいそうで怖くて…」

​心の中では、回帰前の貴方の背中を、そしてあの日死んでいった貴方の絶望を叫んでいた。

私は貴方を二度も愛し、二度も、失う恐怖に負けた臆病者だ。

​「……馬鹿な。そんな理由で……」
​「馬鹿よね。本当に、救いようがないほど。……でも、今の貴方を見て、私は後悔しているわ。貴方を守りたかったのに、結果として貴方の心から光を奪ってしまった」

​私は一歩踏み出し、彼の手を自分の頬に寄せた。農園での暮らしで少し荒れてしまった私の肌に、ケインの指先が触れる。

​「お願い、ケイン。もう一度、私を見て。私も貴方を見捨てないわ」

​ケインの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、私の手の甲に落ちた。

執着という名の鎧が、その涙と一緒に少しずつ溶け出していく。

​「……カーミラ。君は……君はいつも、俺の想像もしないところで、一人で苦しんでいるんだな」

​ケインは串焼きを置くと、人目も憚らず、私を強く、けれど壊れ物を慈しむような優しさで抱きしめた。

その腕の温もりは、檻の冷たさではなく、かつて私たちが信じていた「絆」の温かさだった。
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