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隔離地域協会 主席執行官ログ
英雄の子と覇王の胎動
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カイトは、強化外骨格「プロトタイプ・アトラス」の油圧シリンダーが上げる耳障りな駆動音を、心臓の鼓動よりも身近に感じていた。
「よし…。」
この一瞬。カイトは身体を動かそうとする瞬間に全ての痛みが重なる。
「_____くっ…!」
不意でもない待ち構えていた痛みで口元が歪む。
一歩踏み出すごとに、大腿部に打ち込まれたボルトが神経を直接削り取るような鈍痛を走らせる。
五年前、あの忌まわしき『第二次大規模脱走』で、突撃してきた変異狼の顎に両足の肉を削がれ、残った骨さえもウイルスによって腐朽し始めたあの日。
彼の人体としての歩行能力は、物理的にも絶望的にも死んだ。
「……っ」
カイトは、崩落しかかった高架下の影で足を止めた。額から流れる脂汗を、煤けた手袋で乱暴に拭う。
「パパ、大丈夫? また足が痛いの?」
トラックの助手席で、ハルトが身を乗り出して尋ねた。
十歳になったばかりの息子は、この死んだ街には不釣り合いなほど澄んだ瞳をしていた。
「ああ、何でもない。ただのギアの噛み合わせが悪いだけだ。……それよりハルト、そこから動くなよ。魔素計の針がイエローゾーンに入ってる。」
「わかった。」
ハルトは物わかりが良い子供だった。親の言いつけを必ず守る事に、カイトが回収屋を初めた頃の自分と重なる。あの時の自分はこうで無かったと。
「よし…じゃあ始めるぞ。」
カイトは手慣れた操作でスイッチを入れてサイドブレーキの横で寝ているレバーを上げる。鈍い物音を立てながら、トラックは荷台から不格好なクレーンを引き出た。
目の前のコンクリートの地面を抉って、横たわる「化石」のようなものにクレーンを合わせていく。
五年前、カイトが自らの足を犠牲にして食い止めた**『変異型巨大象』**の牙だ。かつては家屋を容易に粉砕したであろうその巨躯は、今やウィルスが結晶化した瑠璃色の岩石と化し、不気味に脈動を続けている。
「人類に貢献せし回収屋……。響きはいいが、要は死体洗いと変わらねえな」
カイトは自嘲気味に呟きながら、口の端を曲げる。
真田太陽が使っていたような、世界を焼き尽くすような業火ではない。列記とした世界に根ざす回収作業だ。
「……行くぞ。」
カイトが牙にクレーンのフックを引っ掛けて、ハルトもまた手慣れた動き数トンはある結晶体が、重力から解き放たれたようにふわりと浮き上がった。
だが重みは深く、クレーンが軋みを上げ、車体が傾く。ハルトは慌てて父を呼ぶ。
「パパ!!やっぱり重いよ!中古じゃ不安だっていったのに!」
「任せろ!!」
牙に向かって倒れていく車。カイトは牙に掴みかかって持ち上げる。すると車体は元の位置へと帰っていった。
「パパ……。」
外骨格が悲鳴を上げ、カイトの右足から血が滲む。それでも彼は歯を食いしばり、牙をトラックの荷台へと誘導した。
(これをもって帰れば…世界を元に戻せるんだ…。今だけ…今だけ身体が動いていればいい。)
これが、今の彼の戦いだ。
魔王を倒すためでも、英雄になるためでもない。世界を元に戻す為の闘いなのだ。
「回収品目、変異象の第一臼歯および主牙。純度六二%。……相変わらず、鮮度が落ちるまで放置していたのね」
新大阪駅・地下三階。人類の知恵が結集されたはずの研究所で、サフミは冷徹な眼差しを顕微鏡から離さなかった。
彼女の背後では、巨大な円柱状のタンクの中で、幾多の臓器が培養液に浸され、規則正しく脈動している。
その光景は、二十年前の「平和な浄水場」を知るカイトにとって、魔王城よりも禍々しく見えた。
「これでも必死に拾ってきたんだ。最近は壁の近くに『新しい種』がうろついてる。ハルトを連れての作業にゃ、これ以上は無理だ。」
「変異種だって新しい種よ。それに協会の仕事にハルトくんを同行させてるのはアシスタント兼治療の為でしょ?」
「毒をもって毒を制す…だったな。」
隔離地域である大阪が、禍々しい変貌を遂げた頃からとある噂を耳にしていた。それはアレルギーだった。
サフミ女史が言うには、ウィルスが体内に入り込む事で起こる『喘息と赤い発疹』がハルトには顕著だと言う。新たな環境に身体を慣れさせる為の同行。
「…俺のせいか。」
「そうね。貴方は回収屋をしていたから、生まれる子供に影響がでるのは仕方のない事なのかもね。最近じゃ壁周辺の住民から同じ症状の報告も上がっている珍しい事じゃないわ。」
カイトは、サフミから渡された報酬確定通知をタブレットで確認した。数字は、確かに「特級回収屋」にふさわしい高額なものだ。
作業が終わってサフミはカイトに向き直ると、少し目をきらつかせていた。
「ハルト君……。カイトの血の中には、ウィルスに対する反応が顕著よ。これは人類が適応しようとしている証拠。親父さんのところでガラクタいじりをさせておくより、私の実験室でその動向を」
「二度と言うな」
カイトの声が、地下室の冷気を凍りつかせた。
「この子は俺みたいにはさせない。……ウィルスも、人類も、協会も関係ない、壁の向こう側の『まともな世界』へ、いつか送り出す」
「ふふ、父親らしい幻想ね。壁の外がまだ『まとも』だと信じているなんて」
サフミは挑戦的な笑みを浮かべ、カイトの外骨格からデータを転送し終えた。
「でも、忘れないで。あなたのその足を動かしているのは、私の技術。そしてあなたがハルト君に食べさせている肉は、魔王がもたらした災厄の副産物なのだから。」
カイトは何も答えず、ハルトの手を強く引いて部屋を出た。
背後に残るサフミの視線が、ハルトの項に焼き付くような感覚。
カイトは、自分の背中が以前より小さくなっているのではないかという錯覚に陥った。
トラックは、瓦礫の山を縫うようにして西成の旧市街へと向かう。
そこには、協会も畠中も手を出せない「治外法権」の工房がある。それが親父さんの工房だ。カイトにとっては実の父以上に、今の自分の窮状を理解してくれる唯一の理解者。
「パパ、サフミさんって……魔女なの?」
ハルトが不安げに尋ね、カイトはハンドルを握る手に力を込めた。
「……ああ、ある意味ではな。だが、あの人の言うことは聞かなくていい。お前はただ、親父さんのところで機械の直し方だけを教わってろ。いつか、この『足』がなくても歩ける未来を作るために」
カイトは、息子に嘘をついている。
本当は知っている。この世界で生まれた子供に、逃げ場などないことを。
だがそう言い聞かせなければ、自分は今、この痛む足でブレーキを踏み続けることができない。
トラックのヘッドライトが、薄暗い工房のシャッターを照らし出した。
そこには、鼻をつくオイルの匂いと、天司ミカが遺した「呪いのような希望」が、静かに彼らを待っていた。
トラックのタイヤが半ば結晶化したアスファルトを噛み、鈍い音を立てる。
帰り道、カイトは最短ルートである「新御堂筋」を避け、あえて魔素濃度の高い淀川沿いの裏道を走らせていた。
協会の検問を避け、親父さんから預かった「表に出せない試作部品」を隠し通すためだ。
「……ッ、ハルト。耳を塞げ」
カイトの耳にかけたイヤホン型アシスタントギア「キャッツイヤー」が何かを検知して警告振動を発した。
前方の廃ビル群。かつては高級マンションだったであろう、蔦に覆われた骸のような建物の合間から紫色の霧を切り裂いて、金属がぶつかり合う激しい音と、悲鳴が聞こえてきた。
「向かうしかないか。」
音を頼りに車をすべらせて、路地の方へと向かう。
袋小路の脇道にある路地を見つけて車を進ませると、路地の奥で一人の青年が壁に追い詰められていた。
ハルトは不安そうな顔をしているが、カイトは冷静に状況を分析した。
(略奪者か…?最近噂すらなかったが…)
装備からして、非正規の「個人回収屋」だろうか。青年が必死に抱えているのは、旧式のポータブル・ナビゲーター——通称「登山ログ」だ。
その青年を囲んでいたのは、三人の「影」だった。
漆黒のセラミック複合装甲。光を一切反射しないマットな塗装。そして、顔を覆うフルフェイス・バイザー。
「……なっ!?」
カイトの息が止まる。
そのシルエット、無駄のない重心移動。20年前、浄水場で師匠・真田太陽から聞いていた「謎の特殊部隊」そのものだった。
「ログを渡せ。泣きながら息を吸うことすら後悔させるぞ。」
合成音声のような、高低差のない冷酷な声。その圧に負けないように青年は特殊部隊を睨みながら、登山ログを抱え込む。
そして一人が青年の腕を掴み、ナイフのような形状の端子を青年の登山ログへ叩き込もうとした。
「そこまでだ、黒い幽霊どもッ!」
カイトはハルトをシートに押し込み、ドアを蹴破って飛び出した。
両足の強化外骨格がフルスロットルで駆動し、油圧ピストンが爆発的な音を立てる。
そしてカイトは空中でスカイフック石突を、兵士たちの足元へ向けて、極小プラズマ弾の威嚇射撃を見舞った。
「パパ!」
「車から出るなと言ったろ!」
着地と同時に響く右足の激痛を無視して踏み込んだ。
兵士たちは、驚くべき反射速度で散開した。一人は壁を垂直に駆け上がり、一人は低空を滑るようにして背後へ回る。その動きは人間というより、洗練された殺戮機械のそれだ。
「……被検体3908の随伴者。データとの整合性を確認。付属ギアは『旧世代』。」
リーダー格と思われる兵士が、バイザー越しにカイトを「鑑定」するように見据えた。その言葉に、カイトの脳裏に激しい怒りと、それ以上の恐怖が走る。
こいつら、20年前から何一つ変わっていない。時間が止まっているのか、それとも中身を入れ替えた「部品」に過ぎないのか。
「テメェら!ここで師匠の右腕のツケ、はらってもらうからなぁ!!」
カイトが引き金を引き、プラズマ弾が空気を震わせる。
だが、兵士たちは戦いを継続しなかった。一人が背中から高濃度の煙幕を散布する。
「……座標の収集は完了している。これ以上の交戦はリソースの無駄だ」
霧の中に、兵士たちの輪郭が溶けていく。
カイトはスカイフックで霧を吹き飛ばそうとしたが、右足の外骨格が突然、火花を散らしてロックした。
「ぐっ……、あああああッ!」
膝の関節部分が異常加熱し、カイトはその場に崩れ落ちる。
「パパ!」
ハルトが駆け寄り、カイトの肩を支える。
霧が晴れた時、そこには腰を抜かした青年と、静寂だけが残されていた。黒い兵士たちは、最初から存在しなかったかのように、完全に気配を消していた。
「……逃げられた、か」
カイトは拳を地面に叩きつけた。
自分は36歳になった。かつての師匠と同じ年齢になり、守るべき息子もいる。
だが、20年前の影を追うことすらできないほど、この「足」も、この「時代」も、ボロボロに朽ちている。自分への不甲斐なさを噛み締めるしかない。
「あの……、ありがとうございました。助かりました……」
青年が震える手で登山ログを抱え直し、カイトに頭を下げる。
カイトはそのログを一瞥した。それは回収屋がどこを歩き、何をしたかを記録するだけの代物だ。
カイトは、遠くそびえる「建物」を睨みつけた。あいつらは、まだ何かを狙っている。
そして、その準備が整ったとき、20年前のあの日以上の地獄が、今度はハルトたちの世代を襲う。そんな予感を感じ取っていた。
「……帰るぞ、ハルト。飯を食って、明日に備えなきゃならない」
カイトは息子に支えられながら、壊れた外骨格を引きずってトラックへと戻った。
夕闇が迫る隔離地域に、カイトの重い足音だけが虚しく響いていた。
カイトは昨夜の青年——名をリクという駆け出しの回収屋——を、親父さんの工房の奥にある隠し部屋に呼び出していた。
「……これ、見てください。カイトさん」
リクが差し出したのは、昨日、黒い特殊部隊が強奪しようとした旧式の登山ログだ。
「親父さんでしたか。すごい方ですね…僕が触ったときは全然動かなかったのに。」
画面はひび割れ、筐体の一部は変色しているが、親父さんの手によって最低限の修復が施されている。
埃とオイルの匂いが染み付いた、親父さんの工房の奥にある隠し部屋で、リクは緊張した面持ちでカイトの反応を待っていた。
「それ…お金目当てでダイブしてたら見つけて…そしたらあの人達が襲ってきたんです。」
「あいつらが狙ってたデータ…何が入ってんだ。」
カイトは機械油の匂いが染み付いた指先で、ひび割れた画面に触れた。このログが命懸けで守られた意味を、彼はまだ理解しきれていなかった。
「はい。でも、ただの地形データじゃないんです。僕、昨日……柴島の浄水場跡地の近く、あの『壁』に最も近い封鎖区域の端を歩いてたんです。」
リクの語り口はまるで懺悔のようだった。それはそうだ。
協会と自衛隊により、接近禁止令がなされている場所、近づけば現状禁固刑となる。
「協会の巡回ルートからも外れてて、滅多に回収屋も行かない場所なんですけど、そこにあった変異生物の残骸を調べてたら、このログが変なエラーを吐き出して……」
リクは震える手で端末を操作し、ログの波形を表示させる。その瞬間、カイトの眼が、一点に釘付けになった。
画面の端、ノイズの乱れが作る混沌の海の中に、規則正しいパルスが刻まれていた。
それはウィルスの濃度変化を示すものでも、電磁波の異常でもない。特定のアルゴリズムに基づく、暗号化されたバイタルサインの形式。
心臓の規則的な脈動。戦闘時のアドレナリンに呼応する波形。その全てがカイトにとって奇跡に等しい可能性だった。
だがそんな事を知る筈もないリクは、頭の上にハテナを作っている。
「な、何の話をしているんですか?」
「回収屋の3908の事だ。」
「カイト、お前……今、なんて言った」
傍らで古びたハンダごてを握り、試作型の中和弾の回路を調整していた親父さんが、手を止めて顔を上げる。
その表情はいつになく険しい。そして、その視線の奥には、カイトの記憶の奥底にしまい込まれていた「希望」のような光が宿っていた。
「いい加減にしろ。事ある事にいいよって。」
親父さんの声は、怒っているようでも、信じられないと言っているようでもなかった。ただ、深く、重い、過去を掘り返すような響き。
「でも親父さん、見てくれよ。この信号のパターン、太陽さんの『零式』が起動していた時の出力波形と一致する。ありえない……ありえない事が起きてるんだよ、」
カイトの脳裏に、20年前の光景がフラッシュバックする。胸の内に巣食った希望に心を支配された。
「落ち着け、カイト」
親父さんは重い足取りで歩み寄る。その表情は、どこか遠い過去を見つめているようだった。
「……ミカが昔言っていたことがある。『ウィルスは時間を食う』とな。あの日、真田が扉の向こう側へ飲み込まれたのだとしたら、そこは時間の概念が外の世界とは異なる場所だったのかもしれん。あるいは……」
親父さんの言葉が途切れる。
「……あるいは、あの黒い連中が、あいつを『生きたまま』回収していたとしたら……」
この時、カイトの全身に冷たい電流が走った。
昨夜の黒い兵士たちの言葉が、耳の奥で反響する。
——『被検体3908の随伴者か。データとの整合性を確認。対象は『旧世代』の残骸』
彼らはカイトを知っていた。そして、3908を「過去の死者」としてではなく、現在進行形の「被検体」として扱っている。
その言葉の裏に隠された、あまりにも残酷な真実。
所長は死んだのではなく、20年間、どこかで「利用」され続けていた。
「……あいつら、太陽さんをまだ利用してんのか」
カイトは拳を握りしめた。外骨格がカイトの感情に共鳴するように唸りを上げる。肉の足と機械の足が軋みを立てる。
二十年間、絶望という名の墓に蓋をして生きてきた。
ハルトを守るため、ただ生きるためだけに、師匠の死を「立派な最期だった」と自分に言い聞かせてきた。あの壮絶な最期を、誰もが賞賛する英雄的な行為だと信じてきた。
だが、もし彼がまだ、あの暗闇の向こう側で生きているのだとしたら。
あの黒い兵士たちの実験材料として、今もなお苦しんでいるのだとしたら。
「カイトさん……?」
リクが不安げに尋ねる。彼の顔は恐怖と困惑に染まっていた。
「そのログの信号……座標を追えば、場所は分かるのか」
「……柴島の地下だろうな、かつての送水管ルートの最深部だ。信号のタイムスタンプはその先にあるが場所までは…調べるしかないだろう。」
カイトは、迷うことなく外骨格のパワー設定を「戦闘モード」へと切り替えた。
膝の関節が火花を散らし、激しい痛みが全身を駆け抜けるが、今の彼にはその痛みさえも、自身の怒りを増幅させる燃料のように心地よかった。
「親父さん。ハルトを頼みます」
親父さんは深く頷くと、思い出したように作業台の奥に消えていき、無骨なケースを取り出した。
「本丸までのルートはダイブで探す。いつも通りの探索だな?」
「そのつもりです。」
「ならこれを試してくれ。データが欲しいんだ。」
中には、天司ミカが遺したの試作型が眠っている。
「ミカのやつが、お前のために作った『最後の一撃』だ。ウィルスで強化された相手に通常の弾丸は通じん。だが、これなら……一瞬だけ、奴らを『元に戻せる』」
親父さんの顔には複雑な感情が滲んでいた。
カイトは無言でそれを受け取った。重厚な銃身。通常の拳銃とは異なり、ウィルスを中和するための複雑な回路が組み込まれている。
「回収屋の仕事は、最後までやり遂げるのがルールだ。……二十年前の『やり残し』、今度こそ片付けてきますよ」
ハルトの寝顔を一度だけ脳裏に焼き付け、カイトは工房のシャッターを押し上げた。
外は、昨日よりもさらに深い紫色の霧が街を飲み込もうとしていた。視界は遮られ、ウィルスの濃度は危険域を指している。
その霧の向こうに、二十年間止まっていたカイトの時間(時計)が、再び動き出そうとする、激しい鼓動が聞こえていた。
カイトは、トラックの荷台に隠し持っていた、真田太陽の古いジャケットを羽織った。
煤けて破れているが、あの男の匂いが、確かに残っている。
左手の強化グローブで、ミカが作った「試作型」のグリップを握り締める。
「……待ってろ、太陽さん」
カイトは、死者の鼓動が響く地下深くへと、その鉄の足を向けた。
もう二度と、あの時のように、誰かの背中を見送ることはしない。
今度は、自分が迎えに行く番だ。
その先が、たとえどれほどの地獄であろうとも。
隔離地域協会(ACA)本部。地上三百メートルの天空に位置する、通称 全方位監視塔。
その最上階にある、窓のない一室で、二人が対峙していた。
室内を満たしているのは、無機質な空調の音と、壁一面に並んだ数千の監視モニターが発する電子の羽音だけだ。
「……面白いデータが届いたわよ、畠中総帥」
部屋の中央、ホログラム・ディスプレイを操作していたサフミが、冷ややかな声を響かせた。
デスクの向こう側、重厚な革張りの椅子に深く身を沈めているのは、畠中健一だ。
かつての野心的な一等陸佐は、今やこの国の実権を握る「協会」のトップとして、その威厳を全身に纏っている。
しかし、その眼光の奥には、権力を手に入れた者特有の焦燥が、澱のように溜まっていた。
「データだと? サフミ、今は定例報告の予定ではないはずだ。」
「ええ。提示報告なんかじゃなくて、あなたの『最大の懸念事項』に関することよ」
サフミが指先を動かすと、空間に一つの波形データが浮かび上がった。
それは、今朝カイトが親父さんの工房で目にしたものと同じ——**『被検体3908:真田太陽』**のバイタルパターンだった。
畠中の表情が、一瞬で凍りついた。
椅子から身を乗り出し、食い入るようにその波形を見つめる。
彼の呼吸がわずかに荒くなるのを、サフミは見逃さなかった。
「……ありえん。あの男は二十年前に消失した。扉の向こう側の高濃度魔素に焼かれ、分子レベルで分解されたはずだ。遺体どころか、細胞一つ残っていないと報告したのは貴様だろう、サフミ!」
「落ち着きなさい。当時の科学では、あれが妥当な結論だったわ。でも、今の私たちなら知っているはずよ。『扉』の向こう側が、単なる死の空間ではないことを」
サフミは優雅な所作でコーヒーカップを手に取り、言葉を継いだ。
「この信号が検知されたのは、柴島浄水場跡地の地下第五層……。協会の記録上では、崩落により埋没したことになっている区画。でも、実際には誰かがそこにアクセスし、メンテナンスを続けていた形跡がある。……心当たりはなくて?」
「……『例の部隊』か」
畠中が忌々しそうに吐き捨てた。
協会内部に存在する、畠中直属の部隊とは別に動く特務組織。その正体は、二十年前に真田太陽を襲撃し、彼の右腕を奪い去った「あの一団」の系譜だ。
彼らは畠中の命令を無視し、魔王の復活を望むかのように、秘密裏に研究を継続している疑いがある。
「あいつら、真田を『生かして』いたのか。二十年もの間、実験材料として……!」
「利用価値があったのよ。恐らくだけどね。……連中にとっては、魔王を現世へ完全に顕現させるための、生きたスペアキーのようなものね」
畠中は立ち上がり、窓のない壁に向かって歩き出した。
「もし真田が生きていることが公になれば、カイトが黙っていない。アイツが関わるとろくでもない事になる…。」
「手遅れよ。」
サフミがクスクスと、鈴の鳴るような声で笑った。
「既にカイトは動いているわ。……いえ、彼を動かしたのは私かもしれない。彼がリクという少年の登山ログを手に入れるよう、少しだけ情報の流れを操作したの」
「貴様……! 何を考えている! カイトをあの場所に送り込めば、何が起きるか分かっているのか!」
畠中が怒声と共にサフミの肩を掴む。しかし、サフミはその視線を逸らさず、冷徹な微笑を保ったままだった。
「分かっているわ。だからこそ、面白いのよ。……カイトが真田太陽と再会した時、果たして彼は『師匠』を救い出すのか。それとも、変わり果てたその姿を見て、自らトドメを刺すのか。……どちらにせよ、その瞬間に放出される絶大な感情のエネルギーは、私の『新世界』を完成させるための最後の触媒になる」
「狂っている……。サフミ、貴様は最初から真田もカイトも、ただの部品としか見ていないのか」
「あなただって同じでしょう? 畠中総帥。……あなたは彼らが守ったこの平和を、自分の独裁を維持するための道具に使った。私はそれを、人類の進化のための実験場に使っている。……五十歩百歩よ」
サフミは、畠中の手を静かに振り払った。
「カイトは今、柴島の地下へ向かっている。……もし彼が彼らを突破して真田に辿り着いたなら、その時はあなたも覚悟を決めなさい」
畠中は苦々しく奥歯を噛み締めた。
「……特殊部隊を動員する。カイト、影、そして真田……まとめて地下に埋めてくれる」
「無駄よ。今のカイトは、あなたの兵隊が対処できるレベルを超えている。……それに、彼には天司ミカの遺産があるわ。私たちが二十年間恐れてきた、あの『中和』の力がね」
二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。共に真田太陽を見送ったはずの二人は、今や互いに抜き差しならない殺意と打算を抱えながら、同じ部屋に立っている。
「……サフミ。一つだけ聞かせろ」
畠中が、絞り出すような声で言った。
「お前は、真田太陽に……生きていてほしいのか?」
サフミは、その問いにすぐには答えなかった。
彼女はモニターに映し出された、カイトのトラックが柴島へ向かう映像を見つめ、少しだけ目を細めた。
「……彼がもし、あの日のままの彼であるなら。……いいえ、そんな奇跡は科学には必要ないわ」
そう言って、サフミは全てのモニターを消した。暗闇の中、彼女の瞳だけが、魔素の影響で淡く紫に光っていた。
「よし…。」
この一瞬。カイトは身体を動かそうとする瞬間に全ての痛みが重なる。
「_____くっ…!」
不意でもない待ち構えていた痛みで口元が歪む。
一歩踏み出すごとに、大腿部に打ち込まれたボルトが神経を直接削り取るような鈍痛を走らせる。
五年前、あの忌まわしき『第二次大規模脱走』で、突撃してきた変異狼の顎に両足の肉を削がれ、残った骨さえもウイルスによって腐朽し始めたあの日。
彼の人体としての歩行能力は、物理的にも絶望的にも死んだ。
「……っ」
カイトは、崩落しかかった高架下の影で足を止めた。額から流れる脂汗を、煤けた手袋で乱暴に拭う。
「パパ、大丈夫? また足が痛いの?」
トラックの助手席で、ハルトが身を乗り出して尋ねた。
十歳になったばかりの息子は、この死んだ街には不釣り合いなほど澄んだ瞳をしていた。
「ああ、何でもない。ただのギアの噛み合わせが悪いだけだ。……それよりハルト、そこから動くなよ。魔素計の針がイエローゾーンに入ってる。」
「わかった。」
ハルトは物わかりが良い子供だった。親の言いつけを必ず守る事に、カイトが回収屋を初めた頃の自分と重なる。あの時の自分はこうで無かったと。
「よし…じゃあ始めるぞ。」
カイトは手慣れた操作でスイッチを入れてサイドブレーキの横で寝ているレバーを上げる。鈍い物音を立てながら、トラックは荷台から不格好なクレーンを引き出た。
目の前のコンクリートの地面を抉って、横たわる「化石」のようなものにクレーンを合わせていく。
五年前、カイトが自らの足を犠牲にして食い止めた**『変異型巨大象』**の牙だ。かつては家屋を容易に粉砕したであろうその巨躯は、今やウィルスが結晶化した瑠璃色の岩石と化し、不気味に脈動を続けている。
「人類に貢献せし回収屋……。響きはいいが、要は死体洗いと変わらねえな」
カイトは自嘲気味に呟きながら、口の端を曲げる。
真田太陽が使っていたような、世界を焼き尽くすような業火ではない。列記とした世界に根ざす回収作業だ。
「……行くぞ。」
カイトが牙にクレーンのフックを引っ掛けて、ハルトもまた手慣れた動き数トンはある結晶体が、重力から解き放たれたようにふわりと浮き上がった。
だが重みは深く、クレーンが軋みを上げ、車体が傾く。ハルトは慌てて父を呼ぶ。
「パパ!!やっぱり重いよ!中古じゃ不安だっていったのに!」
「任せろ!!」
牙に向かって倒れていく車。カイトは牙に掴みかかって持ち上げる。すると車体は元の位置へと帰っていった。
「パパ……。」
外骨格が悲鳴を上げ、カイトの右足から血が滲む。それでも彼は歯を食いしばり、牙をトラックの荷台へと誘導した。
(これをもって帰れば…世界を元に戻せるんだ…。今だけ…今だけ身体が動いていればいい。)
これが、今の彼の戦いだ。
魔王を倒すためでも、英雄になるためでもない。世界を元に戻す為の闘いなのだ。
「回収品目、変異象の第一臼歯および主牙。純度六二%。……相変わらず、鮮度が落ちるまで放置していたのね」
新大阪駅・地下三階。人類の知恵が結集されたはずの研究所で、サフミは冷徹な眼差しを顕微鏡から離さなかった。
彼女の背後では、巨大な円柱状のタンクの中で、幾多の臓器が培養液に浸され、規則正しく脈動している。
その光景は、二十年前の「平和な浄水場」を知るカイトにとって、魔王城よりも禍々しく見えた。
「これでも必死に拾ってきたんだ。最近は壁の近くに『新しい種』がうろついてる。ハルトを連れての作業にゃ、これ以上は無理だ。」
「変異種だって新しい種よ。それに協会の仕事にハルトくんを同行させてるのはアシスタント兼治療の為でしょ?」
「毒をもって毒を制す…だったな。」
隔離地域である大阪が、禍々しい変貌を遂げた頃からとある噂を耳にしていた。それはアレルギーだった。
サフミ女史が言うには、ウィルスが体内に入り込む事で起こる『喘息と赤い発疹』がハルトには顕著だと言う。新たな環境に身体を慣れさせる為の同行。
「…俺のせいか。」
「そうね。貴方は回収屋をしていたから、生まれる子供に影響がでるのは仕方のない事なのかもね。最近じゃ壁周辺の住民から同じ症状の報告も上がっている珍しい事じゃないわ。」
カイトは、サフミから渡された報酬確定通知をタブレットで確認した。数字は、確かに「特級回収屋」にふさわしい高額なものだ。
作業が終わってサフミはカイトに向き直ると、少し目をきらつかせていた。
「ハルト君……。カイトの血の中には、ウィルスに対する反応が顕著よ。これは人類が適応しようとしている証拠。親父さんのところでガラクタいじりをさせておくより、私の実験室でその動向を」
「二度と言うな」
カイトの声が、地下室の冷気を凍りつかせた。
「この子は俺みたいにはさせない。……ウィルスも、人類も、協会も関係ない、壁の向こう側の『まともな世界』へ、いつか送り出す」
「ふふ、父親らしい幻想ね。壁の外がまだ『まとも』だと信じているなんて」
サフミは挑戦的な笑みを浮かべ、カイトの外骨格からデータを転送し終えた。
「でも、忘れないで。あなたのその足を動かしているのは、私の技術。そしてあなたがハルト君に食べさせている肉は、魔王がもたらした災厄の副産物なのだから。」
カイトは何も答えず、ハルトの手を強く引いて部屋を出た。
背後に残るサフミの視線が、ハルトの項に焼き付くような感覚。
カイトは、自分の背中が以前より小さくなっているのではないかという錯覚に陥った。
トラックは、瓦礫の山を縫うようにして西成の旧市街へと向かう。
そこには、協会も畠中も手を出せない「治外法権」の工房がある。それが親父さんの工房だ。カイトにとっては実の父以上に、今の自分の窮状を理解してくれる唯一の理解者。
「パパ、サフミさんって……魔女なの?」
ハルトが不安げに尋ね、カイトはハンドルを握る手に力を込めた。
「……ああ、ある意味ではな。だが、あの人の言うことは聞かなくていい。お前はただ、親父さんのところで機械の直し方だけを教わってろ。いつか、この『足』がなくても歩ける未来を作るために」
カイトは、息子に嘘をついている。
本当は知っている。この世界で生まれた子供に、逃げ場などないことを。
だがそう言い聞かせなければ、自分は今、この痛む足でブレーキを踏み続けることができない。
トラックのヘッドライトが、薄暗い工房のシャッターを照らし出した。
そこには、鼻をつくオイルの匂いと、天司ミカが遺した「呪いのような希望」が、静かに彼らを待っていた。
トラックのタイヤが半ば結晶化したアスファルトを噛み、鈍い音を立てる。
帰り道、カイトは最短ルートである「新御堂筋」を避け、あえて魔素濃度の高い淀川沿いの裏道を走らせていた。
協会の検問を避け、親父さんから預かった「表に出せない試作部品」を隠し通すためだ。
「……ッ、ハルト。耳を塞げ」
カイトの耳にかけたイヤホン型アシスタントギア「キャッツイヤー」が何かを検知して警告振動を発した。
前方の廃ビル群。かつては高級マンションだったであろう、蔦に覆われた骸のような建物の合間から紫色の霧を切り裂いて、金属がぶつかり合う激しい音と、悲鳴が聞こえてきた。
「向かうしかないか。」
音を頼りに車をすべらせて、路地の方へと向かう。
袋小路の脇道にある路地を見つけて車を進ませると、路地の奥で一人の青年が壁に追い詰められていた。
ハルトは不安そうな顔をしているが、カイトは冷静に状況を分析した。
(略奪者か…?最近噂すらなかったが…)
装備からして、非正規の「個人回収屋」だろうか。青年が必死に抱えているのは、旧式のポータブル・ナビゲーター——通称「登山ログ」だ。
その青年を囲んでいたのは、三人の「影」だった。
漆黒のセラミック複合装甲。光を一切反射しないマットな塗装。そして、顔を覆うフルフェイス・バイザー。
「……なっ!?」
カイトの息が止まる。
そのシルエット、無駄のない重心移動。20年前、浄水場で師匠・真田太陽から聞いていた「謎の特殊部隊」そのものだった。
「ログを渡せ。泣きながら息を吸うことすら後悔させるぞ。」
合成音声のような、高低差のない冷酷な声。その圧に負けないように青年は特殊部隊を睨みながら、登山ログを抱え込む。
そして一人が青年の腕を掴み、ナイフのような形状の端子を青年の登山ログへ叩き込もうとした。
「そこまでだ、黒い幽霊どもッ!」
カイトはハルトをシートに押し込み、ドアを蹴破って飛び出した。
両足の強化外骨格がフルスロットルで駆動し、油圧ピストンが爆発的な音を立てる。
そしてカイトは空中でスカイフック石突を、兵士たちの足元へ向けて、極小プラズマ弾の威嚇射撃を見舞った。
「パパ!」
「車から出るなと言ったろ!」
着地と同時に響く右足の激痛を無視して踏み込んだ。
兵士たちは、驚くべき反射速度で散開した。一人は壁を垂直に駆け上がり、一人は低空を滑るようにして背後へ回る。その動きは人間というより、洗練された殺戮機械のそれだ。
「……被検体3908の随伴者。データとの整合性を確認。付属ギアは『旧世代』。」
リーダー格と思われる兵士が、バイザー越しにカイトを「鑑定」するように見据えた。その言葉に、カイトの脳裏に激しい怒りと、それ以上の恐怖が走る。
こいつら、20年前から何一つ変わっていない。時間が止まっているのか、それとも中身を入れ替えた「部品」に過ぎないのか。
「テメェら!ここで師匠の右腕のツケ、はらってもらうからなぁ!!」
カイトが引き金を引き、プラズマ弾が空気を震わせる。
だが、兵士たちは戦いを継続しなかった。一人が背中から高濃度の煙幕を散布する。
「……座標の収集は完了している。これ以上の交戦はリソースの無駄だ」
霧の中に、兵士たちの輪郭が溶けていく。
カイトはスカイフックで霧を吹き飛ばそうとしたが、右足の外骨格が突然、火花を散らしてロックした。
「ぐっ……、あああああッ!」
膝の関節部分が異常加熱し、カイトはその場に崩れ落ちる。
「パパ!」
ハルトが駆け寄り、カイトの肩を支える。
霧が晴れた時、そこには腰を抜かした青年と、静寂だけが残されていた。黒い兵士たちは、最初から存在しなかったかのように、完全に気配を消していた。
「……逃げられた、か」
カイトは拳を地面に叩きつけた。
自分は36歳になった。かつての師匠と同じ年齢になり、守るべき息子もいる。
だが、20年前の影を追うことすらできないほど、この「足」も、この「時代」も、ボロボロに朽ちている。自分への不甲斐なさを噛み締めるしかない。
「あの……、ありがとうございました。助かりました……」
青年が震える手で登山ログを抱え直し、カイトに頭を下げる。
カイトはそのログを一瞥した。それは回収屋がどこを歩き、何をしたかを記録するだけの代物だ。
カイトは、遠くそびえる「建物」を睨みつけた。あいつらは、まだ何かを狙っている。
そして、その準備が整ったとき、20年前のあの日以上の地獄が、今度はハルトたちの世代を襲う。そんな予感を感じ取っていた。
「……帰るぞ、ハルト。飯を食って、明日に備えなきゃならない」
カイトは息子に支えられながら、壊れた外骨格を引きずってトラックへと戻った。
夕闇が迫る隔離地域に、カイトの重い足音だけが虚しく響いていた。
カイトは昨夜の青年——名をリクという駆け出しの回収屋——を、親父さんの工房の奥にある隠し部屋に呼び出していた。
「……これ、見てください。カイトさん」
リクが差し出したのは、昨日、黒い特殊部隊が強奪しようとした旧式の登山ログだ。
「親父さんでしたか。すごい方ですね…僕が触ったときは全然動かなかったのに。」
画面はひび割れ、筐体の一部は変色しているが、親父さんの手によって最低限の修復が施されている。
埃とオイルの匂いが染み付いた、親父さんの工房の奥にある隠し部屋で、リクは緊張した面持ちでカイトの反応を待っていた。
「それ…お金目当てでダイブしてたら見つけて…そしたらあの人達が襲ってきたんです。」
「あいつらが狙ってたデータ…何が入ってんだ。」
カイトは機械油の匂いが染み付いた指先で、ひび割れた画面に触れた。このログが命懸けで守られた意味を、彼はまだ理解しきれていなかった。
「はい。でも、ただの地形データじゃないんです。僕、昨日……柴島の浄水場跡地の近く、あの『壁』に最も近い封鎖区域の端を歩いてたんです。」
リクの語り口はまるで懺悔のようだった。それはそうだ。
協会と自衛隊により、接近禁止令がなされている場所、近づけば現状禁固刑となる。
「協会の巡回ルートからも外れてて、滅多に回収屋も行かない場所なんですけど、そこにあった変異生物の残骸を調べてたら、このログが変なエラーを吐き出して……」
リクは震える手で端末を操作し、ログの波形を表示させる。その瞬間、カイトの眼が、一点に釘付けになった。
画面の端、ノイズの乱れが作る混沌の海の中に、規則正しいパルスが刻まれていた。
それはウィルスの濃度変化を示すものでも、電磁波の異常でもない。特定のアルゴリズムに基づく、暗号化されたバイタルサインの形式。
心臓の規則的な脈動。戦闘時のアドレナリンに呼応する波形。その全てがカイトにとって奇跡に等しい可能性だった。
だがそんな事を知る筈もないリクは、頭の上にハテナを作っている。
「な、何の話をしているんですか?」
「回収屋の3908の事だ。」
「カイト、お前……今、なんて言った」
傍らで古びたハンダごてを握り、試作型の中和弾の回路を調整していた親父さんが、手を止めて顔を上げる。
その表情はいつになく険しい。そして、その視線の奥には、カイトの記憶の奥底にしまい込まれていた「希望」のような光が宿っていた。
「いい加減にしろ。事ある事にいいよって。」
親父さんの声は、怒っているようでも、信じられないと言っているようでもなかった。ただ、深く、重い、過去を掘り返すような響き。
「でも親父さん、見てくれよ。この信号のパターン、太陽さんの『零式』が起動していた時の出力波形と一致する。ありえない……ありえない事が起きてるんだよ、」
カイトの脳裏に、20年前の光景がフラッシュバックする。胸の内に巣食った希望に心を支配された。
「落ち着け、カイト」
親父さんは重い足取りで歩み寄る。その表情は、どこか遠い過去を見つめているようだった。
「……ミカが昔言っていたことがある。『ウィルスは時間を食う』とな。あの日、真田が扉の向こう側へ飲み込まれたのだとしたら、そこは時間の概念が外の世界とは異なる場所だったのかもしれん。あるいは……」
親父さんの言葉が途切れる。
「……あるいは、あの黒い連中が、あいつを『生きたまま』回収していたとしたら……」
この時、カイトの全身に冷たい電流が走った。
昨夜の黒い兵士たちの言葉が、耳の奥で反響する。
——『被検体3908の随伴者か。データとの整合性を確認。対象は『旧世代』の残骸』
彼らはカイトを知っていた。そして、3908を「過去の死者」としてではなく、現在進行形の「被検体」として扱っている。
その言葉の裏に隠された、あまりにも残酷な真実。
所長は死んだのではなく、20年間、どこかで「利用」され続けていた。
「……あいつら、太陽さんをまだ利用してんのか」
カイトは拳を握りしめた。外骨格がカイトの感情に共鳴するように唸りを上げる。肉の足と機械の足が軋みを立てる。
二十年間、絶望という名の墓に蓋をして生きてきた。
ハルトを守るため、ただ生きるためだけに、師匠の死を「立派な最期だった」と自分に言い聞かせてきた。あの壮絶な最期を、誰もが賞賛する英雄的な行為だと信じてきた。
だが、もし彼がまだ、あの暗闇の向こう側で生きているのだとしたら。
あの黒い兵士たちの実験材料として、今もなお苦しんでいるのだとしたら。
「カイトさん……?」
リクが不安げに尋ねる。彼の顔は恐怖と困惑に染まっていた。
「そのログの信号……座標を追えば、場所は分かるのか」
「……柴島の地下だろうな、かつての送水管ルートの最深部だ。信号のタイムスタンプはその先にあるが場所までは…調べるしかないだろう。」
カイトは、迷うことなく外骨格のパワー設定を「戦闘モード」へと切り替えた。
膝の関節が火花を散らし、激しい痛みが全身を駆け抜けるが、今の彼にはその痛みさえも、自身の怒りを増幅させる燃料のように心地よかった。
「親父さん。ハルトを頼みます」
親父さんは深く頷くと、思い出したように作業台の奥に消えていき、無骨なケースを取り出した。
「本丸までのルートはダイブで探す。いつも通りの探索だな?」
「そのつもりです。」
「ならこれを試してくれ。データが欲しいんだ。」
中には、天司ミカが遺したの試作型が眠っている。
「ミカのやつが、お前のために作った『最後の一撃』だ。ウィルスで強化された相手に通常の弾丸は通じん。だが、これなら……一瞬だけ、奴らを『元に戻せる』」
親父さんの顔には複雑な感情が滲んでいた。
カイトは無言でそれを受け取った。重厚な銃身。通常の拳銃とは異なり、ウィルスを中和するための複雑な回路が組み込まれている。
「回収屋の仕事は、最後までやり遂げるのがルールだ。……二十年前の『やり残し』、今度こそ片付けてきますよ」
ハルトの寝顔を一度だけ脳裏に焼き付け、カイトは工房のシャッターを押し上げた。
外は、昨日よりもさらに深い紫色の霧が街を飲み込もうとしていた。視界は遮られ、ウィルスの濃度は危険域を指している。
その霧の向こうに、二十年間止まっていたカイトの時間(時計)が、再び動き出そうとする、激しい鼓動が聞こえていた。
カイトは、トラックの荷台に隠し持っていた、真田太陽の古いジャケットを羽織った。
煤けて破れているが、あの男の匂いが、確かに残っている。
左手の強化グローブで、ミカが作った「試作型」のグリップを握り締める。
「……待ってろ、太陽さん」
カイトは、死者の鼓動が響く地下深くへと、その鉄の足を向けた。
もう二度と、あの時のように、誰かの背中を見送ることはしない。
今度は、自分が迎えに行く番だ。
その先が、たとえどれほどの地獄であろうとも。
隔離地域協会(ACA)本部。地上三百メートルの天空に位置する、通称 全方位監視塔。
その最上階にある、窓のない一室で、二人が対峙していた。
室内を満たしているのは、無機質な空調の音と、壁一面に並んだ数千の監視モニターが発する電子の羽音だけだ。
「……面白いデータが届いたわよ、畠中総帥」
部屋の中央、ホログラム・ディスプレイを操作していたサフミが、冷ややかな声を響かせた。
デスクの向こう側、重厚な革張りの椅子に深く身を沈めているのは、畠中健一だ。
かつての野心的な一等陸佐は、今やこの国の実権を握る「協会」のトップとして、その威厳を全身に纏っている。
しかし、その眼光の奥には、権力を手に入れた者特有の焦燥が、澱のように溜まっていた。
「データだと? サフミ、今は定例報告の予定ではないはずだ。」
「ええ。提示報告なんかじゃなくて、あなたの『最大の懸念事項』に関することよ」
サフミが指先を動かすと、空間に一つの波形データが浮かび上がった。
それは、今朝カイトが親父さんの工房で目にしたものと同じ——**『被検体3908:真田太陽』**のバイタルパターンだった。
畠中の表情が、一瞬で凍りついた。
椅子から身を乗り出し、食い入るようにその波形を見つめる。
彼の呼吸がわずかに荒くなるのを、サフミは見逃さなかった。
「……ありえん。あの男は二十年前に消失した。扉の向こう側の高濃度魔素に焼かれ、分子レベルで分解されたはずだ。遺体どころか、細胞一つ残っていないと報告したのは貴様だろう、サフミ!」
「落ち着きなさい。当時の科学では、あれが妥当な結論だったわ。でも、今の私たちなら知っているはずよ。『扉』の向こう側が、単なる死の空間ではないことを」
サフミは優雅な所作でコーヒーカップを手に取り、言葉を継いだ。
「この信号が検知されたのは、柴島浄水場跡地の地下第五層……。協会の記録上では、崩落により埋没したことになっている区画。でも、実際には誰かがそこにアクセスし、メンテナンスを続けていた形跡がある。……心当たりはなくて?」
「……『例の部隊』か」
畠中が忌々しそうに吐き捨てた。
協会内部に存在する、畠中直属の部隊とは別に動く特務組織。その正体は、二十年前に真田太陽を襲撃し、彼の右腕を奪い去った「あの一団」の系譜だ。
彼らは畠中の命令を無視し、魔王の復活を望むかのように、秘密裏に研究を継続している疑いがある。
「あいつら、真田を『生かして』いたのか。二十年もの間、実験材料として……!」
「利用価値があったのよ。恐らくだけどね。……連中にとっては、魔王を現世へ完全に顕現させるための、生きたスペアキーのようなものね」
畠中は立ち上がり、窓のない壁に向かって歩き出した。
「もし真田が生きていることが公になれば、カイトが黙っていない。アイツが関わるとろくでもない事になる…。」
「手遅れよ。」
サフミがクスクスと、鈴の鳴るような声で笑った。
「既にカイトは動いているわ。……いえ、彼を動かしたのは私かもしれない。彼がリクという少年の登山ログを手に入れるよう、少しだけ情報の流れを操作したの」
「貴様……! 何を考えている! カイトをあの場所に送り込めば、何が起きるか分かっているのか!」
畠中が怒声と共にサフミの肩を掴む。しかし、サフミはその視線を逸らさず、冷徹な微笑を保ったままだった。
「分かっているわ。だからこそ、面白いのよ。……カイトが真田太陽と再会した時、果たして彼は『師匠』を救い出すのか。それとも、変わり果てたその姿を見て、自らトドメを刺すのか。……どちらにせよ、その瞬間に放出される絶大な感情のエネルギーは、私の『新世界』を完成させるための最後の触媒になる」
「狂っている……。サフミ、貴様は最初から真田もカイトも、ただの部品としか見ていないのか」
「あなただって同じでしょう? 畠中総帥。……あなたは彼らが守ったこの平和を、自分の独裁を維持するための道具に使った。私はそれを、人類の進化のための実験場に使っている。……五十歩百歩よ」
サフミは、畠中の手を静かに振り払った。
「カイトは今、柴島の地下へ向かっている。……もし彼が彼らを突破して真田に辿り着いたなら、その時はあなたも覚悟を決めなさい」
畠中は苦々しく奥歯を噛み締めた。
「……特殊部隊を動員する。カイト、影、そして真田……まとめて地下に埋めてくれる」
「無駄よ。今のカイトは、あなたの兵隊が対処できるレベルを超えている。……それに、彼には天司ミカの遺産があるわ。私たちが二十年間恐れてきた、あの『中和』の力がね」
二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。共に真田太陽を見送ったはずの二人は、今や互いに抜き差しならない殺意と打算を抱えながら、同じ部屋に立っている。
「……サフミ。一つだけ聞かせろ」
畠中が、絞り出すような声で言った。
「お前は、真田太陽に……生きていてほしいのか?」
サフミは、その問いにすぐには答えなかった。
彼女はモニターに映し出された、カイトのトラックが柴島へ向かう映像を見つめ、少しだけ目を細めた。
「……彼がもし、あの日のままの彼であるなら。……いいえ、そんな奇跡は科学には必要ないわ」
そう言って、サフミは全てのモニターを消した。暗闇の中、彼女の瞳だけが、魔素の影響で淡く紫に光っていた。
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