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そして、数日後の夜半。
深く寝入っていたエレナは、乱暴に扉を開ける音で目を覚ました。
――何?
上半身を起こして視線を向けると、そこにはシャツを着崩した男がひとり、扉にもたれかかるようにして立っていた。
「アーノルド?」
エレナは訝しげに夫の名を呼んだ。
廊下の明かりに目を瞬かせてから、もう一度視線を向ける。やはり間違いない、彼はアーノルドだ。だが、どうも様子がおかしい。
アーノルドは洒脱な男で、こんな風によれたシャツを着るなど、普段なら絶対にしない。また優雅さを好むから、夜分にこんな風に”余所の”寝室に押し入るような粗野な振る舞いもしない。彼に愛人の子がいると発覚してから、二人の寝室はずっと別だったのだから。
そもそも彼は「しばらく家を空ける」と言ってからずっと留守していた。それが、こんな夜更けに連絡もなく帰ってくるなんて。
「……そう、帰ってきたのね。こんな遅い時間にいったい何のっ」
とりあえず、深夜に起こされた腹いせに嫌味のひとつでも言ってやろうと口を開いたが、最後まで言い切ることは出来なかった。
アーノルドがつかつかと大股にこちらに歩み寄り、エレナの肩を乱暴に掴んだからだ。
「――いやッ」
酒の匂いがする――、エレナは咄嗟に彼の手を振り払った。
そのままベッドの柵まで後ずさり、自分の肩を両手で抱きしめる。
「なんのつもり!」
「なにがだ! オレはお前の夫だろう! オレは、お前を好きな時に抱く権利がある! 違うか!」
その乱暴な物言いに、エレナはびくっと肩を震わせた。
どんな相手でも、目の前で怒鳴られるのは単純に怖い。
――なによ……。
まさか彼がこんな乱暴なことをするとは思わなかった。
アーノルドは女にだらしがなく、誠実さのかけらもないが、これまでエレナに怒鳴ったことは一度も無い。心のなかではエレナのことを疎ましく思いつつも、結局は頭を下げてこちらの機嫌をとってくる。アーノルドは、いつもそういう男だった。
それがなぜ今日は――、酒に酔っているからか。なにがあって、自分を失うまで酒を飲んだのか。
「ああ、そう……」
エレナは、ふと思い至って鼻で笑った。
「女にフラれたのね?」
確信を持って訊ねると、アーノルドがはっきりと顔を引きつらせた。
その瞬間、エレナはえづくような不快感を感じ、それまで感じていた恐怖も忘れて笑い声を上げた。
「女にフラれて家を追い出され、ヤケになって酒を飲んで、腹いせに普段は抱きたいとも思わない妻に迫っているのよ! なんて矜持の無い男なの! 滑稽よ、あなた!」
「黙れ!」
ガッと強く肩を掴まれ、エレナは反射的に彼の頬を平手で叩いた。
「黙るのはあなたよ! 酔って乱暴をするなんて、そこまで最低な男だとは思わなかったわ!」
「うるさい! オレは、お前の夫だ!」
「夫らしいことなど、何一つしていないくせに!」
吐き捨てると、アーノルドはカッとした様子でエレナを強引にベッドへ押し倒した。
考えるより早く、その腹を思い切り蹴り上げる。
アーノルドが「うっ」と唸るのを遮るように、エレナは声を荒げた。
「やめて! 大っ嫌いよ、あなたなんか!」
「黙れと言っているだろう!」
「私を怒らせていいの!? どうせ、お父さまに頭が上がらないくせに!」
父のことを出すと、アーノルドが一瞬わかりすやく怯んだ。
エレナはおかしくなって、更に言葉を続けた。
「あなたの愛人の子供をどうするかだって、私が決めるのよ! 私が! 分かったらもう二度と、私に偉そうにしないで頂戴!」
そう言った瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
彼に平手で叩かれたのだ。それに気付くより早く、アーノルドが叫んだ。
「うるさい! 黙れ、黙れ! 誰がお前みたいな女と結婚したいと思うものか!」
ハッと息を飲み、アーノルドを見上げる。
彼は目を血走らせてエレナを睨み付けていた。
「美しくも無ければ、可愛げもない! 高慢で、すぐに他人を見下す! お前のような女となんか、オレだって結婚したくはなかった!」
エレナは――、すぐに何も言葉が出ず、ただ嗚咽を漏らした。
ただ両目から涙を流し、彼を睨み付けることすら出来ず、顔をそらす。
最低な気分だった。最低で、最悪で、悔しくて――、惨めだ。
分かっている。分かっていた。アーノルドが自分との結婚を望んでいなかったことは、よく分かっていた。だけど……。
「嫌いっ、嫌いよ……! あ、あなたなんか……!」
嗚咽まじりに言えば、アーノルドはハッと我に返ったように、エレナを押さえつけていた力を緩めた。エレナはその隙を逃さず、もう一度彼の腹を蹴り上げてベッドから逃げ出すと、寝間着のまま部屋から飛び出した。
夫婦の喧嘩に気付いているのかいないのか、宿直の使用人は誰も出てこない。その事にほっとしながら、エレナは足早に廊下を進んだ。
どこでもいい。アーノルドのいない所へ行きたかった。
「エレナ!」
だが少し走った所で、正気に戻ったらしいアーノルドが追いかけてくる声がした。
エレナは慌てて階段を駆け下りると、屋敷の裏口から庭に飛び出した。
外に出るとうっすらと小雨が降っているの気付いたが、屋敷に戻ってアーノルドに見つかるのがイヤで、エレナは庭を奥へと進んだ。当然辺りは真っ暗だが、少しすると目も慣れて、生垣にはぶつからずに歩けた。
トマと初めて出会った場所を通り抜ける。
もちろん今はそこにトマはおらず、エレナは軽く鼻を啜った。
――雨が。
頬に当たる雨が強くなってきたのに気付いて空を仰ぐ。
厚い雲に覆われた夜空には星ひとつない。
エレナはさらに最悪な気分になって、感情にまかせて「ああ!」と声を荒げ、その場で地団駄を踏んだ。流れる涙を拭い、頬に張り付いた髪を指で払って、さらに進む。もう少し進めば納屋がある。とりあえずそこで雨を凌ぎ、気持ちを整えてから、屋敷に戻るなり、そこで一晩を過ごすなり考えようと思った。
だが納屋に着き、扉を少し開けた所でエレナはびくっと肩を震わせた。
中から「誰?」と、男の声が聞こえてきたからだ。
――誰かいるの?
まさか強盗だろうか。エレナは咄嗟に逃げだそうとしたが、さらに続いた「誰ですか?」という声に動きを止めた。その声に聞き覚えがあると気付いたからである。
「……トマ?」
訊ねると、中にいる男が驚いた様子でこちらに駆け寄ってきた。
「まさか、奥さまですか?」
深く寝入っていたエレナは、乱暴に扉を開ける音で目を覚ました。
――何?
上半身を起こして視線を向けると、そこにはシャツを着崩した男がひとり、扉にもたれかかるようにして立っていた。
「アーノルド?」
エレナは訝しげに夫の名を呼んだ。
廊下の明かりに目を瞬かせてから、もう一度視線を向ける。やはり間違いない、彼はアーノルドだ。だが、どうも様子がおかしい。
アーノルドは洒脱な男で、こんな風によれたシャツを着るなど、普段なら絶対にしない。また優雅さを好むから、夜分にこんな風に”余所の”寝室に押し入るような粗野な振る舞いもしない。彼に愛人の子がいると発覚してから、二人の寝室はずっと別だったのだから。
そもそも彼は「しばらく家を空ける」と言ってからずっと留守していた。それが、こんな夜更けに連絡もなく帰ってくるなんて。
「……そう、帰ってきたのね。こんな遅い時間にいったい何のっ」
とりあえず、深夜に起こされた腹いせに嫌味のひとつでも言ってやろうと口を開いたが、最後まで言い切ることは出来なかった。
アーノルドがつかつかと大股にこちらに歩み寄り、エレナの肩を乱暴に掴んだからだ。
「――いやッ」
酒の匂いがする――、エレナは咄嗟に彼の手を振り払った。
そのままベッドの柵まで後ずさり、自分の肩を両手で抱きしめる。
「なんのつもり!」
「なにがだ! オレはお前の夫だろう! オレは、お前を好きな時に抱く権利がある! 違うか!」
その乱暴な物言いに、エレナはびくっと肩を震わせた。
どんな相手でも、目の前で怒鳴られるのは単純に怖い。
――なによ……。
まさか彼がこんな乱暴なことをするとは思わなかった。
アーノルドは女にだらしがなく、誠実さのかけらもないが、これまでエレナに怒鳴ったことは一度も無い。心のなかではエレナのことを疎ましく思いつつも、結局は頭を下げてこちらの機嫌をとってくる。アーノルドは、いつもそういう男だった。
それがなぜ今日は――、酒に酔っているからか。なにがあって、自分を失うまで酒を飲んだのか。
「ああ、そう……」
エレナは、ふと思い至って鼻で笑った。
「女にフラれたのね?」
確信を持って訊ねると、アーノルドがはっきりと顔を引きつらせた。
その瞬間、エレナはえづくような不快感を感じ、それまで感じていた恐怖も忘れて笑い声を上げた。
「女にフラれて家を追い出され、ヤケになって酒を飲んで、腹いせに普段は抱きたいとも思わない妻に迫っているのよ! なんて矜持の無い男なの! 滑稽よ、あなた!」
「黙れ!」
ガッと強く肩を掴まれ、エレナは反射的に彼の頬を平手で叩いた。
「黙るのはあなたよ! 酔って乱暴をするなんて、そこまで最低な男だとは思わなかったわ!」
「うるさい! オレは、お前の夫だ!」
「夫らしいことなど、何一つしていないくせに!」
吐き捨てると、アーノルドはカッとした様子でエレナを強引にベッドへ押し倒した。
考えるより早く、その腹を思い切り蹴り上げる。
アーノルドが「うっ」と唸るのを遮るように、エレナは声を荒げた。
「やめて! 大っ嫌いよ、あなたなんか!」
「黙れと言っているだろう!」
「私を怒らせていいの!? どうせ、お父さまに頭が上がらないくせに!」
父のことを出すと、アーノルドが一瞬わかりすやく怯んだ。
エレナはおかしくなって、更に言葉を続けた。
「あなたの愛人の子供をどうするかだって、私が決めるのよ! 私が! 分かったらもう二度と、私に偉そうにしないで頂戴!」
そう言った瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
彼に平手で叩かれたのだ。それに気付くより早く、アーノルドが叫んだ。
「うるさい! 黙れ、黙れ! 誰がお前みたいな女と結婚したいと思うものか!」
ハッと息を飲み、アーノルドを見上げる。
彼は目を血走らせてエレナを睨み付けていた。
「美しくも無ければ、可愛げもない! 高慢で、すぐに他人を見下す! お前のような女となんか、オレだって結婚したくはなかった!」
エレナは――、すぐに何も言葉が出ず、ただ嗚咽を漏らした。
ただ両目から涙を流し、彼を睨み付けることすら出来ず、顔をそらす。
最低な気分だった。最低で、最悪で、悔しくて――、惨めだ。
分かっている。分かっていた。アーノルドが自分との結婚を望んでいなかったことは、よく分かっていた。だけど……。
「嫌いっ、嫌いよ……! あ、あなたなんか……!」
嗚咽まじりに言えば、アーノルドはハッと我に返ったように、エレナを押さえつけていた力を緩めた。エレナはその隙を逃さず、もう一度彼の腹を蹴り上げてベッドから逃げ出すと、寝間着のまま部屋から飛び出した。
夫婦の喧嘩に気付いているのかいないのか、宿直の使用人は誰も出てこない。その事にほっとしながら、エレナは足早に廊下を進んだ。
どこでもいい。アーノルドのいない所へ行きたかった。
「エレナ!」
だが少し走った所で、正気に戻ったらしいアーノルドが追いかけてくる声がした。
エレナは慌てて階段を駆け下りると、屋敷の裏口から庭に飛び出した。
外に出るとうっすらと小雨が降っているの気付いたが、屋敷に戻ってアーノルドに見つかるのがイヤで、エレナは庭を奥へと進んだ。当然辺りは真っ暗だが、少しすると目も慣れて、生垣にはぶつからずに歩けた。
トマと初めて出会った場所を通り抜ける。
もちろん今はそこにトマはおらず、エレナは軽く鼻を啜った。
――雨が。
頬に当たる雨が強くなってきたのに気付いて空を仰ぐ。
厚い雲に覆われた夜空には星ひとつない。
エレナはさらに最悪な気分になって、感情にまかせて「ああ!」と声を荒げ、その場で地団駄を踏んだ。流れる涙を拭い、頬に張り付いた髪を指で払って、さらに進む。もう少し進めば納屋がある。とりあえずそこで雨を凌ぎ、気持ちを整えてから、屋敷に戻るなり、そこで一晩を過ごすなり考えようと思った。
だが納屋に着き、扉を少し開けた所でエレナはびくっと肩を震わせた。
中から「誰?」と、男の声が聞こえてきたからだ。
――誰かいるの?
まさか強盗だろうか。エレナは咄嗟に逃げだそうとしたが、さらに続いた「誰ですか?」という声に動きを止めた。その声に聞き覚えがあると気付いたからである。
「……トマ?」
訊ねると、中にいる男が驚いた様子でこちらに駆け寄ってきた。
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