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前編
しおりを挟む雨の音が、強くなっている。
三十階にある調香室(ラボ)の窓を叩く飛沫が、まるで私をここから逃がさないための檻のように思えた。
時計の針は二十三時を回っている。空調の切れたフロアはひやりとしていて、私の指先はキーボードの上で少しだけかじかんでいた。
「……浅見」
静寂を裂くような低い声に、びくりと肩が跳ねる。
振り返ると、部屋の奥、ガラス張りの調合台の前に彼が立っていた。
久我 遥(くが はるか)。
世界的な賞を総なめにしてきた天才調香師であり、この開発部の絶対的な王。そして、私が今まで出会った中で、最も美しく、最も冷たい男。
「はい、久我さん。データ入力、もうすぐ終わります」
「それは後でいい。こっちへ来い」
拒否権など端からない響きだった。私はため息を飲み込み、椅子から立ち上がる。ヒールの音が、誰もいない広いラボに乾いた音を立てて響く。
彼のそばに寄ると、鼻腔をくすぐる複雑な香りに包まれた。
ベルガモットの鋭さと、その奥に潜む、重く甘いアンバーの気配。彼自身が纏っている香りだ。それはいつも私を緊張させ、同時に、みぞおちの奥をきゅっと締め付けるような奇妙な焦燥感を与える。
久我さんは、手元のムエット(試香紙)を無造作に投げ捨てると、白衣のポケットに手を突っ込んだまま私を見下ろした。
色素の薄い瞳が、私の顔をじっと探る。実験動物を見るような、感情のない目。
「手首」
「え?」
「手首を出せと言っている。ムエットじゃ話にならない。体温と混ざった時の揮発速度を確認したい」
ああ、まただ。この人は私を「便利なサンプル」としか見ていない。
私は渋々、ブラウスの袖をまくり、細い手首を彼に差し出した。
その瞬間だった。
彼の手が、私の手を下から掴んだ。
ひやり、とした冷たい指先。
けれど、その冷たさとは裏腹に、触れられた皮膚の奥から火花が散るような熱が広がる。
「……脈が速い」
彼は私の手首を掴んだまま、親指の腹で脈打つ動脈をゆっくりと撫でた。
ぞわり、と背筋に電流が走る。
単なる確認作業のはずだ。それなのに、その指の動きはいやらしいほどに滑らかで、まるで前戯のように優しく、執拗だった。
「走って来たわけでもないのに。どうしてこんなに乱れてるんだ?」
「き、緊張してるからです。久我さんが急に呼ぶから」
「ふうん」
彼は興味なさそうに鼻を鳴らすと、実験台に置いてあった小さな小瓶を取り上げた。
ガラスの棒に一滴、琥珀色の液体を含ませる。
それを、私の手首の内側――皮膚が薄く、血管が浮き出ている場所へ、ゆっくりと滑らせた。
冷たい液体が肌に触れる。
瞬間、甘く重厚な香りが立ち昇った。
ムスクだ。それも、市販されているような清潔感のあるホワイトムスクではない。もっと動物的で、官能的で、脳の芯を痺れさせるような、危険な匂い。
「……いい香り」
思わず呟くと、久我さんが顔を近づけてきた。
近い。
彼の整った鼻筋が、私の手首のすぐそばにある。睫毛の影が落ちるほどの距離。彼が息を吸い込む音が聞こえる。
私の肌の匂いを、彼が嗅いでいる。
ただそれだけの行為なのに、まるで裸を見られているような羞恥心で顔が熱くなった。
「浅見、お前……」
彼が顔を上げないまま、低い声で囁く。その吐息が濡れた手首にかかり、くすぐったいような、泣きたくなるような感覚が私を襲う。
「今の香水(これ)に含まれている香料の意味、知ってるか?」
「え……いえ、仕様書にはまだ」
「イランイランと、ジャコウ猫の分泌液(シベット)。……催淫効果があると言われている」
頭が真っ白になった。
彼はゆっくりと顔を上げ、私の瞳を射抜くように見つめた。先ほどまでの「観察者」の目は消え、そこには、獲物を前にした雄の昏い光が宿っていた。
「おかしいな。計算上では、ラストノートが出るまであと三十分はかかるはずなんだが」
彼は私の手首を掴む力を、わずかに強めた。
逃がさない、という合図のように。
「お前の肌に乗せると、どうしてこんなに甘くなる?」
「く、がさん……近いです」
「近い? まだ何もしていないのに」
ふっ、と彼が笑った。その笑顔があまりにも妖艶で、私は息をするのも忘れる。
彼は私の手首を引き寄せると、あろうことか、香水をつけたその場所に、唇を押し当てた。
ちゅ、という水音が静かなラボに響く。
「っ……!」
「甘い。……やっぱり、シベットじゃない。これはお前の匂いだ」
彼は舌先で、私の手首を這うように舐め上げた。
膝から力が抜けた。支えを失った私の体を、彼の空いたもう片方の腕が、強引に腰から抱き寄せる。
白衣越しに伝わる、彼の硬い体温。
冷徹な上司の仮面が剥がれ落ち、私の知らない男の顔がそこにあった。
「今夜は帰さないと言ったら、どうする?」
耳元で囁かれたその言葉は、命令ではなく、断りきれない誘惑の響きを帯びていた。
雨音はもう聞こえない。
私の鼓動の音と、彼の甘いムスクの香りだけが、世界を埋め尽くしていた。
その言葉が本気だったのか、それともからかわれただけなのか、判断する余裕さえ私にはなかった。
久我さんは、凍りついた私の腰からふっと腕を解いた。
先ほどまでの雄の気配を瞬時に消し、いつもの冷徹な上司の顔に戻って、白衣の襟を正す。
「……冗談だ。顔が赤いぞ」
「っ、久我さん……!」
「だが、帰れないのは本当らしい」
彼が顎で窓の外をしゃくった。
ガラス窓を叩く雨は、激流のように勢いを増している。手元のスマートフォンが震え、交通機関の完全麻痺を告げるニュース速報が光った。
タクシーも捕まらないだろう。この嵐の中、外に出ること自体が自殺行為だ。
「今日はここで夜明かしだ。備蓄の食料と毛布はある。休憩室を使え」
彼はそれだけ言い捨てると、私に背を向け、再び調合台へと戻っていった。
取り残された私は、自分の手首を――彼に舐められた熱い痕跡が残る場所を、左手で強く握りしめた。
心臓が、痛いほど早鐘を打っている。
あの人はズルい。あんなことをしておいて、業務連絡みたいに突き放すなんて。
けれど、逃げ場はどこにもなかった。
深夜一時。
ビルの空調が完全に停止し、ラボの空気は少しずつ重く、湿り気を帯び始めていた。
休憩室のソファで膝を抱えていると、ふわりと珈琲の香りが漂ってきた。
顔を上げると、マグカップを二つ持った久我さんが立っていた。
「飲めるか。ブラックだが」
「あ……ありがとうございます」
差し出されたマグカップを受け取る。指先が触れた瞬間、また心臓が跳ねたが、彼は気にする素振りも見せずに隣のソファへと腰を下ろした。
長い脚を組み、アンニュイに天井を仰ぐ。
仕事モードの時はあんなに張り詰めていた空気が、今はどこか緩んでいる。その無防備な横顔が、悔しいくらいに綺麗だった。
「ごめん」
不意に、静かな声が聞こえた。
「え?」
「さっきのことだ。……少し、香りにあてられた」
彼は視線を天井に向けたまま、マグカップの縁を指でなぞる。
「調香師(パフューマー)というのは因果な商売でね。好むと好まざるとにかかわらず、匂いでその人間の本質が見えてしまう」
「本質、ですか」
「ああ。どんなに綺麗な服で着飾っても、どんなに愛想笑いで武装しても。皮膚から立ち昇る匂いだけは嘘をつけない」
彼はそこで言葉を切り、ゆっくりと首を巡らせて私を見た。
薄暗い休憩室の照明が、彼の色素の薄い瞳に影を落とし、深い湖のような色に見せる。
「浅見。お前は、自分がどんな匂いをしているか自覚がないだろう」
「……毎日お風呂に入ってますし、制汗剤だって気をつけてます」
「そういうことじゃない」
ふっ、と彼が小さく笑った。馬鹿にするような笑いではない。どこか愛おしいものを見るような、甘く、困ったような微笑み。
その表情に、私は言葉を失った。今まで一度も見たことのない、久我さんの「素」の顔。
彼はカップをテーブルに置くと、ずい、と私の方へ身を乗り出した。
ソファが沈み込む。
逃げようとして、背もたれに背中がぶつかる。
「清潔とか不潔とかの話じゃないんだ。……相性(マッチング)の話だ」
彼の指が、私の解れかけた後れ毛をすくい上げる。
耳元に触れる指先は、さっきよりも熱を帯びていた。
「僕が作る香水は、完璧な計算式で成り立っている。誰がつけても美しく香るように設計してある。だが」
彼は私の髪に鼻先を埋め、深く息を吸い込んだ。
「……っ、久我さん、」
「お前の肌に乗せると、僕の計算が狂う。トップノートの鋭さが消えて、異常なほど丸く、甘く、脳が溶けるような香り(ミドル)に変わる」
耳元で囁かれる低音(バス)の響きが、鼓膜を震わせて脊髄まで届く。
彼の吐息がかかるたび、体が内側から熱くなっていくのがわかった。
「それは、僕の理性を壊す匂いだ」
彼は顔を上げ、至近距離で私を見つめた。
もう、逃げられない。
彼の瞳には、はっきりと「欲望」の色があった。上司としての節度も、大人の余裕も、ここにはない。ただ一人の男が、どうしようもなく惹かれた女を前にしている、切迫した熱だけがある。
「雨は止まないな」
「……はい」
「誰も来ない」
「……はい」
私の震える肯定の言葉を合図にしたかのように、彼の手が私の頬を包み込んだ。
親指が唇の端をなぞり、強引にこじ開けようとするのではなく、私が許すのを待つように優しく触れる。
「確かめさせてくれ。狂わされているのが嗅覚だけなのか。それとも……僕の全てなのか」
彼の顔が近づいてくる。
抗うべきだという思考は、甘いムスクの香りに塗りつぶされて消えた。
私は目を閉じ、雨音の中に溶けていくように、唇を少しだけ開いた。
重なる瞬間、彼から漏れた「……美緒」という名前呼びが、私の理性の最後のスイッチを切った。
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