夜明けのムスク、指先の微熱

ひふみ黒

文字の大きさ
1 / 4

前編

しおりを挟む

雨の音が、強くなっている。
三十階にある調香室(ラボ)の窓を叩く飛沫が、まるで私をここから逃がさないための檻のように思えた。

時計の針は二十三時を回っている。空調の切れたフロアはひやりとしていて、私の指先はキーボードの上で少しだけかじかんでいた。

「……浅見」

静寂を裂くような低い声に、びくりと肩が跳ねる。
振り返ると、部屋の奥、ガラス張りの調合台の前に彼が立っていた。
久我 遥(くが はるか)。
世界的な賞を総なめにしてきた天才調香師であり、この開発部の絶対的な王。そして、私が今まで出会った中で、最も美しく、最も冷たい男。

「はい、久我さん。データ入力、もうすぐ終わります」
「それは後でいい。こっちへ来い」

拒否権など端からない響きだった。私はため息を飲み込み、椅子から立ち上がる。ヒールの音が、誰もいない広いラボに乾いた音を立てて響く。

彼のそばに寄ると、鼻腔をくすぐる複雑な香りに包まれた。
ベルガモットの鋭さと、その奥に潜む、重く甘いアンバーの気配。彼自身が纏っている香りだ。それはいつも私を緊張させ、同時に、みぞおちの奥をきゅっと締め付けるような奇妙な焦燥感を与える。

久我さんは、手元のムエット(試香紙)を無造作に投げ捨てると、白衣のポケットに手を突っ込んだまま私を見下ろした。
色素の薄い瞳が、私の顔をじっと探る。実験動物を見るような、感情のない目。

「手首」
「え?」
「手首を出せと言っている。ムエットじゃ話にならない。体温と混ざった時の揮発速度を確認したい」

ああ、まただ。この人は私を「便利なサンプル」としか見ていない。
私は渋々、ブラウスの袖をまくり、細い手首を彼に差し出した。

その瞬間だった。
彼の手が、私の手を下から掴んだ。
ひやり、とした冷たい指先。
けれど、その冷たさとは裏腹に、触れられた皮膚の奥から火花が散るような熱が広がる。

「……脈が速い」

彼は私の手首を掴んだまま、親指の腹で脈打つ動脈をゆっくりと撫でた。
ぞわり、と背筋に電流が走る。
単なる確認作業のはずだ。それなのに、その指の動きはいやらしいほどに滑らかで、まるで前戯のように優しく、執拗だった。

「走って来たわけでもないのに。どうしてこんなに乱れてるんだ?」
「き、緊張してるからです。久我さんが急に呼ぶから」
「ふうん」

彼は興味なさそうに鼻を鳴らすと、実験台に置いてあった小さな小瓶を取り上げた。
ガラスの棒に一滴、琥珀色の液体を含ませる。
それを、私の手首の内側――皮膚が薄く、血管が浮き出ている場所へ、ゆっくりと滑らせた。

冷たい液体が肌に触れる。
瞬間、甘く重厚な香りが立ち昇った。
ムスクだ。それも、市販されているような清潔感のあるホワイトムスクではない。もっと動物的で、官能的で、脳の芯を痺れさせるような、危険な匂い。

「……いい香り」
思わず呟くと、久我さんが顔を近づけてきた。
近い。
彼の整った鼻筋が、私の手首のすぐそばにある。睫毛の影が落ちるほどの距離。彼が息を吸い込む音が聞こえる。
私の肌の匂いを、彼が嗅いでいる。
ただそれだけの行為なのに、まるで裸を見られているような羞恥心で顔が熱くなった。

「浅見、お前……」

彼が顔を上げないまま、低い声で囁く。その吐息が濡れた手首にかかり、くすぐったいような、泣きたくなるような感覚が私を襲う。

「今の香水(これ)に含まれている香料の意味、知ってるか?」
「え……いえ、仕様書にはまだ」
「イランイランと、ジャコウ猫の分泌液(シベット)。……催淫効果があると言われている」

頭が真っ白になった。
彼はゆっくりと顔を上げ、私の瞳を射抜くように見つめた。先ほどまでの「観察者」の目は消え、そこには、獲物を前にした雄の昏い光が宿っていた。

「おかしいな。計算上では、ラストノートが出るまであと三十分はかかるはずなんだが」

彼は私の手首を掴む力を、わずかに強めた。
逃がさない、という合図のように。

「お前の肌に乗せると、どうしてこんなに甘くなる?」
「く、がさん……近いです」
「近い? まだ何もしていないのに」

ふっ、と彼が笑った。その笑顔があまりにも妖艶で、私は息をするのも忘れる。
彼は私の手首を引き寄せると、あろうことか、香水をつけたその場所に、唇を押し当てた。

ちゅ、という水音が静かなラボに響く。

「っ……!」
「甘い。……やっぱり、シベットじゃない。これはお前の匂いだ」

彼は舌先で、私の手首を這うように舐め上げた。
膝から力が抜けた。支えを失った私の体を、彼の空いたもう片方の腕が、強引に腰から抱き寄せる。
白衣越しに伝わる、彼の硬い体温。
冷徹な上司の仮面が剥がれ落ち、私の知らない男の顔がそこにあった。

「今夜は帰さないと言ったら、どうする?」

耳元で囁かれたその言葉は、命令ではなく、断りきれない誘惑の響きを帯びていた。
雨音はもう聞こえない。
私の鼓動の音と、彼の甘いムスクの香りだけが、世界を埋め尽くしていた。

その言葉が本気だったのか、それともからかわれただけなのか、判断する余裕さえ私にはなかった。

久我さんは、凍りついた私の腰からふっと腕を解いた。
先ほどまでの雄の気配を瞬時に消し、いつもの冷徹な上司の顔に戻って、白衣の襟を正す。

「……冗談だ。顔が赤いぞ」
「っ、久我さん……!」
「だが、帰れないのは本当らしい」

彼が顎で窓の外をしゃくった。
ガラス窓を叩く雨は、激流のように勢いを増している。手元のスマートフォンが震え、交通機関の完全麻痺を告げるニュース速報が光った。
タクシーも捕まらないだろう。この嵐の中、外に出ること自体が自殺行為だ。

「今日はここで夜明かしだ。備蓄の食料と毛布はある。休憩室を使え」

彼はそれだけ言い捨てると、私に背を向け、再び調合台へと戻っていった。
取り残された私は、自分の手首を――彼に舐められた熱い痕跡が残る場所を、左手で強く握りしめた。
心臓が、痛いほど早鐘を打っている。
あの人はズルい。あんなことをしておいて、業務連絡みたいに突き放すなんて。

けれど、逃げ場はどこにもなかった。

深夜一時。
ビルの空調が完全に停止し、ラボの空気は少しずつ重く、湿り気を帯び始めていた。

休憩室のソファで膝を抱えていると、ふわりと珈琲の香りが漂ってきた。
顔を上げると、マグカップを二つ持った久我さんが立っていた。

「飲めるか。ブラックだが」
「あ……ありがとうございます」

差し出されたマグカップを受け取る。指先が触れた瞬間、また心臓が跳ねたが、彼は気にする素振りも見せずに隣のソファへと腰を下ろした。
長い脚を組み、アンニュイに天井を仰ぐ。
仕事モードの時はあんなに張り詰めていた空気が、今はどこか緩んでいる。その無防備な横顔が、悔しいくらいに綺麗だった。

「ごめん」

不意に、静かな声が聞こえた。

「え?」
「さっきのことだ。……少し、香りにあてられた」

彼は視線を天井に向けたまま、マグカップの縁を指でなぞる。

「調香師(パフューマー)というのは因果な商売でね。好むと好まざるとにかかわらず、匂いでその人間の本質が見えてしまう」
「本質、ですか」
「ああ。どんなに綺麗な服で着飾っても、どんなに愛想笑いで武装しても。皮膚から立ち昇る匂いだけは嘘をつけない」

彼はそこで言葉を切り、ゆっくりと首を巡らせて私を見た。
薄暗い休憩室の照明が、彼の色素の薄い瞳に影を落とし、深い湖のような色に見せる。

「浅見。お前は、自分がどんな匂いをしているか自覚がないだろう」
「……毎日お風呂に入ってますし、制汗剤だって気をつけてます」
「そういうことじゃない」

ふっ、と彼が小さく笑った。馬鹿にするような笑いではない。どこか愛おしいものを見るような、甘く、困ったような微笑み。
その表情に、私は言葉を失った。今まで一度も見たことのない、久我さんの「素」の顔。

彼はカップをテーブルに置くと、ずい、と私の方へ身を乗り出した。
ソファが沈み込む。
逃げようとして、背もたれに背中がぶつかる。

「清潔とか不潔とかの話じゃないんだ。……相性(マッチング)の話だ」

彼の指が、私の解れかけた後れ毛をすくい上げる。
耳元に触れる指先は、さっきよりも熱を帯びていた。

「僕が作る香水は、完璧な計算式で成り立っている。誰がつけても美しく香るように設計してある。だが」

彼は私の髪に鼻先を埋め、深く息を吸い込んだ。

「……っ、久我さん、」
「お前の肌に乗せると、僕の計算が狂う。トップノートの鋭さが消えて、異常なほど丸く、甘く、脳が溶けるような香り(ミドル)に変わる」

耳元で囁かれる低音(バス)の響きが、鼓膜を震わせて脊髄まで届く。
彼の吐息がかかるたび、体が内側から熱くなっていくのがわかった。

「それは、僕の理性を壊す匂いだ」

彼は顔を上げ、至近距離で私を見つめた。
もう、逃げられない。
彼の瞳には、はっきりと「欲望」の色があった。上司としての節度も、大人の余裕も、ここにはない。ただ一人の男が、どうしようもなく惹かれた女を前にしている、切迫した熱だけがある。

「雨は止まないな」
「……はい」
「誰も来ない」
「……はい」

私の震える肯定の言葉を合図にしたかのように、彼の手が私の頬を包み込んだ。
親指が唇の端をなぞり、強引にこじ開けようとするのではなく、私が許すのを待つように優しく触れる。

「確かめさせてくれ。狂わされているのが嗅覚だけなのか。それとも……僕の全てなのか」

彼の顔が近づいてくる。
抗うべきだという思考は、甘いムスクの香りに塗りつぶされて消えた。
私は目を閉じ、雨音の中に溶けていくように、唇を少しだけ開いた。

重なる瞬間、彼から漏れた「……美緒」という名前呼びが、私の理性の最後のスイッチを切った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

義兄と私と時々弟

みのる
恋愛
全く呑気な義兄である。 弟もある意味呑気かも?

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

初体験の話

東雲
恋愛
筋金入りの年上好きな私の 誰にも言えない17歳の初体験の話。

新人メイド桃ちゃんのお仕事

さわみりん
恋愛
黒髪ボブのメイドの桃ちゃんが、働き先のお屋敷で、旦那様とその息子との親子丼。

愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました

蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。 そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。 どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。 離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない! 夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー ※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。 ※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。

処理中です...